機関誌『水の文化』71号
南西諸島 水紀行

南西諸島 水紀行
文化をつくる

行ってみなければわからない 多様で柔和な島の文化

行ってみなければわからない 多様で柔和な島の文化

編集部

近いけれど違う3つの島の水環境

屋久島、加計呂麻島、与論島を巡った今回の取材。3つの島は九州の南から南西方向に伸びる南西諸島あるいは琉球弧と呼ばれる島嶼(とうしょ)群に属するが、水をもたらす地形や気象条件を見てもその違いは大きい。

「縄文杉」で知られる屋久島は、作家の林 芙美子が小説『浮雲』で「屋久島は月のうち、三十五日は雨といふ位でございますからね……」と登場人物に語らせるほど雨が多い。中央部に連なる山々に黒潮からの大量の水蒸気がぶつかり斜面を上昇して雲となり雨をもたらす。年間平均降水量は平地で約4500mm、山間部は8000~1万mmに達する。

加計呂麻島には空港がない。飛行機で行くなら奄美大島北端の奄美空港から南に下り、最南端の古仁屋港から船に乗る。加計呂麻島は雨量こそ多いものの、隣接する奄美大島とは異なり水系にあまり恵まれておらず、人びとは小さな川の扇状地に小規模な集落をつくった。国土地理院のWebサイト「地理院地図」を見れば、川のあるほぼすべての場所に集落があることがわかるだろう。

与論島は島内の最高高度が97mという平たい島。降水量は比較的少ないうえ、隆起サンゴ礁の島特有の透水性の高い石灰岩質のため、降った雨は地下に浸透してしまう。島の東側にある古里(ふるさと)地区を中心に地下水を汲み上げて水源とするが、その水は硬度が高く、ボイラー故障や温水洗浄便座のノズル詰まりなどに悩まされている。泊まった旅館では配管故障に備えて軟水器を2台(1台は予備)設置していた。

3つの島は、単に南西諸島というだけで括れない多様さがある。

共通する親しみやすさとしなやかな対応

一方、3つの島には共通点もある。海で隔絶されていて、面積も限られているから、自分たちで工夫して水の質や量を確保している点だ。

雨が森を育て、その森の林床が水分を蓄え、しみ出た水が数えきれないほどの川や滝となって流れ出る屋久島は、水力発電でエネルギー自給を実現。素晴らしいのは、島の人びとが「屋久島は水の島」という意識をもち、登山客の増加で危機に瀕した水源を守ろうと努力している点だ。

地下水の質がよくないうえ、人びとが扇状地の末端で暮らす加計呂麻島の場合、海のそばの井戸では海水が混じりがち。だから山水や湧水を集落が共同で管理し、用いてきた。

与論島の水は硬度が高く、新たに確保した水源が塩分を含むため、急速ろ過設備と電気透析イオン交換膜法で硬度を下げて配水する。コストが嵩み水道代は鹿児島県内で最も高いが、その道を選んだ。

本土のように地続きならば近隣自治体からの融通も期待できるが、島でそれは望めないので、文明の利器も用いながら水の質と量を確保している。今回は取り上げていないが、水や耕地に限りがあるため、一定の世帯数・人口を超えないようにしてきた島もある。それほど島の暮らしはシビアだ。

にもかかわらず、3つの島でお会いした人たちは皆明るく、親しみやすかった。初対面なのに昔からの知り合いのようにスッと心理的な距離を縮めるのだ。それもごく自然に。その親しみやすさはどこからくるのか。

加計呂麻島と奄美大島を結ぶフェリーで取材中と知った乗組員が最上階の甲板に招いてくれた。レンタカーを電話予約すると「鍵を付けておくから勝手に乗って行って」と言われる。屋久島で一人旅の女性をよく見かけたのは、たとえ一人でも緊張を強いられる場面が少ないからだろう。コロナ禍で自粛しているが、与論島には遠方からの客を島の酒でもてなす「与論献奉(よろんけんぽう)」がある。主人が盃に酒を注ぎ口上を述べて飲み干し、客に盃を回す。受け取った客は口上を述べて酒をいただき、次の人に盃を回す(飲めない人は飲まなくて大丈夫)。それでみんな仲よくなっていく。

とにかく臨機応変に、こちらが恐縮するくらい親切で柔和に応じてくれる。「欲深くならず満足することができる者は心が富んで豊かである」という意味をもつ老子の言葉「足るを知る者は富む」が思い浮かぶ。

互いの文化の尊重が脱・画一性のヒント

明治維新以降の日本について「何かこう固い画一性があるような気がしてなりません」(『新編・琉球弧の視点から』朝日新聞社 1992)と述べたのは小説『死の棘』で知られる作家の島尾敏雄。島尾はその画一性から抜け出すためには「日本の中にいながら日本の多様性というものを見つけていくより仕方がないんではないか」と考え、その可能性を東北と南西諸島、特に後者に強く感じ、ポリネシアやミクロネシアと同じように日本を一つの島々の固まりと捉え「ヤポネシア」という概念を提示した。

この島尾の問いに対する一つの回答を、与論民俗村(以下、民俗村)の菊 秀史(ひでのり)さんから聞くことができた。

与論島固有の言葉を残そうと、子どもたちを中心に教え伝える活動を続ける菊さんは、小学生のとき教科書に「4月に桜が咲く」とあって違和感を覚えた。奄美、沖縄で桜といえば緋寒(ひかん)桜。与論島では1月に咲く。ウグイスは春の季語とされているが、与論島では11月、12月に鳴く。

巻頭言で町 亞聖さんが記してくださったように、与論島では「ありがとう」を「とーとぅがなし」と言う。菊さんによると民俗村を訪れる人のなかには「それ何語ですか?」と聞く人も。菊さんが「では皆さんが使っている『ありがとう』とはどういう意味ですか?」と切り返すと9割の人は返答に窮するそうだ。

ありがとうとは「有り難し」。有ることが難(かた)い、つまり「滅多にない」「珍しくて貴重」という意味だ。

「共通語とされている言葉を意識せずに使っていながら、島の言葉を『変わっている』と言い、桜が1月に咲くのは変だと思う。新幹線や高速道路で『上り』『下り』と呼ぶのも根っこは同じ。中央が進んでいて辺境は遅れている。長年そう刷り込まれたことが、画一的なものの見方となって、日本のある種の閉塞感につながっているのかもしれませんね」

インターネット通販がある今、島も昔ほど不便ではないが、台風が来たら外からの供給は途絶える。よそには頼れない、自分たちでなんとかするしかない、困ったときはお互いさま──そういう助け合う暮らしがあるから島を訪ねた初対面の相手にも、お互い人間だ、上も下もないじゃないか、と無意識に接する。それゆえの柔和さなのだろうか。島尾が問うた固い画一性から抜け出すための多様性とは、互いの文化を尊重し合うところから見出せそうだ。

島の文化を見聞きして自分の世界を広げる

話が堅苦しくなったが、難しいことを抜きにしても島は楽しい。見るもの聞くものすべて新鮮でわくわくする。それは人間に生来備わっているある種の感性と言えなくもない。

沖縄県本部(もとぶ)町にある「海洋文化館」の館内ガイドツアーに参加して知ったのだが、太平洋に散らばる島々に人類が移動したのは二段階あり、最初は3万年から5万年前に移動した人類。その子孫がオーストラリアのアボリジニーやパプア人だ。そして4000年から5000年前に島伝いに移動を始めたのが二段階目。途中、フィジーやサモアで1000年ほど停滞したが、ダブルカヌー(双胴船)や星の配列や動きなどで目的の方向を推測する航海術を編み出し、ハワイ諸島などに到達した。

たしかに南西諸島をフェリーで移動すると、思いのほか島と島が近いことに気づく。奄美大島を出ると徳之島が見えるし、その次は沖永良部島、与論島と順々に見えてくる。地形も大きさも違う島を見ていて「あそこには何があるんだろう」と思う。島伝いに移動した人たちの気持ちが少しだけわかった気がする。

島を訪ねたら釣りやダイビングなど自分の趣味に時間を割くのは当然だ。しかし、ほんの少し別のことに時間を使ってはどうか。茶花漁港の競りを覗いたら、仲買人が「魚が少ないから漁師に発破をかけなきゃ」と船に向かって走る姿を見ることができたし、魚を仕入れている80歳を過ぎたおばあさんに昔話も聞けた。

南西諸島に限らず近場でもいいから島に行きたい。そこにはむき出しの自然と向き合い、いざというときは自給できるように備え、一人では生きられないのを知っているからこそ他者にも柔和な人びとがいる。都市部に住んでいると忘れてしまうそうした生き方に触れるだけで、自分のなかの何かが変わり、ものの見方や世界が広がると思う。

行っただけではわからないかもしれないが、行ってみなければわからない。そして、自分の住む地域と訪ねた土地の文化を比較して理解するためのテーマの一つとして「水」はお勧めだ。

また、ふだんはどうしても二次情報に触れることが多いけれど、現地に行くことが許される状況になりつつある今、実際に足を運んで、自分の目で見て耳で聞き、人びとと接するなかでその島の文化を体全体で感じ、言葉も含めて敬う気持ちをもちたい。今こそ、島へ。

  • 奄美大島の名瀬港そばにある青果店。軒先には島内産のバナナが吊るされ、清見などの柑橘類も並んでいる

    奄美大島の名瀬港そばにある青果店。軒先には島内産のバナナが吊るされ、清見などの柑橘類も並んでいる

  • 着陸寸前の飛行機から見た屋久島の風景。人と自然の共生のために設けられたゾーニングが見てとれる

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Special Column
久高島の「おじい」に聞いた航路開拓と戦後の話

島に戻ったその足で共同井戸を確かめに

屋久島から加計呂麻島、そして与論島と南西諸島を巡った今回の取材には、実は少しだけ続きがある。

与論島から沖縄島(以下、本島)北部へフェリーで渡り、さらに本島の南東に浮かぶ「久高島(くだかじま)」へ向かった。12年ごとの午(うま)年に行なわれる祭事「イザイホー」(注1)で知られる久高島に会いたい人がいた。久高島と本島の航路を開いた内間新三さん。1927年(昭和2)生まれの95歳で、久高海運合名会社の会長を務める。

内間さんは戦前、八重山諸島でカツオ漁に従事。沖縄戦では防衛隊(注2)に召集され西海岸へ。戦況の悪化で散り散りになった所属部隊を抜け、砂浜に潜って身を隠し、夜中に足を攣りながら海を泳ぎ、九死に一生を得た。同郷の先輩2人と拾った壊れかけの刳(く)り舟を操って久高島へ戻った内間さんが最初に起こした行動は「共同井戸を見に行く」ことだった。

「本島で会った人から、一足違いで母たちは島に戻ったと聞きました。無事ならば共同井戸の水を使っているはず。そう思って確かめに行くと痕跡があったんです。壕を訪ねたら母や親族がいて『助かった!』と大騒ぎでした」

生き抜いた約500人が戦後に久高島へ戻る。家は焼き払われていたので茅葺屋根の仮小屋を建てた。骨組みには米軍支給の建材を用い、屋根は島に生えているガヤ(チガヤ)で葺いた。

ちなみに久高島では個人の土地所有が認められていない。土地は誰のものでもなく島のもの。「総有」(注3)だ。

(注1)イザイホー
久高島で12年ごとの午年に行なわれる祭事。久高島には30歳以上の全女性が加入する村落祭祀組織があり、イザイホーはその組織への加入儀式。過疎化と指導する神役の不在などにより、1978年(昭和53)を最後に行なわれていない。

(注2)防衛隊
「兵役法」に基づく現地召集中心の補助兵力部隊。陣地構築や弾薬・食糧の運搬、夜間の案内などに従事。満17~45歳の男性を対象とし、沖縄戦では2次にわたって召集された。

(注3)総有
15軒が一組で全十組、150戸に土地を割り振っていた。面積は家族の人数による。3人家族の場合は約300坪、5人家族なら約600坪、5人以上の家族には約1000坪。

  • 久高島の徳仁港。沖縄島の安座真港との間をフェリーと高速船で結ぶ

    久高島の徳仁港。沖縄島の安座真港との間をフェリーと高速船で結ぶ

  • 久高海運合名会社会長の内間新三さん。初めてお会いした4年前と変わらず従業員が休みの日は窓口に座り、乗船券を売っている

    久高海運合名会社会長の内間新三さん。初めてお会いした4年前と変わらず従業員が休みの日は窓口に座り、乗船券を売っている

手づくりの木造船で本島との航路を開拓

生活が落ち着くと内間さんは「本島との航路開拓」に乗り出す。それまでは若者が漁業用の刳り舟で本島と行き来していたが、どうしても定期船がほしかった。

「戦前に祖父母が立て続けに亡くなったんです。島には診療所も薬もなく風邪をこじらせて。それが悔しくてね」

本土から杉の丸太(飫肥杉(おびすぎ)と思われる)が入るようになり、寸法を指示して製材させたものを那覇から運んだ。構造材(骨組み)には久高島の木を使った。

「東海岸の枯れ木で曲がっているものを切りました。ヤナブ(テリハボク)という粘りがある強い木です。それを骨組みにして、知り合いの大工と二人で手づくり。動力は米軍払い下げの四気筒ガソリンエンジンです」

その船でしばらくは漁業をしながら無事故を続けた。定期船の許可をもらうため手づくりの木造船を馬天港(ばてんこう)に持ち込むと検査所の所長に「どこで造船技術を習ったのか?」と聞かれた。戦前のカツオ漁船で覚えた、見よう見まねだから習っていない。そう言ってもなかなか信じてもらえなかった。

井戸は順番待ち 悲願の海底送水を

他の多くの離島と同様に、久高島も飲み水には苦労した。雨が降りそうになると大きな木の横に甕を置き、クバの葉を樋のようにして雨水を溜めた。

「雨が降らない日が続くと、井戸水を汲むのが大変でした。1時間に桶が1杯溜まるかどうか。当番の女性は井戸の横に夜通し寝そべって、桶に水が溜まったら先着順で渡しました。そこで当時の村長を『海底水道を引かないと人並みの生活ができない』と口説き、予算をとったのです」

1978年(昭和53)に完成した本島と久高島をつなぐ海底送水管は延長6400m。「バルブを開くと水がピューッと出た。みんな大喜びでした」と内間さんは頬を緩める。

内間さんの母は5人姉妹。全員がノロだったそうだ。母がイザイホーに参加した1942年(昭和17)の午年。当センターのアドバイザー、鳥越晧之さんの父、憲三郎さんが視察に来ていた。

「鳥越先生はイザイホーを見て『こんな小さな島でこういう儀式があるのはとても珍しい』と言い、『普段着では無礼だから』と白装束に着替えて5日間収録していました。向こう(本土)で鳥越先生がイザイホーを紹介したのでしょう、戦後は人が押し寄せました」

1966年(昭和41)の午年のイザイホーはまさにてんてこ舞い。当時の船は20人乗り。しかも本島側の馬天港とは片道1時間以上、往復3時間かかる。人が多すぎて船に乗りきれなかった。内間さんは本島側の港を動かすことを画策し、のちに安座真(あざま)港が開かれた。今はフェリーで25分、高速船なら15分で本島と行き来できる。

沖縄戦を生き抜き、手づくりの木造船で航路を開いた内間さんに、久高島をどんな島にしたいですか、と問うとこう言った。

「自分たちの時代はとうに過ぎました。戦争で生き残ったのは島のために尽くしなさいという神様の思し召しと思ってしゃにむに働き、島の人たちも今は不自由なく暮らせる。あとは若い人たちに任せます」

内間さんをはじめ無数の先人たちが「みんなに苦労させないように」とつくり上げてきたこの社会を、よりよい形でつないでいくにはどうしたらよいのか、考えさせられた。

  • 海岸沿いにある井戸「ヤグルガー」。急な階段を下りた先にあり、ここの水は今も祭祀で用いられている

    海岸沿いにある井戸「ヤグルガー」。急な階段を下りた先にあり、ここの水は今も祭祀で用いられている

  • イザイホーなど主要な年中祭祀の祭場である「御殿庭(うどぅんみゃー)」

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