水の風土記
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江戸時代・岡と浜をめぐる水産の社会史 
〜房総半島に見る漁民の生産・流通・村落〜

テレビで江戸の時代劇に馴れ親しんだためか、江戸時代というと農民や町人の姿がすぐに思い浮かびます。では、漁民はどのような暮らしをおくり、魚を取り巻きどのような商いが行われていたのでしょうか。 学生の頃から、漁師町の史料を調べ、江戸時代の漁民の生産・暮らし、漁業生産〜流通構造、漁村の実態などを丹念に再現しているのが後藤雅知さんです。日本史研究の領域でも、この分野は始まったばかり。「漁民の目」から見るということがどういうことなのか、思いもよらぬ話をご紹介します。

後藤 雅知

千葉大学教育学部助教授
後藤 雅知 ごとう まさとし

1967年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了、博士(文学)。
主な著書に『近世漁業社会構造の研究』(山川出版社、2001)、『水産の社会史』(山川出版社、2002、共編著)がある。

村は「浜方」と「岡方」に分かれている

 私は日本近世史が専門ですが、漁業史を選んだのは偶然です。

 大学生3年生で所属したゼミのテーマが「江戸内湾地域の諸問題」というもので、その中で自分でテーマを見つけ3回ほど発表しなければなりませんでした。私の実家は東京・品川区でしたので、「とりあえず、品川でも見ようか」と思い、南品川漁師町という場所を対象として選んだのが、そもそものきっかけです。

 品川は宿場町として有名ですが、その一角に南品川漁師町があります。ここは、専業の漁師だけが集住している町で、現在の目黒川河口当たりに位置します。3年生の時には、ここと、神奈川県の磯子、千葉の金谷を事例に報告しました。そして、翌年の卒論では金谷村を題材に房総で獲れた生鮮魚がどのように江戸に運ばれるかを調べました。

 実は、南品川漁師町を調べていて、いくつか不思議に思ったことがあるのです。

 一つは、高札場の問題です。江戸時代には一つの町には必ず一つ高札場があります。そこに、3〜5枚程度の高札がぶら下がっており、それはどの村にもあるのが原則です。品川も宿場町ですから高札場があるはずなのに、品川に含まれている南品川漁師町には、品川の高札場とは別に「浦高札」というものがかけられる場所がありました。町には高札場が一ヶ所のはずなのに、なぜ南品川漁師町には別途浦高札がかけられたのか。これが不思議でした。

 もう一つは、宿場町というと、近世史を勉強する前のイメージでは雑多な人が集まっている印象があった。しかし、南品川漁師町は漁民だけが集住しているという不思議な空間と景観をもっている。それも不思議だなあと思いました。

 ただ、学部生の時は、それがどういう意味をもっているかはよくわからなかったのです。

 その後上総国天羽郡金谷村も調べてみましたが、この村も村として見るとちょっと変わっています。よく見ると、村の中が「岡方(おかかた)」=農業集落と「浜方(はまかた)」=漁業集落に分裂しているのです。

 浜方は完全な漁業集落です。現地に行くと今でも景観がまったく違いまして、ここからここまでは岡方、ここからは浜方と、画然と分かれていることがわかります。

 農民の集落は屋敷が大きくて塀に囲まれていますが、浜方に入ると、1軒1軒がびっしりと隣接して塀がない。家数は多いのですが、総面積は広くない。金谷村を調べ、はじめて南品川漁師町のことも思い出したわけです。

 漁民だけが集住している村が近世にはあり、それは農民が集住する村とは、景観も生活スタイルも全然違う。金谷村そのものは一つの村であって、一人の名主がいて、村請制というシステムが働いている。にも拘わらず、その内部は岡方と浜方に分かれている。しかも、浜方には「浜方名主」という者がおり、それは村全体の名主ではないにもかかわらず、行政的には名主に近い仕事をしている。

 このことに気づくと、房総半島にはそのような例が数多く見られるのです。

 これまで、江戸時代の研究者は、「漁業をしているから漁村」と呼んでいたわけですが、「そのように言うのはおかしいのではないか」と思うようになりました。居住者数でみると岡方、浜方は約半々で、若干岡方が多い程度です。「金谷村はどういう村ですか?」と訊かれ、「漁村です」と答えても、住んでいる半分の人は漁業専業で、半分の人は漁業をまったくしません。こういう村をどのように説明したらよいのか。

 あらためて、漁民の住み方とか、生活スタイル、村の中で漁民がどういう位置にあるのか、岡方=農民とどんな関係をもちながら一つの村の内部にいるのか課題にできるのではないかと思ったわけです。

 浦高札は浜方にあったわけですが、浦高札で規定されている様々な仕事があります。例えば、海で難破船を見つけたら助けなさい。助けたらどれくらいもらえる。そういうことは浦高札に書かれて決められています。その書かれたことを実際に負担して担うのは誰かというと、金谷村では浜方です。学部生の時は気がつかなかったけれど、岡と浜が分かれているということを象徴的に示していたのが、実は浦高札だったんですね。

漁民にとっての土地と海−石高とは?

 村が豊かかどうかを知るには、通常「村の階層構成表」、すなわち、どの農民がどれだけの土地を持っているかという一覧表をつくります。でも、金谷村のような村で一覧表を作っても、住民の半分にあたる漁民は土地を持っていません。すると、土地をいくら持っているか合計しても、村の豊かさを評価できないわけですが、それ以前に、そもそも村がどういう風にできているかがわからないということに気づいてしまったわけです。

 さらに疑問に思う点は、「なぜ岡と浜が別れているのか」ということです。双方が一緒にならないし、岡方にも浜方にもそれぞれ名主がいます。

 金谷村の場合、浜方の百姓は屋敷地しか持ちません。その屋敷地に対しても、浜方はどの程度強い所有権が存在したかは不確かです。

 金谷村の南に安房国平郡坂之下村という村があります。坂之下村はもともと塩入村の浜方集落でした。坂之下村が分村したいと願い出てきたのを、領主は自分の収入を増やしたいために認めました。ところが、分村後が異常で、坂之下村には、人が住んでいるのに土地が無いという姿になりました。屋敷は全部、もとの岡方である塩入村からの借地になりました。これを見ると、浜方の屋敷への所有権は強いものではなかったと考えられます。結局、坂之下村の石高は海の上にしかない、すなわち「海石高(うみこくだか)」しかないということになったのです。海を石高に入れるというのは原則としてはおかしい姿ですが、実際に陸の上に村の石高がないという不思議な村が生まれたわけです。

 このようにもともと一つの村の内部にあった岡と浜とが分村した例はいくつかあって、安房国長狭郡波太村(なぶとむら)が浜波太村(はまなぶとむら)と岡波太村(おかなぶとむら)に分かれた例もあります。浜波太村の石高は48石余で、内32石は架空の石高=海石高で海の上にあることになっています。12石余はおそらく村民の住んでいる屋敷地だけで、田畑がほとんどなかったと思われます。

 ここで石高について説明しなければなりません。

 太閤検地以降、検地で土地の生産高を調べますが、石高をつけることができるのは田と畑と屋敷です。それ以外の「山野河海(さんやかかい)」と呼ばれる場所には、石高のつけようがないのですが、秀吉の意向としては、そこまで検地したかった。そこで石高がつけられない土地は、「小物成の地(こものなりのち)」と称し、「小物成」(まあ運上金です)を賦課しようとしたわけです。

 「本途物成(ほんとものなり)」は土地にかかる年貢のことで、「小物成」は運上金と同じような意味で近世以降使われるようになります。山野河海は、運上金を上納した者に用益権を認めるようになったのだというのが、高木昭作さんという研究者の説です。

 海に関する小物成も、ある時期から数値計算により、石高で表すようになります。「海石高(うみこくだか)」あるいは「海高(うみだか)」といいますが、それは近世のある段階で村の石高に組み込まれます。その額は幕末に至るまで一定です。漁業生産がそれほど盛んでないにもかかわらず、海石高が高く設定されいてる村もあります。したがって海石高は漁業生産を反映しているとはいえません。ただ、全体として税金が一定であるはずもなく、領主は海石高とは別に、新たな運上金をどんどん付加していきます。

浦請負人(うらうけおいにん)

 領主は、どういう魚がどれくらい獲れているかをときどき調べます。そして、運上金をどの程度取るかを考えるわけです。

 運上金を、入札制度で決める場合があります。漁師の側が「これくらいの入札値段で税金を払う」と応札して、漁業権を得るのです。操業度と儲けはある程度見込んでいるわけで、こうして、近世中後期以降はとくに、運上金は「漁業権の使用料」という意味になっていきます。

 こうした中で、個人で入札に応じ、個人で運上金を支払い、個人で漁業権を獲得する者が発生します。つまり、個人で漁業を行う者が発生してくる。

 入札で漁業権を得た者は、今度はその漁場に他の漁民が入ってきたら、その漁民から使用料を取るわけです。そして、多くのケースでは、漁民が採った漁獲物を一手に買い上げ、それを江戸にまとめて売って、差額は全部自分の利益とします。

 こういう商いをする者を「浦請負人(うらうけおいにん)」といいます。網元はこれとは別でして、網を所有して労働力を雇い入れて自分で操業するのが網元です。

 さて、そうなると、海は村のものではなく、浦請負人のものになってくる。すると、海の所有も重層的であることが見えてきます。

一口には語れない漁業権

 鮑を取る権利、海草を採る権利など、漁獲対象ごとに漁業権は分かれていたらしいですね。戦前まではそれぞれが入札にかけられていたようです。法社会学の文献を読んでも、一つの漁場にいくつもの漁業権が設定されていて、今はそれを漁協がもっているという形になっています。

 例えば鮑の漁業権を買い取った人は、どこにどれだけ海士(あま)を投入すれば儲かるかを考え、入れすぎると乱獲になり翌年獲れなくなってしまうという限界もわかる。そのバランスで入札価格を決め、落札すれば海士を自由に差配できるわけです。

 このような浦請は房総だけではなく、全国にも存在したようです。浦の請負は一地域の特殊な事例ではなく、漁業社会での漁業権を決定する主要なシステムではないのかと、私は考えています。

 また房総地域では「沖は入会で、地付きは村限り」という漁業の操業場所区分が、かなり古くから存在しています。鮑や海草は動けないわけですから、地付きであることはすぐに分かります。また、魚の中でも、根岩にいるようなボラをとる漁業は、地付き漁業に入ります。根岩にいる魚は村境ごとで漁業権が分かれるのです。

 それに対して、カツオやブリ、イワシなどの回遊魚は、沖漁業で、入会漁業です。

 この二つを大きく区別した上で、地付漁業の内部が魚種ごとの漁業権に分裂していきます。例えば、海草でも、房総南岸では海草全部ではなく、文政11年(1828)からはテングサだけが独立するという例もあります。

 このときは前年に領主がテングサの生産高を調査し、これをもとにテングサに運上金をかけるわけです。するとこの運上金の上納する請負人が発生し、それが一手にテングサを集荷するようになる。テングサに運上金が付加されたからといって、それまで海草にかかっていた既存の運上金は下がりません。それとは、別に、テングサだけに運上金をかける。そのようにして、地付き漁業権は複層化し、何層かの漁業権が設定されます。

 問題は沖でして、まだよく解明されていません。

 例えば、このようなケースがあります。イワシ漁業を行う網元単位で、「いくつの網があるから、網一つあたり運上金をいくら払え」という徴収方法で、そういう村もたくさんあります。これは漁獲量とは必ずしも一致しません。

 こんな例もあります。平野仁右衛門(ひらのにえもん:安房国浜波太村の漁業権を一手に管轄していた浦請負人)家の文書を見ていると、カツオの運上金というのはありません。ではカツオに運上金をかけないかというとそうではない。カツオを取るための生き餌はイワシです。獲れたカツオに運上金をかけても大変だから、餌のイワシをどれくらい取ったかで運上金をかけるわけで、実に巧妙です。

 平野家は、浜名太村で鮑とイワシの漁業権をもっているので、周辺のカツオ漁師がそこへやってきて、まず餌採り船がイワシを採る。それを沖合に運んでいってカツオを採る。その餌となるイワシに運上金をかけています。

江戸の消費者と房総の関係−生魚vs.干鰯

 内房は江戸に生鮮魚を供給する地域として重要ですが、さらに外房は生鮮魚としてブリなどもとるし、イワシをとって干鰯という肥料にもする。生と乾物の両方が重なる場所です。だから、時には生鮮魚と干鰯のどちらを優先するかで争論になる。これが先鋭的に出るのが、江戸まで生鮮魚が届く距離でもある外房地域なんですね。

 干鰯を集荷するのは江戸や浦賀の干鰯問屋で、生鮮魚を集荷するのは日本橋の魚問屋です。すると、この争いは実は問屋同士の争いにもなる。漁民同士だけではなく、その裏にある流通と消費の構造までを背景に、一つの漁場で紛争を起こす構造が生まれています。

 在地と問屋の関係ですが、房総沿岸の場合、在地に集荷する商人がいます。それを小買商人といいます。彼らが現地集荷を担当します。輸送手段を所有しているかしていないかで、小買商人は分けられます。自分で「押送船(おしおくりぶね)」を持っている場合は、それで江戸の問屋まで送ります。問屋からの前貸し金は逆の流れで、問屋が在地の小買商人に貸し付け、小買商人が在地の漁民にカネ、あるいは船や網などを買い与える。問屋による前貸しの支配が、在地にまで及んでいるというのが基本的に考えられていることです。

 小買商人が輸送手段をもっていない場合は、船をもっている者に依頼するわけですが、それは別の小買商人の場合もあれば、船だけをもっている運送業のような者もいる。江戸の特定の問屋から輸送だけの依頼を受けているような者です。

 平野仁右衛門家の場合、浦請負人であり、網元でもあり、小買商人も兼ねています。これが一番儲かった方法でしょうね。このように、浦請負人は小買商人と網元を兼ね、いろいろな仕入れ手段をもち、多様な漁民をその下に編成し、重層的な生産・流通構造を体現しています。この浦請負人は多くの場合は浜方に属し、名主を勤めたものもいました。

 それと、生鮮魚の場合、江戸の魚問屋は漁師から直接仕入れはできず、小買商人からしか仕入れはできません。問屋のルールで禁じられているのです。したがって問屋にとっては、在地での漁獲物集荷を小買商人に依存しなければならなかったわけです。そして江戸時代も後半になると、小買商人の中からは、江戸の魚問屋にカネを貸す位の有力な者も出てくるようになります。

岡と浜の喧嘩−実は岡と浜は支え合っている

 さきほどふれた金谷村の事例ですが、漁民が網を干す砂浜は浜方のものかと思うと、そうではないのです。浜方は事実上の使用だけで、地面を占有していたのは岡方でした。「網干場は、岡方の田畑の端だから、貸借関係を結び直せ」と、天保年間に岡・浜争論が起きています。

 この岡・浜争論ですが、もとは岡方が小規模な漁業をしていた。農作業の合間ですから、お互いがなあなあで操業していたのです。ところが、その内に岡方の漁獲量が多くなり、岡方が江戸に売る場合が出てきたのです。江戸の問屋は、「金谷村からの魚なのに、うちに来ないものがあるが、あれは何だ」と気づき、浜方も「気づかれたのならしょうがない」と、浜方が岡方を訴えたというのが事の起こりです。

 すると訴えられた岡方は怒り、浜方が今まで使っていた網干場の利用も禁止するし、山林で燃料に使う落ち葉や草木を取ることも禁止すると言い出す。岡方と浜方がそれまでもってきた交流関係を切断するというわけです。こうなると、浜方は生きていけません。

 ここで、冒頭にお話しした、「なぜ村内で岡方と浜方は分かれていながらも、それぞれが別の村にならないのか」という疑問につながるわけですが、浜方は単独で生きていたのではないのです。岡と交流があって、浜方は岡方を含んだ村の中にいたからこそ暮らしていけた。金谷村などのように、岡と浜が存在した村の場合、岡方は浜方の糞尿を無料でもらい肥料に使っています。金谷村では、さらに、それでは足りないので、海に入り肥料用の海草は採ってよい。ただし、売ってはいけない。それを浜方が岡方に認める代わりに、岡方は浜方に網干場を貸し、山林に入ることも許すという形で共存するわけです。だから、岡方も生業としての漁業はできないが、農業の補助的漁業、農業に必要な限りでの漁獲物の採取はできたということです。

 このように、浜方、岡方、お互いが結び合ってこそ村を維持していけるという感覚を、当時の村人たちはもっていたようです。

 漁民の生産、流通、所有といった分野の研究はまだまだ始まったばかりで、これからも調べねばならないことは山ほどあります。

 私は、今後、海だけではなく、山林の所有についても見なくてはいけないと思いますし、また房総だけではなく伊豆や富山県氷見などにみられる、固定的な網場利用の問題についても調査していきたいと思っています。

 (2004年8月30日)



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