第9回里川文化塾 水の郷・日野を歩く〜用水路を活かしたまちづくり〜

第9回里川文化塾 水の郷・日野を歩く〜用水路を活かしたまちづくり〜

 東京都心から西へ35km。多摩川と浅川の水に恵まれた東京都日野市は、用水路が縦横に巡る豊かな田園と近代的な都市空間が共存する魅力的なまちです。同市では、市民・研究者・行政が連携しながら、用水路を活かしたまちづくりを進めています。
 第9回里川文化塾では、「使いながら守る水循環」を目指す「水の郷・日野」を訪れ、民学官連携によるまちおこしのポイントや、これから都市型農業用水が生き残っていくためのヒントを探りました。

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日野・向島用水エリアを巡る

実施概要

  • 日時
    2012年11月10日(土) 10:00〜17:00
    会場
    午前:七生(ななお)福祉センター
    午後:落川(おちかわ)交流センター
    参加者数
    28名
    講師
    長野 浩子

    長野 浩子 ながの ひろこ
    法政大学 エコ地域デザイン研究所 研究員

    法政大学大学院政策科学研究科修了。同大学デザイン工学部兼任講師。一級建築士。同大学エコ地域デザイン研究所では日野市連携事業担当。市民主体のまちづくりについて研究。共著に『用水のあるまちー東京都日野市の水の郷のゆくえ』(法政大学出版局)、『水の郷 日野ー農ある風景の価値とその継承』(鹿島出版会)がある。

    石渡 雄士

    石渡 雄士 いしわた ゆうし
    法政大学 エコ地域デザイン研究所 研究員

    法政大学大学院工学研究科後期博士課程単位取得。同大学デザイン工学部建築学科教育技術員。ミツカン水の文化センターのアドバイザーでもある陣内秀信教授のもとで、日本の都市形成と水との関わりを研究中。日野市の地域形成史をテーマにして約7年。共著に『東京エコシティー新たなる水の都市へ』(鹿島出版会)、『港町の近代ー門司・小樽・横浜・函館を読む』(学芸出版社)、『水の郷 日野ー農ある風景の価値とその継承』(鹿島出版会)、『中央線がなかったらー見えてくる東京の古層』(NTT出版)がある。

    高木 秀樹

    高木 秀樹 たかぎ ひでき
    日野市 環境共生部 緑と清流課 水路清流係

    1989年、日野市役所に入所。2006年より緑と清流課に配属。用水路の維持管理をはじめとする水辺行政に取り組み、市民活動のバックアップも積極的に行なっている。自称「水辺の自由人」。

    ゲスト
    土方 フミ

    土方 フミ ひじかた ふみ
    地元生産農家

    1934年生まれ。調布から日野市新井に嫁いで53年。現在は5反の水田を耕作。急激に変わる新井を見つめ続けてこられた。

    佐藤 美千代

    佐藤 美千代 さとう みちよ
    市民団体「まちの生ごみ活かし隊」 代表

    生ごみリサイクルでコミュニティガーデン「せせらぎ農園」を運営。日野の農地を残すための活動団体「市民による都市農業研究会」や、日野塾参加をきっかけに始まった「水車活用プロジェクト」などでも活躍している。

    フィールドワークガイド
    • 荒川 四郎

      荒川 四郎 あらかわ しろう

    • 小松 妙子

      小松 妙子 こまつ たえこ

    法政大学エコ地域デザイン研究所と日野市の連携事業から生まれたまちづくり勉強会「日野塾」の塾生として、まち歩きマップ『水の郷日野エコミュージアムマップ』の「向島用水エリア」編の作成に携わった。荒川さんは千葉県船橋市生まれ。2003年に日野市落川に移り住み、在住10年目。保険会社勤務のかたわら地域のことをもっと知りたいと日野塾に参加。小松さんは法政大学大学院デザイン工学研究科修士課程 陣内秀信研究室に在籍し、東京都心と郊外の水辺空間を研究中。

    プログラムリーダー
     

    山畑 泰子 やまはた やすこ
    編集者

    中学校の期限付教諭、博物館の学芸指導員(考古担当)などを経て編集者となる。1991年より河川や水文化をテーマにした月刊誌の編集に携わる。2007年3月の休刊後、フリーランスの編集者として主に水環境や水辺の文化に関わる雑誌・書籍の制作を行なっている。

     

    市川 倫也 いちかわ みちや
    編集者

    2002年より河川や水文化をテーマにした月刊誌の編集に携わり、全国の河川、水の現場を取材。2007年3月の休刊後、フリーランス。人と自然の関わりをテーマに、出版物の制作や地域活性化の取り組みに携わる。2010年、第1回全国小水力発電サミット実行委員。

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座学とフィールドワークで水の郷・日野を体感する

 日野市は、東京都(島嶼部を除く)のほぼ中央に位置する東京の「へそ」。人口約18万人、面積約28km²を擁し、2013年に市制施行50周年を迎えます。台地・丘陵地・沖積地から成る市域は、左を向いた犬の顔に似た形をしています。

 市内には高幡山金剛寺(高幡不動)や日野宿本陣をはじめ史蹟が多く、新選組の土方歳三や井上源三郎の出身地でもあります。近代以降は工業都市として発展しましたが、平地には農業用水路が張り巡らされ、長い歴史を背景とする生活に根ざした「農ある風景」がさまざまな形で受け継がれてきました。

 日野の貴重な環境・文化資産の可能性に着目した法政大学エコ地域デザイン研究所(陣内秀信所長)では、2006年度に「日野の用水路とそれを取り巻く環境」をテーマに、歴史・エコ・再生・地域マネジメントといった分野を横断した調査研究プロジェクトを始動、2009年からは地元の市民や行政とともに新たな方向性を探りながら活動しています。

 今回の里川文化塾では、午前中の座学で、水の郷としての日野の概要および用水路を軸にしたまちづくりの経緯を講師3人よりお話しいただき、午後は、都市化にともなう用水路と農地の現状や現在の用水路の活用を知るために、向島(むこうじま)用水エリアでフィールドワークを行ないました。

 午前中の座学は、七生福祉センターで行なわれました。以下、講義の抄録です。

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【講義1】日野の骨格を知る〜日野の地理・歴史・産業の変遷と用水路の関わり〜

法政大学エコ地域デザイン研究所
石渡 雄士さん

1. 水の郷・日野を支える地域の骨格

 日野の地形は多様性に富んでいます。市の西部には日野台地、南部には多摩丘陵があり、北・東部は多摩川と浅川によってつくられた沖積低地で、2つの川は市の東部で合流しています。市内には程久保(ほどくぼ)川、谷地(やじ)川なども流れています。

 日野の水環境においては、河川や用水路だけでなく湧水も「水の郷」を形成する大切な要素です。湧水は台地の段丘崖や丘陵地の裾部に湧いていますが、1955年(昭和30)頃までは平地にも多くの湧水が存在していました。東京都は2003年(平成15)に「東京の名湧水57選」を選定しており、日野からは3ヵ所(中央図書館下湧水群・黒川清流公園湧水群・小沢緑地湧水)が選ばれています。

 市内を流れる主な用水路は全部で14あり、支線を含めた総延長は2008年(平成20)時点で約116km。この長さは都内最長です。網の目のように張り巡らされた水路を流れた水は、最後は川に戻されます。

 近世の集落は、湧水がある場所や用水路を引いた場所につくられていることがわかります。用水路は、古くは10世紀頃につくられた小さなものが確認されていますが、多摩川や浅川から取水して沖積地にあるものは、主に江戸時代以降に開削されたと考えられています。

 記録として最も古いのは日野用水で、室町時代末の1567年(永禄10)に多摩川上流(八王子市平町)から水を引いています。日野宿の宿場内は上堰と下堰に分かれ、その間を甲州街道が通っています。
 大きな川から取水する用水路が全国的につくられるのは近世以降ですが、日野はそれより少し早い時期から大規模な用水路がつくられ、江戸時代には「多摩の米蔵」と呼ばれるほどの穀倉地帯となりました。

2. 水の郷・日野と人々の歴史(先史〜近世)

 図2は、日野における近世集落がどのような地形の上に成り立っているのかを分類したものです。農村集落は、台地、丘陵地、沖積地の上につくられていますが、それぞれ地形を活かして用水路を通し、湧水や沢、河川の水を利用できるしくみになっています。
 沖積地では川から取水した用水路を利用し、丘陵地では沢の水や湧水を使っていました。台地ではそれらを組み合わせた形で、大きな河川から取水したり、崖から湧く水を使ったりしながら農村集落が形成されました。

 図3は、低地の微高地に広がる集落の例で、今日歩く向島用水エリアはこのパターンです。多摩川や浅川の氾濫で運ばれた砂によってできた微高地が居住の場になり、低地は用水路が通され水田になっていました。今でもそのような微高地に古い農家の屋敷があります。

3. 水の郷・日野と産業の発展(近代〜現代)

 江戸時代までは地形ごとに水を上手く利用しながら集落が発展してきましたが、近代以降、日野は大きく変わります。明治半ばに鉄道が開通、昭和初期には大工場が進出し、戦後以降はベッドタウンになっていきます。1960年(昭和35)以降は大学も立地し、市街地化がさらに進みます。

 日野市には今も多くの工場がありますが、大工場の進出は2つの時期に分けられます。第1期は昭和10年代です。1930年(昭和5)から翌年にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた昭和恐慌を受け、日野町(当時)は、安定した財源の確保や雇用の創出を目的に工場を誘致しました。この時期に進出した代表的な5つの企業は「日野五社」と呼ばれます。

 図5は、日野五社が立地した場所を1942年(昭和17)の航空写真上に示したものです。右上が多摩川、下が浅川で、日野重工業や六桜社などは台地上にできました。多くの工場が日野へ進出した理由として、豊富な水資源があったことがあげられます。

 大工場進出の第2期は昭和30〜40年代です。都心への一極集中を背景に、工場と住宅が一体となった「衛星都市」の建設が進められ、多摩平団地や平山工業団地が誕生、市街地化が一段と進みました。図6を見ると、1947年(昭和22)の時点では自然のまま残されていた丘陵地が、今では削られて住宅地になっています。台地周辺も同様に宅地化されました。

 沖積地では農村地帯がグリッド状に区画整理され、地形に沿ってくねくね曲がっていた用水路は直線化して、風景は一変します。水田や畑は宅地となり、湧水の減少や水質の悪化が進みました。

4. 水の郷・日野のこれから

 日野市では昨今、従来のように工場誘致や衛星都市化を進めるのではなく、「水の郷」であることを再評価する動きがみられます。東芝、日野自動車などの大工場撤退に加え、空き家が増えて団地内の高齢化が進むという問題を抱えており、新たなまちづくりのヴィジョンが求められているのです。

 団地については、築50年の旧多摩平団地の一部が「AURA243 多摩平の森」として再生されています。貸し菜園や小屋付きの貸し庭、テラスと専用庭付きの住戸を改装したヤードハウスなど、ゆとりある団地環境の特性を活かしたリノベーションがなされています。

 もともと農村地帯だった日野では、「農」を取り入れながらリノベーションをしたり、郊外に住むことの価値や「水」という地域資源を活かしたまちづくりを見直すことが重要ではないかと思います。

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【講義2】日野市の水辺政策・用水路管理

日野市 緑と清流課
高木 秀樹さん

1. 約15%が水域の日野市の合言葉は「水辺に生態系を」

 私が担当している水路清流係の主な業務は、水辺の管理です。私たちは「清流行政」という言葉を使っていますが、そのような観点から日野市の水辺行政についてお話しします。

 日野市では、高度経済成長期に汚れてしまった河川に少しでも生き物が還ってくることを目指し、「水辺に生態系を」という合言葉のもと、水辺の保全、水辺の再生・復元、学校ビオトープ、湧水保全など、市民とのパートナーシップによってさまざまな事業に取り組んでいます。

 図1は、市内の水路幹線図です。現在、農業用水路の延長は116km。水路用地は約170km残っていますが、宅地開発や水田耕作の休止によって小さな堀には水が流れていません。湧水地は、時期によって流れない(湧いていない)ところを含め、約180ヵ所あります。多摩川、浅川、程久保川、谷地川のほか、農業用水路に位置づけられていない湧水路などの普通河川、学校ビオトープや水田公園などを含め、市の面積の14.8%が水域です。

2. 市民と行政の二人三脚で蘇る清流

 日野市では2006年(平成18)から「清流保全条例」を施行し、これらの水域を守っていますが、それに先立つ1976年(昭和51)施行の「清流条例」によって、用水の年間通水を始めました。

 その頃は沖積低地のいたるところに用水路があり、総延長は200kmを超えていたと思われます。市内の下水道は、今でこそ100%近く整備されていますが、当時は用水路に雑排水を流していました。農業用水路は、通常4〜9月頃までの灌漑(かんがい)期にしか水を流さないので、冬場は雑排水によって用水路が汚れ、臭ったりしました。そこで、1年を通じて水を流して汚れを薄めてしまおうというのが年間通水の始まりでした。

 日野市では、1983年(昭和58)に水路管理を専門に手がける全国唯一の「水路清流課」を設け、1998年(平成10)からは「環境共生部 緑と清流課」にシフトし、公園や緑地の管理も手がける課になっています。

 市民の協力を得ながら用水路は少しずつきれいになり、公共下水道も徐々に整備されました。日野の水辺を良くしていこうという取り組みがさまざまな場所で始まり、1995年(平成7)には国土庁(当時)の「全国水の郷100選」に指定されました。「水の郷・日野」と呼ばれるゆえんはここにあります。

 2000年(平成12)には、潤徳(じゅんとく)小学校の裏手にある向島用水親水路が第1回全国学校ビオトープコンクールの計画部門・協力部門で優秀賞を受賞、同年、潤徳小と浅川の上流側にある滝合小は「水辺の楽校プロジェクト」に登録しました。2006年(平成18)には、台地の崖にある黒川清流公園が国土交通省の「手づくり郷土(ふるさと)賞」を受賞しています。

3. 水辺の保全、復元・再生で後世に残せる景観を

 図2は、身近な水辺保全の一事例で、水田を復元した「よそう森公園」です。かつては鎮守の森があり、ここから日野駅周辺の水田を見渡して収穫する米の石高予想をしたので「よそう森」と呼ばれた、という説があります。

 ここでは、市民や市職員が、堀さらいや田植えなどの維持管理をしています。動植物が生息できるよう、コンクリートを使わない土の水路を維持するために、土留めには木杭と板柵を用いているところもあります。
 こうして、「春の小川」をイメージできるようなせせらぎを、日野の宝として残せるような景観保持に努めています。

 図4・図5は、向島用水親水路の整備前と整備後の様子です。
 整備前はブロックと練積みの石垣で、小学校の対岸は緑地ですが荒れ果てていました。そこで、水路の底のコンクリートをはがし、護岸は玉石積みにして、植生保護ロールを用いて植物が生えやすい状態にしました。

 そして、学校の敷地まで水辺を広げて親水路(歩道)を設けました。護岸は低くしたり木杭を打つ程度にして人々が水辺に近づきやすくなっており、夏には子どもたちが水に入って遊べるようになりました。また、潤徳小の児童が、ここは自分たちの場所だという気持ちに少しでもなれるよう、児童の手で地元の野草を中洲に植え付けてもらいました。

 これより下流では、多様な生物が棲めるように、水路を蛇行させて流水域と静水域を生み出しています。今ではカワセミもよく見られます。親水路には、橋の欄干に工夫を凝らした「ほほえみ橋」や水車小屋も設置しました。

木で枠を組んだ護岸(木工沈床)に来るカワセミ
図6 木で枠を組んだ護岸(木工沈床)に来るカワセミ

 日野市では小学校と協力して環境学習も手がけており、今日歩くコース上には潤徳小の田んぼがあります。また、浅川と程久保川の合流点には市民団体と協力して設けたワンドがあります。こういうものを現地で見ていきましょう。

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【講義3】水の郷・日野のまちづくり〜市民により守られた水辺環境と民学官連携によるまちおこしの経緯と今後のヴィジョン〜

法政大学エコ地域デザイン研究所
長野 浩子さん

1. 市民によって守られた環境

 2004年(平成16)に環境基本計画の策定に関わり、そのとき出会った市民の方々に感銘を受けて、これまで活動を続けてきました。

 図1は、日野市の水辺行政を時系列にまとめたものです。高度経済成長期の昭和30年代から水辺は汚れ、緑も失われていき、1969年(昭和44)には水質汚染のために浅川と多摩川が遊泳禁止になりました。

 日野市では、その前年に総合基本計画、今でいう基本構想がつくられました。そこには用水路の統廃合や、水田は地下水を利用しようとか水田をやめて畑にしようということが書かれています。当時は都市に急激に人が流れ込み、農地が失われた時代です。そういう時代背景をもとに総合基本計画はつくられたのです。

日野の水辺行政
図1 日野の水辺行政(資料提供:長野浩子さん 以下同)

 私が関わった環境基本計画で、用水路を残すことが決定されました。そこで市民の皆さんはより正確に実態を知るために、月に2〜3回程度、2年かけて用水路を踏破し、「市民版用水路MAP」を作成しました。このときから法政大学エコ地域デザイン研究所(以下 エコ研)としての協力が始まりました。

 図2は、日野の市民活動グループの系譜です。日野市は、1958年(昭和33)に日野町と七生村が合併して日野町となり、1963年(昭和38)に市制施行されました。1958年は多摩平団地がオープンした年です。この頃から人口が急激に増え、緑が失われていくにつれて、自然保全を求める市民活動が起こっています。

 川が汚れてくると、女性メンバーが中心の団体などが水質改善を目指す活動を行なうようになりました。この頃(1980年代)の活動は、「市民環境科学」を提唱した小倉紀雄先生が協力なさっています。
 1998年(平成10)に「特定非営利活動促進法(NPO法)」が施行されると、それ以後ネットワーク型、中間支援型の組織ができてきます。

 自然環境系だけでなく、1968年(昭和43)から活動している(実は戦前から活動していたという実績があるのですが)「日野史談会」のような歴史系の団体も、日野の自然や歴史的資源を守るために行政に働きかけるなど熱心に活動していました。

 一般的に自然環境系と歴史系の市民活動は分かれる傾向にありますが、その双方で活躍したのが田中紀子(としこ)さん(1918〜2001)です。長野県松本市生まれの田中さんは宮地区の農家に嫁ぎ、63年間日野で暮らすなかで郷土史研究、自然保護活動を続けました。

 1992年(平成4)の都市計画法の改正によって市町村マスタープランを市民参加でつくることになりました。その頃、日野市では市民版マスタープランがつくられ、市に提言しましたが、総合計画には反映されませんでした。

 その後、市民有志が環境基本条例制定の直接請求を行ない、2000年(平成12)の環境基本計画策定につながります。日野では市民参加による計画づくりが活発となり、計画を推進するための組織「まちづくりフォーラム・ひの」なども生まれています。

 現在は第2次基本計画の改定が行なわれていますが、10年にわたる計画づくりの先にある実施となるとハードルは高く、今も試行錯誤の段階です。

2. 民学官連携によるまちおこしの経緯

 2004年(平成16)に発足したエコ研は、水辺空間を再生し、21世紀の都市・地域づくりの大きな柱にすることを目指しています。環境のバランスと文化的アイデンティティを失った日本の都市や地域を持続可能で個性豊かに蘇らせるために、「エコロジー」と「歴史」を結びつける独自のアプローチをとっています。

 私個人は2004年(平成16)から日野で活動を始めていますが、エコ研として日野のフィールド調査・研究を開始したのは2006年(平成18)です。2009年度(平成21)からは日野市との連携事業を行なっており、主だった具体的事業は、(1)研究成果を魅力的な書籍にまとめる、(2)その本をテキストにしたまちづくり勉強会「日野塾」の開催、(3)長期的なまちづくりの提案の3つです。

(1)については、2010年(平成22)11月にそれまでの研究成果を『水の郷 日野ー農ある風景の価値とその継承』としてまとめました。写真や図版を多用したビジュアル本です。

水の郷 日野ー農ある風景の価値とその継承

(2)の日野塾は、本をテキストにした講義のほか意見交換会やワークショップも行ない、最後はまち歩きをしてマップづくりを試みました。それが第1期(2010年10月〜2011年7月)です。
 そして日野塾第2期(2011年10月〜2012年7月)では、本格的な水の郷まち歩きマップの作成を手がけました。その成果物が、今皆さんのお手元にある「向島用水エリア」「平山・南平用水エリア」「豊田用水エリア」の3枚の『水の郷日野エコミュージアムマップ』です。市民と学生の協働の成果です。

3. 民学官連携によるまちおこしの今後のヴィジョン

 日野塾には30代から80代まで34人が参加し、第2期の活動から「水車活用プロジェクト」や「南平・緑と水のネットワーク再生プロジェクト」など新たな活動が生まれています。

 水車活用プロジェクトのことは、午後の現地説明に譲るとして、水車を動かすことで多様な人が関わり、さまざまな効果が期待できます。そして水車の復活が用水への関心に広がり、農地・水田の保全につながればと考えています。

 南平・緑と水のネットワーク再生プロジェクトは、日野塾の南平地区のマップづくりに関わった人たちからの提案で始まったものです。南平駅周辺は大きな開発がなく、用水も昔ながらの流れを比較的とどめていますが、駅前は殺風景で、児童館の前を流れる親水路の管理もあまり行き届いていません。

 そこで、用水沿いを緑化し、水辺空間を活かしたポケット広場にしようと市民から計画案が出され、第一生命・都市緑化機構主催の「緑の環境デザイン賞」に応募しました。まもなく結果が出ますが、受賞すれば助成金によって事業が行なえるようになります(11月16日、めでたく国土交通大臣賞受賞)。

 一方、日野市との連携事業とは関係なく、市民と連携して生まれた取り組みもあります。そのひとつが「仲田の森遺産発見プロジェクト」です。30年以上放置されている国の蚕糸試験場の建物(「桑ハウス」と呼んでいます)の利活用を図る活動で、現在、大成建設の歴史環境基金からの助成金を受けて調査中です。

 これらのさまざまな活動はエコ研が提唱している「日野エコミュージアム」に通じるもので、日野の将来ヴィジョンにつなげていきたいと考えています。

 図7は、日野塾の今後の構想です。長期的なまちづくりを見据えて市の政策に提言するまちづくり研究会の発足は実現しませんでしたが、その代わりに、日野市の将来像を具体的に描く50年ヴィジョンづくりに参加しています。

 日野の民学官連携によるまちおこしでは、エコ研の持つ専門性を市民に活用していただくと同時に、私たちも市民から新たな情報や知識を得ており、それがさまざまな提案につながっているのではないでしょうか。市民と行政をつなぐコーディネイト的な役割も担いながら、今後も活動を続けたいと思います。

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フィールドワーク

浅川の水を取り入れる場所

 昼食を挟み、午後は高幡不動駅の北口広場に集合。向島用水エリアのフィールドワークを行ないました。向島用水は全長約7km、支線数15(2008年市民による調べ)。浅川から取水して、新井、石田、三沢、百草(もぐさ)、落川地区を網の目のように縦横に巡って程久保川に流入しています。

 浅川にある向島用水の取水口で、高木さんの解説がありました。取水堰は、砂利積みの導流堤(どうりゅうてい)。この堰を使って毎秒0.5t取水しているそうです。取水堰はコンクリートで頑丈につくられることが多いですが、ここはなぜ砂利積みなのか?

「コンクリートでつくってしまうと、大雨で増水したとき、ここから上流の水位が上がって危険な状態になるので、浅川を管理している国土交通省京浜河川事務所との調整によって、砂利積みにしています。増水・氾濫時に壊れて流されても仕方ない、というわけです」

「導流堤が壊れたらつくり直します。日野市による年間の維持管理費は、浅川水系全体で年度当初予算300万円ですが、近年ゲリラ豪雨が増えており、ここ数年は年間500〜600万円ほどかかっています。昔はこの導流堤がなくても取水できるくらいの水位がありましたが、上流からの砂利供給が少なくなり、河床が下がったので導流堤がつくられました」

「用水路は、市、用水組合(用水を利用する農家による組織)、それと『用水守(ようすいもり)』という水辺管理のボランティアによって維持管理されています。冬場は水量を減らし、灌漑期に入る4月頃から水量を増やして水田耕作に備えます。大雨や台風のときは水門を閉めますが、導流堤が壊れない限り、水を取り入れています」

水辺の散歩道、向島用水親水路

 潤徳小学校裏から南新井交差点までは「向島用水親水路」として整備されています。農林水産省と東京都からの補助金を受け、1992年(平成4)から1995年(平成7)にかけて工事を行ないました(総工費約2億1000万円)。

 潤徳小の校庭に連なる水辺にはビオトープ(トンボ池)が設けられ、環境学習の場になっています。水路整備の計画当初、学校の敷地内にまで水を引き入れることは、水辺の安全面や防犯面などから懸念の声があったそうですが、今や全国的に知られ、多くの見学者が訪れています。池の水深は30cmで、小学校低学年でも安心して水遊びができます。

 その先に架かる「ほほえみ橋」。ここは市の認定道路にあたり、転落防止のために欄干の高さは1.1m以上必要なのですが、この橋は0.6mしかありません。その代わりに欄干の幅を広くして基準をクリアしたそうです。

 さらに歩くと、水路が分岐していたり、四阿(あずまや)があったり……。親水路の夜間照明は、上から照らすライトは使わず、フットライトのみ。これも生き物への配慮から。

日野塾から生まれた水車活用プロジェクト

 やがて水車小屋に到着。親水路整備の際に建造されたものです。観光地などで見られる水車は、水輪が回るだけのものが多いですが、ここの水車は小屋の中に杵(きね)も設置されていて、水力だけで米などを搗(つ)くことができます。水車と小屋の建設費は約2100万円だったそうです。

 使える水車なのにもったいないと、2011年(平成23)、日野塾の有志で「日野の水車活用プロジェクト」を立ち上げ、この水車を使った精米実験や勉強会を行なっています。同プロジェクトの佐藤美千代さんから活動内容をうかがいました。

「月1回のペースで勉強しながら、水車がちゃんと動くかどうか、お米を搗いて実験しました。水流は弱いのですが、杵の上下運動は1分間に37回、10kgの玄米が2時間でほぼ白米になりました。案外早く搗けるんだと思いました」

「江戸時代から昭和初期にかけて、日野には水車が54基以上あったそうです。水車があるのは用水路があるからで、用水路は田んぼがないと残りません。昔あった水車はすべてなくなりましたが、日野には田んぼがまだ残っているので、地域の歴史を振り返りながら水車を見直し、活用法を模索しています。たとえば、この近くの潤徳小の田んぼで子どもたちが育てた米を精米するとか、水車は自然エネルギーの教材にもなると思うのです」

 今回の里川文化塾に参加くださった水車活用プロジェクト代表の多田啓介さんも一言。「これからは各地の水車の見学もしたいと思っています。将来はここで発電もできたらと考えています」

住宅地の間を流れる用水路

 水車小屋の少し先で親水路は終わり。南新井の交差点を渡ると、このあたりで最も大きな水田が住宅街の一角にあります。20年ほど前に土地の所有者が水田を維持できなくなったのですが、当時の市職員が種まきから田植え、稲刈り、餅搗きまで個人的に手伝って、今も残せているとのことです。

 その田んぼに隣接して、「潤徳小の田んぼ」があります。5年生の水田学習の場で、種まきから脱穀まで児童が関わり、精米は農協などに頼んでいます。収穫した米で餅を搗いたり、地元のパン屋と共同で米粉パンをつくったり。2012年は20kgの袋で6袋収穫したそうです。

 分岐した用水路は、アパートや比較的新しい民家の間を並行して流れています。つまり、そのような宅地は以前田んぼだったところ。バブル期に開発された大規模な住宅街では、用水路を残し、それを売りにしたところもあります。

昔からある農家に立ち寄って

 風情のある板塀が見えてきました。江戸時代の初め頃からある農家、土方フミさんのお宅です。家は増改築やリフォームはなされていますが、築150年。邸内で土方さんのお話をうかがいました。

「昭和34年に嫁いできたとき、周りは田んぼばかりで家はほとんどなく、ここから京王線や落川まで見渡せました。以前は近くに大量のきれいな水が噴き出るところがありましたが、工場ができてから噴き上げなくなりました。家の井戸は今、モーターで汲み上げています。用水路の水もとてもきれいで、お釜が洗え、ホタルがいるくらいでした。嫁いだ頃はシジミもいて、よく食べていました」

「周囲がどんどん開けて、昭和40年代後半から50年代前半が一番水が汚なかったですね。下水が川に流されて、川で手が洗えなくなり、田んぼで仕事をすると足に水虫ができました。市に清流課ができた頃から下水道が整備され始め、水がきれいになりました」

 この近所で田んぼを持っているのは、もう土方さんの家だけです。田んぼを維持していくうえでのご苦労をお聞きしました。

「田んぼに水を入れる頃が過ぎると、子どもたちが堰をいたずらして、水が田んぼに入って来なくなります。最近はあまりにひどいので、稲作の大切な時期だからいたずらしないでと、小学校の校長先生に話しに行くんです。小さなフナをねらって子どもが田んぼに入り、植えた稲がだめになってしまうこともあります。注意しても効き目がなく、何度も植え直すんです」

「宅地化が進むと、騒音の苦情もあります。田んぼの水の音やカエルの鳴き声がうるさいとか、農機具も、日曜はやめてくれとか。でも農家はお天気次第、日曜はないんです。ですから、新しく越して来られた方には、『農家なので農機具の音がうるさいかもしれないけど』と話して了承をいただいています」

 土方さんの家の米作は5反ほど。反当たり7俵くらい収穫し、以前は農協に出荷していましたが、今は親戚や知り合いに分けているとのこと。狭い場所は小さいトラクターで自分で耕し、広い場所は弟さんに大きいトラクターで耕してもらい、畝(うね)の草は娘さんたちが草刈機で刈ってくれるそうです。田植機、乾燥機などすべて機械を使わないと、一人ではとても農家はできないと土方さんは言います。参加者からの質問にも答えていただきました。

土方フミさんと娘の京子さん
土方フミさんと娘の京子さん。京子さんは地元農家の女性グループ「みちくさ会」で活躍している

用水組合はありますか?(参加者)

「あります。向島用水で田んぼをつくっている人は10人くらいなので、組合員の数もそれくらいだと思います」

「田んぼにごみが捨てられることはありますか」(参加者)

「ペットボトルはもちろん、おむつを捨てる人もいます。おむつは決まって月曜の朝ですね。ボランティア用のごみ袋をもらって拾っています。ガラス瓶は危険ですから、春先に水を引く前に拾います。稲刈り機にごみが巻き込まれてしまうこともあります」

生ごみリサイクルで運営する農園

 都市部で農業を営む土方さんの貴重なお話に、参加者の皆さんは熱心に耳を傾けました。土方邸を辞した後、幹線水路を離れ、支線沿いに北上。暗渠(あんきょ)部を過ぎた角に、大正天皇即位を機に地元青年団がつくった道標がありました。古道の石田本村から浅川を渡り、落川へ行く道の角にあたり、北側に「万願寺渡船場」、南側に「落川東寺方面」とあります。道を右に折れると「お伊勢の森」、その先が「せせらぎ農園」です。

「せせらぎ農園」は、佐藤美千代さんが代表を務める市民グループ「まちの生ごみ活かし隊」が運営しているコミュニティガーデン。約200世帯の生ごみを回収して堆肥にし、無農薬・無化学肥料で野菜や花などを育てています。佐藤さんに、その経緯や運営方法についてお話しいただきました。

「2004年(平成16)に『ひの・まちの生ごみを考える会』が日野市および福祉施設と協働し、一般家庭生ごみを回収して近くの牧場で牛糞と混ぜて堆肥をつくり、販売するという生ごみの循環実験を始めました。その一般家庭参加者によって2006年(平成18)に発足したのが『まちの生ごみ活かし隊』です」

「2008年(平成20)に堆肥化施設の牧場が閉鎖したため、約650坪の畑を借りて、生ごみを直接畑に入れて完熟堆肥にする『土ごと発酵』という方法に変更し、コミュニティガーデンを開始しました。浅く耕すことで微生物の発酵が早く、夏は約1ヵ月、冬は約3ヵ月で完熟堆肥になります」

「現在市からは委託金120万円、生ごみ回収先から1世帯あたり2000円の年会費をいただいて運営しています。主に生ごみを回収する軽トラックの維持管理や回収者の人件費、生ごみリサイクルの啓発などに使っています」

「毎週火・木曜の午前中に担当者が回収した生ごみが畑に到着しますが、生ごみ投入や農作業はメンバーが来たいときに来て行ない、帰りに収穫物を分け合うというルールで、お当番などはありません。毎回約20人前後の異世代の方が集まり、いつも笑い声の絶えない地域の居場所となっています。どんなに悪天候の日でも生ごみ投入作業は行ないますが、今まで5人以下になったことはありません。毎年、収穫した大豆で味噌づくり、小麦でうどんづくり、バジルソースづくりなど、地域の方たちと一緒にイベントも数多く行なっています」

 農園内の用水路は板柵だけの素掘り。以前地主さんがコンクリートにしてほしいと市に申請されたそうですが、生物が棲める水辺にしたいからと、職員が維持管理を手伝うのでこのまま残してほしいと頼んで今に至っています。せせらぎ農園のメンバーも用水守として登録し、用水路の手入れをしています。

浅川と程久保川の合流点

 浅川の堤防上に出て、程久保川との合流点へ。ここにはワンドが広がっています。「程久保川のブロック護岸に土管を入れ、合流点のデルタに水を流しました。市民団体の提案に基づいて2005年(平成17)につくられたものです。当初は生物が5、6種類しかいなかったのですが、10数種類にまで増えました」と高木さん。

 ワンド内には市民の手でコスモスが植えられていますが、これには賛否両論あります。近くには研究対象になっている生態系保持空間があり、コスモスの種がそこに入り込むのは好ましくないからです。また、このような場所に、人為的に一つの種だけ、それも園芸種を増やすことを懸念し、元の自然景観に戻すことを望む声もあるようです。

 向島用水の排水口のある程久保川は、東京都が管理しています。洪水を安全に流すための河川改修によって掘り下げられ、直線化されていますが、周辺には蛇行した旧河道の名残りがあり、かつての水門も残っています。

 これでひとまずフィールドワークは終了し、質疑応答・意見交換の場となる落川交流センターへ。閉会後、庚申塔(こうしんとう)のある道を通って、京王線百草園駅に向かいました。

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質疑応答・意見交換

日野に用水技術をもたらした戦国武士

Q「日野用水は戦国時代のさなかの1567年に整備されたとのことですが、誰が行なったのですか。また、その技術はどこから来たのですか」

荒川さん「当時、このあたりを治めていた北条氏から許可を得て、美濃の武士、佐藤隼人が日野用水の開削を始めました。その末裔が日野宿名主を務めた佐藤家(上佐藤)です。佐藤家は2軒並んでおり、日野宿本陣の敷地に道場を開いていた佐藤彦五郎(下佐藤)のもとで土方歳三は剣道を習っていました」

ボランティアを支える用水守制度

Q「用水守制度とはどのような取り組みですか」

高木さん「日野では以前から、市民による用水路の清掃や保全のボランティア活動が盛んでした。そこで市としてもそういう活動を少しでも支えられればと2002年(平成14)に設けたのが用水守制度です。活動資金の援助や用具の提供などは財政上難しいので、日頃活動する範囲を決めて『用水守』として登録いただくことで、活動中ケガをしたり他人にケガをさせてしまったりした場合に備え、市がボランティア保険をかけるというものです。幸い、これまで大きな事故もなく、現在の登録数は50数団体、400名弱です」

雨水処理も担う用水路

Q「用水路の洪水対策はどうされていますか」

高木さん「ゲリラ豪雨があると、河川から取り入れる水以上に、雨水や湧水が用水路に流れ込みます。日野市は公共下水道と同じ役目をする雨水幹線の整備が遅れていますので、用水路が雨水処理機能を担うことになります。降水が予測できる場合は水門で取水量を制御します。昔は用水組合が管理していましたが、年間通水をしている関係で水路財産は日野市にあり、水門管理も市で行なっています。用水路には堰上げや水を分岐するための板を設置していますので、それらを外し、より安全に水を川に流すようにしています」

水利権がネックの用水路改修

Q「用水路の水利権上での課題はありますか」

高木さん「日野市の用水路はほとんど慣行水利権です。国内の用水路の大部分は慣行水利権で通水していると思います。慣行水利権とは、1896年(明治29)の旧河川法施行時点ですでに河川から取水していたものをいい、改めて河川法に基づく取水の許可申請を出さなくてもよいことになっています。
 ただ、取水堰の水門などを改修する際には、慣行水利権から許可水利権に移行しなければなりません。平山用水では取水口の構造物の取り替えにともない、許可水利権への移行の手続きを進めています。しかし水田面積が明治時代より大幅に減っており、許可水利権にすると従来の取水量での通水は難しく、ややもすれば水が流れなくなる可能性もあり、大きな問題となっています」

農業用水路の未来への意義

Q「歴史的景観を守ることはどうしても必要なことでしょうか。ノスタルジーだけでなく、積極的な位置づけが必要だと思いますが。また、農業用水としての役割を終えた後、どのようにしてこの環境を持続していくのでしょう」

長野さん「確かにノスタルジーだけではダメで、暮らしに合ったまちの在り方、景観があると思います。農地を守りたいのは、人口減少も進むこれからの時代には開発するより農地のままのほうがよいと考えるからです。また『農』はそもそも命をつくる糧ですから、代々受け継がれた農の伝統や文化から学べることは多く、都市においては農業用水としての機能がなくなっても、たとえば環境用水など、生命の循環がみられる田んぼや用水路は教育的な意義があるだろうと思っています」

佐藤さん「私たちが行なっている生ごみリサイクルは、田んぼや畑がないとできません。用水を残せないと田んぼも残せなくなります。また、コミュニティガーデンは心身の病を癒す場としての可能性もありますから、『農』は健康を維持するためのしくみとして注目されてもよいと思うのですが」

小松さん「農地を残すべきか否か、法的には農地所有者が決定することです。しかし、その決定の前に、見失っていた価値を見出すことが重要だと思います。そのためには用水守制度のように、農地を持っていない人も用水路の清掃や管理をすることを通じて市民みんなで考え行動でき、価値の多様化を生み出せる場が用水路や水田であり、その保全にもつながると思います」

農地、用水を残すための方策と法律の壁

Q「日野の農業は生産農業ではなく、環境農業やコミュニティ農業として少しずつ定着しつつあるように思います。思考を切り替えることで、都市近郊の農業や用水の在り方を、市民は的確に認識できるのではないかと思うのですが」

高木さん「法的には農業用水以外の水利権は認められていませんが、水利権に風穴を開けるという観点からは、暮らしの近くに水があることで憩いや安らぎをもたらす環境用水や地域の生活用水という役割が考えられます。日野市では消防署と協定を結び、防火用水という位置づけにもなっています」

佐藤さん「熱心な農業者はいますから、日野の農業は産業ではないとは言い切れません。今の法制度のなかで、農地を残せる有意義な制度として農業体験農園があります。農業者が経営の一環として種や農機具を用意し農業指導もする代わりに、契約する市民から1区画4万円を受け取るというものです。これだと相続納税猶予制度が受けられます。後継者がいる農業者はそうやって支えられますが、高齢で後継者もいない農地をどうするかが大きな悩みの種です。
 この問題は、農林水産省、都市計画をする国土交通省、相続税を管理する財務省が三位一体となって考えなければならないことだと思います。農地が減少していったのは、都市計画法によって都市にある農地が市街化区域になったのがひとつの原因だと思っています。宅地はいらない、農地がほしいと声をあげる市民を育てないと、法律は変わらないと思います」

求められる新たな管理方法

Q「工場の撤退が進むなか、用水路の維持管理は財政的に大丈夫でしょうか」

高木さん「維持管理費は非常に厳しいです。水田や畑があった頃は農家の方が担っていた部分がありましたが、農地がなくなって市で管理しなければならない場所が近年増加し、仕事量が増えました。その一方で予算は減っています。用水守制度のような新しい水辺管理、緑地管理の方法を生み出していかなければならない時期に来ているのかなと思います」

日野の宝、水と緑を活かすために

Q「これは市長にお答えいただきたいことなのですが(笑)、日野市は用水路を最終的にどう活かす、というコンセプトはありますか」

高木さん「では市長に代わって(笑)。具体的にはありませんが、用水は日野の宝であるという方向性はあります。市民も市当局も、日野の魅力は水と緑だという思いは同じだと感じています。宝をどう活かすかは簡単に答えは出せませんが、近隣の市のように都市化を進めても追いつけるものではありませんから、かえって田舎臭さを全面に出すことが大切かなと私は思っています」

長野さん「私たちが行政との連携事業までやれたのは、行政も農地や用水路をなんとか残したいという思いがあるからだと感じています。しかし、都市計画法や相続税などの法律が変わらない限り、農家が田んぼや畑を守るのは容易ではありません。みんなで農地を共有していく以外に道はないのかなとも思います。市民が農地を支えていくには、市民の農への理解が必要です。そのためには地道な活動を続けていくしかありません。用水も同じです」

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参加者の声から

東京郊外に農村の原風景がこんなふうに残っているとは! 用水路が場面場面で様々な表情を持っている点が印象的でした。(40代男性)

土方フミさんの農家のお話は身につまされました。新住人は「郷に入りては……」の精神を少しでも考えてほしい。(40代女性)

法政の研究者・学生、市役所の高木さん、そして市民の協働はシナジー効果があるなあとつくづく思いました。

工業都市の末期? とのことですが、残った工業と日野市の農業が共存していってもらえると良いと思いました。(40代女性)

農業用水が現役で稼働していることに驚きました。将来における農家の実需と「水の郷」の保全のバランスをどう考えるか……。(50代男性)

宅地開発が現在進行形でさらに進んでいるという現実……。用水は残ってこそその価値も発信できると思います。(40代女性)

日野に越してきて日が浅く、知らないことばかり。特に日野市の経年変化に関する部分は勉強になりました。(女性)

せせらぎ農園、水車活用プロジェクトのその後を追いかけてほしい。例えば、せせらぎ農園がぶつかっている問題をどう解決するかなど。(70代女性)

せせらぎ農園のつくって、食べて、ごみで育てるサイクルは農業のポイント。昔のように人糞も利用できると食物連鎖になるけれど難しいか……。さらに農を中心としたコミュニティ、農や土は人間の原点かも。私の住まいの近くにこんなにすごい活動があったとは!(50代男性)

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まとめ〜これからの都市農業と水環境

 市民、研究者、行政が連携して水と緑の保全を行なっている日野市。市外からの参加者がうらやましく思うような活動を知ると同時に、都市部での農地や用水路の維持管理の難しさもみえてきました。そこには法律の壁もあります。

 今回の里川文化塾には日野塾で学んだ方のご参加もありました。「外からの視点」による刺激が、日野の宝をさらに磨く契機となれば幸いです。水の郷・日野の「農」の価値を再発見するさまざまな実践は、私たちの「懐かしい未来」につながっているように思いました。

(文責:ミツカン水の文化センター)

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