水の風土記
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環境・人口・文明システムが
人口変動を左右してきた 
〜いま静止人口を目指すべき〜

「宗門改帳」といった過去の史料から、地域や広域の人口を推計するのが歴史人口学。日本で早くからこの手法で人口を調べ、「日本には4回の人口の波動があった」と述べるのが鬼頭宏さんです。少子化対策が叫ばれるいま、鬼頭さんはどのような社会像を期待しているのでしょうか。

鬼頭 宏

上智大学経済学部経済学科教授
鬼頭 宏 きとう ひろし

1947年生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程満期退学。慶應義塾高等学校教諭、上智大学助教授を経て現職。専門は日本経済史、歴史人口学。
主な著書に『環境先進国江戸』(PHP研究所、2002)、『人口から読む日本の歴史』(講談社、2000)など。

人畜改帳に記されていた江戸の生活世界

 ある地域の人口やその変動を知るには、史料が必要です。ヨーロッパではは子どもが生まれると、管轄の教会で洗礼を受けます。洗礼のほか婚姻や埋葬の記録が「教区簿冊」と呼ばれる帳簿に記載されますが、それを調べると、ある教区の出生・死亡・人口の変化がわかります。このような史料による人口研究を歴史人口学といい、ヨーロッパで1960年代に盛んに行われるようになってきました。

 日本では教区簿冊の代わりに、江戸幕府が町村ごとにつくらせた「宗門人別改帳」が同じような役割を担っています。これに私の先生でもあり日本に歴史人口学を根付かせた速水融先生が着目し、家族毎の人口変動を見て、近代的な人口統計とつなげて見られる指標をつくるという実証的な人口研究が始まったわけです。

 なぜこのような人口研究に私が興味をもったのか。

 私がゼミに入ったのは1967年(昭和42)でしたが、私は経済学部に入ったのに、お金の計算が苦手なんですね。どうも浮世離れしていて、子どもの頃から生きものが好きだった。そこで、「経済学の中で、一番生物学の知識が応用できるのはどこか」と考えると、それは人口しかないだろうと思ったわけです。当時は、高度経済成長の時代で、江戸時代以来の伝統がどんどん壊れていくところでしたし、民俗学者が調査していた昔の暮らしや生活史には大いに興味をもっていました。これらをドッキングできないかなと思い、この道を選んだわけです。

 最初は、九州熊本藩(細川家)の人畜改帳を史料に選びました。これには江戸時代初期の人口、家族の構成、家畜、住宅が記されていた。特に私が興味をもったのは住宅です。あの地域の住宅の特性は、一つの大きな屋根の下に部屋が分かれているのではなく、一つひとつモジュールになるような家屋が集まって全体の家屋群を構成していたことです。このため、各家屋の用途が改め帳に書いてあるんですね。例えば、収穫したものを置いておく「刈りもの蔵」、あるいは「馬屋」「牛屋」「灰屋」、かまどのある「竃屋(かまや)」、仏様が祀ってある「持仏堂」。

 さらに、当時九州では家族だけではなくて、「名子(なご)」や「下人」という隷属農民と呼ばれる人々が同じ屋敷の中で暮らしていた。そこから、世帯の規模などを調べたのが、私の出発点でしたね。

 その後も、信州や関東の宗門改帳を史料にして、丹念に調べました。

全体の人口はどのように変化しているのか

 このような、いわば歴史家が虫眼鏡で一つの村や家族をこと細かく見ていく作業を続けてきたわけですが、それだけでは飽き足らなくなってきたわけです。村や家族の人口変動が、社会全体としてどのような変化になって現れるのか。これが気になってきたのが1980年頃でした。

 1972年(昭和47)頃、私は「第三次全国総合開発計画」策定の仕事を手伝っていました。その過程で日本列島の人口をできるだけ古くまで遡って調べることになり、私は江戸時代を担当しました。ただ、そこで導き出された日本列島の人口の歴史像、つまり、江戸時代までは人口は単調な増加しかしていないという結論に、私は納得できなかった。

 基本的に、人口は食糧とエネルギー、場合によっては水が規定します。

 ただし、食糧といっても動物のように狩猟採取して暮らしているなら気候変動の影響を強く受けるでしょうが、実際には技術や制度、生活様式などが、食糧資源の利用方法や加工の水準を決めます。ですから、食糧の供給量を左右するのは環境と技術、社会制度と言ってよいですね。

 その技術は、連続的に変化するものではない。人口がどこまで増えるかは社会がもっている食糧供給量で決まってしまう。もちろん、技術改良などで天井を動かすことはできますが、それもあるところまでいくと止まってしまう。その次のステップに移行するまでには時間がかかる。移行のきっかけは人口圧力であるといわれています。人口圧力が高まって、いままでのやり方ではやっていけないという状態が続くと、人間はいやおうなく新しい技術を受け入れ、一生懸命働いて生産力を引き上げるというわけです。

 このような立場から見ると、人口はけっして単調に増えていくわけではない。事実,調査を進めていくと、環境や社会構造の変化から影響を受け、増加する時と停滞する時が交互に繰り返されて、人口が変動しているということがわかってきたわけです。

 私は、現在では、このような波動を、環境と人口と文明システムという三つの要素で説明できるのではないかと唱えています。

人口は波のように増えたり減ったりする

 過去一万年ぐらいから現代まで、大きく見ると四つの人口増加期があって、その間に人口が減退する。おもしろいことに、日本列島の人口の増加と減退・停滞を一つの循環だとすれば、循環毎にピーク人口は一桁ずつ増えてきました。

 縄文時代ですとピークは中期、今から4300年ほど前になります。人口26万人と推計されています。それから弥生時代の59万人を経て、奈良時代に入りますと約600万人。江戸時代初期にはおそらく1500〜1600万人。それは15〜16世紀の室町時代から始まっている人口増加ですが、享保期、18世紀の初期に3100万人ぐらいまでいって、その後あんまり大きな変化しません。幕末・明治維新期あたりからまた人口は増加し始め現在は1億2千万人代。江戸時代の4倍ですが、ここでも桁数が一つ上がった。このように、成長と停滞を繰り返しながら、階段を上がるように増えてきたわけです。

 波を描くのは、先ほど述べたように、その時の技術や政治経済制度、気候などの環境が制約になっているからです。例えば平安時代から鎌倉時代にかけての人口は600〜700万人で、奈良時代までの増加率に比べると停滞気味です。この原因には、気候が温暖化したこともあると思います。この頃は世界的に温度が上がった時代で、「中世温暖化期」と呼ぶ人もいるほどです。ヨーロッパでは北方のバイキングが北米や地中海、ロシアのあたりにまで進出した時代です。日本では降水量が少なくなったようで、当時書かれた日記の記述を分析すると、平安時代は日照りの被害が多い。それが経済の中心地である西日本で起きるので人口が増えにくい。一方、そういう時代は東日本、特に利根川流域や越後平野など湿田地帯では降水量が少ない分、コメの収穫量が上がります。このように地域差があるのですが、全体としては人口は減少しました。

気候が悪いから人口が減ったとは言えない

 江戸時代はどうかというと、世界的な寒冷期でして、日本では18世紀の江戸中期が一番気候が悪くなった時で人口も停滞しました。東北では「やませ(初夏に吹く冷たい北東風)」が入り、飢饉も多かった。

 ただし、人口の停滞がこうした気候変動のためだけだったのかというと、どうもそうではないのではないか。

 室町時代から江戸時代の間は、市場経済が成立し、農民の食糧生産への誘因が強まった時代です。その結果、開発が進み、人口が増えました。しかし食糧供給とエネルギー供給の上限は、時代によって異なり、社会固有の「人口支持力」が決まっている。人口が停滞した江戸中期、その天井に近づいた時代なのだと思います。

 そういう、人口支持力の余裕のない時こそ、その社会は気候変動の影響を強く受けるのではないでしょうか。17世紀にも収穫が悪かった年はあるんです。でも、人口が増加している時期では、一時的に減ってもすぐにまた増えていく。社会のもっているポテンシャルに余裕があれば気候変動をはね返すわけです。

 ところが、18世紀になるとそうはいかない。人口が社会の許容量に満杯にちかづいている時ほど、環境変動の影響を強く受ける。だから、環境が悪かったから人口が減ったとは簡単には言えません。

 さらに、技術の面から見ると、江戸時代はもっぱら品種改良にはげんでいます。凶作のリスクを分散させるために、いろいろな品種を混ぜて蒔いたり、中稲、晩稲など時期をずらすことで、台風等を避けたりした。

 もっと重要なのは輸送と備蓄と情報流通のインフラ整備です。このおかげで、どこかで凶作があっても、他所の米を回せば飢饉にはならずにすむ。18世紀の始まりまではそれがうまくいっていなかったのですが、江戸時代後半は米が商品化しますし経験を活かして備蓄を行い、だいぶしのげるようになってきたと思います。

江戸の少子化

 ところが、江戸後期は人口が増えない停滞期となります。その理由は、「飢饉が続いて食糧供給もこれ以上増やせない所まで来たため」と大雑把には言えますが、詳しく見ると、出生率が低く抑えられていて、この頃に少子化が起きている。それが人口を回復させにくくしていたと思います。

 17世紀の後半は、一人の女性は50歳まで結婚が続いたとすると、6〜7人を産んでいますね。これに、登録されなかった乳児死亡を入れると8人は産んでいたと考えられます。ところが、同じ地域でも18世紀後半になると、だいたい5人。それが明治期まで続き、明治生まれの女性も5人以上子どもを産んでいる。

 5人は今から見ると多産ですが、江戸時代ですと家を残すぎりぎりの出生数です。男を1人残そうと思うと、2人は産まなくてはならないし、成人までに半分は亡くなってしまいますから、最低4人は産まなくていけない。

 そのようなぎりぎりの出生数にまで、なぜ人々は抑制したのか。食糧が足りなくなったのもあるとは思いますが、分け与える土地も少なくなるし、土地を造成するのもコストがかかるようになる。用水路を造って土地が使えるようにするための資金調達も限られてくる。さらには、草山、森林などの手近な肥料・薪炭供給源が利用できなくなってきたという人もいます。つまり、環境資源が枯渇してきたことが出生を抑制せざるをえなくなった一つの原因だと思います。

 幕末開港時の人口は3200〜3300万人です。これは当時世界第五位の人口です。一位が中国、その次がインド、ロシア、フランスと続きます。アメリカやイギリスは当時2千万人代で、人口密度は日本が一番高かった。したがって、環境に与える負荷も大きかったといえるでしょう。

 明治時代になると、いろいろな近代技術が導入されますが、江戸時代の遺産も重要だった。大正時代になると食糧不足が叫ばれますが、明治時代は江戸の遺産でしのいできた。つまり、基本的には江戸時代の農業技術を全国に拡げていくことを明治政府は行った。特に初期は経験豊かな老農がもっている農業の知恵・技術を全国に拡げるだけでも生産は増えました。それに加え、治水灌漑の基盤整備も行われ、これで何とかしのいできた。

 しかも、農業が、人口増加を支えただけではなく、主要輸出品であるお茶や生糸を生みだした。これで外貨を稼いで近代技術を導入した。そういう意味で新たに加わったものだけではなく、江戸時代の遺産で少なくても明治30年代まではしのいできた。

 おもしろいことに第二次世界大戦前まで国内の農家戸数は一貫して550万前後で固定しているんですね。農家戸数一定で人口が増えているので、あふれ出た子はやがて都市に流れる。大正期になると米不足が起こってきますね。これが政府を植民地経営に向かわせていくわけです。朝鮮、台湾や満州です。

 20世紀に変わって日露戦争のあたりから、人口の面でも新しい動きが出てくる。人口が増えるけど、出生率のピークは1920年頃。死亡率が顕著に下がってくるのも大正期になってからです。

 この時代に死亡率が下がるのは大いに水と関係あるんです。幕末から明治期の死因で多いのはコレラです。それと、慢性的に下痢、腸炎。大正期になると赤痢が上位に出てくる。夏に死亡のピークがあるということは水に関係するということで、昭和になるとこの山がどんどん抑えられていく。高度経済成長期は死亡の季節性は冬が高くて夏は低い。要は上下水道の普及が、水を媒介とする消化器系感染症を抑える上で、最大の貢献をしたということでしょうね。

時代によって変わる人口についての世論

 明治30年頃になると人口圧力を感じて、植民地に人をたくさん送り込むべきだという考えも出てきたんですが、大正期になると出生抑制に努めるべきだという意見が強くなってきます。女性解放とも結びついて産児制限運動が起きてきます。でも、これは弾圧を受けて、昭和の人口増加政策に転換していきますが。ですから、人口についての論調も近代になって4回変わっているわけです。明治期の最初は放っておけばよい。明治30年代は移民を送り出して植民地を開拓すべき。大正期始めは民衆の中ではこれ以上増やせないから産児制限すべきだということになる。昭和になって1930〜40年代にかけては、人口が増えるから植民地を開拓すべきと言っていたのが、植民地を開拓するためには日本人を送り込まなければだめだと、議論が逆転してしまう。戦後すぐは、復員兵が帰ってきたり、植民地から引き揚げて来たりで、一転して人口過剰が意識されることになりました。

 1959年(昭和34)、団塊世代が中学に入る頃に人口白書が出てきますが、この中では、「団塊世代が労働市場に出ると、失業のおそれがある」と懸念していたんですね。ところが、いったん高度経済成長が始まってしまうと、労働力不足が起きた。新卒者は「金の卵」ともてはやされました。石油危機を経て一旦、落ち着きをみせた日本経済も、80年代になるとバブル期を迎え、外国から労働者を受け入れるべきだということになる。このように、どうしても足下で起きていることに目が行きがちで、予測されていたとしても遠い将来のことは忘れられてしまう傾向はありますね。

静止人口を目指したい

 日本の少子化というのは、みんな1990年代に始まったと思っているんですね。言葉が生まれるのが1992年(平成4)頃ですが、実際に少子化がスタートしたのは1974年(昭和49)です。人口を将来維持できる合計特殊出生率2.08〜2.07を割って、2.05になった。これは非常に象徴的だと思います。

 1974年というのはオイルショックの翌年で、戦後2回目の人口白書が発表されます。「将来人口はうまくいけば2011年頃にピークになってあとは減少する」として「それを目指してなるべく早く人口増加を止め、増えも減りもしない静止人口をもたらすべきだ」と、白書では訴えた。それ以前の人口問題審議会では労働力不足が問題になっていたのに、オイルショック後は「人口を増えないように静止人口を目指せ」と転換した。

 では、いま、どういう社会を目指すのがよいのか。

 私は74年の人口白書の、「静止人口を目指して」というサブタイトルは間違っていなかったと思っています。ただ、その時、落ちた出生率をどのように回復して2.07という静止人口の合計特殊出生率水準を維持するのかを誰も考えていなかった。静止人口は目指すべきいい姿だと思うのですが、どう移行させるかは難しい。「こういうライフスタイルが望ましい」、「いつ結婚して何人ぐらい子どもをもつとバランスはいいですよ」などと、指示はできないですよね。

 土地や農業生産力から、「人間はこれくらい養える」と計算では言えても、それがいい状態とは必ずしも言えません。みんな農民になるわけにはいかないし、コンピュータも車もつくらないといけない。要は、与えられた条件の中で、自分たちが満足できる社会を、いかに持続可能なかたちでつくるかにかかっているんでしょうね。

 (2007年6月12日)



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