里川文化塾
開催レポート

第14回里川文化塾 大久保長安・八王子の治水とまちづくり

 ミツカン水の文化センターでは、「使いながら守る水循環」を学ぶワークショップ「里川文化塾」を行なっています。  第14回は、大久保長安が築いた宿場町〈八王子〉の成り立ちと風土を検証しました。大久保長安が八王子で行なった治水と利水とまちづくりを例に取り、地域の宝を掘り起こし、どう生かしていくかについて一緒に考える機会となりました。

実施概要

日時
2013年9月7日(土)9:30〜16:00
会場
【フィールドワーク】JR西八王子駅〜浅川周辺
【ワークショップ】八王子市芸術文化会館〈いちょうホール〉
参加者数
28名
福島忠治

ナビゲーター

大久保長安の会
福島 忠治 ふくしま ちゅうじ

1993年に「石川地域住民協議会」設立に参画。(総務部長、広報部長、事務局長、副会長歴任)。2013年退会。2009年「長安研究会」設立に参画。2010年「とんとんむかしの会」の八王子市市民活動補助金事業「知っていますか、長安を・・・」に副会長として参画。2011年「大久保長安の会」設立に参画、副会長。長安歿後400年記念事業を推進。現在も副会長として活動中。

吉田美江

ナビゲーター

高尾山とんとんむかし語り部の会
吉田 美江 よしだ よしえ

1983年~2011年「とんとんむかしの会」会長。多摩・八王子周辺に伝わる昔話・伝説の研究。この間、2010年に大久保長安の復権を願って、広く市民に知らせる活動をする。2011年「大久保長安の会」の会員となる。日本民俗学会会員。2002年菊地正師によって創設された「高尾山とんとんむかし語り部の会」会員となる。2010年~現在・会長。八王子の昔話・伝説の語り部として活動中。

鈴木泰

ナビゲーター

浅川流域市民フォーラム
大久保長安の会
鈴木 泰 すずき やすし

浅川流域市民フォーラム、大久保長安の会 1993年第9回水郷水都全国会議たま大会事務局、八王子ランドマーク研究会、浅川流域市民フォーラム、浅川流域連絡会、大久保長安の会に所属。

諏訪祥子

ゲスト

浅川流域市民フォーラム
諏訪 祥子 すわ さちこ

2000年設立時から事務局。浅川流域連絡会に団体委員として参加。全国水環境マップ実行委員。

プログラムリーダー

ミツカン水の文化センター機関誌『水の文化』編集長
賀川 一枝 かがわ かずえ

大久保長安ってどんな人?

福島忠治さん

ナビゲーター
福島 忠治さん

「大久保長安を語り尽くそうと思ったら、2時間あっても足りません」と福島さん。八王子における大久保長安の働きに限定し、八王子に来る前の長安の足跡からたどっていただきました。

1 大久保長安の前歴

「長安は祖父の代までは大和・奈良の春日神社に奉仕する金春流(こんぱるりゅう)猿楽師。金春流の宗家は四世紀はじめごろ百済から来た渡来人 秦氏(はた)氏といわれますから、長安の先祖は秦氏ということになります。父が大蔵流として一派を起し、父親と兄と共に大和から甲斐の国に入り、父は猿楽衆、兄と長安は猿楽衆見習いとして武田信玄に仕えます。

 戦国の国々を旅して荒れ果てた田畑を見てきた長安が、甲斐の国に入って驚いたのは、治水対策が進んでいて領民の生活が確保されていることでした。長安は、城主武田信玄が戦いに強いだけではなく、領民を大切にすることに感銘を受けたものと思われます」

 時代は、信玄が釜無川に信玄堤をつくっているころだった、福島さんは言います。

「長安は猿楽衆見習をしながら、14才のころから治水事業に取り憑かれていきます。やがて蔵前衆組頭田辺太郎左衛門に師事。蔵前衆というのは戦いのとき、前戦で戦うのではなく後方で兵站(へいたん)などの補給をする仕事です。長安は蔵前衆に採用され治水対策のノウハウを習得し、黒川金山にも携わりました」

 ところが1582年(天正10)武田氏は滅亡してしまいます。武田遺臣の力を知り尽くしていた徳川家康は、武田遺臣を採用。長安も地方巧者として用いられました。

2 山城から平地の陣屋へ

「長安が来る直前、八王子領主は北条氏照から徳川家康に移っていました。1590年(天正18)6月23日、豊臣秀吉の家臣前田利家・上杉景勝が八王子城を攻撃、北条氏が滅びて、八王子城は落城したのです。

 徳川家康は、大久保長安に代官頭として武州八王子に代官陣屋を置くよう指示。長安は死の町と化した城下町と、山城である八王子城の廃止を決定しました。平地に陣屋を中心としたまちづくりを選んだのは、八王子は関東出入り口であり、徳川家本拠地の西の守り重要地点であること、領民が繁栄するには流通を良くするための道路の整備が必要、といったことなどが考えられます。

 長安は新八王子の中核部として、小門に敷地予測面積約6万2000m²(東西300m余×南北200m余)の陣屋を設置しました。陣屋の西側は千人同心屋敷、東側と西北側は代官屋敷、北側は旧・八王子城下町にあった寺院、南側には寺町をつくり寺院を配置しました。西の端に、現存する産千代稲荷(うぶちよいなり)神社をおき、ここには400年前の井戸が残っています」

西の端に現存する産千代稲荷神社 小門につくられた陣屋の跡

小門につくられた陣屋の跡。西の端には産千代稲荷神社が現存する。



3 大久保長安の人となり

「八王子城下から移った場所は浅川の扇状地。治水対策が最重要課題でした。治水の詳細については鈴木さんのお話を参照してください。

 大久保石見守長安は、
・甲斐国で武田信玄の政治学の基礎技術を習得。
・徳川家康の家臣として八王子・桐生・青梅などのまちづくり。
・石見・佐渡・伊豆などの金山奉行。
・一里塚奉行として道路網整備。
・老中、勘定奉行としても活躍。
 など、徳川幕府創設期において、なくてはならない人物でした。

 かつて敵であった徳川家康に武田家臣が使えるということがしっくりこないという方もおられるかもしれません。しかし、家康にとって長安は敵にはしたくない男でしたし、武田遺臣の人心を掌握できると考えたに違いありません。長安は、信玄の五男 盛信の娘である小督姫ら3人の姫と八王子に逃れてきた五女 松姫(1561〜1616年 のちに信松尼)の面倒をみています。家康に地方巧者として採用されるときも、武田家直系の子を預かっていたことから出頭が遅れたというエピソードがあります。松姫は武田遺臣からなる千人同心の心の拠り所となり、新しい八王子をまとめる求心力ともなったようです」

 福島さんは「〈大久保長安の会〉は、八王子の成り立ちを大久保長安という切り口で解析し、八王子のまちづくりに貢献していきたいと考えています」と言っています。

  • 松姫の像

    松姫の像

  • 武田家の紋が入った墓

    武田家の紋が入った墓

  • 長安がつくった一里塚跡

    竹の鼻には長安がつくった一里塚跡が残る。

  • 松姫の像
  • 武田家の紋が入った墓
  • 長安がつくった一里塚跡


配布資料1

大久保長安どんな人? 八王子のまちづくりと伝承地

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大久保長安ってどんな人?

吉田美江さん

ナビゲーター
吉田 美江さん

浅川水系図

浅川水系図
谷地川、川口川、南浅川、城山川など、多くの支川を集めて流れる浅川の流域。
国土地理院基盤地図情報(縮尺レベル25000)「東京、神奈川」及び、国土交通省国土数値情報「河川データ(平成20年)、高速道路データ(平成23年)、鉄道データ(平成23年)」よりミツカン水の文化センターで作図
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の基盤地図情報を使用した。(承認番号 平25情使、 第525号)

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ワークショップにあたって

 吉田さんは、「八王子は町を囲むように小高い山々に囲まれた、小さな盆地です。小高い山々から湧き出した清水は、中心地の市街地に流れ込み、今も町を潤しています。ときには恐ろしい水害を起こすときもありますが、里に暮らす人々は恵みの水の源泉を山に見て畏れ敬い祀ってきました。そこに八王子というまちのルーツがあります」と言います。

 八王子の地名縁起を説き起こすことから八王子のルーツを見直し、また不幸な経緯で歴史から抹殺された大久保長安について、里人が伝承話になぞらえて語り継いだのではないか、という2点から「八王子ってどんな町?」を語ってくれました。

1 八王子という地名

「一般的に八王子の名の由来は、延喜16年(916)妙行(のちに華厳菩薩)が深沢山(現・城山)の山上に勧請した八王子権現社から始まるといわれています。

 しかし、私はそれ以前から山岳信仰の種が播かれていたと思っています。山から湧き出た沢は豊かな川として下流に流れ、北浅川となって暮らしを支える命の水となることを、里人は知っていたはず。ですから城山に山の神を祀るのは自然なことではないでしょうか。

 かつて由比と呼ばれた城山は馬産の適地でもあり、京都に馬を献上するほどでした。牧の管理者が赴任してきたときに、山の神を祀っていた所に、牧場の鎮守神として日吉神社(日枝神社と同義。かつて日吉はヒエと読まれた)を勧請しました。その後、城山に城を築いた北条氏照も、八王子権現を城の鎮護の神としました。

 八王子城が陥落したのちには、日吉神社は平野部の日吉町に下りてきました。これが今日の午前中のまち歩きで、鈴木さんにご案内いただいた日吉八王子神社です。

 また、北条氏が敗れたときに、ご神体の牛頭天王(ごずてんのう)が川口川を流れ、浅川の合流点で拾い上げられたという伝説もあり、今の横山町の八雲八幡神社伝説の一つになっています。八王子の日吉神社の変遷は、古来からの土地神と支配者の勧請神との交代を表わしているのでしょう。

 こうして八王子の名前は、主が代わっても1200年にわたって代々受け継がれてきました」

2 昔話に託された長安への想い

「北条氏滅亡後の最終的な移転先として、旧・甲州街道と古・川越街道が交差する交通の要地、横山の地が選ばれましたが、そこは大雨が降れば氾濫原と化す浅川の河川敷原野でした。南浅川と浅川の合流点の治水は、今から420年ほど前、この時点で始められました。

 その後の八王子は宿場町として栄え、武州一帯の行政を司る小門陣屋ができて栄えることになります。しかし大久保長安には、江戸幕府転覆を計っていたなどの嫌疑がかけられて死後に裁かれ罪人となったため、八王子では歴史から抹消されました。

 里人にとって長安は、実行力のある代官であり最も頼りになる領主でもあったのです。それで里人は、伝説として不思議な話をつくり出し、長安の名前を出さないようにして伝え続けたのではないでしょうか。怖い話、奇妙な話であればあるほど、残り、語り継がれることを知っていたのでしょう。
 そうして長安が治水工事や灌漑用水池をつくった周辺には、奇妙な話が残されていくことになるのです」

 吉田さんは、南浅川と浅川が合流する少し手前の水無し河原に残る弘法大師のお話や、天正18年(1590年)6月23日、豊臣秀吉の連合軍に攻められて1日で落城してしまった八王子城を最後まで守り抜いた老兵、若い兵、僧侶、神官、女、子ども、年寄りなどの菩提を弔うために赤飯を炊いて供養する赤まんま伝説、大久保長安によって灌漑用水を目的につくられた代官淵の薄気味悪い話など、城山川や南浅川はもちろんのこと、川口川や湯殿川といった浅川流域の昔話を語り継ぐ活動をしています。
(採集された昔話については、詳細版PDFをご覧ください)

最後に

「八王子は繁栄した地域であるのに、人々の継続した歴史観が薄いのは、指導者、支配者が継続されてこなかったからではないだろうかとも思います。支配者が変わるたびに、人々は不安な生活を強いられ、馴れるまでに相当な時間がかかったことでしょう。里人は、話してはならないことを伝承という形で伝え続けきたとしか思えません。

 1882年(明治15)と2013年(平成25)の地図を並べて見ても、土地利用はほとんど変わっていません。400年前に大久保長安が築いた八王子のまちの骨格は、基本的に現在も受け継がれているということです。それは長安が考えたまちづくりの仕組みが、完璧だったことを物語っている気がします。
『心中するなら銚子の海で、駆け落ちするなら八王子・・』と江戸期に謳われた八王子。山からの恵みの水は、命をつないでくれる八王子の宝物でもあります」

八王子の今昔マップ

八王子の今昔マップ
1882年(明治15)と2013年(平成25)の地図を並べて見ても、土地利用はほとんど変わらない。
国土地理院所蔵2万分の1迅速図「八王子駅」1882年(明治15)、国土地理院電子地形図25000「東京都八王子市」2013年(平成25)よりミツカン水の文化センターで作図
この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万分1迅速図及び電子地形図25000を複製したものである。(承認番号 平25情複、 第520号)

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配布資料2

八王子ってどんな町?

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石見土手(いわみどて)と浅川の治水

鈴木泰さん

ナビゲーター
鈴木 泰さん

「今の八王子があるのも、大久保長安が浅川の水を治めて人が住めるように整備してくれたお蔭」と鈴木泰さん。長安の治水思想と、甲州武田から学んだと思われる石見土手についてお話しいただきました。

古記録に残る浅川治水

「1823年に完成した『武蔵名勝図会』に『天正年間に大きな洪水が起こった。南浅川は平岡町付近で浅川と合流していた。大久保石見守(いわみのかみ)長安が長さ1.5〜1.6km、敷9m、高さ2.3mもの大きな堤を築いた』ということが書かれています。この規模の堤防というのは、午前中に見ていただいた水無瀬橋近くの霞堤ぐらいの大きさです」と鈴木さん。

「代々甲州武田家の家臣で、のちに徳川家に仕えた石川家では、1720年(享保5)年4月から今日まで、農事日記を200年以上書き継いでいます。大変貴重な史料でもあるその石川日記にも、南浅川の治水について書かれていますが、そこには小規模な水害しか記録されていません。長安が川を治めて以降、1910年(明治43)8月の水害(『多摩川史』より)まで、八王子宿全体に被害が及ぶような大規模水害は起こっていない、と考えられます。

 吉田さんも福島さんもおっしゃっていましたが、八王子というまちは、河川と道路の骨格が長安によって決められて以来、400年経っても大きな変化がありませんでした。周縁部がスクロール的に広がっているだけで、八王子のまちの基本機能自体は初期から高度に完成されていた、ということができるでしょう」

左岸は遊水地で対応

 右岸に比して、浅川左岸についての古記録はまったくないそうです。それで、鈴木さんは古地図、航空写真、現在の水路などから、当時の様子を推定しているそうです。

「1882年(明治15)の迅速図を見ても、左岸側にはまったく堤防がつくられていませんが、明治時代以降に断続的に堤防がつくられ、特に昭和に入って浅川左岸の大和田付近から中野上町付近まで堤防がつながりました。合わせて支川が直線化されていきますが、これは住宅を守るためではなく、田んぼを守るためです。第二次大戦前後に食糧増産をする必要が生じ、圃場整備が行なわれ、田んぼを遊水池にしておけなくなったからだと思っています。

 南浅川と浅川の合流点から1kmぐらい上流の浅川左岸、楢原町付近には広大な雑木林があって、水防林を兼ねた遊水地と考えられます。実は私は浅川左岸の農家で育ったのですが、土間が無かったんですね。低地の住宅には農家であっても土間のない家が多かったのです。内水氾濫を想定した暮らしの知恵だったのではないでしょうか。

 浅川左岸は河川沿いの低地(遊水地)とその上の台地の境が10m近い高さの崖になっています。この左岸側の高台からくる水を浅川に入れない工夫もありました。崖と浅川の間にある通称清水川という用水路で水を全部受け止めて、左岸側にある川口川に導いています。この水路は浅川から遊水地にあふれた水を、川に戻さないで下流に流す役目もしていたと思われます。

  • 浅川左岸に立ち並ぶ家々

    今は左岸側にも家が建ち並んでいる。

  • 浅川左岸側に豊富に湧く湧水

    左岸側の清水川の辺りは、豊富な湧水にも恵まれる。

  • 浅川左岸に立ち並ぶ家々
  • 浅川左岸側に豊富に湧く湧水


八王子宿付近の浅川右岸

 午前中のまち歩きで案内していただいた場所が、長安が行なった治水の要衝です。

「石見土手と呼ばれる堤防は、遊水地を伴った霞堤という形につくられました。霞堤の切れ口が田町、明神町付近にありました。右岸側の旧大善寺や極楽寺、新町の一里塚などは少し高台になった自然堤防上につくられました。

 地図で浅川と南浅川の合流点を見てください。浅川に南浅川を直角にぶつけるようになっていますね。一番雨が降るとき、つまり梅雨と台風の時期には八王子の雨は南西側から降り始めるのです。ということは高尾山からくる水(南浅川)の流出ほうが早い。陣馬山(浅川の本流)のほうが遅くなる上に流域がはるかに広い。この感覚は八王子に住む人間にとってリアルなものです。これはあくまでも私の想像ですが、先に出てきた南浅川の水の勢いで浅川の水勢を削ぐと考えたから、浅川に南浅川をぶつける形につくったのだと思います。

 この治水を行なった大久保長安たちは、流出時間、流速、水位、流量などを細かくチェックして、このような時間差までも考えた治水計画を立てたのだなあ、と感心させられます」

八王子―水と緑と丘陵のまち

「八王子は、山地の小仏層、平地の上総層群、沖積層、丘陵の関東ローム層という、変化に富んだ地形のおかげで多様な水道(みずみち)に恵まれてきました。

 つい最近も、100万年前のメタセコイア、ステゴドンなどの化石が人が住んでいるすぐそばで見つかっていて、昔から生態系も多様であることがわかります。

 このように多様な地形と生態系が豊かな水を育み、表流水は言うに及ばず、浅層水と深層水にも恵まれていて、治水さえかなえれば豊かな暮らしが営める地だったのです。

 扇状地のメリットを生かして、縄文時代からずっと人の暮らしが続いてきた土地であることを、多くの遺跡が物語っています。

 高尾山の麓の廿里町(とどりまち)は、横浜、川越へ10里、江戸へ12里に位置します。10里というのは、当時の足早の人が1日で行かれる距離です。つまり海、山、平野の交差点に位置しているのです。

 八王子は、宿場と商工都市を兼ねた都市として始まり、今では56万人の人口を支えるまでになりました。八王子の治水と道路のプラン、今日につながる最初の都市計画をつくったのが大久保長安たちなんだ、と思います」

配布資料3

石見土手と浅川の治水

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鈴木泰さんによる八王子巡り
(西八王子駅~大横町)

 武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを認識していた大久保長安(1545〜1613年)は、西からの攻めに備える要衝として、浅川の氾濫原だった八王子を巧みな治水術で治め、陣屋を置いて宿場町の建設を進めました。今も残る霞堤の跡をはじめ、長安のまちづくりの思想を鈴木泰さんにご案内いただきました。

八王子巡りルートマップ

八王子巡りルートマップ
国土地理院基盤地図情報(縮尺レベル2500)「東京都八王子市」よりミツカン水の文化センターで作図
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の基盤地図情報を使用した。(承認番号 平25情使、 第525号)

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千人町と馬場横丁

 現在の甲州街道(国道20号)西八王子駅東交差点から最初のポイントである宗格院までの道を馬場横丁というのは、宗格院の北側に八王子千人同心の馬場があったからです。ここの交差点にある山梨中央銀行の側には「馬場横丁の碑」が立っています。

 甲州街道に直角に合流する道を横丁と呼び、馬場横丁は一番上(かみ 上流)の横丁です。

 この辺りの地名は、今でも千人町。千人町というのは、西からの攻めに備える要衝として八王子のまちをつくった大久保長安が、旧武田家臣団を中心として創設した八王子千人同心(はじめは八王子五百人同心)の名残です。

 千人町には、10人の千人頭と組頭が住んでいました。千人頭の下には100人の隊員がついていて、100人の中から組頭を選びましたから、組頭も10人おりました。その千人頭と組頭が住んでいたそうです。

 八王子は幕府の直轄地でしたから、千人頭は旗本。江戸幕府が崩壊したあとは、千人頭は土地を全部返上して静岡に行ってしまいましたので、千人町には千人頭の子孫は一人も残っていません。一方、組頭以下は百姓身分でしたので、自分の屋敷を持っていました。ここが江戸時代の身分制度の面白いところで、武士は財産を持たずに禄(ろく)といって給料でもらい、土地を私有しなかったから、こうした現象が起きました。

八王子市千人町の案内

地名に千人同心の記憶が残されている。



水無し河原下流の河道付け替え

 南浅川のこの辺りは、水無し河原といわれていました。

 水無瀬(みなせ)橋が架かっている地点から下流を見ればわかる通り、浅川は大きく左にカーブし、浅川本流に対して直角に合流しています。

 上流を振り返ると、左岸側に岬のように丘が突き出しているのが見えます。丘が流れを抑えますから、右岸側に土手をつくれば、流れを西に振ることができます。流れを西に振ったのは、八王子の中心部に洪水被害が及ばないようにするためです。そのために水無瀬橋の下流右岸側に頑丈な堤防をつくったのではないか、と思われます。

 今は堤防が非常に高くなっていますが、この工事は上流に大正天皇の多摩陵を整備したあとに行なわれたものです。河川改修によって川底を掘り下げて出てきた土を、堤防の嵩上げに使ったようです。だいたい1934年(昭和9)あたりのことで、そのため改修以前と今とでは、川の様子がまったく違っています。

 この地点で水は地下に伏流しますが、東の方角に流れ続け、町中で伏流水として再び地表に表れてきます。江戸期には、甲州街道八王子宿として栄えた町の生活用水は、その地下水を汲み上げて使っていました。甲州街道の真ん中には、何基もの井戸があったそうです。

 掘り下げる前の水無し河原は、浅い扇状地で石がゴロゴロしていました。渇水期には水がなくなり、そのような川には弘法大師の伝説があるもので、ここにも昔話が残っています。

  • 水無瀬橋が架かる現在の水無し河原付近

    水無瀬橋が架かる現在の水無し河原付近。川を掘り下げ、そこで出た土を盛り上げて堤防の嵩上げをしたので、昔とはまったく違った地形になっている

  • 水無瀬橋から下流は南浅川が向きを変えて流れている

    水無瀬橋から下流は、南浅川が向きを変えて流れているのがわかる。

  • 水無瀬橋が架かる現在の水無し河原付近
  • 水無瀬橋から下流は南浅川が向きを変えて流れている


コラム 水無し河原の弘法大師伝説

 旅のみすぼらしい坊さまが、川を通りかかった。長旅で喉の渇きを覚え、川のほとりにある一軒の茅屋に立ち寄り水をくだされと頼んだ。しかし、この家の老婆は、坊さまを一瞥すると、くれる水はないと冷たく断った。すると、坊さまは悲しそうなお顔をされて、川のほとりでなにごとかつぶやいて立ち去ったそうじゃ。これより、いままで滔々と流れていた浅川の水はこのとき限り干枯れ、ついに水無河川になったんだと。

宗格院・石見土手

 良价山宗格院(りょうかいざん そうかくいん)は曹洞宗のお寺で、400年ほどの歴史があります。

 六角地蔵堂には咳地蔵がお祀りされ、お酒を供えると咳の病が治る、と信仰を集めています。宗格院の開基・山本忠房の娘の名が〈せき〉だったから、という説も聞きますが、私は〈せき〉は堰ではないかと考えています。

 八王子には他所に咳守稲荷というのもあり、どちらも川の治水のポイントにあることから、堰が咳に転じ、もともとは治水の何かが祀られていたのではないか、と睨んでいます。

 宗格院の石見土手は、八王子市史跡です。水防のためにつくられた本来の土手ではなく、遊水池である千人同心の馬場とお寺の間を仕切っていたものだと思われます。馬場ですから大水のときに水があふれてもそれほど困らない、つまり遊水池として使われていたと思われますから、残っているのは案外規模の小さい石垣のようなものです。

宗格院
説明をする鈴木さん 石垣のような石見土手

八王子市の史跡だが、思ったより規模が小さい石見土手。その理由は、本川の治水の土手ではなく、遊水池である馬場と寺の境界に設けられたものだからのようだ。



水無瀬橋付近に残る霞堤

 古地図を見ると、3カ所に川除(かわよけ)と書かれています。甲州流の信玄堤と同じ方法でつくられている霞堤は、現在は2カ所にその名残が確認できます。

 大久保長安はもともと武田信玄に仕えていましたし、信玄堤をつくっていた時期には現地にいましたから、その技術を継承していたと思って間違いありません。

 宗格院の八王子市史跡の石見土手は小さいものでしたが、こちらに残る霞堤は、本川の治水のための川除(かわよけ)土手です。しかし、史跡にも指定されていませんので、存在もあまり知られていません。

 霞堤の切れた地点に残っている水路は、内側に向かっている導水路です。霞堤というのは堤防が切れている部分から大水のときにあふれさせることで堤防が決壊することを防ぐものですが、あふれさせるだけでなく、水が引いてきたときには速やかに排水できるようになっています。

 普段は農業用水路としても使われていました。導水路であり排水路であり農業用水路。同様に、遊水池であり田んぼや馬場。一つのものにたくさんの役割をさせるのは、近代治水と一番異なっている点ですね。単機能のものはつくらないのです。

 霞堤の一番の利点は、あふれたときに木石が入らないことです。流速が落ちた水がジワジワ上がっていくというあふれ方なので、堤防の裏側に木石が入らないのですね。普段は田畑に使っている場所ですから、そのことは非常に重要な意味を持ちます。しかも肥えた土は入ってきますから、翌年は作物にとって良い影響がある、といわれています。

  • 1930年(昭和5)発行の地図

    1930年(昭和5)発行の地図と地形を見比べてみた。南浅川の右岸側には、強固な堤防が霞堤の様式でつくられていたことがわかりる。

  • 堤防の切れ目に建つ家や木

    今は堤防の切れ目に家や木が建っている。

  • 導水路の名残り

    排水路であり用水路でもあった、導水路の名残り。

  • 1930年(昭和5)発行の地図
  • 堤防の切れ目に建つ家や木
  • 導水路の名残り


日吉八王子神社と鮎塚

 八王子城は小田原北条氏最大の支城でしたが、1590年(天正18)に豊臣秀吉の小田原攻めの際に、上杉景勝と前田利家の軍勢に攻められ落城しています。日吉八王子神社は、北条氏が滅んだときに八王子城に立てこもっていた山伏の子孫が代々維持してきた神社で、社紋は北条氏の紋、ミツウロコです。

 こんなに小さい神社ですが八王子の総鎮守と言われています。江戸時代から、ずっと小さい神社でしたが。それはきっと、北条氏との関係からなのだろうなあ、と思います。

 ここには鮎塚があって、浅川で昔はおいしい鮎が捕れたという証拠です。最近では、水質が良くなったこともあり、日野の辺りまで天然鮎が遡上するようになりました。東京都の職員は、「高尾山まで遡上させたい」と言っているそうです。

日吉八王子神社 日吉八王子神社のミツウロコの御紋

日吉八王子神社は北条氏に所縁のある神社。御紋はミツウロコ。

浅川で豊富に捕れた鮎を供養するための鮎塚

浅川で豊富に捕れた鮎を供養するための鮎塚。



南浅川と浅川の合流点

 八王子は西から東に傾斜しているので、もしも浅川があふれると甲州街道の方向に水が流れていきます。浅川は200分の1〜250分の1の勾配で、渓流河道に近い急流ですから、増水したらあっという間に町中に水がくる恐れがあります。実際、1910年(明治43)と1947年(昭和22)のカスリーン台風のときに、石見土手が切れて甲州街道に水がいっています。

 南浅川の合流点より少し上流に、城山川という支流が合流していますが、これも第二次世界大戦前後に付け替えられています。勢いのある浅川本流の水を、城山川と南浅川を直角にぶつけることで向こう岸に押しやろうとしたと思われます。

 浅川の左岸川は、明治時代の地図を見ると堤防がほとんどありません。川原から少し離れた所が高台になっているので、それで不都合はないのです。江戸時代には、浅川からいったんあふれた水も高台から流れ出た水も宿場付近では浅川に戻さないように水路でずっと大和田橋の下流まで持っていく、という念の入った治水を行なっています。

 それほど暴れ川だった浅川の扇状地の平地に、八王子城が陥落してから出てきたのは、まちをつくるために広さが欲しかったからだといわれています。私はその理由は、軍事目的だったのかもしれないと思っています。豊臣と徳川が対峙したときに、陣を敷けるぐらいの面積が必要だったのではないでしょうか。

南浅川が浅川と合流する地点

この地点を治めることの難しさを想像させる床固めやコンクリートブロック 河川管理者が変わることを示す看板

南浅川が浅川と合流する地点。床固めやコンクリートブロックを見ると、この地点を治めることの難しさが想像できる。ここから河川管理者が変わる。

急流の暴れ川 浅川

急流の暴れ川 浅川



八王子の近代浄水場跡

 川を直角に曲げたことによって、表流水は西に押しやられましたけれど、地下水は伏流しています。それで1929年(昭和4)に多摩地域では一番最初の近代水道が八王子につくられました。伏流水を緩速濾過の池で浄化して利用しました。同じときにつくられたポンプ場は、現在でも現役で使われています。

立派な造りのポンプ場

立派な造りのポンプ場。多摩地域で最初の近代水道を実現したのは、浅川の伏流水の存在だった。



萩原橋そば河川敷の湧水、ワンド

 八王子内の浅川に架かる橋で、唯一個人名がつくのが萩原橋です。萩原彦七さんは、八王子初の機械製糸工場を創業した豪商で、1901年(明治34)架橋の経費を地元民250名とともに寄付しました。橋を架けた年に経営が悪化し、諏訪の片倉製糸に会社を買収されています。

 一時期は、官営富岡製糸場よりも釜数が多かったといわれ、日本一の製糸工場といわれました。

 八王子は水路も多く湧水も豊富で、水車があちこちにつくられたのは、水の恵みの側面です。地場産業の繊維産業で水車動力が利用されました。織りの作業に関しては電気や蒸気機関がくるまでは機械化できませんでしたが、撚糸、つまり糸縒(よ)り作業の分野で水車動力は大いに貢献しています。

 この場所が、南浅川が浅川に合流する本来の場所でした。300mほど上流に川を付け替えているのです。江戸時代に川が蛇行していたのは、技術的に遅れていたからでなく、蛇行することが当時の論理では合理的だったから真っ直ぐにする必要を感じていなかったからです。真っ直ぐにしようと思えば、400年前でもこれぐらいのことはできてしまいます。

萩原橋の下に集まる参加者

萩原橋の下に集まって、橋の名前の由来をうかがった。



 では、諏訪さんにワンドの生物について話してもらいます。

諏訪祥子さん

浅川流域市民フォーラム
諏訪 祥子さん

少し前の浅川

 身近な水環境の全国一斉調査が始まって、今年6月で10回目を迎えました。私たち〈浅川流域市民フォーラム〉は、初回から参加して浅川水質マップを発行しています。

 1999年(平成11)、今から約15年前、浅川流域の川が東京都内水質ワースト10の中にいくつも入っている、という時期がありました。南浅川をはじめ、城山川、湯殿川、谷地川なども入っています。「多摩川が汚いのは浅川のせいだ」と言われたほどでした。

 それが今はとてもきれいになっています。

 その背景には、身近な水環境の全国一斉調査が始まった10年ぐらい前から、八王子市が下水道整備を大急ぎで進めたことがあります。今では下水道普及率が100%になって、下水道課がなくなって水循環室になっています。

 その結果、2011年(平成23)の環境省の公共用水域水質測定結果では、水質改善上位河川ランキングのトップ3を八王子市内河川が独占しました。

 以前はヘドロも臭いもすごかったし、犬が川の水を飲んでいると「そんな水を飲んだら、犬が病気になるよ」と言われるほどでしたが、本当にきれいになって多くの人が川に入って遊ぶようになりました。

  • この日浅川で行われていたガサガサ探検の様子

    この日も浅川ではガサガサ探検が行なわれていた。汚かった浅川にも、たくさんの生きものが帰ってきた。

  • この日浅川で行われていたガサガサ探検の様子

    この日も浅川ではガサガサ探検が行なわれていた。汚かった浅川にも、たくさんの生きものが帰ってきた。

  • この日浅川で行われていたガサガサ探検の様子
  • この日浅川で行われていたガサガサ探検の様子


水質改善の次の課題

 ワンドは生物の隠れ場所としては、もってこいの環境です。しかし、長いこと氾濫もないので澪筋(みおすじ)も固定され、本流との水の行き来がなくなって、土が泥質になってしまいました。ずっと生物調査をしていたのですが、今は魚もいなくてアメリカザリガニしかいない環境になってしまったので、おととしでワンドの生物調査はやめにしました。

 全体としては生態系も復活してきて、今年のガサガサ探検隊ではモクズガニが4匹も採れたり、ジュズカケハゼがごく普通に採れたりするまでになっています。浅川橋の所は川の落差溝がきつくて魚が行き来できなかったのですが、魚道をつけたことでアユが上がってくるようになりました。

 水質は改善されたのですが、次の課題は水涸れです。今年は八王子に限らず全国的なことだろうと思いますが、浅川水質マップに初めて〈水がれ〉のマークが登場しました。南浅川の上流にある多摩御陵から浅川との合流地点まで、ずっと水がない異常事態となりました。

 川口川は清水公園で水が入るので、ここから下流には水があるのですが、清水公園から3kmほど上流までの区間、ずっと水が涸れていました。ここは去年も一昨年も10月以降、冬の期間はずっと水がありませんでした。

 上中流部に水がないというのは大変な問題だと思います。水量調査などを市民で行なって、原因を解明し、対策を講じたいと思います。

  • 生物の隠れ場所にもってこいのワンド

    生物の隠れ場所にもってこいのワンド

  • 浅川水質マップ

    浅川水質マップ10年目にして、初めて登場した〈水がれマーク〉。

  • 生物の隠れ場所にもってこいのワンド
  • 浅川水質マップ
水天宮と大善寺跡

 八王子には水天宮は少ないので、大横町の水天宮は貴重な水の神様です。1945年(昭和20)の八王子空襲のときにも焼かれなかったので、建物自体は明治時代のものです。

 大横町には、八王子で一番大きな大善寺というお寺もありましたが、1961年(昭和36)八王子の大谷町という所に引っ越してしまいました。跡地は〈コニカミノルタサイエンスドーム〉などになっています。この近辺で一番賑やかな祭りである〈お十夜祭〉も行なわれ、大横町の大善寺として親しまれてきました。

 大善寺があったのは自然堤防の上で、少し高台になっていて水がかぶらない場所です。これから行く極楽寺とともに、八王子の治水の要衝に大きな寺を二つつくるというまちづくりを行なっています。

大善寺

大善寺と水天宮は、かつての霞堤のそばにあり、治水の要衝に建てられたことがわかる。八王子空襲で焼けなかった明治時代の建物だそうだ。



時宗の宝樹寺と閻魔堂

 珍しい時宗のお寺です。閻魔堂の中には大きな閻魔様が鎮座しています。

焔魔堂の閻魔様

焔魔堂には、たくさんの部下を従えて、迫力のある閻魔様が鎮座していた。同じ敷地内にお稲荷さんもある。



極楽寺と浅川橋付近の石見土手

 極楽寺は享保(1716〜1735年)の建物で、八王子市街地では一番古いものになります。御朱印15石をいただき、葵の御紋が許されています。

 極楽寺は自然堤防の上にあって、一度も水をかぶったことがありません。

 400年も続く寺なので、八王子にとって重要な人のお墓もたくさんあります。八王子宿をつくるのに貢献したといわれる川島(長田)作左衛門の墓もあります。

 石見土手(霞堤)というと南浅川の水無瀬橋の辺りばかりが注目されていますが、実は極楽寺の裏手も石見土手と呼ばれていました。現在、田町という地名が残るところは明らかに湧水地で、今も水路がたくさん巡っています。極楽寺には欅や竹がたくさん残っていますが、それらは土手に水防用に植えられたものです。

 ですからお寺を境にしてその外(川側)は遊水地だったのですが、今は家が建ち並んでしまいました。もちろん、霞堤をふさいで新しい堤防がつくられましたから、水が出るようなことはありませんけれど。それでも比較的古い時代に建てられた家は、遊水池であることを意識して石垣で家を守ったり工夫しています。

 大善寺はもともと北条氏によって滝山城下に建立され、元の八王子城下に移って戦火にあい、大久保長安が大横町に持ってきました。40年間ほどの間に3回移って、その後は400年間同じ場所にあります。

 長安は宗教を大変尊重しました。大和の国奉行のときにも、社寺に対する保護をずいぶん行なっています。春日大社の修繕を徳川幕府でできなかったときに、大和の国奉行の私費で鳥居を寄贈したりしています。非常に科学的な考え方の人であったと同時に、信仰心にも篤い人です。

 この寺の前の通りは、今は16号線ですが、当時は北関東に向かう川越道だったのです。千人同心が日光に火の番で行くための日光道でもありました。八王子から南に向かう道は横浜道とか浜街道と呼ばれ、合わせて現在の国道16号線になります。その川越道と浜街道が甲州街道とぶつかるのが八王子の宿でした。

 その主要道路のこちら側に極楽寺、反対側に大善寺を置いて挟みうち状態にし、そのほかにも小さいお寺を宿の周辺にたくさん置いて、軍事上の拠点にしたのではないのでしょうか。

  • 極楽寺の山門

    極楽寺の山門

  • 葵の御紋

    葵の御紋

  • 川島(長田)作左衛門らの墓

    川島(長田)作左衛門らの墓

  • 境内に生える欅(けやき)や竹

    境内に生える欅(けやき)や竹は、水防林と見ることができる。

  • 浅川橋から1本目の路地

    浅川橋から1本目の路地

  • 路地の下から見上げると正面に浅川が見える

    路地の下から見上げると正面に浅川が見える

  • 路地の上から見下ろす右手は極楽寺の裏手

    路地の上から見下ろす右手は極楽寺の裏手

  • 極楽寺の山門
  • 葵の御紋
  • 川島(長田)作左衛門らの墓
  • 境内に生える欅(けやき)や竹
  • 浅川橋から1本目の路地
  • 路地の下から見上げると正面に浅川が見える
  • 路地の上から見下ろす右手は極楽寺の裏手


大久保塚

 こちらの静教保育園の中に大久保塚があります。今は塚というよりは、碑がわずかに残っているだけですが、塚があったといわれています。昔は松の木が立っていたそうです。市立保育園用地内なので見ることはできません。

静教保育園の外で大久保塚の説明を聞く

大久保塚があった場所に、明治になって御嶽山という碑が建てられ、子どもたちは「上に乗らないように」と教えられたそうだ。



田町遊郭跡地

 遊水池のあとにつくられた田町遊郭の跡です。1958年(昭和33)の売春防止法施行まで存在した田町遊郭跡地で、東京都内で唯一、戦前の遊郭建築が残っている所です。30年ほど前までは中央に柳の木が植わっていて、両側が道路でした。今はこのように風情のない普通の大通りになってしまいました。

 八王子宿には横山宿、八日市宿、八幡宿など15の宿場があって、正式に飯盛女郎を置くことが許されていない宿でもこっそり営業をしていたようです。

 1893年(明治26)に遊郭から出火し、八日町、本町を焼く大火があり、これをきっかけとして、甲州街道に面した表通りは商業地、宿泊を伴う旅館や飲食業は八王子駅周辺、女性の接待を伴うものは北側、という都市整備を行ないました。それでもとは浦田といわれていた元横山町妙薬寺裏の田地(今の田町)に八王子遊郭が移されました。

 明治に入って、なんでわざわざ遊郭を、といいますと、ここからの税収が自治体の収入の3割ぐらいを占めるほどで重要な財源だったのです。

 第二次大戦のときに、この辺りは焼けませんでしたので、八王子空襲の傷病人の収容施設に使われました。広いし、部屋がたくさんありますから。遊女さんたちが臨時の看護婦になって介護したそうです。

 40年前、私が高校生だったときにはまだこの両側に旧遊郭の建物がずらっと残っていましたが、今は3軒ほどになってしまいました。

 三業というのは、芸者の置屋、待合と料亭で、これらは八王子駅周辺に三業地としてまだ残っています。八王子には芸者さんもまだ17〜18人おられます。

かつて両側に旧遊郭の建物がずらっと建ち並んだ大通り

この広い大通りは、かつて中央に柳の木が植えられていて、両側に道があった。遊郭建築は3軒残っているが、個人所有なのでなくなってしまう可能性が高いそう。これだけの遊郭が栄えたことが、八王子宿の隆盛を物語る。

パネルディスカッション

活動を始めた、それぞれの動機

 コーディネーターのみなさんに、どういう経緯で現在の活動を始めるようになったのかうかがいました。

吉田さん 1983年(昭和58)に民俗学者の菊池正先生と出会ったことが、活動を始めたきっかけです。菊池先生は八王子中から民俗的なお話を採集され、市民に伝える活動をしておられました。それで〈とんとんむかしの会〉という会を二人で立ち上げました。菊池先生も亡くなられ、会も3年前にいったん解散しております。
 その中で大久保長安に関する昔話に出合って、「この人は八王子であまり知られていないけれど大切だよね」と会の人たちと話し合って〈大久保長安って知っていますか?〉という活動を始めました。それが発展して〈大久保長安の会〉ができました。

福島さん 市民がスポーツを通じて体力づくりをするための市民センターを石川という所につくるときに、運営を地域住民に任されたのが20年ほど前のことです。私はそこで働くうちに人と接することの楽しさを覚え、〈とんとんむかしの会〉にも入りました。滝山城のそばで生まれ育ったこと、郷土史家だった叔父さんの影響を受けたこともあって歴史好き。樋口豊治先生という方に出会ったことをきっかけに、大久保長安の重要性を知って7〜8人で〈大久保長安の会〉を立ち上げました。
 まちづくりの根本は、地域の力を上げることじゃないかな、と思っています。大久保長安は、そのための求心力になっています。今年(2013年〈平成25〉)は大久保長安没後400年。記念式典も盛大に行なうことができました。

諏訪さん 長男が小学生のころ犬を飼うようになって、川によく散歩に行きました。臭うし汚いしで、どこに訴えたらいいのかわからず、たまたま生協に入っていたので生活者ネットワークに「なんとかしてほしい」と訴えたところ、言い出した人が何とかしないと、ということになって、環境について勉強しなさい、とあちこちに行かされました。
〈浅川流域市民フォーラム〉の前身〈浅川流域連絡会〉を立ち上げるときに、20年以上川の活動を続けているみなさんに混じって、何もわからない私が事務局をやることになりました。後ろを振り向いたら、後釜になってくれる人が誰もいなくてずっと事務局をやっています。

鈴木さん 植物を育てるのが好きで、育てたり観察したりしてきました。その内、環境問題に興味を持つようになり、友人に川の運動に引っ張られ〈水郷水都全国大会〉の多摩大会をやるときに事務局を引き受けることになりました。
 その後、職場の八王子市役所で土木の部署に就くことになり、地図情報システムを立ち上げる仕事にかかわって、5年間ぐらい八王子の地図ばかりを見て過ごしました。石見土手とかいう言葉を見たことで、中学生時代に一度封印した郷土史少年の血が再び騒ぎ出しまして。まちというのは、できた必然性があるのですね。それで八王子はなんでできたのか、という疑問が首をもたげてきたのです。八王子のロジックは古くて複雑だからわかりにくいし、謎が多い。その謎の解明に取り込まれてしまった感があります。
『新撰武蔵風土記稿』には「土人曰く」と書いてあります。地誌研究をしている侍が地域に行って土地の人にヒアリングするのですが、それを「土人曰く」と表現するのです。土人というのは今は差別語のようになっていますが、それは単に土地の人という意味なんです。私の親族は多摩地域にしか住んでいませんので、自分のことを「多摩土人」と称してずっと地域のことを研究しています。

質問タイム

 質問の時間には、あまり知られていない大久保長安についての質問がいくつかありました。それに続き、「鈴木さんがあふれさせる治水思想の話をされましたが、八王子の大久保長安モデルが全国の川に影響を与えることがあるでしょうか」という質問がありました。

 鈴木さんからは「50年に一度の洪水に耐えられるように堤防の整備を進めていますが、それにはものすごくお金がかかります。それで絶対に水がこないようにするという発想をやめて、水がきてもいいまちづくりをしてはどうでしょうか。

 遊水池で水を受け止めるのは、発想としては保険そのもの。水があふれた年の収穫は諦めなくてはなりませんが、沃土が入るから翌年は良い収穫が期待できます。人口減少に向かう社会で、空いた土地を遊水池として活用するのは現実的な話になりつつあると思います。堤防の工事に使うお金を、家や命を守るための保険金に使ってもいいですね」という提案がありました。

 災害から身を守るためにも、地域に愛着を持って暮らすためにも、土地の歴史を知ることは意味のあることです。ナビゲーターのみなさんの口からは、さまざまな側面から〈土地の履歴〉にアプローチしてこられたことが語られました。

参加者の感想

フィールドワークをすることで、八王子の町がどのようにつくられてきたかよくわかりました。浅川に治水対策が必要だったとは思いもしませんでした。

浅川の「治水」により、八王子が発展した。その治水事業をした人「大久保長安」だということがよくわかった。

大久保長安の知識技術は、どこで得たものなのか? 不思議に思った。

寺社の多さと歴史の重み、水とのかかわりなど、八王子のことを少し知ることができた。

浅川のワンド復活に向け官民共同で何とかすべき。霞堤があったことに感銘。

時代を超えてその思いや仕事が残り続ける大久保長安という偉人について勉強でき、本日は大変有意義な会でした。「あふれさせる治水」という思想も大変新鮮でした。

地域の人が歴史にくわしいのが印象的だった。

街づくりの根本に水(川)とのつき合いがあり、それが今も伝えられていることに興味を持った。

参加者の印象に残ったキーワード

・街づくり、治水
・霞堤、治水
・ 川と土手の間につくられた「遊水地」
・ 土人曰く。多摩土人。
・ 土人は「土地の人」でニュートラルな言葉。
・ 「領民を大切にした街づくり」というキーワードが印象に残りました。
・ 遊水池の効用
・ 人を大切にする街づくり。
・ 水をもって水を制す。
・ 時間をかけてゆっくり流す。
・ 八王子の街の成り立ち。

最後に

 火事や戦災で何度も焼けた八王子は、当初の構造を引き継いだ町として、灰の中から不死鳥のように再生してきました。江戸時代の始めの町割りのまま現在に続く町というのは、あまり例がないといいます。再生した理由は、権力者や社寺仏閣が中心ではなく、治水と道路と庶民の暮らしを中心に、最初から効率的につくられた町並みだからでは、とナビゲーターのみなさんは言います。
 長安の陣屋に近い商店街が独自に作成して配布したマップが近所の小学校でテキストに採用されるなど、町の骨格をつくった重要な立場にある人物として、大久保長安の再評価が進んでいます。
 大久保長安を媒介にして石見や佐渡、伊豆などとネットワークができたこと、一緒に活動する仲間が増えたこと、地域に愛着を持つことで川の水質改善にも成功したことなど、八王子の地域活動の進展をうかがい、他地域にも応用できたらと思いました。

南浅川の支流、小仏川で飛び込みをしている子供たち

南浅川の支流、小仏川で飛び込みをしている子供たち(駒木野公園付近)。まさに川ガキ復活を体現した子どもたちの様子を、諏訪祥子さんが撮影した。地域の先人の知恵を、こうした子どもたちにも語り継いでいきたいという。



(文責:ミツカン水の文化センター)



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    里川文化塾 開催レポート,福島 忠治,吉田 美江,鈴木 泰,東京都,街づくり,治水,水利用

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