• 開催報告一覧

第1回 発見!水の文化
江戸の水辺街歩き(日本橋編)

ミツカン水の文化センターでは、2017年より新たなイベント「発見!水の文化」をスタートさせました。これまで開催していた「里川文化塾」よりも、より身近で気軽な企画内容を取り揃え、多くの方に興味を持って参加していただけるイベントにしあげました。

第一回目は、今も東京に残る「江戸の水路・掘割の跡」をめぐることで、江戸時代の街づくりにおける「舟運・水」の重要性と、今に引き継がれている“水の文化”を再発見するために、日本橋〜茅場町のエリアを歩きました。

当日は参加者19人と、暑い7月の太陽の下、時折そよぐ風にいやされながらの散歩となりました。 「かつて江戸の水路・掘割」といっても、今は埋められている所が多く、水辺とは限りませんが、浮世絵などを手かかりに、かつての姿を想像しながら詳しく学ぶことができました。

忍城の本丸跡に建てられた三階櫓(模擬)と堀
日本橋 江戸時代、日本橋の南詰め東側が罪人の晒場、南詰め西側はお触れなどを掲示する高札場であった。全国へ繋がる街道の起点とし賑わった場所ならではの役割を果たしていた。

実施概要

日時
2017年7月22日(土)13:00〜16:30ごろ
街歩きルート
京駅八重洲北口付近集合 → 日本橋・日本橋室町エリア → 日本橋堀留町・小網町エリア → 日本橋兜町・茅場町・新川エリア → 茅場町駅解散
参加者数
19名
主催
ミツカン水の文化センター
講師
斎藤 善之さん
斎藤 善之(さいとう・よしゆき)さん
東北学院大学経営学部 教授
1958年栃木県生まれ。1981年宇都宮大学教育学部卒業。1987年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学、1995年「内海船と幕藩制市場の解体」で早大博士(文学)。日本福祉大学知多半島総合研究所嘱託研究員などを経て現職。専門は日本近世史、海運港湾史。主な著書に、『海の道、川の道』(山川出版社 2003)、『日本の時代史17近代の胎動』(吉川弘文館 2003、共著)など。

PDF版ダウンロードPDFダウンロード

ページの先頭に戻る

江戸の水辺街歩きスタートは「一石橋」!

街歩きの案内は東北学院大学経営学部 教授 の斎藤 善之(さいとう・よしゆき)先生がしてくれました。

 
街歩きの解説をして下さった 斎藤 善之先生

街歩きの解説をして下さった斎藤 善之先生

一石橋

一石橋から常盤橋にかけての一帯は、江戸開府までは日比谷入江の最奥部の東岸にあたり、旧平川の河口部を望む地点でした。

一石橋の横には「迷子のしるべ石」があります。江戸時代のこの地域は盛り場で迷子が多かった場所でした。この石は、子供を探している家族と、子供を見つけた方が紙を張って迷子を知らす江戸時代の掲示板となっていました。

一石橋で解説をしてくれる、斎藤先生一石橋で解説をしてくれる、斎藤先生

迷子のしるべ石と一石橋

日本橋

徳川家康によって架けられた日本橋、10数回火事によって架け替えられたそうです。

築地に移転するまで、江戸庶民の魚需要を賄っていたのは日本橋にあった魚市でした。魚市があった場所には乙女の像が建っています。

日本橋日本橋

日本橋魚市場跡乙女像左:日本橋魚市場跡 右:乙女像

三浦按針屋敷跡

日本橋から少し歩いたところにある、三浦按針の屋敷跡を訪ねました。

三浦按針というのは、1600年にオランダ船で来日したイギリス人のウイリアム・アダムズの日本名です。按針は日本に残り、イギリス商館を誘致したりして活躍しました。今はビルの間にほっそり碑がたたずんでいます。

三浦按針屋敷跡

三浦按針屋敷跡

駿河町

通りを見通した先に駿河国の富士山が望めたことから名が付けられた駿河町。三井八郎右衛門高利が越後屋呉服店を開業したところに現在三越と三井本店が建っています。

日本銀行と貨幣博物館に挟まれている駿河町

銀座跡・貨幣博物館

江戸時代にはお金に関わりが深い地域で、大判を作る金座がありました。今は日本銀行の本店、貨幣博物館などがあります。

本町

徳川家の旧領の商人が移住してきた地域です。特に江戸の本町と大坂の道修町には、薬種問屋が集まっていて、いまだに薬関連の企業が多く存在します。

堀留公園

堀留公園で休憩を取りながら、公園が運河だった時代を振り返ってみました。運河・堀留の形がそのまま残っているので、問屋が沢山並んでいた頃の様子ことを予想することができました。

堀留公園

現在の地図に江戸時代の堀の位置を表紙した地図

末広河岸・鎧河岸跡

関東・奥羽との取引を専門としていた「奥川積問屋」が並んでいた地域でした。今は高速道路で隠れていますが、かつては木更津や奥羽へむかう舟が出る一大ターミナルで、蔵がたくさん並んでいたそうです。

小網町児童遊園から眺める末広河岸・鎧河岸跡

鎧の渡

明治5年(1872)までは橋が架かっておらず、渡しがあったそうです。 源頼義が奥州攻めに向かう時暴風に遭い、海中に鎧を投げ入れて海神に祈願したところ無事に渡ることができたことから、「鎧の渡」と名づけられました。

そして、霊岸橋を渡り、新川に向かいました。

鎧橋

霊岸橋

新川神宮

新川の堀の両側には酒問屋が並んでいました。今は道路から歩いて神社に入りますが、本来は神社の前は運河だったため、舟で訪れ、直接上がることができていました。

今は歩いて入る新川神宮

隅田川河口

色々な人と商品が海を通り、隅田川の河口から運河に入り、江戸を大都市へ育ててきました。江戸を思い返す際には運河・舟運という“水のチカラ”を忘れてはいけないという思いで、今回の街歩きの終わりは隅田川の河口に設定しました。

江戸の街の繁栄と“水のチカラ”は切っても切れない関係であることを、実際に歩いて学んだ一日となりました。

隅田川で佃島を背にして街歩きを終えました隅田川で佃島を背にして街歩きを終えました

参加者の声

「水、水辺と人々の文化に興味があって、今回の内容はとても参考になった」(江戸時代の料亭建築が専門の大学生)

「夏休みの自由研究のテーマが日本橋の百貨店の歴史だったので、日本橋に興味ああって参加しました。とても勉強になりました」(親子で参加してくれた中学生)

「これからのイベントでは、普通の歴史歩きではなく、“水の文化”にふさわしい内容で専門家の方のツアーを希望する」(30代 女性)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ページの先頭に戻る