水の風土記
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信頼がリスクコミュニケーションを左右する 
〜合意形成の社会心理〜

「この世に災害などおこるまい」「自分が災害に遭うことなどあるまい」と思うのは人情というものかもしれません。しかし、ある程度のリスクを前提にしないと、安全な社会文化はつくれそうもありません。そのキーワードは信頼だ、というのが中谷内一也さんです。信頼、リスクコミュニケーション、合意形成という三つのテーマについてお話をうかがいました。

中谷内 一也

帝塚山大学心理福祉学部教授
中谷内 一也 なかやち かずや

1990年、同志社大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。静岡県立大学助教授を経て、2001年より現職。
主な著書に『ゼロリスク評価の心理学』(ナカニシヤ出版、2004)、『環境リスク心理学』(ナカニシヤ出版、2003)、他。

ひとびとは「人為的な介入」に、高いゼロリスクを願っている

 リスクという言葉がよく使われます。私は、リスクを「人間の生命や健康、資産に望ましくない結果をもたらす可能性」のことと考えています。

 人々は究極的にはリスクを「ゼロ」にしたいと願うと言われており、それを「ゼロリスク要求」と呼んでいます。しかし、当然ながら、この世の中のリスクをゼロにすることなどできません。したがって、「ゼロリスクを願うこと(ゼロリスク要求)」と、「ゼロリスクが達成可能であると思うこと(ゼロリスク達成可能性評価)」は別の事柄です。この二つの視点から、洪水や、原発事故、飛行機事故など、いろいろな災害(ハザード:傷害をもたらす可能性のある行為や現象)を調査してプロットしたことがあります。それが下の図です。

 水害、台風、土砂崩れ、地震等は、ゼロリスクの要求度も中程度。つまり、「人が死ななくなることはありえない。要求しても無理」と考えている。このことを、かつて駐日米国大使を務め、日本論でも著名だったE.O.ライシャワーは「台風メンタリティ」と呼びました。「日本人は毎年台風で被害を受けており、自然災害を義務であるかのように考えている」と言っています。ですから、自然災害を、たまに被害に遭うことも含めて「こんなものだろう」という感覚で受け止めているのでしょうね。

 むしろおもしろいことは、医療などはゼロリスク「要求」が高く、かつ、「可能」であるとも思っている人が多いということです。中でも輸血感染症や薬の副作用については、ゼロリスク要求が高い。そして、病気そのものは、それよりも低い。つまり、極端に言うと、「ガンで死ぬのはしかたないが、ガンを切除する手術の失敗で死ぬのは嫌だ」ということですね。自然的なもので死ぬのは嫌ですが、リスクを下げるための人為的な介入で命を落とすことについては、もっと受け入れられないというわけです。

 人為的介入に対するゼロリスク要求が高いということは、重要ですね。

 例えば土木分野の例を出しますと、洪水のために、平均して10年に1回水に浸かり、それにより年間換算すると一人の命がなくなっているとしましょう。それは「しょうがない」と人々が受け止めていたとします。でも、そこにダムをつくり、ダム工事に欠陥があったがために、2年に1人死ぬぐらいの洪水になったらどうでしょうか。死者数としてはダムができる以前に比べ半減しています。しかし、それをみんなが納得するかというと、まず無理でしょう。これは人災であり、防ぎ得たはずの災害と思ってしまう。でも、実際には科学技術というのは常にリスクがあるもので、ゼロにはできません。でも、そう思ってしまうということですね。

 ダムを造ったり、護岸工事を行うというのは、人間が行うことですので、人工環境の問題という枠組みで捉えられ、ゼロリスク要求は高くなる。ですから、自然災害を抑えようとして人間が介入し、河川の安全性を高めたとします。でも、人間が介入した以上、ひとの見る眼が厳しくなり、介入によるリスクは許容しにくくなっている。たとえ、介入によりリスクそのものが低減しても、それを受け入れたくないと思うわけです。

ゼロリスク要求についての評定平均値


図 各種ハザードに対するゼロリスク要求と達成可能性評価
(中谷内一也『ゼロリスク評価の心理学』ナカニシヤ出版、2004、P108)

直接の利害をもたない市民が合意形成でパワーを発揮する

 以前、「合意形成がどのようになされたか」という観点から、千歳川放水路計画(北海道)について調べたことがあります。石狩川周辺がかなり高い頻度で水に浸かるため、日本海側に注いでいる石狩川の途中から放水路をつくり、それを太平洋側に伸ばそうという計画です。ただ、普段は放水路を占めていますので、ヘドロがたまります。そして、大水の時に放水路を開けると、そのヘドロが流れ出して漁業関係者は大きな被害を被る。一方、近くにはウトナイ湖などの湿原があり、ラムサール条約で守ることになっていた。つまり、利害関係者がたくさんいたわけです。結局、1982年に打ち出されたこの計画は、1999年に中止されました。ただ、ここにいたる過程は興味深いものでした。

 ある市民団体は、「100年に1度の洪水を、200年に1度の洪水に」と、リスクをどんどん下げることよりも、「自然環境を保護したい」と訴えました。そこで、大規模な放水路をつくるという対処方ではなく、遊水地をつくるという提案を打ち出した。つまり、一般の方々が必ずしもゼロリスクを求めるとは言えないということです。

 そこで、当事者が互いに討論会やワークショップを開きました。放水路計画撤回までに20年かかっているのですが、重要なのは、「最初は反対だったが、だんだんと賛成になった」という人はいないということです。利害関係がはっきりしている場合は、「合意形成の手続きが正当だから、私は損をするけれど譲ろう」ということはまずありえないということです。ですから、最初反対していた人は20年間ずっと反対ですし、賛成の人はずっと賛成。その人達だけで話が合意に達するということは、まずありえない。

 では、何がキーポイントになるかというと、「直接の利害はもっていないけれど、人数としては大きな影響力をもつ一般市民」です。つまり、この人達の意見、世論ですね。これが強いために、利害関係者は互いに共通の土俵に載って、「自分たちの主張はいかに正しいか」というパネルディスカッションを積極的に行うわけです。お互いに「相手を論破しよう」というよりも、「一般市民を納得させた方が勝ち」ということがわかっているからなんですね。

 かつては河川改修工事を、そこに土地をもっている人、工事をする人、行政など、強い利害関係者だけで決めていましたが、一般市民が関わるようになり、その動向を無視しては話は進まないようになりました。そこで住民参加プログラムがクローズアップされるわけですね。

住民参加プログラムが本来もっている矛盾

 住民参加プログラムといっても、「結論先にありき」で、住民に既定案を受け入れさせるための儀式となっているものもあります。最初の計画と、住民参加プログラムの最終的なアウトプットが変わらなければそう思われてしまいます。

 そうなると、どうなるか。

 利害関係者が参加しなくなってしまいます。なぜかというと、自分たちが出ると、既定の計画を認めたと受け取られるからです。一方、利害関係者が出ないと、関係者同士の話し合いがなされていないと映ります。住民参加プログラムがあっても、中身が伴っていないと、このような事態に陥りやすい。

 では、中身が伴っていればよいのかというと、一概にそうも言えません。確かに、案のたたき台がないと住民参加は難しい。しかし、たたき台が固まりすぎていると、「もう決まっているのではないか」と疑念を抱かせてしまう。

 住民の方がよく口にする言葉に「おれは聞いていない」とか「突然、天から降ってきたようなことだ」があります。ですから、住民参加プログラムは、利害関係者の初期段階からの参加が重要です。

 とはいえ、計画がない所では誰が利害関係者かわからない。ある程度それが明らかになってきたら、関係のありそうな利害関係者に声をかける。かけられた方は「そんなことは聞いていない」。本人にしてみれば当然で、ここまで案が固まっていて最後に呼ばれても納得がいかないわけです。ですから、初期段階からの参加というのは、どうしても原理的に無理がある。あるのですが、「だから、しょうがない」ではなく、「それでも、最初からできるだけ多くの方を巻き込みましょう」ということが大事なのでしょうね。

リスクコミュニケーションには信頼が大事

 合意形成のためには、人々がリスクをどのように認知しているかということを互いに知ることが欠かせません。リスク認知研究は1970年代後半からアメリカで活発になります。もともとは原子力発電所のリスク認知研究から始まっています。専門家の目から見ると、技術も進み、寿命も伸び、大災害も減ってきている世の中なのに、人々は前にも増して怖れている。それが不思議に映ったんですね。ところが、市民の側では、「われわれは20〜30年前よりも、より一層リスクに曝されていて、将来は、よりひどくなり、手に負えなくなるのではないか」という危機感を持っている。そこで、市民が危険や災害をどのように認識しているのか理解し、その上で専門家と市民の両者をリスクコミュニケーションで近づけ、合意形成を得ようと考えたわけですね。

 この研究の過程で、何が分かってきたのか。

 専門家は災害を「確率×被害の大きさ」で表します。例えば「10年に1回、50人の人が負傷する」という具合いです。ところが、市民の災害に関する認識は、二つの側面がある。

 一つは「未知性」でして、「災害を起こす可能性のある要因が、どの程度昔からあって、自分にとって馴染みがあるか」という点です。

 もう一つは、「恐ろしさ要因」ですね。例えば、仮に100人が死ぬのでも、毎日一人ずつ死ぬよりも、一度に100人死ぬ方が、私たちは「大変」と感じます。つまり、単に災害の死者数ではなく、災害がどれぐらいインパクトをもつか、あるいは、どの程度被害の様子を生々しくイメージしやすいのか、ということが大事とわかってきました。

 これらの点を踏まえ市民とコミュニケートして、専門家とのギャップを埋めようと考えたのですが、なぜかうまくいかなかった。

 一つの理由は、先ほど例に出したように、「結果ありき」が見透かされてしまい、市民から信頼されないと、どんなコミュニケーション手段をとっても受け入れてもらえない。ならば、どうすれば信頼が得られるのでしょうか。この点が大きな問題でして、現在、環境問題や環境心理学では、信頼形成研究が非常に重視されてきています。

信頼に甘えるな

 リスクコミュニケーションで「信頼が大事」と言われ始めたのと並行して、住民参加プログラムや、ワークショップ等の参加型合意形成プログラムがつくられてきました。これは偶然ではありません。市民参加やワークショップは、「信頼を得るための一つの方法」とも言えますし、「信頼問題を回避するための方法」ととることもできます。

 ここで信頼の意味を明確にしておきましょう。

 信頼というのは、本来、まかせておくことです。

 例えば、「私があなたの嫁さんを預かって、あなたに金を預けて、何かをさせる」という、「走れメロス」のようなケースがあります。これは人質をとっているわけで、相手を信頼しているとはいえないでしょう。人質なんか取らなくても「この人はやってくれるだろう」、と思うことが信頼なんですね。

 では住民参加プログラムはどうかというと、これは人質をとるわけです。つまり、議論の透明性を高め、誰が何を言ったかを外からわかるようにして、監視する。監視した上で一緒に進めていくわけですから、ここから得られるのは信頼とはいえません。

 しかし、参加者の間で信頼そのものが低くなってしまった時には、いわば人質をとった上でまかせる方法から始めることは有効なんですね。「お役人は冷たい」と思っていた市民の目線が同じになることで、互いにわかりあえる状況が生まれる可能性もありますから。ただ注意しなくてはならないのは、そこで行政側が「では、まかせてもらおう」となったらだめなんですね。もともと信頼されていないから始まったプログラムなわけで、「情報を公開し、何か隠し事をしたらえらい目にあう」という状況をキープしているからこそ、住民参加プログラムの意義がある。そこで仲良くなったから、まかせてもらおうとすると、揺り戻しが来ます。

 つまり、「信頼に甘えるな」ということです。あくまでも、相手は信頼してくれていないという前提で情報公開をするべきだし、誰が責任をもつのか明らかにしておかないと、住民参加プログラムの意味がなくなるわけです。

どうすれば信頼を勝ち取れるのか

 相手にまかせる、と言いましたが、これには先ほど話しましたように、二通りの意味があります。一つは「安心:assurance」で、これは人質をとって裏切らないというものです。もう一つは、「信頼:trust」で、人質なしで相手の性格や能力を評価しておまかせする。そして、安心と信頼の二つを総称して、「信用:reliance」と呼び、頼ること全般を指します。

 信頼があると、人のつながりが社会基盤として機能し(ソーシャル・キャピタル)、ものごとを取り決めたり、秩序を維持するための社会的コストが安くなるんですね。行政がすることに、市民が信頼して任せてくれると、社会的コストは安くすむ。

 安心ですと、人質を出してもらうコストはかかります。ですから、信頼の方が当然ながら重要なのですが、これをつくるためには、まずは安心を与えねばならないというのが私の考え方です。

 その時に大事なことは、「自分から与える」ということです。

 例えば、市民が不信感をもち、「証拠を示せ」と言われてから出しても信頼には結びつきにくい。安心を信頼にするためには、行政や企業が「先回りして自分から示す」。つまり、コストがかかることをあえて自分から行うと、相手も「わかった、わかった」と了解し、相手に信頼が生まれ、その結果として社会的コストも低くなる。

 では、信頼を生むコミュニケーションの条件とは何でしょうか。

 メッセージの送り手が、有能で、人柄が良ければ、相手を信頼すると言われたこともあります。しかし、必ずしもそうではない。例えば、アメリカの大学で学位をとった人が防災計画を立てたとしましょう。有能ですばらしいという人もいれば、現場を知らないと言われることもある。有能であることをいくらアピールしても、既に不信感があれば、言うだけ無駄になります。また、熱心な人というのは通常はほめ言葉ですが、自分にとって嫌なことを熱心にする人は、ある意味で困る人であり、誠実な人がいい人というわけでもない。

 では何が重要な条件かというと、自分と相手との「価値の類似性」ではないでしょうか。例えば、「私はできるだけ自然環境を残したい」と思っている人が、相手を「この人は自然環境保護をしようと思っている」と思ったら、その人の情報を信頼する。そして、その上で、例えば「アメリカの大学の学位をもっているから有能だ」とか「公聴会にも一生懸命出ているから誠実だ」と評価する。つまり、同じ情報でも、その解釈の方向性を決めるのは、「自分と同じ価値観を共有しているかどうかが根本だ」という議論が最近強いのです。

災害に強い社会とは

 信頼をつくることが、リスクを低めることにも重要と考えているわけですが、最近気にかかるのは、消費者がゼロリスクを要求し、企業も表面的にそれにあわせようとするところです。リスクというのは基本的に、求めるリスクのレベルが下がるほど、それを達成するためのコストは上がります。しかも、ゼロリスクは存在しえない。ですから、ある程度のレベルで折り合いをつけなければならない。にもかかわらず、ゼロリスク要求が強いと、適切な環境対策やリスク対策がうてません。

 これから科学技術が高度化すると、いままで発見できなかったリスクも検出できるようになるでしょう。そうなれば、技術的には、例えば100年に1度の防災対策を500年に1度の防災対策にできるかもしれません。しかし、それはものすごくコストがかかることです。

 ですから、「ゼロリスクは無理であって、リスクを低めるにはコストがかかる」ということをよく認識した上で、「リスクの緊急性の高いもの、大きいものから対処していきましょう」と合意形成できる社会が、災害に強い社会という意味ではないでしょうか。災害に強い社会の文化とは、すぐに安全を目指す文化ではなく、リスクを認識する文化だと思います。

 (2005年6月10日)



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