機関誌『水の文化』67号
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北の大地の小さな町で「未来への開拓」進む

北の大地の小さな町で「未来への開拓」進む

編集部

「?」ばかりの初訪問ノート

適切なたとえではないかもしれないが、東川町は「重箱に入ったおせち料理」のような町だ。パッと見ただけでは何がどうすごいのかよくわからないが、いざ蓋を開けてみると、伊達巻、いくら、かまぼこといった色とりどりの料理(取り組み)がぎゅっと詰まっている。しかも重箱のごとく重層的に。

「こんな時代に人口が増えている?」「おしゃれなカフェがあちこちにあるって」「地下水だけで暮らしているらしい」「写真に力を入れているんだって」。そんな評判だけを耳にして東川町へ行くと面食らう。企画段階のリサーチで訪ねたときがそうだった。

旭川空港からレンタカーに乗って10分ほどで東川町に着く。中心市街地を目指して東に向かう。少し店が出てきたなと思ったら、すぐ町はずれになってしまった。Uターンして道の駅ひがしかわ「道草館」へ。店内は賑わっていたが、外に出ると中心部なのに人影があまりない。カフェは1軒1軒が離れているし、地下水は見えず、カメラをぶら下げている人もいない。初めて東川町を訪ねたその日の記録ノートは「?」で埋まった。

自分の言葉で話す自治体職員

この町はちょっと違う──そう思ったのは2日目だ。施策について聞くために東川町役場を訪ね、税務定住課の吉原敬晴さん、産業振興課の朝倉祥貴さん、企画総務課の竹田慶介さんとお会いした。

実は、初日に公園で犬と遊んでいた男性から「中心市街地から遠い宅地にはまだまだ空きがある」という情報を得ていた。人口が増えているなら宅地ががら空きなのはおかしい。そう疑問をぶつけると、「空いていていいんです。新しい人たちが一気に入ると、みんな揃って歳をとるのでバランスが悪い。ぽつぽつ売れれば十分です」と吉原さんは笑った。

中心市街地ならすぐに買い手がつくのはわかっているが、町内4つの小学校の児童数が偏らないように宅地造成を行なっていると明かす。そして、こちらのしつこい質問にも「私はこう思う」と、誰の顔色も窺わず即答することにも驚いた。3人ともだ。こういう人々が住む東川町に俄然興味が湧いた。

まずは開拓以来の歴史を『東川町史』(1975)と『東川町史 第二巻』(1995)から振り返りたい。

東川町略年表

東川町略年表
参考文献:『東川町史』(1975)、『東川町史 第二巻』(1995)、『東川町史 第3巻』Web版(2020)

米づくり専門の純農村として

東川町の入植開始は1895年(明治28)。屯田移住ではなく、民間植民移住だった。香川団体30戸、富山団体20戸、愛知団体14戸、徳島団体8戸などが入地。1897年(明治30)12月、旭川村から分轄して東川村が設けられた。

「古老の昔話」として佐々木戌秀(もりひで)さんはこう語る。

「入植当時にもっとも困ったことは食料がないこと。ヒエやアワを食べて、コメはぜいたく品だった。(中略)熊も恐ろしかったが、道路をつけに来ている囚人の方が怖かった。看守が何人も殺されたり、民家に入ってきたりしたので、入植者が鉄砲をもって自衛したこともある」

分割新設当時の東川村は主に畑作だった。北海道の北限に近い上川地方に稲作は適さないとされていたからだが、頼みの綱の畑は連作障害によって虫害、霜害などが起き、転出する農家が相次ぐ。たまたま東旭川村(当時)と村内の富山団体が水田試作に成功し、稲作地帯への道が開けた。

100年前の第1回国勢調査(調査日=1920年10月1日)は1360戸、8009人。戸数は約3分の1だが、人口は今とほぼ同じ。1938年(昭和13)の村勢要覧では、総戸数1388戸のうち約78%が農家だ。戦後、過疎対策を兼ねて企業誘致に乗り出し、旭川木工団地東川センターなどを誘致するが、基本的には忠別川の水を簡易的に導水し、施設費や維持費を少額に抑えて水田経営を続ける純農村だった。

樹林地を鋸や斧で伐木する開拓民(提供:東川町)

樹林地を鋸や斧で伐木する開拓民(提供:東川町)

議論し決めたら即行動 その共通基盤は?

東川町は水に恵まれていたうえ、1903年(明治36)に東川村土功組合が設立されたこともあり水争いはなかったようだが、忠別川と倉沼川は頻繁に氾濫した。戦時中に国策として建設された水力発電所から流れる冷たい水で冷害に見舞われたことは何度もある(その後、水を温めるための遊水地を整備)

高度経済成長期には、中心市街地の人口が増えた影響で生活汚水が農業用水路に流れ込み、農業用水路下流の水田に被害が出た。そこで興味深いのは、全道町村に先駆けて東川町が1975年(昭和50)に道営水質障害対策事業と、農村総合整備モデル事業の集落排水事業を採択し、用排水路を分離、汚水浄化処理施設を速やかに設けようと動いたことだ。

純農村で飲み水を地下水に頼る東川町で土と水は生命線。だからそれを脅かすことがあれば自分たちで動き、すぐに解決する。社会学者の山下祐介さんは『限界集落の真実』(筑摩書房 2012)で「古くから続く村落型(農山漁村)と開拓村型は、農地や山林、村の文化など継承すべきものがある分、議論はしやすい」と記すが、東川町の継承すべきものは土と水なのか。

もちろん全国の稲作主体の農村はどこもそうだが、決定的な違いは「町民全員が地下水で暮らしている」という点。昔は井戸、今は電動ポンプで地上からは見えない水を飲む。それは公が保障しない自己責任の行為なので、一人ひとりが規範を守り、水源などにおかしなことがないか目を配る。それが連帯感を生み、自分たちの土地の課題に関心が高いのではないか。

住みたいと望む人を受け入れるために

今、都市部から地方への移住が注目されている。NPO法人ふるさと回帰支援センター(東京)の発表によると、コロナ禍以前の2019年でも相談件数は前年比約20%増だ。さまざまな施策が実を結び、外から人を引き入れることに成功した東川町にとって、さらなる人口増が望めるチャンスと普通は考えるが、宅地造成の件でもわかるように、むやみに人を呼び込もうとはしていない。

おかしなことをする人間は一定程度いるので、地下水でつながっている町にそんな人がもしも入ってきたら自分たちの生活が乱れてしまう。そうならないための予防線を張っているようにも見える。

店舗に関しては概論で鈴木輝隆さんが語ったように、空き店舗は町がある程度管理し、見込んだ人に貸すこともある。一軒家を建てて移り住もうとする人には「東川風住宅設計指針」を示す。これは景観と街並みをつくるための協力を求めるようでいて、実は東川町の価値観や哲学を提示し「うちの町はこういう町ですが、それでも住みますか?」と一種の選択を迫っていると見えなくもない。賛同できる人ならば、移り住んでもきっとおかしなことにはならないからだ。

2014年から始まった「地方創生」は、東京一極集中の是正と地方の担い手不足に対処するものだ。「まち・ひと・しごと創生本部」のHPに「地方創生関係交付金は、自治体の自主的・主体的な取り組みで、先導的なものを支援」とある。東川町は自分たちに必要な人材や施策がわかっているので「ほんとうに必要ならば遠慮はいらない」と事業費を加減せず申請する。その結果、道内では札幌市に次ぐ規模の交付金を獲得したとされる。

東川町周辺自治体の夜間人口と昼間人口

昼夜間人口比率とは夜間人口100人当たりの昼間人口割合で、100を超えると他の市町村から通勤・通学などで人が集まっているといえる。
東川町は昼間人口が夜間人口を上回る。町外からの通勤・通学者が多いことがわかる。上川町は層雲峡温泉など有名な観光地を抱えるため、観光産業従事者が多いと思われる。
出典:平成27年国勢調査「従業地・通学地集計 従業地・通学地による人口・就業状態等集計」(総務省統計局)

硬化した今の社会を揺さぶる辺境の町

こう書くと、東川町は深謀遠慮な人の集まりのように見えるが、実態はまるで違う。写真通りにおおらかで友好的な、また会いたいと思うような人ばかりである。

「東川町はわかりにくい」と冒頭に記したが、それはこちらが古い考えに捉われていたから。従来のまちづくりは一つの「売り」をつくろうとしがちだったが、それがコケたらおしまいだ。東川町は職員自ら各地を回っているから、それがわかっている。「写真の町」の企画会社が倒産し、自分たちでやらなければいけなかった経験が、今に生きている。

廃止案もあった「写真の町」を続行し、平成の市町村合併を蹴飛ばし自立の道を選び、水道網は「いらない」と決めた東川町の人たち。課題が浮かぶと役場の職員、農業者、木工職人、商店主など一家言ある人たちが膝をつき合わせて夜な夜な語り合ったと聞く。まるで自分たちの地域を自らの手で治めていた江戸時代の農村のようではないか。開拓時代、鉄砲を手に自衛した先人の姿とも重なる。

ターニングポイントとなった「写真の町」宣言から36年。今も東川町は多面的な魅力をつくろうと人脈を広げ、新たな事業に投資を続ける。その一つが、実るまでに長い年月を要する教育だ。東川町は子どもたちの教育に力を入れ、留学生も多数受け入れている。

「留学生が東川町に留まるのは職場数から限度がありますが、隣町で就職すればその町の人の役に立ち、ひいては日本全体のためになります」と松岡町長は語る。東川町が、自分の地域と日本の未来を見据えていることがよくわかる。

歴史学者の故・増田四郎は、ヨーロッパの古代が滅んで中世という新しい世界が生まれた理由を探るなかで、ある社会が次の段階へ発展するときは、その中心部から少しずれた周辺や辺境地区に新しい力が生まれ、それが基点となって変化させるケースが多いことを見出し、「辺境変革論」と名づけた。

これまでのやり方が通用しない今、延長線上にはない新たな社会像が必要だ。課題ばかりの日本であきらめにも似た感情を抱く人は多いかもしれないが、残業を重ねながらも生き生きと働く職員たち、自分の夢をキラキラした目で語る住民たちに会って、おぼろげながら突破口が見えた気がする。

東川町を辺境と言うと怒られるかもしれないが、北海道出身者も正確にその場所を言い当てられないような小さな町で、「未来への開拓」が今日も進められている。

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