環境と産業のバランスタウン〈都留〉〜半都市化した中山間地が生き残るヒント〜

山梨県都留市

豊富な富士山湧水を利用して、小水力発電をいち早く導入したことでも注目される山梨県都留市。環境と産業のバランスを取りながら、中山間地の市制構想を進める若手職員にお話を聞きました。

都留市の概況

 都留市は山梨県の東部に位置し、周囲を1000m級の美しい山々に囲まれた人口約3万人の都市です。市域の中央を相模川の支流 桂川が西から東に貫流し、市街地の中心部は桂川に沿った帯状の平坦部に形成されています。古くから甲州東部地域の政治・経済の中心として発展し、1954年(昭和29)4月に谷村(やむら)町、宝村、禾生(かせい)村、盛里村、東桂村の1町5村が合併して都留市になりました。

 東京都心から約90km、県庁所在地の甲府市から約50kmの距離にある都留市は、中央自動車道富士五湖線の都留インターチェンジ(1984年〈昭和59〉ハーフインターチェンジとして開設・2011年〈平成23〉フルインターチェンジ化)と中央本線大月駅が至近にあり、東京都心まで約1時間半でアクセスできるという足の便に恵まれています。近年はリニアの町(リニアモーターカー山梨実験線 1990年〈平成2〉着工)としても注目されています。

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都留の宝は、山と水

河野 淳

河野 淳 こうの あつし
産業観光課

28歳 2008年入所

都留市の小水力発電の歴史

 都留市の小水力発電のルーツは、江戸時代まで遡ります。現在小水力発電を行なっている家中川(かちゅうがわ)は、当時の領主 秋元泰朝によってつくられた用水路がもとになっています。
 秋元泰朝は、日光東照宮の造営を担当した大名です。谷村に城下町を構えましたが、川が低い所を流れているので、高台にある谷村地域では水の確保が難しかった。そこで田原の滝の上に谷村大堰(やむらおおぜき)をつくって取水し、水を谷村まで持ってきたのです。秋元氏は、城下町に用水路網を張り巡らせました。

 家中川は稲作の用水としてだけでなく、この地域は江戸時代から織物の産地でしたので紡績や織機の水車動力や染めものの染料を洗うなど、川が多様に利用され、人々の暮らしに大いに貢献しました。

 発電という発想が生まれたのも、川がこのように人の暮らしと身近にあったからではないでしょうか。明治時代になると、都留は山梨県で甲府に続いて2番目に電灯が点る町となりました。そのときにできた谷村電燈株式会社は、実は町民が自分たちで興した会社です。出力70kwで、当時としては大きい発電量を誇りました。

 しかし最終的には、この発電所は東京電力に買い上げられ、効率化が進められた結果、規模が見合わなくなって廃止されてしまいました。

歴史からエネルギーへの飛躍

 2005年(平成17)、家中川小水力市民発電所〈元気くん1号〉が市役所庁舎前につくられました。これは、1998年(平成10)にできた〈市民委員会制度〉がきっかけになっています。〈市民委員会制度〉は、政策提義の市民研究活動に30万円(上限)の研究費を助成する制度です。

 江戸から明治にかけての家中川の歴史を掘り起こし、まちづくりにつなげようと考えた地元郷土史研究グループが、この助成制度を活用して〈都留水エネルギー研究会〉を立ち上げたのです。2001年(平成13)に小型のマイクロ水力発電機を川に入れて発電実験をしたり、流量や発電量の基本データを集めたり、起こした電気でイルミネーションを点灯して「川の水がエネルギーになるんだ、電気になるんだ」と衆知させる活動を行ないました。このときの政策提言が小水力発電に結びついたのです。

 ちょうどそのころ、都留市では新エネルギービジョン作成の最中で、当初は小水力発電は取り上げられていませんでした。市では、水力は昔から使われていたために、ビジョンの中に小水力発電の活用を盛り込むことを考えておりましたが、国では当時小水力は新しいエネルギーではないだろうという認識だったのです。

 しかし、〈都留水エネルギー研究会〉の提言もありましたので、強引にビジョンに盛り込みました。

 都留市のこうした動きは、全国でも早かったのではないかと思います。〈都留水エネルギー研究会〉の中に、水力発電にずっとかかわっていた電力会社のOBがいたということのも幸運でした。歴史から、いきなりエネルギー研究会に結びつくというのも、よく考えたらすごいことですね。

市民債〈つるのおんがえし債〉

 市役所のすぐそばに県立谷村工業高校があって、研究にも協力してもらえました。新エネルギービジョンを策定していたタイミングとも合い、しかも2004年(平成16)が市制五十周年で、動いて、新しいものを生み出すことができる小水力発電機なら記念のモニュメントとしてふさわしいだろう、と判断されました。このように好条件がそろったことで、迅速な実現に結びついたと思います。

 市民債を発行のは、市民の皆さんも含め、みんなでと一緒につくったんだと実感してもらうためです。〈家中川小水力市民発電所〉という名称も、そのことを体現しています。

〈つるのおんがえし債〉というネーミングを出したのは小林義光市長です。国債に0.1%上乗せしたので、確かに利率も良かったのです。話題性もあった。ただ、それだけではないと思います。目的が「地球環境に対する都留市民の感謝の念を込めて、自然エネルギーによる環境負荷の軽減に資するため」と明確だったのが良かったのかも知れませんね。

 2005年(平成17)に公募してみたら、40人の募集に161人の申し込みがあって4.025倍(当選人数ベース)。かなり購入していただけて驚きました。

 こういう時代ですから、行政が何かをやっていくときに、「これって本当に求められているのか」「市民はどう思っているのか」って不安になる。その点、と 都留市の小水力発電所は、構想作成や建設費など、市民の皆さんにも協力してもらって建設しているので、自信を持って「これは市民の人たちと一緒にやらせてもらっています」と言うことができる。そこに励まされます。

環境と産業のバランスをとる

 都留市では、2003年(平成15)に新エネルギービジョンをつくりました。新エネルギーを考え始めたとき、「都留市の一番の資源は水だ」ということから小水力発電を推進してきました。

 しかし、今の都留には水を育む豊かな森がありますが、今後はどうなっていくの? という危機感もあります。森や水といった環境を守る意識をつくっていくには、やはり環境から恩恵を得ていることを再確認して、森や水とのつき合い方を考えるところから始めるべきじゃないか、ということで始まったのが、〈エコロジカル・バランスタウンつる〉(通称エコバラタウン構想)です。

 例えば、今までは産業と環境には、あまり接点を感じてきませんでした。しかし水から発想を広げてみた場合、水があるから成立する産業がブランド価値を得たのに、産業を発展させた結果、環境が壊されてしまったら元も子もありませんね。そうではなくて、産業が発展していったら、環境をもっと良くする活動に充てていこうと。今は、環境か、成長か、と二者択一を迫る時代ではない、ということです。

 そうやってバランスを取りながら環境を考えて、良い生活をつくっていこうよ、良い産業をつくっていこうよ、強いては良い都留市をつくっていこうよ、ということを目指すのがエコバラタウン構想なんです。人と人、人と情報をつないで、そこから新しいものを生み出していこうという〈地域おこし協力隊〉活動など、できるところから活動をスタートさせています。

 エコバラタウン構想のネーミングも小林市長です。小水力発電の〈元気くん〉もそうです。第5次都留市長期総合計画(2006年度〈平成18〉から)の基本構想で、スマートシティという考え方をいち早く取り入れたのも市長です。スマートって言われても「痩せてること?」ぐらいの認識しかない時代に、そうじゃないよ賢い成長なんだ、スマートグロースなんだ、と言って命名しています。

 協働という概念も、いち早く取り入れています。その時代には、まだ共同宣言の共同しかなかったと思います。各主体が協力して共に働くの協働なんてことは、誰も考えなかった。常に考え方が新しい。もしかしたらこのエコロジカルバランスも、これから流行ってくるかもしれません。

 都留には水だけではなく豊富な森林資源があるのですが、森林資源を単なるモノとして使っていくとか環境にいいというだけではなくて、産業に結びつけていくことで持続可能なものにしたいと考えています。それで〈都留市バイオマスタウン構想〉では、薪やペレットの供給先と需要者をつなげるネットワークづくりなど、本格的に動こうとしているところです。

 ただ、ペレット一つとっても、バイオマス発電所などに需要があるのに、そこと結びつかないと活用する先がない。木を使うことは、なかなか産業になりきらないところがあります。一般論を飛び越えた広い視野で見るとそういうミスマッチが出てきますが、幸いエコバラタウン構想をやり始めて情報が集まってきています。

 多少お金がかかっても木を使うというライフスタイルの人が増えれば、売り出していける。最終的には、ライフスタイル変革の問題ですよね。

住みやすい町に

 都留市は東京から100km圏内で、中央高速道も中央本線もあって、交通の便がいい。半分都市化した中山間地なんです。ですから、他県からの移住者も多く、そうした人たちが持ち込んだ価値観に刺激される、ということがあり、変な話、不便さを楽しむような人たちは、都留の良さをわかってくれる気がしています。

 東京と上手につき合いができる、というのも都留の魅力の一つかもしれません。外から新しい風が入ってきてライフスタイルが大きく変わってきている。おそらくそこがまず変わっていけば、環境と産業がバランスを取っていくのも可能かな、と思います。

 実は今年、空き家情報に関しては一人で2軒は見つけてくること、という課長からの激(げき)が飛んでいるのです。地元の人には、「変な人が来たら困る」という不安もあります。ですから、仕組みづくりというよりも、やはり人対人で、最初はお節介かもしれないけれど一緒に話に入って、地元のルールをわかってもらうことからかかわる必要があると思っています。畑を探す人は、市役所に「畑ないですか」って聞きにきますから。それに応えられるような市役所でありたいですね。

 例えば薪ストーブを入れたいけれど、薪はどこで手に入れたらいいかとか、畑を借りたいけれどどこかにないのかとか、移住のために空き家を探しているのだけれど、とかいう要望を、例えば都留市のポータルサイトなどがつなげていけたらすごいですよね。

 人が呼ぶ、というとすぐに観光に結びつけがちですが、この町に住んでて良かったと思ってもらえるようにすることのほうが重要だと思います。協働の時代といいますが、裏を返せば行政があれもこれもやるっていうのは厳しくなっているということの表われだと思います。面白い活動があれば、人が集まってくる。私も市役所職員としてではなく、一市民として参加する。そういう場がつくりたいですね。今は、自立するための仕組みづくりにお金と手間をかけている段階です。

地域の宝を掘り起こす

 そもそも〈市民委員会制度〉は、協働をやっていこうというなら市民からの提案ももらって、それをどんどん政策に取り入れて相互コミュニケーションを取ろうじゃないか、という考えで始まったのです。

 今まで〈市民委員会制度〉を使った団体は、21あります。当初は政策提言で始まりましたが、住民自体がもっと育つ必要があるという観点から制度を変えているので、2009年(平成21)採択が最後になりました。

 21の団体には、都留市立の大学(公立大学法人 都留文科大学。前身は、1953年(昭和28)創立の山梨県立臨時教員養成所)のサークルも含まれます。大学のサークルは、大学の中だけじゃなくて市民全体とやりたいという積極的な思いがあるようです。例えば、空き家をカフェにして市民と交流する活動をしている大学生もいます。また、空き家を使った長屋プロジェクトとか、空き家で一緒に住もうとか、これはまだ立ち上がっていないのですが、都留文科大学(以下、文大と表記)でコミュニティーカフェをつくるという意見も出ています。

 また、産業の話になりますが、実は都留はネクタイの一大産地なのです。OEM生産(Original Equipment Manufactureの略で、納入先商標による受託製造と訳される)なので、ブランド名の陰に隠れていますが。

 日本版シルクロードは、都留から横浜へ続く道だとも言われているんですよ。今、地域の学生と織物産業とがコラボレーションしながら商品開発をしています。江戸時代に一世を風靡した郡内縞(ぐんないじま)というストライプの織物の復活、養蚕も今は廃れてしまいましたが、甲斐絹(かいき)の復活も実現させたいですね。

 ほかにも、宝の山グリーンネイチャーセンターや太郎滝・次郎滝など、都留には宝がたくさんあるのに、なかなかうまく活用しきっていない。まずは、都留にあるものを、一度きちんとリストアップして確認しないといけないですね。

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市の職員が市民として

志村 将史

志村 将史 しむら まさし
政策形成課政策担当

30歳 2008年入所

木川 博隆

木川 博隆 きがわ ひろたか
選挙管理委員会・監査委員事務局
固定資産評価審査委員会 書記

33歳 2006年入所

都留市活性化コンソーシアム

〈Re: Tsuru(リツール)〉発進

志村 地域の資源を掘り起こす、という活動の中で、人に焦点を当てたのがRe: Tsuru。学校関係の人だったり、商店街の人だったり、地域活動をする人だったり。当事者意識を持ってかかわっている人は、都留市を良い地域にしてくれる人的資源だ、という発想で、その人たちが活動に取り組んでいく場をRe: Tsuruと呼んでいます。

木川 都留市の場合は都留文科大学があって、人口の10分の1を文大生が占めている。ですから文大生もRe: Tsuru にとって、大きな戦力です。

木川 今までは何かというと「市役所が」とか「行政が」と言われていたんですが、当事者はあくまでもそれを言い出した本人なんだ、と。我々職員は、裏方としてそのお手伝いとしてかかわれたらなあ、という意識でいます。

志村 協働という言葉が使われ出して、都留市も官から民へと言われるようになりました。行政の役割規模が縮小している中で、民間の活力をもっと生かそう、という方向に向かっています。
 でも、協働といっても行政主導だと、目標を行政が決めてそれに向けて市民のみなさんでやってください、という形になりがちです。そこに予算を投入するにあたって住民理解を得ていくためには、そうなってしまうのはある意味で仕方がないことかもしれません。しかし自分たちのことは自分たちで、という自治の観点からは、もう少し違ったアウトプット、いわば泥臭い協働を目指す必要があるんじゃないかな、と感じ始めています。

木川 今回、Re: Tsuruが始まったのは、社会起業家の戸田達昭さんからの働きかけがきっかけ。戸田さんは〈やまなしの翼プロジェクト〉の代表で、山梨県の文化や産業の活性化に面的な取り組みをしよう、と活動しています。若者のエネルギーを活動につなげるのがうまく、甲府の朝日通り商店街の活性化などにも実績がある人です。こういう活動が認められて文部科学省の中央教育審議会委員も務めていることもあって、教育からのアプローチを重視していて、若い担い手のバックアップがうまい。都留市には県立高校2校も文大もありますから、そういう戸田さんの得意とするところが生かされています。

志村 公開の場で集まって、一緒に考える〈熟議〉という話し合いを始めたんですが、最初は行政職員ばかりが集まっていたのです。回を重ねるにつれ、だんだん市民の参加者も増えてきました。今は、文大の学生さん、文大生以外の都留市在住の若者、商店組合とかの商工関係者、市民活動家、一般企業の人などが幅広く集まっています。基本的には、個人的に声かけをして集まってもらいました。ネットワークはほとんど業務上、お知り合いになった方々です。

木川 この活動はまったくお金がないところでやっていますから、新しくメーリングリストをつくったりして、広報活動は全部自前です。

志村 行政って何にもしてくれない、と思っている市民は多い。しかし、私たち市の職員が参加していることが〈熟議〉の参加者のモチベーションを高めることにつながればいいな、と。今回は行政でやっている活動ではないのですが、個人で参加していても、市民の人はやはり我々を市の職員としてみますから。

Re: Tsuruは課題解決型プロジェクト

志村 〈熟議〉はまだ始まったばかりなのですが、ここでやろうとしているのは課題解決型の取り組みです。やっている内容は素晴らしいのに知ってもらえないから参加者が少ない、というのが往々にして起こっていますので、一番に挙げられたのが情報発信についての課題です。

木川 例えば、住民の10分の1を占めている文大生には市の広報誌が届きにくくなっています。自治会に加入されている世帯には、自治会長を通じて配布されますが、加入されていない世帯は自主的にホームページを見るか、市役所やスーパーに置いてあるものを取得することになるからです。逆に文大の中でつくられている学生向けの広報誌も、すごく内容は濃いのに市民の目に触れるチャンスはない。産業についても同じで、みんな頑張ってやっているのに噛み合っていない。点で存在するだけで線や面になっていないんです。

志村 それでまずはそこをコラボレーションしようということで、手始めに〈ふるさと俳句大会〉で協働しようと動き始めています。都留は松尾芭蕉が訪れた町ということから、俳句の全国大会の開催地に選ばれたんです。文大生の取材した記事を市の広報誌に掲載するとか、市民特派員制度をつくるなど検討しています。

木川 こうしたアイディアは、〈熟議〉の場で参加者から出されたものです。ここで指摘された課題点を抽出して、〈情報発信局LINK〉という取り組みが始まりました。2012年に活動中のプロジェクトチームには、以下の三つがあります。
● LINK:ICT(情報・通信に関連する技術の総称)を活用した情報発信局
● C-tex:アパレルブランディングチーム
● あすなろ:宝の山を舞台にしたエンターテイメント創造プロジェクト
 課題を解決して計画を実現するのに必要な資本力とか知名度とか実行力とかいった要素を考えながら、プロジェクトを組み上げていく。その過程で、乗り越えなくてはならない条件をクリアするのに協働のネットワークが力を発揮すると思います。

志村 そのネットワークを強めるのに、〈熟議〉の場を役立てたい。〈熟議〉に当事者が来ることで、課題を克服してプロジェクトを立ち上げるのに可能性が高まっていくと思うんです。それが、まさに「人が資源」ということですよね。

市の職員ではなく、個人・当事者としてかかわる意味

志村 実は〈情報発信局LINK〉にはNTT東日本-山梨さんが参加されているんです。このことで、実現可能性がぐっと高まりました。今までのように行政主導だったら、その枠組みから外に出られない。この辺が、今までのプロジェクトと違うところだと思います。
 昔はギブ&テイクと表現されていましたが、協働で目指しているのはもう少し緩やかなウィンウィンの着地。そこを目標に据えると、行政主導ではどうしても実現が難しくなるように思います。とはいえ、企業が入ってくれることにはメリットもありますが、一方で公平性を守るという行政の立場としては、正直言って恐いところもあります。
 完全にプライベートな立場で参加しているのに、職場で上司が「Re: Tsuru、どうなってる?」と聞いてくる。「そんなやり方じゃ、ダメだ」とか。気にしてくれているんですね。行政で取り組めないことを、我々がプライベートにやっている。それを市のほかの職員が気にかけて、目の端で意識してくれている。今のところ、それがいいんじゃないかな、と思っています。そもそも、今まで都留市が取り組んできた蓄積があって、その蓄積の上にこういう活動が生まれてきたわけですから。

木川 いろいろ行政がやってきて、できることとできないことがある程度見えてきた。それで、行政ができないことをRe: Tsuruでやってみよう、と。期限を区切って無理に形にするのではなく、焦らずにかかわる。〈熟議〉で当事者の働きかけが何かの原動力になればいいんです。
 市の職員も内勤者が圧倒的多数ですから、市民の生の声を聞き取るチャンスがないんです。Re: Tsuruに来ることで、その生の声を聞くことができるというのは大きいと思います。

志村 自分も政策担当として市民の人と向き合ってきたわけですが、うまくいかない場合には「なぜ、うまくいかないんだろう」と考えてきました。うまくいかないプロジェクトって、かかわる人に危機意識が生じていない場合が多い。例えば商店だったら「お客さんが減って儲からない。どうしよう」という具体的な危機意識があるから、なんとかしようと頑張れるわけですよね。危機意識があっても動き出せない場合もありますが、仲間ができれば知恵を出し合えます。
 都留市は人口が約3万人あって、大学があるから若者もいる。自然に恵まれているし、東京からも近い。比較的恵まれているから、かえって危機意識は稀薄。お蔭で、ギスギスしていないで大らかな人が多い気がしますが、このままでいって大丈夫だという保障はありません。今、変わらないと。

木川 病院もスーパーマーケットもあって、鉄道の駅もある。一番ないのが、雇用です。やはり産業を興して雇用をつくらないと、若い人が住みたい町にはなるのは難しい。そこで冒頭にお話した戸田さんが〈新しい産業〉〈新しいビジネス〉を創出しよう、としていることにみんなで賛同しているのです。

志村 今まではスケールメリットとか大量生産で得られる利益が優先されてきましたが、そういう時代ではなくなってきた。もっと個々に対応した丁寧な仕事が〈新しいビジネス〉としてチャンスをもらえる時代になってきたと思います。そういう意味で、今は転換期にあるのではないでしょうか。

志村 〈熟議〉の場では一切否定的なことを言わない、というのが前提。ポジティブなかかわり方で話し合いを進めていきます。今までは市民からの要望とか、市役所からの報告とか、一方通行的な意見の出し方が多かったのですが、〈熟議〉というツールを使って相互通行的な議論ができるようになりました。コアメンバーの会議は毎週、〈熟議〉は月に1回のペースで行なっています。あくまでも個人でかかわっているのですが、こうした活動から刺激を受けて、仕事にも良い影響があります。

木川 否定的なことを言わない、というのは、何でも肯定するという意味ではありません。建設的な意見なら、異論であってもどんどん発言する。そういうプロセスを経て、中身が磨かれていくのではないでしょうか。
 Re: Tsuruを取り上げた地元の新聞には、「市の職員が行なっている活動」と紹介されました。しかしそうではなくて、市民と学生と企業が中心で市の職員はあくまでも裏方。危機意識を持ってかかわっている当事者にとっては真剣勝負。トライ&エラーでは済まないから肝に命じておこうね、と話し合ったばかりです。
 私たちも個人の立場でかかわりながら、行政が得意とする人をつなぐ専門家としてのスキルを提供したい、と思います。
 国や県の職員だったら、個人の暮らしと業務の隔たりが大きい分、混同することもないかもしれません。市レベルだと暮らしと近い分、難しい立場を要求されるということもあります。しかし私たちだって市の職員である前に、誰かの息子だったり夫だったり父親だったりするわけですから、個人として住みやすい町になったほうがいい。そこを追求していくと、建前と本音のギャップが埋められるかもしれません。それは、3万人という小さな市だから可能になること。今後、協働を進めていくと、本音で語り合う場面がもっともっと増えていくかもしれませんね。

志村 そこで初めて、本音が反映した泥臭い協働が生まれてくるように思います。

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タップウォーターデザインコンペで広がるネットワーク

小宮 文彦

小宮 文彦 こみや ふみひこ
水資源活用課

45歳 1986年入所

水道水が富士山湧水

 都留市には、11カ所の市営簡易水道(水道法で、計画給水人口が5000人以下の水道事業を指す)と約6500世帯・1万6000人の給水能力を持つ上水道があります。上水道には滝下水系(第1水源:十日市場と第3水源:滝下)、玉川水系(第4水源:玉川)、大津水系(第5水源:大津)、法能水系(第6水源:法能)の五つの水源があります。第1水源は通称〈熊太郎水源〉と呼ばれ、平成の名水百選に選ばれた「十日市場・夏狩湧水群」内に位置しています。

熊太郎水源
熊太郎稲荷の謂われに因んで、命名された。十日市場の山の上に住んでいた熊太郎が、ある日キツネ憑(つ)きになり、「山梨稲荷のそばに祀ってくれれば熊太郎から離れよう。村に良いことのあるときは、表通りをコンコンと鳴き歩き、悪いことがあるときは裏通りをキャンキャンと鳴いて知らせる」と祈祷師にお告げがあった。
それから何年かしてキツネ憑きの話も忘れかけられていたころ、裏通りをキャンキャンと鳴く声が聞こえた。その夜、火事が起こり村の半分近くが焼けてしまったが、村人は不安で目を覚ましていたので、怪我する人もなく家財もほとんど持ち出せた。この火事以降、熊太郎稲荷のご利益は世間に知れ渡ったという。

 都留市の水源は湧水と深井戸水で、浄水施設は各水系とも塩素殺菌施設のみで、浄水場がないんです。自然流下で配水し、所によって取水ポンプで汲み上げたあと次亜塩素で殺菌しています。〈熊太郎水源〉も農業用水として利用されている湧水の一部を上水道として利用しているもので、豊富な湧水量に恵まれています。

災害にも強い仕組み

 東日本大震災以降、水道も地震の影響が心配されていますが、取水ポンプ、送水ポンプ類は基礎や建物に異常がない限り被害は少ないと思われます。地震後の停電では、取水・送水不能に陥る恐れがあるため、主要水源には自家発電機を設置していますから、水道に関していえば、都留市は災害にも強い仕組みを備えています。ただ受水槽へのポンプアップが必要とされる団地には自家発電機の備えがないので、緊急時には給水車が向かうことになっています。

都留市のタップウォーター

 都留市では、2007年(平成19)から富士山湧水〈熊太郎水源〉の原水をペットボトルに詰めた「つるの水物語〈熊太郎の大好物〉」を製造販売しています。私が水資源活用課に移動してきたのは2009年(平成21)なんですが、谷村工業高校デザイン科の生徒さんにデザインしてもらったラベルに、都留市の観光マスコットキャラクター〈つるびー〉をアクセントとしてラベルに加えました。

 このようなタップウォーター(水道水を塩素殺菌でなく加熱殺菌でボトルに詰めたもの)事業は全国の自治体でも行なわれているのですが、水を売って利益を上げようとしているわけではないと思います。都留市の場合でいえば、小林市長が、「都留の水のうまさ、豊富な湧水をPRしよう」と言っているように、地域の宝である水資源を内外にアピールするために行なっている事業だ、と認識しています。ずっとこの水を飲んでいる人にとっては当たり前のうまさかもしれませんが、もっと自慢してもいいと思うんです。

「つるの水物語〈熊太郎の大好物〉」はタップウォーターですが、湧水を加熱殺菌しただけでボトル詰めしているので、中身はナチュラルミネラルウォーターなんです。

ラベルデザインのコンペを実施

 タップウォーターのラベルデザインをリニューアルし、2012年(平成24)の4月29日、市制祭の日にお披露目しました。

 デザイン募集は、全国公募のコンペティション形式で行ないました。市のタップウォーター事業を外に発進する以前に、市民への衆知も必要と思い、政策形成の観点からも、もっと変化を生み出したかったからです。『月刊公募ガイド』(公募ガイド社)で全国に呼びかけたところ山形県から沖縄県まで149点の応募がありました。

 審査も投票で行なうことにしたのは、県外からの応募が多く、水資源活用課内で決めてしまうのは不透明感が伴うな、と感じたからです。それに普通は1等賞になった作品しか日の目を見ませんよね。選ばれなかった148の応募作にも光を当てるには、公開投票がふさわしいと思ったのです。

役所って、ネットワークがない!

 市のホームページを使っての全国投票と、庁舎での投票を開始したのですが、3〜4日経過した時点で投票数がわずかに七十数票。作品が149もあるのに投票数が70票じゃ、順位なんて決められません。それで広く投票を呼びかけようとしたんですが、はたと気づいたのは役所にはネットワークがないということ。純粋な仕事上のネットワークが、想像した以上に狭かったんです。それで職員のプライベートなネットワークに頼ることにしました。家族や親類はもちろん、趣味の人脈までフルに生かして投票を呼びかけたところ、最終的には2602票も投票していただくことができました。

 ネットワークって、努力しないと掘り起こせないんですね。この一件で、公務員がいかに営業と無縁だったか、身にしみてわかりました。結果的には、作品の公募から投票による審査までで、5万人とか10万人とかにPRしたことになったのではないかと思っています。

最優秀賞が決まるまで

 公開投票で30作品に絞り込んだものを、事前審査(4項目に基づき1項目5点、各作品20点満点)した上で、最終選考審査委員会を開催し、最優秀作品賞・次点作品及び審査委員特別賞を決定しました。

 このような選考委員を選ぶ場合、自治会長さんとかの役職者やいつも同じ人になる場合が多いですよね。そうなると市民活動も固定化してしまって、発展しなくなる恐れがあります。それで商工会青年部代表とか文大生とかNPO法人の人など、従来、委員にならなかったような分野の人に引き受けていただきました。

 委員長に文大初等教育学科美術専攻指導教授の鳥原正敏さんをお願いしたほか、谷村工業高校化学・デザイン科デザインコースの先生にもデザインの専門家としての意見をいただきました。ボトル製造とボトル詰めをやっている市内のメーカーさんにも、ボトルにしたときにどのような効果があるかといった観点から審査委員になっていただきました。審議ではさまざまな意見が交わされて、途中、このままではまとまらないのでは、と懸念する場面もありましたが、全員一致で最優賞が選出されました。

 とてもスッキリしたデザインに一新して、このマークをシールにしたり飲食店に活用してもらったりと、多様な展開ができるように模索しているところです。

山と水が都留の宝

 先程も言いましたが、タップウォーターを販売するのは、売上げが目的ではありません。都留市が公営企業として手がけるからには、この水が都留の山紫水明のシンボルでなくてはならないと思います。

 都留の宝ってなんだろう、と考えたとき、やはりそれは山と水じゃないか、ということになりました。それで産業観光課と連携して企画したのが、〈つるの雫〉です。タップウォーターをただの水として販売するのではなく、ラベルデザインと連動したデザインのグラスとセットにする。その箱の中に何を入れようか、とみんなで考えたところ、宝の山の佐藤洋さんが「山の香りを届けよう」と提案してくれて、檜を輪切りにしたコースターを入れることになりました。

 これは素晴らしいアイディアでした。箱を開けると、檜の良い香りがします。実は都留には、今までこれといったお土産がなかったんです。私も社会人研修で学びに行ったとき、ほかの地域からいらした同級生が地元のお土産をくれるんですがお返しするものがありませんでした。ですから、〈つるの雫〉が胸を張って差し上げられる都留のお土産に育ってくれたらうれしいです。

〈つるの雫〉が都留の良さをアピールするツールとして一歩を踏み出せば、これをきっかけにして「行ってみたい」と思ってもらえる場所の一つになるかもしれません。行ってみたくなって、来てみたら住みたくなる場所になったらいいですよね。ずっとここに住んでいる者にとっては当たり前の山や水かもしれませんが、住んでいる市民が自信を持って宣伝しなければ、この良さは絶対に伝わりません。うんと自慢して、広めてほしいと思います。ですから、外から来た人がお土産に買って帰るんじゃなくて、市民が持って行って差し上げる。そういう存在になってもらいたいと願っています。

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環境学習は〈暮らし〉がキーワード

佐藤 洋

佐藤 洋 さとう ひろし
産業観光課

38歳 1999年入所

宝鉱山跡地の活用から交流産業へ

 宝の山ふれあいの里・ネイチャーセンター(以下、宝の山と表記)は、もともと宝鉱山という廃坑となった銅山跡地を利用してつくられました。

 宝鉱山は、85年くらい栄えていたんですよ。映画館も診療所も共同浴場も小学校の分校もあって約800人が暮らしていました。市の中心部の谷村より栄えていたんです。映画の封切りが、谷村ではなく宝だったくらいですから。

 1970年(昭和45)に廃坑になって、跡地をどう活用していくかということが検討され、都留市民に自然保護思想を普及する施設としてスタートしました。

 最初は都留市民に向けての活動で、ネイチャーセンターで常設展示、企画展示とか、観察会などをちょっとずつ行なっていました。1981年(昭和57)にできたグリーンロッジ、1993年(平成5)にできたネイチャーセンター、1994年(平成6)にできたコテージの三つの建物で全体が構成されていましたが、2002年(平成15)に現市長の小林義光が交流産業を始めようと言い始め、本格的に営業が始まったんです。

 営業の成果はすぐに表われました。渋谷区の小学校がアミューズメントパーク行きをやめて宝の山に来てくれるようになって、もう9年目になります。スタッフは、体制としては現状で5人。足りない部分は、外部スタッフにお願いしています。本当に皆、近所の人です。少しずつですが、地元の雇用にも結びつくようになりました。

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体験プログラム提供への転換

 私は大学を卒業してすぐ、1996年(平成8)からずっと宝の山を担当しています。社会教育としての体験プログラムというのは、すごく大事な側面だと思うんですよね。都留は宝の山があったお蔭で、フィールドへ出て学んでいくっていうことに関して群を抜いています。それで今度は、体験活動を提供するだけじゃなくて、研修、つまり対象を大人にまで広げていこうとしています。

 以前は企画展はやっていたとはいえ、宿泊施設もただ貸しているだけ、という状況でした。団体の利用者にプログラムを提供するところまで、とても到達できなかったんです。まさに、宝の持ち腐れです。それが、この交流事業が始まったとたん、滞在中のすべての時間をどう使うかというプログラム提供が始まりました。

 そこで気づいたのが、やはり人だなということ。無いもの探しをするのではなくて、あるものでやっていくという発想で、キャラクターを生かしたプログラム開発をしました。それも市長の発案です。

 ただ都留市としては、担当が私一人しかいないので、文大の先生や学生に展示づくりなどをサポートしてもらっています。ここでは環境ESD(Education for Sustainable Development:持続発展教育)のインターンも受け入れていますので、徐々にスタッフも増えてくると期待しているところです。

結局は人

 お硬いイメージの市役所で、私みたいにキャラクターを前面に押し出していると、「佐藤がいなくなったら宝の山はどうするんだ」と不安を持つ人もいました。

 日本の組織の中では、誰にでも代わることができる業務が、持続可能な業務として考えられてきたわけです。でも、キャラクターが立ってこそ良い仕事ができる、それを大事にしないのはもったいない、と私自身は信じてきたんです。今はやっと「人は人でしかつくれない」ということを、体験的にわかってもらえた気がしています。

 大きな行政組織ならチェンジしてしまうかもしれないけれど、都留市ぐらいだと代わりがいないから「佐藤にやらせておくか」って。変えてマイナスになるんだったら、キャラクターが前面に出てもその人にやらせておいたほうがいい、というシビアな計算が働いているのかもしれないですね。

 最初は業績も上がってなかったですから、これはもう数字で出さないとだめだって考えて外に出たんですよ、宝の山にばっかりいないで。それで、学童保育を全部回ったり、都留市内の校長会に出たり。校長先生たちを案内した結果、今は秋の遠足のコースにしてもらっています。

 体験学習って、事前指導だけではなく、受け入れたあとの事後指導があるんですよ。でも事後指導ってなんか硬いじゃないですか。ですから、突然訪ねて行って給食食べて帰ってくる。私は渾名が〈ばんちょ〉なので、学校に行くとみんなが「あっ、ばんちょだあ!」って。今では、町を歩いていると小学生がゾロゾロついてきてくれます。

 都留市からは、営業という位置づけで行ってこいと言われていたんで、神奈川県の小学校の総合学習に一年間行ったりとかしていました。こうして外へ行くようになって、たくさん声がかかるようになりましたね。

 でも何とか軌道に乗るまでは、悩みの連続。落ち込んでいるときに限って、誰かに呼ばれるんですよ。飲み会とか、バーベキューとか。それで、地域の人にずいぶん励まされたりアイディアをいただいたりしました。

ハレではない体験学習

 8年掛かりでようやく黒字に転換しました。営業がうまくいかないと、なかなか黒字にはなりません。ただそのために営業に歩き回っても、利用者はなかなか来てくれないと思います。

 それで、都留市の宝の山の資源っていったい何か、魅力だと思ってもらうには、と手法を考えて、〈暮らし〉という大きな枠に落とし込んでみたんです。暮らしととらえると、何も準備することはありません。特別なことじゃないんですから。ハレとケでいったらケなんですよね。そこに気づいてからは、何も用意しなくなりました。道具は置きっぱなし。子どもたちが来たら、〈暮らし〉始めるだけ。

 ほうきを取りに行くのも、持ってくるだけなんだけれど、山の滑り台をざーっと滑って行く。帰り道は、別な道もあることを教えて、選択させる。「あそこの小屋に犬がいたんだけど散歩していいの?」と聞いてくる子どもがいたら、「じゃあ、連れて行って」って。広がりが五十でも百でもつくり出せる。そこが〈暮らし〉の良いところですね。

 泥田んぼというのがあって、今は立派な田んぼみたいなんですが、最初はスコップで耕した小さな空間でした。体験学習で来た子どもたちが、連日の雨でエネルギーが有り余っていた。どうせ、雨で濡れるんだったら泥んこになって遊ぼう、ということで穴を掘ったんです。それが毎年、陣地を広げるのに熱中して、とうとうすごく広い泥田んぼができました。

 よくある自然体験というのは、すごい準備とわざとらしいセッティングをしがち。でも震災があったことで、火を点けられること、その辺のものを食べられること、水を川から汲んで飲めるようにすること、この三つが一番大事なんだということが、みんなにもよくわかった。あとはもう余計なことで、本当に必要なことは何か、という生きることの原点を、震災は教えてくれたと思います。

火を焚くということ

 ある時期から、アウトドアでも直火は禁止ということになってきました。多分、アメリカ型の環境保護思想からきているんじゃないでしょうか。自然には人間がかかわらないほうがいいという考え方だから、自然保護区も立ち入り禁止。アメリカは自然の治癒能力が低い所だからそうなっているけれど、日本とは状況が違うんじゃないか、と感じます。

 宝の山に焚き火場をつくったのは、さっきも言いましたが火を熾(おこ)すということは生きることと同義語だから。それに火を見ていると落ち着くんですよね。癒しでもある。しかも今、子どもたちは日常生活で火を見る機会がまったくないんです。だから火傷したりする。

 まあ、そんな理由があって、宝の山では火を熾すことができます。活動する前に「寒い?」って聞いて、「寒い」と言ったら「じゃあ、マッチと新聞紙持ってきて火を熾こしてよ」って。実は、火を熾すとつながりも生まれるんです。

森林保全活動も

 年に25回も来る保育園があって、森林組合が伐採した間伐材を、保育園生が運びます。子どもたちと山に入るときは、地主さんも呼んできて働く様子を見てもらいます。「困っている人がいるけど、どうする?」と聞くと、困っている人を助ける、自分の行動が誰かのためになるんだ、という風に展開していくんですね。仲間を意識することで、自然とチーム意識も育ちます。

 その保育園は、野外保育を50年以上やっているんですよ。若い先生方が多いんですが、今度は子どもじゃなくて自分たちの研修を年に4回やるっていう流れになってきたんです。もし、こうした企業研修が増えていけば、市の事業としての産業じゃなくて、環境系のNPOの人たちの産業としても、宝の山という資産を使ってもらえるようになりますね。

生涯忘れない体験に

 ニッカポッカ(Knickerbockers:長さが膝下までで、裾が絞り込まれた短ズボン)をはいたりするのは、暑くないし、火傷しない、ブヨにも強いという機能のためです。でも、一番大事なのは、なんでこれを着ているのかっていうそういうプロセスを、子どもに一つずつ話していくこと。子どもってプロセスが好きなんですよね。「なんで、なんでー」って、なんでの塊ですから。それを答えてあげるのが大人の義務だから、きちんと受け入れて答えてあげなければいけないと思っています。

 交流産業がうまくいっている一つの秘訣は、そこにある、と私は思います。「早く食え!」なんて学校では絶対に言わないじゃないですか。でも、ご飯をつくっているおばさんは「残すんじゃないよ」とか、大盛に盛ったりすると「そんなに食えんのか」とか、洗濯するのにまごまごしてると、ぱあっと来て横からお節介を焼いてくれる。来てくれる利用者たちは、そういうのに飢えているんですよね。それで、帰るときに泣いてしまうんです。「こんなに構われたことはなかった」って。

 逆に、初めて東京の小学生を受け入れた2004年(平成16)の経験は、自分にとって大きな驚きでした。最初にスタッフが全員で、「おーう!」とかって挨拶したんですよ。そうしたら女の子たちが「なんか、あの人たち馴れ馴れしいよね」って言ったんです。それだけ、よそよそしいのが当たり前になっている。でも、払拭する必要はないと思っています。馴れ馴れしいままでいいんです。その子たちも、やがてこっちのペースに巻き込まれていきましたから。

「学校の前で転んだときに、膝を擦りむいて血がだらだら流れているのに、誰も声かけてくれなかった」と言った子がいる。その子は、保健室で治療して帰ったそうです。「でも、都留の人は何かしたらすぐに声をかけてくれる」って、手紙に書いて置いていってくれた。たった三泊とか短い滞在でも、そんなことを感じて帰るわけですから、「本当に有りのままでいいんだ」って思いました。

 子どものときにそうやって来てくれると、愛着がわくじゃないですか。大人になってから自然の中に住みたいな、じゃあ都留に行っちゃおうかとかね。交流産業は、そこまでいって初めて成功したといえる、って思っています。

 1996年(平成8)から2003年(平成15)くらいまでの間、地元の朝日小学校の自由研究を受け入れていたんですよ。そのときに小学生だった子どもが、今度、環境ESDのプログラムで、インターンとして宝の山に来る。そういう風にやっと回り始めたところです。

(2012年5月14〜15日)

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