農、漁、猟 − 生活者にとって本業とは何か? 〜水田漁撈とカモ猟からみる生業と自然の関係〜

安室 知

安室 知 やすむろ さとる
国立歴史民俗博物館助教授

1959年、東京生まれ。民俗学(生業論・環境論)および物質文化論を専攻。
著作に『水田をめぐる民俗学的研究』(慶友社)、『餅と日本人』(雄山閣出版)、『水田漁撈の研究』(国立歴史民俗博物館)などがある。

稲作の合間に水田で魚を獲ったり、飼ったりする。あるいは農作業の合間にカモ猟を行う。このように、仕事の「合間に」いろいろな別の生業を行う。こんな生活スタイルがかつてはありました。水田漁撈の調査を中心に日本全国を回り、「生業」という面から農家の暮らしの実像を追っている安室さんに、かつての農家の暮らしについてうかがいました。

水田漁撈という世界に興味をもつ

 私は学生の時から民俗学を専攻しました。民俗学というのは、インタビューをし、そのやりとりから資料を見つけだします。学生の頃は人の話を聞くことに慣れておらず、インタビューには大変プレッシャーがかかりました。例えば、戦前の稲作について、田植えの仕方とか、苗の育て方などを順番に細かく訊いていくと、答える方もまた聞く方も飽きてきます。そのような時に、たまたま、田んぼでの楽しみの話を訊きますと、それまで眠そうにしていたお年寄りが目をキラキラさせて、「実は、こうして魚を獲ったりするんだよ」と話される。このような経験をしまして、それからは意識して田んぼでの魚獲りの話を聞くようになったのです。

 田んぼでの魚獲りは実にバラエティに富んでいます。それまでは、学問上、あまり価値がないと思われていたのですが、訊いてみると、水田への関心、魚に対する知識、漁具を作ったり操ったりする技術といったことを駆使してドジョウやフナを獲るという農家の知恵があることがわかり、人が暮らしていく上での知識とか、農家の暮らしそのものを解き明かす上でキーになると思いました。さらにいろいろなことを訊いていくうちに、現在の環境問題や民俗学の新たな展開を考える上で突破口になるとも考えたわけです。そうして、もう20年近くも、同じようなことを訊いています。

内水面漁撈とは?−漁撈と漁業の違い

 海ではなく陸水(川や湖沼など)で行われる漁業のことを、内水面漁業といいます。淡水漁業とも呼びます。

 このとき、「漁業」と「漁撈」の違いには気を付けておかなくてはなりません。漁業は、獲った魚を売り金銭収入を得るという、ある程度産業化していく経済行為を指します。これに対し、魚を獲る行為そのものを漁撈といいます。ですから、漁撈の方が意味は広く、漁撈の中でも産業化され経済活動となる部分を漁業というわけです。

 内水面にも規模の大小があり、琵琶湖のような大水面では、漁撈がどんどん漁業化します。しかし、小さな河川や池のような場所では漁業化することは稀でその多くは漁撈として残りますね。

 通常、内水面といった場合、主に河川(流れがある「流水域」)と湖沼(流れのない「止水域」。但し大きな湖になると「湖流」と呼ぶ流れがある場合もある)の二つに分けられます。しかし、漁撈の場として見ると、日本を含む東アジアの稲作圏では、河川ではなく、また湖沼でもない場所での魚獲りがたくさん行われています。私たちがかつてよく目にした魚獲りがどこで行われているかというと、実は田んぼの横の用水路であったり、溜池であったり、田んぼ自体であったりするわけです。内水面を漁撈の場として見るとき、第3の水界として「溜池」や「用水路」や「水田」、そういうものを位置づけなくてはなりません。そこで、それらを「水田用水系」という一つの水界として考えたわけです。それまでの河川と湖沼という2分法では、内水面漁撈のもつ意味はとらえることができないといってよいと思います。

各地で異なる魚の獲り方

 水田漁撈は、日本全国どこでも見られます。ただ、その方法はさまざまなものがあり、地域性もみられます。たとえば、讃岐平野のように溜池が2万ヶ所もある場所では溜池での魚獲りが多くなるし、琵琶湖や利根川といった大きな湖や川の沿岸にみられる低湿田での漁撈と山間の棚田地帯で行われる水田漁撈では当然違ったものになります。そういう意味で日本国内に限っても水田漁撈には地域差、環境差はあります。

 やはり、稲作との関係で水がどれだけ管理されているかで、魚獲りの方法に違いがありますね。私が学生時代に最初に調査を行った栃木県・渡良瀬川水系の思川(おもいがわ)では、下流部のちょっと高台になっているところは、思川の中流域から用水路が引かれ、すぐれた用水灌漑稲作地になっているところがあります。そこではどのように魚を獲っていたかというと。

 そこは用水灌漑の整った乾田地域ですから田んぼへの水の出し入れがきめ細かくなされます。稲作に水がいらなくなれば用水路の一番上流部で水を切ってしまえばよく、そうすれば用水路や水田から水はきれいになくなります。こういう水の出し入れが細かく確実にできる地域では、田んぼに水を入れる時期にはノボリという方法でドジョウ筌(ウケ:入口からはいると出られなくなる仕掛けをもつ漁具)をしかけ、反対に田んぼから水を出す時期には、ちょうど稲の花が咲く頃を境に、クダリという方法でドジョウ筌をしかけてドジョウを取ることができます。また、掛け流しといって、水口から水を田んぼに入れつつ尻水口から排水する、そういう時期には、筌の中に餌をしかけると、水の流れに乗ってというよりは、餌の匂いにつられてドジョウやフナが筌の中に入ります。そのように、水管理が行き届いた所では、水流や水量・水温といった水の変化に応じて、一枚の田んぼの中でも様々な魚獲りが可能になります。

 反対に、大水面の水辺にあって、すぐ水に浸かってしまうような所では細かな水管理はできません。すると、梅雨時など大水になった時は、田んぼ一面が水浸しになってしまうことがよくあります。ところが、それはフナやコイの産卵期にもあたっているんですね。

 そうすると産卵期を迎えた魚が一斉に水浸しの田んぼに上がってきます。そこをウオブセ篭(カゴ)といって、底の抜けた篭のようなものを田んぼに持って行き、上からかぶせて魚を獲ったり、また手づかみでも魚取りをすることができるようになります。細かな水管理はできないため稲作はあまり生産性が上がりませんが、自然の水位変動に応じた漁が田んぼで行われるのは、低湿な水辺の村の特徴なんです。

―― 溜池地帯ではどうですか。

 溜池地帯では、魚がもっとも多く獲れるのは、溜池を干す時です。日本の稲作地帯はどこにでも溜池はあるといってよいものなのですが、秋になり稲作に水が必要なくなると、いったん池の水をぜんぶ捨てて空にします。水を空にして池を浚渫しないと、底に泥が溜まり、池が浅くなってしまうからです。そうしたことが毎年のようにおこなわれる所も多いですし、2・3年に1度という所もあります。地域により水抜きの頻度は違いますが、そうした時が魚獲りの絶好の機会になります。

 その時期になると、溜池の水抜きと清掃のため水利組合の人たちが集まって、みんなで魚取りをしたり、またお金を取って水利権者以外の人に魚獲りさせたりするところもありました。それがちょうど秋祭りの時と重なるものですから、溜池での共同の魚取りが祭りの一環として行われ、獲った魚で祭りのごちそうを作るという所も各地にあります。そういう意味では、「みんなで仲良くやりましょう」という、稲作地における水利社会を維持するための人の和をつくりあげるために、水田漁撈が利用されていたと考えることもできます。

―― 土地によって湛水期間は異なりますが、それは稲の都合に合わせるわけですか。

 そうです。魚の都合に合わせることはないですね。やはり稲作の都合が水田の作業暦を決定しているといえます。魚の都合に田んぼを合わせるというのは、養魚が本業になっている場合です。その場合は、養魚の都合で水田の様子だけでなく稲作活動さえも変えたりはしますね。長野県佐久地方はコイの水田養魚で有名ですが、かつては30センチほど苗を育ててから田植えをしました。なぜかというと、田んぼに水を貯め、そこに魚を入れていますから、ある程度大きな苗にしておかないと植えられないんですね。今のような稚苗(3〜4センチの苗)では水没してしまいます。そういう意味では、養魚の段階にまでいくと、稲作にさまざまな影響を与えますね。

 農繁期(4〜9月)の漁、つまり稲を育てている間の魚の獲り方は、どんな特徴があるかというと、まず1回あたりの獲る量が少ない。田んぼに1日筌をしかけても、漁獲量はたかが知れています。その代わり、筌を使えば同じ田んぼで毎日でも獲れます。ですから、毎日自分の家で食べる分くらいは、自分の田んぼで獲ることができます。それが、農繁期における水田漁撈の特徴としてあげられます。反対に、農閑期の水田漁撈の特徴は、秋、水田に水が必要なくなってから、溜池や用水路を干したりして、その中の魚を一網打尽にすることにあります。そのため、一回にたくさんの魚を獲ることができます。ですから、そうして獲れた大量のフナやコイは一度には食べきれないので保存食にします。いったん保存加工すると、何ヶ月にも渡って食べることができます。

 農家の人は、秋から冬に獲った魚は、保存加工すれば翌年の梅雨前まで保つと言いますね。エビラとかベンケイと言うのですが、藁などでこしらえた筒状の物に魚を刺しておき、イロリの上などに吊して干しておく。いわゆる焼き干しで、まずいろりで軽く焼いてから干します。イロリの上に干しておくので、薫製にもなる。焼き干しにした魚を食べる時には、一度火であぶってカラカラにしてから、手でもみ砕いて、みそ汁などに入れると言いますね。具とだしを兼ねているわけです。そうしたベンケイが大体、1軒に3、4本用意してあり、干し上がったものを食べてはその分また補給するというように順繰りに食べていきます。また、焼き干しのほかには、煮干しにもしますね。いったん魚を茹でてから、寒天に晒して干しあげます。それを一斗缶に入れて保存します。農閑期の漁はそのように保存食とするところにも特徴があるといえます。

 こうした水田漁撈ですが、昔から伝えられてきたようなものはもう無くなってしまったと考えた方がいいですね。後で述べる復活というケースを除いては。

―― 水田漁撈が盛んだった当時の記憶があるお年寄りが減っていますね。

 私が学生の頃には、まだ大正時代の話がいきいきと聞けたわけです。それが、大学院を出て就職するころになると昭和初期の話が主になりました。ただ大正と昭和初期は、そんなには話は変わらない、稲作とか水田漁撈といったことでは。しかし、そのちょっと後になると、昭和恐慌があり、日中戦争などの影響が出て、戦時体制の統制経済に入る、そうなると話もかなり変わってきます。さらに、今はその時期のことも聞けなくなり、70歳代の人に話が聞けるのは、やっと戦後の話です。本当の意味で、水田漁撈の方法やその重要性・楽しさを知っている方はいなくなりつつありますね。

 

水田で養魚もしていた

 かつて、日本では水田で魚を養殖するいわゆる水田養魚が各地でおこなわれていました。その内の一つで、もっとも盛んだったのが長野県です。「佐久鯉」で有名な長野県の佐久地方には調査のためにしばらく通いましたね。

 水田養魚の起源を考えると、おそらく水田漁撈が最初にあったと思われます。フナやコイといった魚が産卵のために田んぼに上がってくる。産卵が終わってしばらくすると、卵が孵化するので、その稚魚を田んぼから逃がさないような工夫をする。田んぼの場合、畦で囲まれていますから、水口に簀を立てれば逃げられなくなります。そんな所から、素朴な段階の水田養魚(半養魚段階に当たる)が始まったと考えられます。

 現在では、佐久鯉といっても、群馬県や茨城県である程度大きくしたコイを最後に佐久に持ってきて流水池に入れてしばらく育てたりします。これを「畜養(ちくよう)」と言いますが、佐久の水でしばらく飼うと泥臭さが取れるので、それを佐久鯉の名前で出荷しています。

 昔、佐久の水田養魚では、夏の間はコイを田んぼに入れ、冬から春にかけて流水池に移しました。そしてそれを3年間繰り返して、一人前のコイを育てました。佐久地方は盆地でも標高700メートル以上ありますから、川の水が冷たい。そのため、他の産地たとえば霞ヶ浦ですとコイの重さはだいたい2年で700グラムから1キロぐらいの出荷サイズになりますが、佐久地方では3年かけないとそのサイズになりません。そうやって3年かけてじっくり育てるため、身の締まり方が違うんだとされます。しかし、その分生産費は高くつきます。私も食べましたが、やはり佐久鯉は美味しいですね。現在出荷量は微々たるものですが、販路はほとんど関西方面に限られているそうです。というのも、大阪や京都は昔から淡水魚の味にうるさいので、美味しいものは高くても買ってくれるからです。どうも関東では同じ大きさなら2年で育った安い方が売れるようで、だめなようですね。

―― 水田養魚は今でもまだ続いているのですか。

 いいえ。水田漁撈についても同じことがいえるのですが、昭和30年代になると毒性の強い24D(除草剤)のような農薬が水田に使われるようになりましたが、それによってすっかり駄目になってしまいました。農薬が入れられると、除草だけではなく、カエルも魚もタニシもすっかり死んでいなくなってしまいました。そういう光景を目の当たりにしていますから、今でも「田んぼで獲ったものは食べられない」と言いますね。その怖さを農家が一番よく知っているわけです。

―― 安室さんは、80年代の初めから日本中を歩いているわけですね。最初の頃は、水田漁撈は残ってはいたのですか。

 ほとんどなかったといっていいかと思います。農薬もだいぶ改善されてきて、田んぼにはドジョウやタニシが少しですが戻ってきてはいたので、遊びでやっている人はいました。また、溜池の場合は、水田用水水系の一番上にありますから、もともと農薬の影響はあまりありません。そのため溜池での漁撈はたまに見られました。しかしそれも農家の食生活や水管理のあり方が変わってしまっており、一部の好きな人がやるという程度のものに過ぎませんでした。ただし、最近の傾向としては、一旦途絶えていた水田漁撈がまた各地で復活してきていますね(詳しくは後述)。

 そして、コイ農法とかアイガモ農法というのがちょうど80年代の終わりから90年代にかけておこなわれるようになります。コイ農法という言い方こそ目新しい感じがしますが、じつはコイに除草をさせるという発想は昔からあり、明治時代の終わり頃、明治政府が日本の各地の水産試験場に、田んぼにコイを入れた時にどの程度の除草効果があるか検査させています。田んぼでコイを育てる技術は、明治の終わりから昭和にかけて非常に高いレベルに達していて、同時にコイによる除草ということも実証されていました。それが昭和の30年代に農薬が入ることによって、すべて台無しになってしまったわけです。けっきょく、そうした歴史的経緯はほとんど忘れられたまま、無農薬有機栽培というような消費者のニーズや環境運動の中で復活してくることになります。

 ただ、かつてのコイ農法と現代のそれは決定的に違うことがあります。昔の水田養魚というのは、除草効果にもまして、コイを育ててそれを食べること、またはコイを売って金銭を得ることが目的なのです。ところが今のコイ農法というのは、除草をさせた後のコイは「廃棄物」なんですね。現在のコイ農法で一番の課題は、廃棄物としてのコイをどう処理したらいいのかということになります。最初のうちは、生きたまま売ることも試みるのですが、供給過剰となりすぐ売れなくなる。またフィッシュミールに加工して肥料や家畜飼料にしようとするが、これも駄目。もちろん自分たちで食べようと、料理法などをいろいろと農家の主婦が中心となって考えたりもしますが、これもやはり現代の食生活には合わない。となると、次にはどこにどのように捨てるかが問題になってしまう。同じ技術のように見えるけれど、昔の水田養魚とは全然違うのです。現代ではコイは道具(除草器)にすぎないんですよ。しかも1回きりしか使えない、やっかいな道具ということです。

 コイですから食べれば美味しいんでしょうけれど。食べる習慣も途絶えているんですね。今の農家の若い嫁さんは、コイをさばくことができないと言いますね。コイって元気で力も強いですから、切ると赤い血が出てバタバタ暴れるんですよ。あれを嫌う人が多いそうです。昔は、そうした生命力の強さがむしろコイの食材としての魅力だったわけですが。

 食習慣が大きく変わってきているとともに、やはり昭和三十年代の農薬使用による「田んぼで獲ったものは危ないモノ」という記憶が、食べる伝統が途絶えた大きな理由のような気がしますね。稲作農家に調査に行くと、「一番最初に農薬を使った時の話」は、どこに行っても印象深い話として聞けるんですよ。例えば、琵琶湖岸の水田地帯がそうです。琵琶湖は水位が上下しますから、湖岸の田んぼは梅雨時になると必ず水没するんですね。すると、苗を植えたばかりの田んぼにワタカという魚が上ってくるんですよ。そのワタカが苗を食べてしまうので、農家にとっては敵みたいな存在でもあります。そういう状況の所に、除草剤が使われ始めます。農薬を入れた翌日、田んぼに行ってみると、田んぼの水面に白い腹を浮かせたワタカが一面に浮いていたといいます。琵琶湖の農家に行くと、この話は必ず聞けるんですよ。いかにかつての除草剤が毒性の強いものだったか。そういう印象、記憶というのは、しばらく消えないのではないですかね。

 また、農家の生活パターンが変わってきたということもあると思います。自給自足を旨としていた戦前の農業のあり方と違い、兼業化すればやはり省力化に目が向きます。日本の農業で一番手がかかるのは、除草にかかる労力です。それを省力化するためには、農薬を使わざるをえない。そして余った労働力を、工場に行ったりと他の稼ぎに向けていく。そのサイクルに一旦乗ったら、抜けられません。農薬を使わない農業は考えられなくなってしまう。ですから、いま、無農薬有機栽培をやろうとしている意識の高い人たちは、専業化に向かっています。そういう時に思うのは、無農薬有機農業のために導入されたコイやアイガモをうまく商品化することができないものかということです。アイガモやコイが商品となるような、もう少し大きいサイクルの農がつくりあげられれば、水田養魚も本当の意味で復活してくると思うのですが。

一つの生業に特化して生計を維持しようとする方向と、多様な生業をおこなうことで生計を維持しようとする方向

 水田漁撈を中心に調査を続けてきてわかったことがあります。それは日本人の生業についてです。もともと私は昭和初期に時間軸を設定して聞き取りしてきたわけですが、どうやら日本人には生業について二つの指向性があることがわかってきました。

 一つは、何か一つの生業に特化していくケース。経済的にも、また精神的、文化的にもメジャーな生業という観念がそこにはできあがります。もう一つは、いくつもの生業を並列的におこないながら、それらの複合性を保つことで生計を維持していこうという方向です。飛び抜けてメジャーな生業は存在しません。

 後者の場合でいえば、例えば、山間地で暮らす人たちは、何か一つのことに特化しようとしてもできません。自給的な面では、畑を耕しつつ、猟や漁もする。また、山仕事や出稼ぎにも行き、商品として麻や紙をつくったりと、いろいろなことをしながら金銭収入も得ます。自給的にも貨幣経済の上でもいろいろな生業をおこなってはじめて生計が維持されることになるわけで、この場合生業の複合バランスをどのように保つかが生計上大きな意味を持ってきます。いわば、複合の論理です。

 その対極にあるのが、日本の場合には稲作農村です。もともと稲作が日本に伝来した頃というのは、稲作だけで生計を維持していた人はいなかったはずです。つまり稲作は出発時点では、生計の一部をなす生業、生計の一要素に過ぎなかったわけです。しかし、歴史が下るにつれ、全体の耕地の90%が水田になってしまうような農村が近世に現れます。つまり、生計を維持するための生業が稲作に特化していくわけです。

 その場合、面白いことに、稲作への特化が進むとともに、その内部に取り込まれていく生業があります。それを私は稲作による他生業の内部化または稲作論理化と呼んでいます。例えば、畦に豆を植えて畦豆をつくることなどは、その典型です。畦塗りを終えたところに豆種を蒔くと、ほっておいても大豆や小豆が実ります。また、水利を整え二毛作の工夫をすることで、水田からは夏場に稲、冬場に大麦・小麦・菜種をやはり穫ることができます。それと、先程から述べている水田漁撈ですね。フナやコイ・ドジョウ・ナマズなどの魚やタニシ・エビ・カニといったものも獲ることができます。またさらにいえば水田は人口の湿地ということになり、冬場はカモなどの水鳥を獲る絶好の猟場ともなっていました。そのように、一見すると、特化が進み稲作一色に塗りつぶされた稲作民の生業のようですが、かつてはそうした稲作の中に、漁撈や畑作や狩猟、そういうものを取り込んでトータルとして生計が維持されてきたんだということがわかってきました。

 近代の農業日記を分析しますと、昔の農家の人は日常の食糧はほとんど買っていないですね。全部自分で手に入れていました。どんな稲作農家にも、カド畑とかセンザイ畑と呼ぶ小さな自家用の畑を持っていて、そこで順繰りに多品種の野菜ものを、自分の家で使う分だけ作っていました。そのほか、先程述べたように、水田からは麦や豆、魚に水鳥といったものを手に入れることができます。一見、耕地のほとんどが田んぼという水稲単作地においても、自分たちが日常(ケ)に食べる食料はほとんど自分で手に入れていました。金を出して買っているのは、ハレの場に必要な酒と海の魚、塩、その程度ですね。

小さな生業のおもしろさ

 労働のもつ意味や価値という点から見ると、マイナー・サブシステンス(小さな生業)の重要性が指摘されています。稲作のようなメジャーな労働は、空間的な面だけでなく、時間や労力でも人を強く拘束します。農繁期になると、朝星夜星(あさぼしよぼし)といって、朝まだ星が出ているうちに野良に出て、夜星が出てから家に帰るという生活になります。そういう中では、田んぼでのカモ獲りとか、魚獲りというのは、稲作活動の片手間でおこなうものですが、大切な息抜きの時間であり、おもしろいことだといいます。

 そのように、経済性はそれほどではないけれども、手軽にできておもしろい生業というものがあるわけです。それが、稲作の労働体系の中にはちゃんと内部化されていたといえます。そういう小さな生業に、稲作のようにメジャーな労働の価値やおもしろさを見いだすこともあるわけで、結果としてそうした小さな生業があるからこそ、メジャーな生業を含む人びとの生計全体が維持されてきたのではないでしょうか。ひとつ例を挙げるなら、聞き書きで復元した昭和初期においては、もはや田んぼで魚を獲らなくても人は生きていけるわけです。しかし、田んぼでの魚取りのような小さな技術はどこでもいっぱい残っていて、調査に行くといくらでも聞き取ることができます。なぜ、それほど豊かな経験談が残っているのかというと、おそらく、おもしろいから人は田んぼで魚取りをやってきたと考えるしかないと思います。

 この点を研究している松井健さん(東京大学東洋文化研究所)が言うには、田んぼでの魚取りのようなマイナー・サブシステンスは、個人差が出やすく、また運に左右されやすいといったことがかえって重要な意味を持つことになります。うまく魚を獲る人とあまり獲れない人。同じ人でも、よく獲れる時と獲れない時。こうした差が、おもしろさを維持する上で意味があります。いわば、競争意識とギャンブル性ですね。メジャーな生業ではそれを楽しむ余裕はないでしょうが、マイナーだからこそ楽しめるわけで、稲作の場合にはそうした小さな生業を楽しみとしてその内部に取り込んでいるわけです。

 それから、小さな生業というのは、人の生き方や世界観にも影響を与えていると考えられます。魚が産卵期を迎えて岸辺にやってくると時期になると、本当は野良に行かなくてはならないのですが、魚取りに行ってしまう人が現れます。家族には「しょうがないな」と文句をいわれながらも、何となく許されてしまいます。その程度では、家の生計が破綻してしまうようなことはないからです。稲作に大きな影響がでない限り、小さな生業を一年の生活暦の中に織り込んでいくわけです。生活のアクセントとなっているといってもいいかもしれません。そういう意味では、少し大げさですが、小さな生業というのはその人の生き方を反映していると言うこともできます。

―― そのおもしろさはどこからくると思います?

 技術と技能という言い方をすると、技術というのは究極的には文字化が可能でマニュアル化して表現できる。それに対して、技能というのは文字化できずに、身体で覚え、経験がものをいう世界だと思うのです。だから個人差も大きくなります。技能は、おもしろいから経験として体得されていくわけで、それがマイナー・サブシステンスのおもしろさの素になっているのではないかと思いますね。

カモ猟にみるワイズ・ユース

 マイナー・サブシステンスの例として、カモ猟の話を紹介したいと思います。石川県加賀市の大聖寺に、鴨池という渡り鳥の飛来地として有名な潟があります。ここは、水鳥のための湿地を守ることを目的とした国際条約、ラムサール条約にも登録されています。鴨池ではもともと池の周囲で水田稲作が営まれており、また水も水田用水として重要な意味を持っていました。そのように人間がさまざまに利用する池が同時にカモの飛来地にもなっているわけです。そこで私が興味を引かれたのは、伝統的な三角網(坂網-サカアミ-と地元では呼ぶ)によるカモ猟です。

三角網を構える。1辺が2メートルほどの三角形をした網。 意外と軽い。

三角網を構える。1辺が2メートルほどの三角形をした網。 意外と軽い。

獲れたカモを三角網からとる

獲れたカモを三角網からとる

 15年ほど前に、この鴨池に伝統的なカモ猟の方法を調査しに行きました。稲作民の複合生業を調査するためです。でも、まったく調査にならない。なぜかというと、ガン・カモ科鳥類の保護運動をする日本野鳥の会や水辺の環境を守ろうとする自然保護派の人たちと伝統的なカモ猟をする人たち、この両者が対立していたからです。そこに私がのこのこ出かけ「カモ猟の話を聞かせて下さい」と言っても、相手にされません。猟をする人たちからは自然保護運動の手先かと思われ、また反対に自然保護派の人たちからはカモ猟の話なんて、ということになるわけです。

 それが、ここ3年ほど、また調査に行くようになりました。それは、そのような両者の対立関係が一変していたからです。鴨池の環境を守ろうとする側とカモ猟をする側、どっちに行っても、待ってましたとばかりに話をしてくれる。

 そうしたことを象徴するのが「ワイズ・ユース」です。「ワイズ・ユース」という環境思想がラムサール条約とともに輸入され、それまで「カモ獲りなどもってのほか」と言っていた自然保護派の人たちも、「坂網のような伝統的な技術によるカモ獲りは、実は保護にも役立つものだ」ということを言い出したわけです。また、そうした動きの中、猟師(といっても農家やサラリーマンなど地域の住民に変わりない)側にも自分たちがおこなっているカモ猟の技術を大切に伝承していかなくてはならない、鴨池の自然を守ってきたのはむしろ自分たちなのだ、という考えも生まれてきました。

 ワイズ・ユースというのは、ラムサール条約においてその理念として強調されるようになった概念で、「賢明な利用」と訳されますが、日本では1990年代に広く知られるようになった環境思想です。

 こうした考え方が鴨池のラムサール条約登録(1993年に片野鴨池は登録地となる)の動きとともに入ったために、対立していた当事者に一気に雪解けムードが広がったわけです。鴨池における自然保護運動の拠点であり日本野鳥の会のレンジャーたちが常駐する鴨池観察館のすぐ脇に、鴨池で猟をする人たちの番小屋があって、両者は日常的に顔を合わせています。また、鴨池観察館の中には伝統的カモ猟の技術保存会ができ、レンジャーなど自然保護派の人たちも会員になったりして、非常にいい関係ができつつあります。

 ただ、両者ともいくつかの誤解があり、その誤解の上に今の雪解けムードがあるともいえます。誤解というのは伝統的カモ猟をワイズユースと捉えることについてです。実際のところ坂網でのカモ猟というのは非常に生産性の高い猟です。

 銃猟には鉄砲と銃弾、それに狩猟免許が必要です。でもそれだけでは猟はできません。1発撃つとまわりの鳥はみんな逃げますから、たえず鳥を求めて移動しなくてはなりません。1日がかりの猟です。当然、ランドクルーザーや落ちたカモを拾いに行くためのボートも必要です。このほか犬や銃の保管庫なども必要となります。とにかくお金がかかるわけです。

 それに比べると、坂網での猟はお金も時間もかかりません。猟はカモが鴨池から水田地帯に餌を採りに行くほんの10分間ほどの間に行います。カモは池を飛び立つとき、高く飛ぶと鷲や鷹に狙われるので低く稜線をなめるように飛びます。ですから、稜線のところで待っていて、やって来るカモを網で獲れるのです。ですから、農作業を終えてから猟に行くことも可能なわけで、時間がかからないという意味では非常に労働生産性の高い猟です。坂網自体も自分で作ることができ、保管も簡単で、そのためのお金もかかりません。ただ、大変なのは技能の問題です。カモはどの方向に、どうやって飛んでくるかわかりません。それを稜線上の一点で待ち伏せるわけですから、その場所の判断は難しいものがあります。あくまで、そうした技能に長けた人にとっては生産性が高いのです。

 ワイズ・ユースが成り立つ前提として、野鳥の保護をしいる人たちは、カモ猟の技術を生産性の低いものと捉え、だから獲りすぎないし、環境にもいいだろうと思っています。でも、実は技能をもっていれば、非常に生産性の高い猟だということは言っておきたいですね。低技術・高技能で、コストパフォーマンスのよい猟です。

 片野鴨池の場合には、城下町の大聖寺のほか、近くに金沢のような大都市があり、カモが昔からよく贈答品やご馳走に用いられてきました。つまり商品になったわけです。いまでも治部煮のようなカモ料理は石川の郷土料理として有名ですね。そんなとき、野放図にカモ獲りを認めていたら、誰でもみんなカモ猟を始めてしまい、それこそカモの乱獲ということになってしまいます。そういうことにならないように、片野鴨池では明治時代から捕鴨組合という猟師の団体を作り、100株という厳しい制限を設けてきました。つまり100人までしかカモ猟ができないとしたのです。だから、かつてカモ猟がお金になった頃は、一株がかなりの高値で売買されたそうです。そうしたことは、カモの値崩れを防いで自分たちの生活を守ることでもあるし、カモの乱獲を防ぐことにもなったため、結果として鴨池の自然を守ることにもつながったわけです。

―― 資源管理という面から、100株が多い、少ないという議論は起きているのですか。

 実は、100株の内、現在実際に猟をするのは30人程度にすぎません。今では株の存在自体ほとんど意味がないといってもいいかもしれません。なぜかというと、カモが獲れないからです。カモの飛来数が極端に減っているのと、それに猟師の技能がやはり落ちてきているような気がします。いま、日本では銃猟禁止地域はどんどん広くなってきています。かつて、銃猟でバンバンやっていた頃は、カモがそういう場所を嫌って銃猟が禁止されている鴨池のようなところに集まってきていたと考えられます。しかし、現在は、銃猟禁止地域の拡大とともにカモも分散しているのでしょうね。また、日本全体でみてもカモの飛来数は減っているのかもしれないし、渡り鳥の問題は日本だけでなく繁殖地となるシベリヤなどを含む非常に広域に関わることなので、鴨池のことからだけでは分からないことがたくさんあります。

【賢明な利用(wise use)】
1987年にカナダで開催された「第3回ラムサール条約締約国会議」では、「湿地の賢明な利用」を「生態系の自然財産を維持しながら人類の利益に供するための、湿地の持続可能な利用である」と定めた。その「持続可能な利用」の意味については、96年の第6回会議で「未来の世代の必要と希望を満たす潜在力を維持する一方で、現在の世代が継続的な最大利益を得ることができるような、人間による湿地の利用」と定められた。

種子島のカモ猟

 片野鴨池の例と対照的なのが、同じように三角網を使った猟が伝えられている種子島のケースです。そこでは、なぜ三角網によるカモ猟が現代まで維持されてきたかというと、カモの集まる池とその周りの猟場が神社の神域に含まれていたからです。ですから、そこは猟銃を撃つことはおろか大きな声を出してもいけないし、池の中に立ち入ることもできないなど、いろいろな規制がありました。かつては、猟をする人も、ほとんどがその地域に住む神社の氏子に限られていました。

 片野鴨池の場合は商業活動として存続するために株数を制限して猟者の総量規制をしたわけですが、種子島は獲れるだけ獲ってよかったといいます。ただし売るに売れない。種子島の場合、昔ですと船しか交通の手段がなかったので、カモを消費地に出荷することが難しかったのです。一時期、観光土産物店にカモをおくことはあったらしいですが、それも量的には限られていたし、結局うまくいきませんでした。ですから、カモを獲ると、ほとんどすべてを自分の家で食べたり、親戚の家にあげたりしてしまいました。種子島で伝統的なカモ猟が守られてきた背景には、カモの猟場が氏神の神域だということと商品としてカモが流通しづらいというが大きく効いていたわけですね。商業活動として重要だったからこそ伝統カモ猟が守られてきた片野鴨池のようなところとの大きな違いがそこにあります。

―― 自分の獲る場所は、何か決め方があるのですか。

 片野鴨池の場合は、カモ猟が収入にもなるということで、特定の人がよい場所を独占できないように、年に1回くじをひきます。反対に、種子島の場合は、まったく自由です。どこに何カ所、カモ取りの足場を作ってもいい。ただし、10ヶ所作、20ヶ所と足場を作っても、体は一つですから、その日行けるのは1ヶ所ですね。

 銃猟よりは安いとは言っても、三角網でカモを獲るにはお金がかかります。現在では、年間20羽獲っても、掛かる費用の方が多いと言っています。ですから、現在はほとんど趣味、おもしろいからやっているということですね。

田んぼには生業と直結した「人為の中の自然」があった

 今、溜池とか田んぼでの魚獲りなど、水田漁撈が各地で復活しています。どうして復活してたかというと、一つは地域振興や村おこしの活動に関連して、もう一つは、地域の子どもの環境教育の場として田んぼが見直されてきたからです。両方とも、水田漁撈が食文化や生業といった多様な民俗の関係性とは切りはなされて、いわば事象として断片化している点では共通しています。例えば、昔の水田漁撈でいえば、獲る楽しみだけではなく、魚は食べ物にもなり、それを売って金を得ることもできました。また、田んぼや溜池で魚取りをするには農作業や水利の知識も不可欠でした。しかし、今復活している水田漁撈は、そのような他の民俗との関わりがすべて失われているのです。このように、「本来の意味を離れて使われる民俗、そうして生み出される民俗的なもの」をフォークロリズムといい、1960年代にドイツのモウザーやバウジンガーといった人たちが提起した問題です。

 例えば、本来の意味を省みないまま「民俗行事は古き良き日本人の心を伝えている」と愛国心教育で政治的に利用されるのはその一例です。水田漁撈について言えば、ミツカン水の文化センターで、「水に関わる生活意識調査」をされていますね。その中で、「子どもの頃の印象深いふるさとの風景」を尋ねていますが、「水田風景に思い入れをもっている」という回答が5割を越えています。しかも、20歳代の人も70歳代の人も第一位にそれを挙げています。おそらく20歳代の人が見ている水田風景というのは、耕地整備などで徹底的に人の手が加えられ、機械化され、また農薬や化学肥料が多投される工業論理化された稲作風景でしょうね。そこに、なぜ故郷のイメージや自然をダブらせるのかというと、おそらく、棚田風景などマスメディアで流される生業とは切れた稲作にまつわるイメージがあるのでしょう。水田漁撈の場合も、そうしたフォークロリズム的現象があるからこそ、環境教育や町おこしのイベントに利用されてくるのです。

 水田漁撈は既に他の民俗と切れてしまっていますから、使おうと思えば簡単に使えるわけですね。水田漁撈それだけを復活させてやればいいから楽です。田んぼの中に水をはり、フナやコイを放し、子どもたちに獲らせる。すると、子どもたちは、田んぼがいかに自然豊かであるかということを実感するというわけです(そんな思惑通りにいくとは思いませんが)。村おこしでも、同じことを祭を盛り上げるイベント行事としてやらせます。今復活している水田漁撈では、手づかみされた魚はそのまま捨てられてしまう場合もあり、漁撈と言いながら、魚を食べる行為とは切れてしまっています。そのように生活とは切れて、環境教育や町おこしのイベントのように、その時に与えられた設定でしか意味をもっていないことになります。断片化とはそういうことです。

 断片化された民俗ですから、水田漁撈よりももうちょっと効率の良い環境教育の教材がみつかれば、そちらにいってしまうでしょうね。水田を見直そうという機運とともに起こった一種のブームのような気がします。

 最近、その現れのようなものが見えるのは、水田漁撈としてマスやサケを獲らせるなんてことがあるんですよ。フナとかドジョウよりはインパクトはありますね、魚が大きいですから。でも、サケやマスは本来田んぼにいる魚ではありません。おそらく、次は、タイやヒラメでも田んぼに入れるのではないでしょうか。そこまでいったら、水田漁撈もぼろぼろになり、みんなに捨てられて終わりになるでしょう。水田漁撈に思い入れをもつものとしては複雑な心境です。

 さきほど、田んぼの風景に日本人が郷愁を感じるという話をしました。よく笑い話で、「日本で一番古くからあって今でも使っている人工物は何か」と学生に尋ねたりしますが、それはやはり水田だと思います。人の力が営々と加え続けられてきた場所です。時間の長さだけでなく、もっとも高度な人工物ということもできます。そこになぜ日本人が郷愁を感じるかというと、戦前の水田稲作のありかたと大きく関わってくるだろうと思います。在来の伝統農法ですね。そうした農法では、人が徹底して労力を注ぎ込んでも、そこに生み出される水田環境は、完全な人工物とはなりません。人工的なものでありながら、フナやドジョウのような水田魚類にとっては、産卵の場として、またよりよい生活の場所ともなっているのです。人工物だけれども、自然を取り込んで内在化している。自然を内在化し、第2の自然(「内なる自然」と呼んでいる)を造りあげる機能が、かつての伝統的な日本農業にはあったのではないでしょうか。だから、その中に自然を感じることができるのだと思います。つまり、日本人は水田の風景を見て自然を感じているのではなく、水田のもつ第2の自然を作り上げる機能をみて、そこに自然を感じているのではないかと思うのです。その象徴が水田魚類と言うことになります。環境教育の教材に水田漁撈が取り上げられるのも、その意味では一理あります。

 そうしたかつての水田稲作の中には当たり前に備わっていた第2の自然を徹底的に壊したのが、昭和30年代以降の農業です。それ以降、水田には農薬・化学肥料や大型農業機械が投入され、大規模な土木技術を伴った基盤整備が推し進められていきます。

 そうした日本の水田稲作への反省から、無農薬有機栽培の試みがなされ、また農薬なども改良が進められてきており、その結果として水田漁撈が復活したのは本当は良いことなのでしょう。でも、かつてのように断片化せずに水田漁撈を復活させることはもはや無理です。そうなれば、やはり水田漁撈は一時のブームに過ぎなくなってしまうことになるでしょう。どうしたらよいのか。それは課題というしかありません。

 大抵、民俗学は過去のことを調べますが、そこにとどまっていてはいけないでしょう。今後は現代にいかに寄与できるかも考えなくてはならないと思います。水田漁撈もそうした視点を持ってはじめて意味を有してくると思います。今、身をもって感じるのは、環境研究の中で民俗学に大きな期待が寄せられているということです。現代の問題にきちんと向き合いながら、昔の生活を復元し現在と比較できるようなしっかりとした基礎データを提示することが第一歩でしょうね。そこから、現実問題を解決するために、どういうものがくみ取れるかということは、いろいろな学問分野の人と一緒になって考えていかなくてはならないでしょう。

 今、私は鴨池総合研究会というのに入っています。これは私と鴨池観察館の元レンジャーの人との雑談から始まったものなのですが、今は完全に地元主導で動いています。おもしろいのは、地元大学の教官と学生それに行政と地域住民が中心となってはいるものの、そこに私のような地元以外の研究者や自然保護に関心のある人たちも巻き込んでいることです。狭い地域にこだわらず、また多様な分野の人たちが集まって、大聖寺という地域に鴨池があることの意味をまず問うて、それがどう未来に役立つのかを考えようとしています。こうしたところに積極的に関与していくことが、当面私にとっては現在学としての民俗学を考えることにつながっていくことになるだろうと思います。

―― よくわかりました。今日は長時間にわたり、どうもありがとうございました。

 (2003年11月28日)

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