機関誌『水の文化』75号
琵琶湖と生きる

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文化をつくる

琵琶湖と向き合ってきた記憶と記録を次世代へ

湖上を進む学習船「うみのこ」。滋賀県内の小学校5年生は船上で1泊2日の体験型教育を受ける

湖上を進む学習船「うみのこ」。滋賀県内の小学校5年生は船上で1泊2日の体験型教育を受ける

編集部

千年の都を支えた琵琶湖と湖魚料理

琵琶湖に人がかかわってきた長い歳月のなかで転換点となったのは、1972年(昭和47)から1997年(平成9)まで行なわれた琵琶湖総合開発事業(以下、総合開発)だろう。今号は約半世紀前の総合開発を踏まえ、次の3つの視点から琵琶湖とともに生きるために必要なものを探った。

①総合開発前後の変化(湖歴※)
②総合開発で得た経験を未来につなぐ取り組み(湖甦(こそ)※)
③総合開発が終了して25年が経過した今、躍動する人たち(湖人※)
※湖歴、湖甦、湖人は編集部による造語

琵琶湖取材の最後の夜は、長浜市にある黒壁スクエアで「いつも混んでいる」と評判の居酒屋に行き、カウンターに座った。「旅人さん」というネーミングに惹かれて郷土料理セットを頼み、辛口の地酒をすする。ふなずしはとても濃厚で、コアユの天ぷらはほろ苦く、ビワマスの焼き物は香ばしかった。

店の大将は忙しそうだったが、琵琶湖を取材していると伝えると手を止めて話し相手になってくれた。大将は、今は長浜市に編入された木之本町(きのもとちょう)の出身で30年ほど前にこの店を構えたそうだ。物心ついた頃、堤防を兼ねた湖周道路(さざなみ街道)はまだなくて、琵琶湖の水位も今より高く、用水路はコンクリート三面張りではなかった。「琵琶湖というよりもそこに注ぐ川で遊んでいましたね」と大将は言う。魚は手づかみできるくらいたくさんいて、裏の山に行けばキノコが生えていて、夏は樹液が出ている木を探してカブトムシを捕まえた。羨ましい子ども時代だ。

翌朝、最終訪問先の京都へ向かう。琵琶湖は京都と深い関係にあると聞くが、いったいどれほどの距離なのか。車でさざなみ街道を南下し、琵琶湖のなかで対岸がもっとも近い場所に掛けられた琵琶湖大橋を渡る。この橋の北側が「北湖(ほっこ)」、南側が「南湖(なんこ)」だ。大津の市街地を北上して左(西)へ折れ、平安時代から大津と京都を結ぶ近道(間道)として利用されてきた「山中越(やまなかごえ)」を進む。比叡山ドライブウェイの料金所を横目にくねくねした峠道を上って下ると、左折してからたった20分で京都の鴨川に出た。

古都とわずかな距離にあり、北国街道、中山道、東海道が通る琵琶湖地域はまさに交通の要衝だった。物資を運ぶため舟運が発達したのも頷けるし、経済や文化の先進地だったからこそ、戦国時代の武将たちがこの地の支配権を取り合ったのも納得できる。実は京都よりも滋賀の方が寺院の宗教団体数が多いことは意外と知られていない。比叡山の延暦寺の住所も滋賀県大津市坂本本町となっている。

琵琶湖地域でとれる米や野菜や湖魚、そして湖上を通ってやってくるさまざまな産品が、千年の都を支えていた。

生きている古代湖がダムと見なされた時代

時代が下ると、人びとが琵琶湖に求めるものが変わる。例えば「水」だ。

琵琶湖には、一級河川だけで117本、支流を含めるとおよそ450本もの川が流れ込んでいる。流れ出るのは瀬田川のみで、そこから宇治川、淀川となり大阪湾に注ぐ。近畿のおよそ1450万人が琵琶湖の水を飲み、そのほか農業や工業にも用いる。つまり日本人の約9人に1人が琵琶湖の水に頼って暮らしていることになる。これは総合開発によるところが大きい。

昭和30年代、阪神地域の人口増と産業発展によって水道用水、工業用水が足りなくなり、琵琶湖の水を「資源」と見なした開発計画が本格化する。

『生態学の「大きな」話』(農文協 2007)で「『琵琶湖総合開発計画』は近畿各地、特に大阪・神戸地方の家庭・工業用水を確保するため、琵琶湖をダム化させるのを主目的とするものでした」と喝破したのは滋賀県立琵琶湖博物館の元館長である川那部浩哉さんだ。

その方法は難航した。北湖と南湖を堤防で分断して南湖の水位を保ちつつ、北湖の水位を3mまで下げる「南北締切提案」が琵琶湖総合開発協議会から出された。農林省は水深5mで琵琶湖をドーナツ状に二分し、外側を水位マイナス0.3mに保ち、内側を水位マイナス3.0mまで利用する「ドーナツ案」を提案。2年後には南湖のみを対象とする「南湖ドーナツ案」まで繰り出す。建設省は水中の「もぐり提」で琵琶湖を南北に分断する「湖中提案」を提示。それに対して滋賀県は、琵琶湖の水をパイプで直接大阪まで送水する「パイプ送水案」を発表する。

最終的には、琵琶湖の水位を最大1.5mまで下げるように変えられ、総合開発は進められていく。そのことでもっとも影響を受けたのは沿岸だ。「1.5メートルの水位低下に耐えられるようにするため、陸地と湖とは完全といってよいほど分断されました」と川那部さんが記すように、戦前からじわじわ始まっていた内湖の埋め立てと干拓は一気に進み、水田も水路も堤防や水門によって切り離された。

滋賀県の人びとは「琵琶湖をダムと考えて扱われる」ことに強い抵抗感があったようだ。それは2004年(平成16)7月に滋賀県琵琶湖環境部水政課が淀川水系流域委員会にあてた回答文書からもにじみ出ている。

「琵琶湖は、ダムのような人工湖ではなく、自然湖であり、生きている湖であるという基本認識が抜け落ちているのではないでしょうか」「むしろ積極的に琵琶湖の水位を回復させることによって、その豊かな自然、生態系を健全な姿で次代に引き継いでいくということが滋賀県の基本姿勢であります」

インターネットで検索すると全文を読むことができるので興味のある方は目を通していただきたい。滋賀県の琵琶湖に対する思いが伝わってくる。

琵琶湖略年表

参考文献:国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所「瀬田川堰堤」パンフレット、大津市歴史博物館 常設展示解説シート「大津の略年表」(2018年3月15発行)、大津市歴史博物館HP、近江八幡市HP、滋賀県「滋賀の環境2022」(令和4年度版環境白書)巻末資料、滋賀県立公文書館 展示図録「琵琶湖の水をめぐって」、滋賀県HP「滋賀のあゆみが分かる歴史年表」

琵琶湖を通じてかつての恩返しを

総合開発は25年続いた。その間に利水・治水から水質保全、そして生態系保全へと琵琶湖へのまなざしも変わっていく。少しでもよい方向へ進むようにと住民、研究機関、行政、企業が連携して取り組んだその環境保全活動は「琵琶湖モデル」と呼ばれ、注目を集めている。

経済成長著しい東南アジア諸国の関係者たちが視察に訪れ、「琵琶湖の歴史的経験」を自国の施策に反映できないかと試行錯誤している。しかもそれは最近始まったことではなく、すでに30年が経つ。

右の「琵琶湖モデル概念図」だけでは伝わりづらいが、国や分野や立場を越えて、人びとはつながりつづけている。編集部が訪ねた時に研修していたのはマレーシアの開発側の人びと。これは同国の環境保全側が「開発側にも琵琶湖を見てもらって波長を合わせたい」とリクエストして実現したもの。だからうまくいったこともいかなかったことも含めて歴史的経験を伝える。すばらしい世界貢献だと感嘆したが、ILEC(公益財団法人国際湖沼環境委員会)の中村正久さんはそうじゃないと言う。これは日本が過去に受けた恩を返しているだけなのだと。

1953年(昭和28)から1966年(昭和41)まで、日本は世界銀行から31のプロジェクトに対して融資を受けた。そこには東海道新幹線と東名高速道路も含まれる。「日本は熱帯地域で産出される木材も輸入しました。整った街並みはそのおかげ。東南アジア諸国にも恩があるんです」と中村さんは言う。

琵琶湖の経験を伝えることは世界への恩返し。それが「琵琶湖モデル」の本質だった。

琵琶湖モデルの概念図

出典:滋賀県HP

カギは原体験と積み重ねた記録

人は水が得られない場所には住みつかなかった。かつては湖水がそのまま飲めるくらいきれいだった琵琶湖では、水による生業が受け継がれてきた。

堀彰男(あやお)さんは化学肥料、除草剤をできるだけ使わずに米を育て、その米から生まれた純米吟醸酒を販売する。ONESLASHの清水広行さんは琵琶湖最北端にある地元に戻って農業の可能性に気づく。水とともに暮らす風景を残すために自分がモデルになろうと漁師に転じた駒井健也さんは、遊んでいた小川が道路工事で埋め立てられたことを今も覚えている。湖畔で一人ごみを拾っていて出会った人たちと清掃活動を広げる武田みゆきさんも、湖魚料理を現代風にアレンジして漁業を守ろうとするBIWAKO DAUGHTERSの中川知美さんも、琵琶湖や水辺に原体験がある。そして、この方々は今、子どもたちに体験の場を提供している。それはきっと、琵琶湖における原体験がその後の人生に影響を与えることを知っているからだ。

滋賀県には毅然とした態度で琵琶湖を守ろうとする風土がある。だから「未来への投資」を欠かさない。そして、自分たちが経験したことをできる限り伝えようと記録しつづけている。

武田さんと湖畔にいたとき、湖上をゆっくり走る学習船「うみのこ」を見た。県内すべての子どもたちが小学校5年生になるとこの船に乗る。他校の子たちと一緒に2日間(コロナ禍を除く)を船上で過ごし、船を下りての街歩きも含めて琵琶湖と滋賀を深く学ぶ。始まったのは1983年(昭和58)だから来年で40周年。今の「うみのこ」は2018年(平成30)に就航した二代目で、その建造に際しては地元企業や県民からの寄付金も力になったという。

何度も足を運んだ滋賀県立琵琶湖博物館は、博物館と水族館が一体になったようなとても楽しい場所だ。子どもがそのまま湖畔で遊べるようにもなっていて、家族連れが大勢訪れていた。ILECの事務所も同じ敷地にある。

これらは一例で、ほかにもさまざまな方法で、次の世代が幼少期に琵琶湖を体験できる機会をつくっている。

そして、琵琶湖の過去の記録もしっかりまとめてある。省庁の統計データよりも時系列で追いやすいのは、県庁をはじめ各機関の努力の賜物だ。オールカラー260頁で、歴史から暮らし、地形、気候、水循環、生きもの、水質まで網羅する『琵琶湖ハンドブック』を、環境保全の普及に努める人たちに無償配布していることにも驚く。

今年「うみのこ」に乗った小学校5年生は、四半世紀後には30代半ば。50年経っても60歳だ。その頃、あるいは100年後、200年後、琵琶湖はどうなっているだろうか。

……数多ある漁港すべてに宿があり、湖上を行き交う船がそれらを結ぶ。観光客は農業・漁業・林業・ごみ拾いをすべて体験できるツアーに参加し、長期滞在しながら湖魚料理を楽しむ。復活した内湖では魚が手づかみできるくらい増え、網を片手に子どもたちが走り回る……そんなことを夢想する。

人びとが琵琶湖と向き合って生きてきたことを伝えようとするのは、「次世代が受け継いで、今よりいい琵琶湖にしてくれるはず」という確信にも似た思いがあるからではないか。開発と保全のバランスに悩み、でもあきらめずに考えが異なる人とも話し合ったその経験のうえに、次世代は新たな試みを行ない、文化は花開く。今できることを一所懸命に、そして記憶と記録を余すことなく伝えるのがもっとも大切なのだと気づかされた。

  • 一度は干拓した農地を内湖に戻そうと滋賀県が再生に取り組んでいる早崎内湖

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  • 琵琶湖ハンドブック

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