第25回里川文化塾 「忍城(おしじょう)の水利用」

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小説および映画『のぼうの城』で一躍有名になった「忍城(おしじょう)」は、沼地のなかの地形を巧みに活かして建設され、室町時代から明治初年にかけて存在した城です。北武蔵の成田氏が築城したとされ、水郷のなかに点在するその様はまさに要害だったそうです。今回は、豊臣秀吉の命を受けた石田三成による「水攻め」にも屈しなかった「難攻不落の城」を舞台に、井戸や水場など「城にかかわる水利用の知恵」について学びました。

忍城の本丸跡に建てられた三階櫓(模擬)と堀忍城の本丸跡に建てられた三階櫓(模擬)と堀

実施概要

  • 日時
    2016年11月27日(日)9:30〜17:00ごろ
    フィールド
    埼玉県行田市
    講義会場
    行田市郷土博物館(埼玉県行田市本丸17-23)
    参加者数
    32名
    主催
    ミツカン水の文化センター
    協力
    行田市郷土博物館
  • 講師
    西谷 大さん
    澤村 怜薫(さわむら・れいか)さん 行田市郷土博物館 学芸員 1986年(昭和61)神奈川県生まれ。駒澤大学大学院人文科学研究科歴史学専攻 博士後期課程。大和市歴史資料調査会調査員、八街市史編さん委員会近世部会委員、国文学研究資料館収蔵アーカイブズ目録作成業務アルバイトなどを経て2012年(平成24)4月より現職。研究テーマは「近世関東における領主支配と地域形成について」。
    プログラムリーダー
     
    前川 太一郎(まえかわ・たいちろう) ライター・編集者
    ミツカン水の文化センター機関誌『水の文化』編集
    生協職員、業界紙記者を経て編集制作会社に入社。まちづくり・地域活性化をテーマとする広報誌・書籍の編集・執筆を担当。2010年12月に独立し、2014年11月にCrayfish株式会社設立。水にまつわる文化や歴史、まちづくり、東北の復興支援活動、団地再生などを追う。
  • 当日のルート概要「忍城の水利用」ルートマップ

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【午前の部:講義】湿地帯に築かれた城

 午前の部は、忍城址にある行田市郷土博物館で、澤村さんのレクチャーから始まりました。

「忍城がある行田市は、北は利根川、南は荒川がもっとも寄り添う地帯で、関東平野の北のヘリにあたります。バスで来場される際に気がついたかもしれませんが、坂がなくほぼ真っ平らです。この辺は土地が低く湿気の多い低湿地帯と呼ばれる一帯で、地下水や湧水が非常に豊富な地域。そうした土地に忍城はありました」(澤村さん)

 忍城は15世紀後半、当時北武蔵で勢力を拡大していた成田氏という武将によって築城されました。荒川から枝分かれした忍川(おしかわ)が流れ込む沼地にある、中州を利用して建てられた城です。忍城周辺の環境は、利根川と荒川に挟まれた沖積地(注1)。両河川の乱流地帯と言い換えることもできます。澤村さんによれば、その昔、荒川は今より北を流れていたそうで、かつて川が通っていたところ(元荒川)が行田市を包んでいます。そのため地下に水が浸み込み、湧水となって自噴するのです。

「このあたりは、今でも少し土を掘ると水がしみ出してきます。JR高崎線の行田駅から東京寄りに『吹上』という駅があります。これは風が強いからではなく、水が自噴する地域なのでこの名がつきました。非常に古い地名なのです」

 では、忍城はどんな城だったのでしょうか。『天正年間武蔵忍城之図』(図1)という、忍城を描いたもののなかでもっとも古い資料があります。これを見ると、左上から忍川が流れ込み、堀となって四方に巡っているのがわかります。さらに、水は堀にとどまるのではなく、ちゃんと右下の川に抜けることで田んぼを潤す役目を担っていました。ここで澤村さんは1枚の写真を投影しました(図2)。かつて忍城の本丸があった付近を望んだものです。

「この写真は大正5年(1916)に撮影されました。手前に注目すると、葦が水に映っていますね。ということは、ここは沼です。忍城が廃城となってから、少なくとも大正時代までは沼地のまま残っていたことになります」

(注1)沖積地
河川による堆積作用によって形成される平野の一種。沖積平野ともいう。

(図1)「天正年間武蔵忍城之図」個人蔵・行田市郷土博物館寄託
(図1)『天正年間武蔵忍城之図』 個人蔵・行田市郷土博物館寄託

(図2)「大正5年頃の本丸付近写真」行田市郷土博物館蔵(図2)「大正5年頃の本丸付近写真」 行田市郷土博物館蔵

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忍城の水攻めから廃城まで

 歴史が好きな人はご存じだと思いますが、忍城といえば、「水攻め」という有名な出来事があります。作家・和田竜の小説『のぼうの城』のモチーフとなり、映画にもなりました。

 天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに伴い、北条氏に味方する成田氏の居城だった忍城は、石田三成らによって城攻めを受けます。これが俗にいう「忍城攻め」です。忍城を攻めるためにとられた戦法は、利根川水系と荒川水系の水を忍城に流し込み、下流側には堤防を築いて水で沈めてしまおうという「水攻め」でした。城のまわりを水で満たすことで援軍や食料の補充を絶って降参させる戦法です。

 秀吉が水攻めを選んだ理由について、澤村さんは次のように話します。

「秀吉は関東でまだ権力者としてのイメージが浸透していなかったので、関東の武将たちに自らをアピールする必要がありました。水攻めには莫大な費用と膨大な人員がかかります。それを実現することができるという力を見せつけることで、関東の武将の秀吉に対するイメージを変えようとしたのです」

 忍城の水攻めが続けられるなか、北条配下の城は次々に落城していきます。残るは小田原城と忍城のみ。そしてとうとう先に小田原城が開城しました。つまり、忍城は北条方の城郭で豊臣軍の城攻めに唯一屈しなかった城なのです。

「すり鉢状の地形のいちばん下に城がある場合、水攻めは非常に有効ですが、忍城は真っ平らな地形のため、水攻めは効果的な戦法ではなかったのでしょう。結果的に、忍城は北条配下の城で唯一落城しなかったことから、後世に〈難攻不落の城〉〈浮城〉などと称され、ネームバリューが増していきました」

 水攻め以降は、徳川家康の配下である松平家忠が忍城の城代として入城します。家忠は水攻めにより荒廃した忍城の復興に努めますが、まもなく上総国上代(かじろ)というところへ国替えとなります。その後は江戸幕府の老中を輩出していた阿部家が、約185年間忍城の城主を務めました。

 明治に入ると廃藩置県に伴い忍藩はなくなり、明治6年(1873)、廃城令が通達されたことで忍城は廃城となります。

「廃城令では後世に残す城とそうでない城とが選別されました。沼地だった忍城は、残念ながら不要な城と認定されてしまいます。なにしろ沼地なので衛生状況がよくないこと、そして土木技術もまださほどではなかったため住宅を築くのは難しいなどの理由からです。かつて〈難攻不落の城〉の異名をとった忍城も、時代が変わるとその立地が仇になった、というところがまた興味深いですね」

講義を受ける参加者講師の澤村さん左:講義を受ける参加者 右:講師の澤村さん

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城郭における水利用

 忍城の歴史的変遷を理解したところで、澤村さんは戦国期以前と近世以降の城郭でどのように水が使われていたのかを話してくれました。

「戦国期以前の城郭は、『山城(やまじろ)』と『平城(ひらじろ)』に分類されます。山城は、要害となる険しい山や蛇行する河川を利用して築かれた城。平城は平地に築かれた城です。忍城は平城にあたりますが、戦国時代は山城が多く、平城はあまり好まれませんでした。なぜなら、室町〜戦国時代は実際に戦闘することを想定しなければならなかったため、地形を利用した堅固な城郭であることが望ましかったからです」

 山城では、深い井戸を掘ることが多かったようです。さらに清水を蓄える溜池もつくり、これを保護するための「曲輪(くるわ)」(注2)(井戸曲輪ともいう)も設けられていました。

「戦闘時、井戸から汲み上げた水を溜池に保管し、籠城を続けた可能性があります。飲み水が絶えては戦闘を続けることができませんので、安定した水を確保するために深い井戸を掘る必要があったのです。井戸を保護することに手が尽くされたのも、そのためではないでしょうか」

 また、澤村さんは城の中心部に井戸が多かった点をこう指摘します。

「万が一、城に攻め入られて外郭部が敵の手に落ちてしまっても、城の中心部に井戸があれば籠城を続けることができます。もう一つは、城主やその家族が城の中心部で生活していましたから、そのそばに井戸をつくる必要があったのでしょう」

 江戸時代になると戦乱が終息するにあたり、城郭は戦闘を想定したものから、大名の軍備と格式のシンボルへと変わります。城主の格式に応じた城郭の改修も行なわれました。

「戦国時代、城主とその家族は城の中心部だけに住んでいました。ところが、江戸時代になると城郭内で居住空間が広がりをみせたことから、井戸も広い範囲につくられるようになったと思われます」

(注2)曲輪
城や砦の周囲にめぐらして築いた囲いのこと。「郭(くるわ)」も同じ。

山城として知られる鉢形城跡の復元井戸(埼玉県大里郡寄居町)

<参考>
山城として知られる鉢形城跡の復元井戸(埼玉県大里郡寄居町)

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忍城における井戸や水場

 忍城では水がどのような役割を果たしていたのでしょうか。まず「近世前期の水利用」という観点から、澤村さんは説明しました。

「忍城に井戸と水場の絵や痕跡が出てくる資料を集めてみました。もっとも早い段階では江戸時代初期、松平家忠が城主のときに日記を残しています。天正18年(1590)12月に石風呂(蒸し風呂)を建てるという記述がありました。翌年4月には石風呂が火事で焼けていますが、5月には代官所というところに再び蒸し風呂をつくっています。また同年9月には『台所前に井戸を掘る』という水場の記載がありました」

 また、近世前期に描かれた『武州忍城図』、文政年間(1818〜30)に描かれた『武州埼玉郡忍城内外全図』、嘉永年間(1848〜54)に描かれた『武州忍城郭之図』というそれぞれの絵図に、「トウシャウクルワ」や「井戸曲輪」の文字があるそうです。いずれも本丸西側にあることから、「これらはすべて同じ井戸の可能性がある」と澤村さんは言います。

「本丸に近い位置にあることから、この井戸は比較的早い段階でつくられた可能性が高いです。一方で、〈井戸曲輪〉という言葉は数ある忍城の絵図でもあまり出てこないため、後年になると井戸の使用頻度が減った、ということが考えられます」

 では、城内にはどれくらいの井戸や水場があったのでしょうか。澤村さんが『文政年間忍城図』(図4)や『明治六年調製忍城図』(図5)、その他の史料を調べたところ、武家町に井戸が計6カ所、二の丸御殿に井戸が計2カ所、本丸の排水溝跡、武家屋敷内に水桶が1カ所と、実にたくさんの井戸や水場があったことがわかったのです。井戸は涸れると埋め戻し、そのそばに新たな井戸が掘られていたそうです。澤村さんは井戸の埋め戻しに関する興味深いことを教えてくれました。

「井戸を埋める際の儀礼として、『梅』の実と『葦』の葉を入れてから土を被せ(『うめ』て『よし』)、さらに井戸の神様が呼吸できるように竹など棒状のものをさしたそうです」

 一方の「排水溝」は、本丸内に水が溜まるのを防ぐために曲輪内から堀に水を流すための溝です。排水溝を設けるために、もとは板碑として建てられた板状の岩を並べた跡が発掘調査で見つかったそうです。

「水桶」については、忍藩士の尾崎石城が著した『石城日記』(図6)に、興味深い記述がありました。酔っ払って溝に落ちた尾崎石城が体についた泥を洗い流している挿絵から、武家屋敷では井戸から水桶に水を移して利用していたという事実の一端がわかります。

「以上のことから、近世の忍城ではどうやら深刻な水不足に悩まされたことはなかったようです。むしろ忍川から流れ込む堀の水が増水することによる城郭の浸水や、利根川・荒川の氾濫による領内の被害の方が深刻だったといえます。これらの井戸が今どうなっているのかは、城下町が発掘調査の対象になっていないことから、残念ながらわかっていません」

(図4)「文政年間忍城図」個人蔵・行田市郷土博物館寄託
(図4)『文政年間忍城図』個人蔵・行田市郷土博物館寄託 (赤丸は井戸や水場の位置を示す)

(図5)『明治六年調製忍城図』行田市郷土博物館蔵(赤丸は井戸や水場の位置を示す)

『明治六年調製忍城図』行田市郷土博物館蔵(赤丸は井戸や水場の位置を示す)

(図5)『明治六年調製忍城図』
行田市郷土博物館蔵(赤丸は井戸や水場の位置を示す)

左:拡大図

(図6)『石城日記 第四巻(部分)』慶應義塾大学文学部古文書室蔵(図6)『石城日記 第四巻(部分)』慶應義塾大学文学部古文書室蔵

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忍城(忍藩)が担った「水支配」の役割

 元禄15年(1702)、忍城の大改修にともない、忍川が堀に流れ込む箇所に「帯曲輪(おびぐるわ)」と呼ばれる建造物がつくられます(図4参照)。澤村さんによると、帯曲輪がつくられた理由は2つあります。1つは、城下東側の武家地と西側の馬場を結ぶため。もう1つは、忍川から流れ込む水をコントロールして取水量を管理するためです。現に忍川の水流は渦を巻くように激しく、帯曲輪口にかかる橋は、「地獄橋」とも呼ばれていたそうです。帯曲輪ができたことで、忍城における堀の管理は格段に変化しました。

 さらに澤村さんは、こうした水の管理体制は忍城の特徴だと指摘します。忍藩は江戸時代、利根川・荒川沿いの堤防を管理する組合村々を取りまとめるという治水面で重要な役割を果たしていました。また、利根川沿いに設けられた新郷川俣関所の管理も担っていました。新郷川俣関所は、この地の河川・陸上交通の要でした。澤村さんはこう解説します。

「本来は江戸幕府の役割であった、いわば「水支配」を、利根川と荒川のみとはいえ忍藩が担っていたことは、大変異例なことです。忍城・忍藩と水とのかかわりを改めて考えると、忍城は城郭内の水のみ利用・管理していたわけではなく、北武蔵地域という広範囲の統制を江戸幕府から任された重要な城郭であったことがわかります」

講義後、澤村さんに館内を案内してもらい、ジオラマで忍城の立地を学ぶ

講義後、澤村さんに館内を案内してもらい、ジオラマで忍城の立地を学ぶ

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【午後の部:フィールドワーク】「丸墓山古墳」から忍城を望む

 午後の部は、澤村さんに案内していただくフィールドワークです。バスで最初に向かったのは、水攻めの際に石田三成が陣を張ったとされる「丸墓山古墳」。さきたま古墳公園のなかにあります。

 こんもりと盛り上がっている丸墓山古墳に続く並木道は、周囲より少し高くなっています。これが天正18年(1590)6月に石田三成が築いたといわれる堤防、「石田堤」の遺構の一部です。今は断片的に残るだけですが、石田三成らは全長28kmにおよぶ堤防を、わずか一週間でつくり上げたといわれています。

 澤村さんによると、「石田堤が実際にどのくらいの高さがあったのかはわかっていません。というのも、江戸時代ならば仕様書や見積書をつくるので記録も残っているのですが、戦国時代は記録を残す文化がまだ根づいていなかったのです。荒川(元荒川)の自然堤防を巧みにつなぎ合わせてつくっているので、自然堤防に盛土をして、水攻めができる程度の高さにしたと考えられています」とのこと。

参加者の集まっているところが石田堤の遺構の一部。少し高くなっているのがわかる

参加者の集まっているところが石田堤の遺構の一部。少し高くなっているのがわかる

「では古墳に登ってみましょう」と澤村さんが促し、一行は小高い丸墓山古墳の頂上へ向かいます。階段を上り詰めると、行田市と周辺が一望できました。丸墓山古墳の墳丘はさきたま古墳群のなかでいちばん高く、高さは約19mあります。「向こうに忍城が見えますね。そして私たちが今いるこの場所こそ、石田三成が陣を張ったと思われる場所です」と澤村さんが説明します。

「今は住宅がたくさん建っていますが、それでも忍城があった場所は見つけやすいと思います。水攻めが行なわれた当時、この古墳や近くの稲荷山古墳などがもっとも高い場所でした。その次に高かったのが忍城です。そう考えると、この丸墓山古墳に陣を築いたのは、軍略上理に適っていたことになります。実際に忍城と丸墓山古墳の距離を体感していただくと、水攻めにどれほど現実味があると思いますか? 水攻めがなかったとは言いませんが、『水攻めをしようとしたけれどなかなかうまくいかなかった』というのが実情ではないかと私は考えます」

丸墓山古墳を上る参加者

左:丸墓山古墳を上る参加者

下:古墳の頂上から忍城方面を眺める。赤丸が忍城の本丸跡に建てられた三階櫓

古墳の頂上から忍城方面を眺める。赤丸が忍城の本丸跡に建てられた三階櫓

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江戸時代の面影を今に伝える「石田堤」

 再びバスに乗って向かったのは、道路沿いに、松の木が植えられた小高い塚が約250m続く場所です。これも石田堤の遺構で、埼玉県指定史跡に認定されています。丸墓山古墳で見た石田堤が、かつてはこの場所にもつながっていました。

 澤村さんが、「この道は俗に館林道と呼ばれる旧道にあたります。そのため幅員が狭くなっているのです。この道を南方へ行くと旧中山道につながり、北の方向に行くと忍城の城下町につながります」と説明してくれました。

 旧館林道沿いに並ぶ松は、江戸時代に植えられた樹齢300年余りの松で、当時の面影をしのばせる大変貴重なものです。

「石田堤の上に堤の由来が書かれた石碑が建っていますが、これも幕末期に建てられました。ここには堤根(つつみね)という村があったのですが、石田堤がこれ以上廃れてしまうことをしのびなく思った村の名主が、今後も保存してほしいとの想いを込めて建てたものです。今でいう文化財保護の考え方をすでにもっていたのですね。石田堤は今もこの地区の方の手によって、大切に保全活動がなされています。地区の方の協力なしには、このようにきれいな形で保存されることはなかったでしょう。ぜひ、そのような観点からも見ていただければと思います」と澤村さんはフィールドワークを締めくくりました。

埼玉県指定史跡の石田堤の遺構石田堤の説明板を熱心に読む参加者左:埼玉県指定史跡の石田堤の遺構 右:石田堤の説明板を熱心に読む参加者

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質疑応答

 これほどの水が城郭にあったということは、舟などを使って移動していたのでしょうか?
 重要なご指摘ですね。その通りです。忍城には舟着き場もありました。城下町、つまり武家屋敷や町人地と忍城は堀でつながっているので、舟も行き来していました。そもそも忍城には忍川が流れ込んでいますので、忍川沿いに物資を運んだりもしていました。
 荒川水系が近いということですが、すると忍城は江戸と舟運でつながっていたのでしょうか? 例えば同じ埼玉県の川越近辺などと比べてどうなのですか?
 舟運は非常に大きなかかわりがあります。川越は新河岸川の舟運が有名ですが、忍藩は利根川と荒川、両方とも舟運がありました。利根川の近くにある酒巻村には御用問屋や舟問屋がありました。そこから栗橋関所、さらに江戸川を通って江戸の方へというルートですね。荒川を使うのは、商品取引ならあったはずです。ただし武家に関しては、鉄砲や刀、参勤交代のための荷物の輸送となると関所を通さなければなりません。ですから、そういう場合は大回りでも利根川の方から流していました。

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参加者の声から

「忍城の井戸の話が新鮮でした。また、石田三成が陣を敷いたといわれる古墳の上から眺めると、忍川流域の広大な土地を水攻めすることの難しさを実感しました」(70代男性)

「忍川の治水、そして帯曲輪の役割やその機能についての説明が印象的でした。『のぼうの城』を読んで以来、興味があったテーマなので楽しめました」(60代男性)

「忍城が『浮城』のまま今日(こんにち)も残っていたら、きっと美しい風景だっただろうと思います。また、行田市の歴史の集積がよくわかりました。素敵なまちですね」(40代女性)

「忍城は忍川が流れ込むような形で築城されていたのですね。今日の講義で『のぼうの城』を読み終えて抱いていた、いくつかの疑問が解けました」(60代女性)

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山城が一般的だった戦国時代、敵が攻め込みにくい湿地に築かれた平城「忍城」。江戸時代には帯曲輪を築くなど、忍川から流れ込む水をうまくコントロールして城を守っていたことがわかりました。
実は、忍城の水利用についてこれまで調べた人はいませんでした。当センターの要望を受け、澤村さんが新たに調べたものです。城の井戸についても、同じ埼玉県にある山城「鉢形城」に足を延ばし、忍城との差を探ってくれました。戦国時代の山城では、井戸は城主とその家族が住む中心部にだけありましたが、江戸時代になると城郭内に居住する人が増えることで井戸は場所も数も変わっていったのです。
また、忍城の井戸については、武家屋敷の区画ごとにおおよそ設けられているため、利用・管理も区画ごとにしていたと考えられるそうです。
さらに、江戸時代になると忍城(忍藩)は城郭内だけでなく、広範囲な治水を統制していたこともわかりました。つい「水攻め」に目が行きがちですが、それだけではなく、水利用、管理、統制に長けた忍城の新たな一面も学ぶことができた里川文化塾となりました。
行田市郷土博物館の南東にある水城公園。かつて「忍沼」と呼ばれた忍城の堀跡だ 行田市郷土博物館の南東にある水城公園。かつて「忍沼」と呼ばれた忍城の堀跡だ

(文責:ミツカン水の文化センター)

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