機関誌『水の文化』73号
芸術と水

芸術と水
【綴る】

流れゆく川に見る 素晴らしき人生

なぜ「川」や「水」は詩人や作家の感性を刺激し、文学の表現に取り入れられるのだろうか?詩人でありフランス文学の研究者であり、また移住の旅に出たネズミ一家の冒険譚(たん)『川の光』などを著す小説家でもある松浦寿輝さんに、表現者としての「川」や「水」の存在について聞いた。

流れゆく川に見る 素晴らしき人生
松浦 寿輝さん

インタビュー
詩人、小説家、批評家
東京大学名誉教授
松浦 寿輝(まつうら ひさき)さん

1954年東京都生まれ。詩集『冬の本』で1988年に高見順賞、1995年評論『エッフェル塔試論』で吉田秀和賞、2000年小説『花腐し』で芥川賞、2005年『半島』で読売文学賞を受賞。2007年、川辺の棲み処を追われたネズミ一家が新天地を求めて旅に出る『川の光』を上梓。

西に広がった東京から水景は遠ざかり

私の生家は味噌屋で、上野と浅草のちょうど中間くらいの位置にありました。いわゆる下町育ちです。馴染みのある川は、江戸時代に大川と呼ばれていた隅田川です。

東京の地誌でいえば、まず隅田川があり、東へ行くと荒川、さらに千葉との境には江戸川が流れていて、西へ行けば多摩川がある。子どものころは上野と浅草が身近な繁華街で、新宿や渋谷はよほどのことがないかぎり行きませんでした。

ところが、高度経済成長期に入り首都高速道路が建設され、どんどん風景が変わっていく。それと同時に東京の中心、重心が、西へ西へと移っていきます。私の住まいも文京区、新宿区、世田谷区と西へ向かい、今は武蔵野市。徐々に徐々に隅田川から離れていった。あの川の風景からずいぶん遠ざかったな、という思いがあります。

そうした川への思い、ノスタルジーのようなものは、私が書いた詩や小説にもいろいろな形で反映されています。例えば、芥川賞を受賞した『花腐(くた)し』に「新宿や渋谷の繁華街を歩いていてそのままふと足を伸ばすと滔々と流れる水べりに出るといったことができないのは何とさみしいことだろう」と書いています。

かつて江戸市中に飲料水を供給していた玉川上水、神田上水も暗渠(あんきょ)化が進みました。クマネズミの親子が工事によって川べりの棲み処を追われて旅に出る冒険譚『川の光』にも書きましたが、川に蓋をして遊歩道にする工事が進んだ結果、空が開けた川の風景、水景が抑圧されていきます。

世界に目を転じると大きな都市の真ん中には必ずといってよいほど川が流れています。一時期住んでいたパリにはセーヌ川がありますし、ロンドンならばテムズ川がある。舟運など実用にも供しているのでしょうが、都市というのは多かれ少なかれ自然から切り離されているので、住んでいると気持ちがすさみがちになるんですね。そんな人びとの心を癒すのが流れる水です。それは詩人や作家の感性を刺激し、作品を生み出す原動力ともなっていました。

しかし東京は、近代化に伴って重心が西にずれたことで隅田川が中心軸ではなくなり、暗渠化も相まって水景が失われます。隅田川に関しては、岡本かの子が『河明(かわあか)り』や『生々流転』を、芝木好子が『隅田川暮色』といういずれも素晴らしい小説を残しています。

東京はいわば川を見捨てて発展する道を選んだ都市だ──私はときどきそんなことを考えます。

松浦寿輝著『川の光』(中公文庫)

松浦寿輝著『川の光』(中公文庫) 
川のほとりで暮らしていたクマネズミ一家(タータ、チッチ兄弟とお父さん)は、ある日突然始まった河川改修(暗渠化)工事のため巣穴を追われ、イヌやネコ、スズメ、モグラなどに助けられながら上流へ遡っていく冒険譚

明るい水の対極にある流れない水、澱む水

今回の主題である表現者としての「川」や「水」について真っ先に思い浮かんだのはフランスの哲学者、ガストン・バシュラールです。

バシュラールはもともと科学の認識論を研究していたのですが、晩年になって不意に科学的概念から哲学の概念を組み立てるようになります。その過程で詩的な、瞑想のようなエッセイを連作として書きはじめ、『大地と意志の夢想』『水と夢』『火の詩学』『空と夢』などを著しました。あらゆる物質的存在を構成する四種の元素を「地水火風(ちすいかふう)」あるいは「四大(しだい)」と呼びますが、バシュラールはまさにこの「地水火風」を取り上げていることがわかります。

『水と夢』では、さまざまな水のイメージと文学者の想像力をどう切り結ぶかを探究しており、そのなかでアメリカの文学者、エドガー・アラン・ポーも取り上げています。バシュラールは、ポーの想像力において、水は常に暗い水、黒い水として表れると分析します。一部を抜粋すると「そうすると、原初的に明るいどんな水も、エドガー・ポーにとっては、暗くなるべき水であり、黒い苦悩を吸収すべき水なのである。生き生きとしたどんな水も緩慢になり、重苦しい運命の水となるのである」と記している。

水がさらさら流れる明るい川だけでなく、その対極ともいえる「流れない水」「澱(よど)む水」も文学表現の範疇(はんちゅう)に入ることがわかります。

ガストン・バシュラール著・及川馥訳『水と夢―物質的想像力試論』(法政大学出版局)

ガストン・バシュラール著・及川馥訳『水と夢―物質的想像力試論』(法政大学出版局)
「私の楽しみは小川の流れに沿って行くことである」と記すバシュラールが、水という物質に対して人びとが抱く想像力について多様な詩や戯曲、神話から読み解く

古い水を押し流す新しい水と時間

「地水火風」のうち文学者としての私は「水」に親しんできました。『川の光』を書いたのは、玉川上水の縁に住んでいたときに川べりの道を散歩していて「このあたりの小動物はどういう生き方をしているんだろう」と日々考えることが多く、そこからクマネズミ親子の物語を構想するに至りました。

しかし、自分の感受性の成長過程を振り返ると、イギリスの作家、ケネス・グレーアムの『たのしい川べ』に大きく影響されたと思います。この小説は動物たちが人間のように言葉を発して冒険する児童文学で、子どものころから愛読していました。今の子どもたちにも読み継がれてほしい傑作です。

人間の体の大部分は水でできているとはよくいわれることですが、私たちやネズミなどすべての哺乳類は水を自分の体に蓄え、それをぴっちりと皮膚で覆って新陳代謝しつづけている。そういう印象があるので、人間の生き死にを考えると、私のなかでは水のイメージが強くせり出してくるのです。

特に川は、新しい水がどんどん流れ込んで古い水を押し流していくものです。それは時間も同じで、私たちは「時間が流れる」という言い方をします。流れる時のなかで生きていると、世界も自分も自身の周りの環境も移ろい、すべてが変わっていく。川の流れも生きている体験そのものの比喩のような部分があるのではないでしょうか。

世界が新しくなっていく素晴らしさや美しさを、はっきりと目に見える形で体験させてくれるのが川です。だから川のほとりに立つと、心地よさや快感のようなものを誰しも感じるのではないかと思います。

ケネス・グレーアム著・石井桃子訳『たのしい川べ』(岩波少年文庫)

ケネス・グレーアム著・石井桃子訳『たのしい川べ』(岩波少年文庫)
ネズミやモグラ、ヒキガエルなど小動物が繰り広げるさまざまな事件を詩情豊かに描く。グレーアムが幼い息子のために書いたと伝わる。原題は“The Wind in the Willows”(1908年)

(2022年12月13日/リモートインタビュー)

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