機関誌『水の文化』5号
舟運を通して都市の水の文化を探る 中間報告

舟運から都市の水の文化を探る 中間報告

法政大学教授
陣内 秀信 (じんない ひでのぶ)さん

1947年生まれ。東京大学大学院工学系研究科建築史専攻修了。工学博士。1973年イタリア政府給費留学生としてヴェネツィア建築大学へ留学。ユネスコ・ローマセンター、東京大学助手を経て1982年より現職。専攻、ヴェネツィア都市形成史、イスラム都市空間論、江戸・東京都市空間論。サントリー学芸賞、建築史学会賞、地中海学会賞他を受賞。 著書は、『ヴェネツィアー都市のコンテクストを読む』(鹿島出版会)、『都市を読む・イタリア』(法政大学出版局)、『江戸東京のみかた調べ方』(鹿島出版会)、『水辺都市ー江戸東京のウォーターフロント探検』(朝日新聞社)、『ヴェネツィアー水上の迷宮都市』(講談社)、『都市と人間』(岩波書店)、『中国の水郷都市』(鹿島出版会)、『南イタリアへ!』(講談社)、『イタリア小さなまちの底力』(講談社)等多数。

岡本哲志都市建築研究所代表
岡本 哲志 (おかもと さとし)さん

1952年生まれ。法政大学工学部建築学科卒。都市の水辺空間に関する調査・研究に永年携わる。丸の内・日本橋・銀座などの調査・研究プロジェクトに関わり、都市形成の歴史から、近代都市再開発の問題や都市の「定着、流動」と都市の活力や創造力の関係性を検証している。 著書に、『水辺都市―江戸東京のウォーターフロント探検』(朝日新聞社、1989年)、『水の東京』(共著、岩波書店、1993年)等がある。

なぜ、今「舟運から都市の水の文化を探る」なのか?

「都市は変化するものであるから、過去の一時点での固定した姿を見るだけではなく、ソフトの条件に対応しながら形成された都市のフィジカルな部分を見ることで、都市現象と、そこで展開された人間集団の対応への試みと努力、計画意思決定から建設、そして維持の人間の智恵を知ることができる」と記してから約二十年がたちます(注1)。この間、イタリアをホームグランドにしながらも、江戸、中国をはじめ、数多くの歴史的都市の比較研究を行ってきました。

俎上に載せた主な都市を挙げると、ヴェネツィア、江戸、蘇州、イスタンブール、そして、ナポリやアマルフィ、パレルモなどの南イタリアの諸都市…。これら都市にはある一つの共通点があります。それは「ゆたかな水空間の存在」です。

都市には、その都市その都市に固有の文脈があります。私の中で「水」という都市を形成する大きな文脈をキーワードに本格的に読み解いたのは江戸(注2)とヴェネツィア(注3)でしたが、その後も、都市を水から見る視点の重要さは私の中でますます膨らんでいきました。蘇州を訪れた1988年には、学生の時にヴェネツィアを訪ねた時と同じ感動を覚え、ヴェネツィアと蘇州という「水の都」の比較都市論を構想し始めもしました(注4)。

都市を考える時、建築や都市の形状、それを取り巻く環境を、それぞれ個別に調べるのが、建築史における伝統的な都市研究の方法です。しかし、当然のことながら、ひとびとのくらしが都市を形づくり、つくられた都市はまたひとびとのくらしに影響を与える。いわば都市とくらしは相互に影響を与えあい、その都市独自の重層的な歴史物語を織りなし、それが都市の文脈になっています。

さらに、魅力ある都市には歴史があり、歴史ある都市には、必ずといってよいほどゆたかな水空間がある。なぜなら、わずか百年ほど前には、船が物流・移動の手段であり、人・物・情報が集積する第一の町は港町だったからです。しかも、港は海に面しているとは限らない。例えば、日本でも古代・中世から舟運が発達し、各地に魅力ある港町が造られ、川沿いにも港機能をもつ町が数多く形成されてきました。魅力ある都市、歴史のある都市の文脈には、必ずといってよいほど、「水」の存在があり、舟運を通した人・物・情報の結びつきがあったといえるのです。

ところが、「舟運を通して水の都市を見る」という、一つの総合的な視点から都市を比較することは、これまであまり行われてきませんでした。近年、ようやく、歴史家の方々の努力により舟運から都市を見るアプローチが本格的に始まり、史料や文献の掘り起こしも進んできましたが、建築史の分野では、まだまだ水と都市のつながりを見る機会は少ないといってよいでしょう。つまり、「舟運から都市の水の文化を探る」ことは、独創性があり、魅力的であり、しかし、各分野の方が歴史の視点・空間の視点・象徴的な意味の視点という三つの視点を念頭に置きながら学際的に協力していかないと、なかなか全体像が見えてこない領域なのです。

そこで、実際にそのような視点からフィールドワークを重ね、膨大なフィールドノーツをまとめ、舟運から見た都市の水の文化の姿を相互に比較し、独自に再構成してみたら何が見えてくるだろうか。このような企図で始めたのが、ミツカン水の文化センターの研究プロジェクト「舟運から都市の水の文化を探る」です。「舟運から見た都市の水の文化の姿」をあぶり出すのが文字通り、研究の第一の目的です。今回は創刊号(1999年1月)に続き、その一端をご紹介します。

この四年間、私達はフィールドワークを、海外・国内あわせて、十回程実施し、その度に、膨大なフィールドノーツが集まりました(注5)。今回の特集では、ヴェネツィア、そしてイタリアのもう一つの中世海洋都市国家アマルフィ、ヨーロッパを代表する水の都として有名なアムステルダム、これらそれぞれの都市を「水の都市」の類型として紹介します。そして、実際に本プロジェクトでフィールドワークを行ったタイのバンコク、中国の蘇州、日本の瀬戸内の諸都市とを比較紹介し、研究プロジェクトの成果の一端を示します。

さて、こうした視点から目を国内に転じると、日本にも各地にすばらしい都市が残っていることが分かります。大坂や江戸は水の都として特に有名ですが、中世〜近世に舟運で発達し、大いに発展・繁栄した都市は、見事な建造物、町並み、伝統、習慣という形で、有形・無形のストックを残してきました。それを、現代に生きる私たちが比較することで、自分達の生きている文化が逆にはっきりと見えてきます。つまり、空間体験を入り口に、文化を比較していくことで、現在私たちが生きる空間を活かす手がかりをつかむことができるかもしれない。これが、本研究の第二の目的です。

このため、私たちは、とりわけフィールドワークを重視しました。現地に実際に行って、その場を感じ、建築物や道路等を実測し、地図と照らし合わせながら都市構造を把握し、インタビューを行い、これらデータを類型化し、再構成していく。都市の有機体的な文脈を解きほぐしていくには、これが一番有効な方法です。それとともに、この方法が、町の魅力を見つけだし、再評価する有力な手段でもあるわけです。

水の都市というのは空間や風景がたいへんに魅力的です。最近、ようやく、町の歴史や場所の個性というものを再評価する気運が強くなってきています。この特集で、「舟運と水空間」から見る都市の読み方をご紹介します。読者のみなさんも、ぜひ自身で、自分の住む町を歩き、観察し、読み解き、再評価していただきたいと思います。

(注1)
田島学・陣内秀信「イタリア都市形成史研究」(『地中海学研究III』地中海学会 1980)
(注2)
陣内秀信『東京の空間人類学』 筑摩書房 1985
(注3)
陣内秀信『ヴェネツィア』鹿島出版会 1986
(注4)
陣内秀信編『中国の水郷都市― 蘇州と周辺の水の文化』鹿島出版会 1993
(注5)
この成果は、1月に中間報告としてとりまとめた。法政大学陣内秀信研究室・岡本哲志都市建築研究所『舟運を通して都市の水の文化を探る』2000年1月 私家版

ヴェネツィア―水の都市のモデル

ヴェネツィアはラグーナ(内海)に浮かぶ海上都市です。中世には現在の都市の骨格を作っていました。舟運との関連で言うと、ポルトと呼ばれる港が三カ所あり、船がそこから入って来る。どの船も、サン・マルコ広場にある鐘楼を目指し、そこから大運河に入っていく。広場の辺りの全てが流通と結びついた港湾機能をもっていたわけです。

注目すべきは、ここが港であると同時に、政治・宗教・文化の中心であって、それらの象徴としてサン・マルコ広場の一画を見事に造り出している点です。これだけ水に華やかな正面玄関を向けている港町というのも珍しい。

イタリアは内陸河川が非常によく発達しました。木材や様々な物資を内陸から運んできて、ヴェネツィアは生活を支えていました。一方、東方貿易で物資を運びこみ、それを北方のドイツやフランドル地方にも売っていた。その交易の中継都市としてヴェネツィアは大いに栄えたわけです。

それでは、ヴェネツィアの都市構造は、どのようにできあがったのか。

まず地形と道路の組み合わせのパターンを見ると、ヴェネツィアというのはたいへんおもしろい。複雑な地形と道路あるいは運河の組み合わせを見せており、まるで迷宮(labyrinth)の様です。

カナル・グランデの周りには、毛細血管のようにリオと呼ばれる運河がめぐっており、このリオで囲われる一つ一つが生活の地区単位です。所々に広場があり、教区の教会があり、これが単位となってヴェネツィアの町全体が構成されている。

このような運河と道路の構成は、ヴェネツィア特有のものなのかというとそうでもない。実は、日本の江戸、大阪、あるいは新潟がこれに近いパターンをもっています。どちらも運河が多数巡り、近世初頭の河口のデルタにできた港町という点では、ヴェネツィアと似ています。

ところで、ヴェネツィアには城壁がない。これはアムステルダムや蘇州、あるいはバンコクと大いに異なる点です。普通、海外の古い都市は城壁をもちます。しかし、ヴェネツィアは海に囲まれた天然の要塞と言えるわけで、ある意味では日本の城壁のない都市と似通ってきます。

ヴェネツィアの中心地はサン・マルコ広場です。最大の船着き場で、いわば国際交流のメッカ。しかし、経済活動の中心は別にあります。カナル・グランデを上り、カーブする位置、リアルト地区にマーケットがあります。ここが、オリエントとヨーロッパの世界を結ぶ中央市場の役割を果たしていました。

港の脇には国営の造船所もあった。これがたいへん重要で、港町にとっての造船所がどこにどういう風に造られたか、これは舟運のネットワークを知る上で、たいへん重要なテーマになってきます。

カナル・グランデ沿いには十三世紀の貴族の館が建っています。当時の東方貿易で活躍していた実際の建物がまだ十二〜三棟残っています。東方からの物資をどんどん荷揚げする船着き場であり、倉庫であり、商品展示場でもあり、商売の取引をする場所でもあり、さらには、オフィス機能があり、同時に社交場であり、プライベートな住まいであったという、数多くの機能をもっていました。商人の館がたいへん美しい水の風景を造っていく。しかし、これは倉庫などの実質的な機能をもっており、はしけに積み替えた船が入ってきて、荷を揚げたわけです。

また、これら表の顔に対して、一歩内部に入ると変化に富んだ街路、迷宮空間が広がっています。この光と影、表と裏、これが交錯してヴェネツィア独特の姿が生まれてきました。こういう都市の形式は、実は中世特有の形式なのです。日本でも、瀬戸内の諸都市などでは、中世の道が何本も通っています。それらはたいへん曲がりくねっていて、地形を利用して変化に富んでいます。

アマルフィ―海の門をもつ斜面都市

ヴェネツィアよりも二世紀ほど前の十世紀に、大いに繁栄した町にアマルフィがあります。現在は、世界遺産にも登録されている風光明媚なリゾート地になっていますが、その根底には、海洋都市国家として栄えた輝きというものがあります。単に風景が良いだけでは人はやって来ません。歴史のもつイメージ、文化、建築、それらが作り出すおもしろい舞台、太陽、美しい自然、そういうものの複合的なイメージが人を集める財産になっています。

猫の額のような狭い渓谷に高密な都市が発展しました。九世紀には造船技術があったようで、ビザンチン帝国から船の発注を受けたという記録が残っています。十一世紀の大きな造船所の遺構も残っています。ヴェネツィアは十二〜十三世紀ですのでこちらの方が古いということになります。

海の門を入ると大聖堂の広場です。そして、「天国の中庭」と呼ばれる素晴らしい回廊の中には、宗教施設やメインストリート。そして、斜面には迷宮状の住宅が張り付いています。

経済の中心は、やはり広場です。城門から広場にかけて、職人が多数いたことが史料から明らかになっています。靴屋、鉄細工、鍛冶などの職人が居住する界隈だったということです。世界中から集まってくる商人を迎え入れるキャラバン・サライもあり、税関もあったということで、港の機能が集まっていました。

城門の上には人が多数住んでいます。教会が、二層にわたっています。城門から入っていくと、一階は、お店が並んでいる。ここに本来川が流れていたのを、蓋をして十三世紀後半から立派な広場ができました。

山の方に上っていきますと、両側は小さいお店が並んだ、たいへん活気のある商店街です。アラブ、イスラム都市のバザールやスークと似ています。日本では、さながら町家が並ぶ地区ですが、それとは大分異なっています。ここの店主は、お店を借りて営業しています。住宅と店はつながっていません。住宅に入るには裏の階段の脇道から入ります。商業に特化した賑やかなストリートも、住宅とうまい組み合わせを見せております。

斜面を上り、来た道を振り返ると、マリア像が祭られている場所があります。信仰心が非常に厚かったわけですね。

昇り詰めていくと、中心部を見晴らすパノラマが開けます。斜面都市というのは傾斜地の港町にはつきものです。特に地中海、日本。そこには、パノラマを楽しむポイントがあるということが共通していると思います。そこから町を見渡すと、自分の町のシンボルである鐘楼や教会、そして町並みといった風景を一望することができます。これは日本も地中海も似ていますね。ヴェネツィアは平板な町なので、事情が異なりますが、こういったコンパクトで、非常に変化に富んだ集積の高い港町の構造を比較するというのはたいへん意味があります。アマルフィ、瀬戸内、伊勢湾周辺の斜面都市との構造比較というのはたいへんおもしろいテーマだと思います。

アマルフィの高台からの眺め。迷宮を上り詰めると解放感に溢れる港町のパノラマが開ける。

アマルフィの高台からの眺め。迷宮を上り詰めると解放感に溢れる港町のパノラマが開ける。

アムステルダム―運河が造る幾何学都市

ヴェネツィア、アマルフィは古い町です。人間関係を調整してコミュニティを作っていく技術やセンスを受け継いだ、古い居住文化をもつ都市なので、複雑に入り組んでいる様が興味深い。これに比べ、アムステルダムは、もう少し新しい都市です。ヴェネツィアを受け継ぐ形で、途中でブリュージュが活躍しますが、十七世紀、十八世紀の世界経済はアムステルダムが牛耳ります。その後ロンドンに移っていきますが。アムステルダムは証券取引所などもでき、マーケットの広場でもあります。したがって、近代に近い原理で都市が構成されているといってもいい。

海の方へ元のアムステル川が流れ込んでいますが、その河口の少し上流を堰き止めて水をコントロールしていたダムが、広場になります。このダム広場を中心に、最初の港を、だんだんと外に広げていきます。運河と、両側の岸辺の道をセットにして広げていきます。ゼロメートル地帯で水害の危険性があるため、風車で水を掻き出し、水門で水をコントロールします。オランダは世界に植民地を広げ交易をしましたので、帆船が数多く入り、あらゆる物資が集まってきました。

アムステルダムは運河と町並みの関係がおもしろい町です。ダム広場を中心に、見事に同心円状の町を計画的に作りました。幾何学都市と呼ぶことができるでしょう。ヨーロッパの合理主義を感じさせます。こうした都市計画の下で発展していった町です。

1700年頃の鳥瞰図を見ると、運河・岸辺の道・街区、そして建物の集合形式が組合わさり、屋根の連続がのこぎりの刃のように見えるアムステルダムらしい景観を造っていることが分かります。もともとは一五世紀までは木造だったハーフティンバー(木骨れんが造の意でオランダ、フランス、ドイツ等を中心に中世末期に流行した)でした。1600年代まで、そういうものが残っていたのです。やがて、火事から守るために、レンガ造に変わっていきます。ロンドンも、コペンハーゲンも同様です。どこでも、このような建物が並んでいたのです。だんだん耐火のレンガ造にしていった。こういう形態がよく残っています。これはベルギーのブリュージュの上から見たところで、アムステルダムとよく似ています(写真下)。こういう住宅が運河沿いに並んでいるのがアムステルダムです。

蘇州―中国の水郷都市

アジアの町並みは、我々の感性に近いためかホッとする面があります。南船北馬という言葉が中国にはあるように、北方が陸の文明で、馬を主な交通手段として利用していました。それに対し、南方は船の文化が発達し、はるかに都市の文化を育みました。中でも、蘇州は文人の町でもあり、庭園も見事です。その周りに小さい魅力的な水郷都市が散在しています。

この地域の調査では、船をチャーターして、同里(どうり)、周庄(しゅうそう)を訪ねました。船で行くというのは本当にスリリングです。水辺を歩く。階段を上る。橋を渡る。岸辺を歩く。船が行き交うのを見る。まさにドラマの舞台でして、ヴェネツィア以上に生活の中で水が使われています。

周庄は大きな運河につながっており、上海や北京まで大運河が向かっています。元の時代に造られた大運河が使われているわけです。そこから運河を引き込み、安全な場所に周辺の農村の物資が集まってくる中心地、日本で言えば在郷町のような小さい町ができます。これを、中国語では鎮(ちん)と呼びます。

そのメインストリートにあたる場所と言いたいのですが、道路の代わりに運河が重要な役割を果たしているため、周辺の農民、漁民がここに船で集まって来るのです。その要の市が橋のたもとにできています。そこにいろいろ機能が集まってきて、商店街もできてきます。茶館( Tea House)、旅籠、床屋、薬屋という四つのスポットが、橋のたもとの四カ所にできています。

最近、こうした水の空間の重要性をみなさんが理解し、建造物の修復を見事行いました。レストランでは、水辺を見ながら楽しい食事ができるようになっています。観光用の小さな船がたくさん浮かんでおりまして、「ヴェネツィアのゴンドラよりたくさんあるのではないか」という程、水辺の都市が再評価されてきました。むしろ過剰なくらいに観光の熱っぽい雰囲気が感じられ、ちょっと行き過ぎの感もしました。そのバランスが実は重要なのですが、ただ、中国でも、こういう空間の価値が見直されてきたという大きな証でもあります。

「朱家角(しゅかかく)」という町にも行きました。水辺のある町というのは、空間に広がりがあるため、時間の流れ、時の経過、生活のリズムが独特です。これからモータリゼーションの波が入ってくる時に、どうなるかというのは注目していかなくてはいけないのですが、今のところは自転車くらいですので、スロープをもって上る太鼓橋が残っています。この上に立つと町並みを上から俯瞰でき、魅了されます。そういう眺望点といった町のアクセントが随所にとられています。水の側にもいい顔を向けており、水の側が一つの顔、表という意識が、人々の心の中で非常に強いと思います。

橋のたもとの荷揚げ場等は、日本と本当によく似ています。しかも階段状の雁木のようなものが使われており、橋のたもとにマーケットができ、茶館ができ、人が集まってきます。われわれの水の都市の原風景にあたるものが、蘇州の周辺で多数見られるというのは驚きでした。

町家の姿も、日本のそれとよく似ています。つまり、前面で商売をして、奥に住むという形式です。この形式は、中国でもこの辺では発達しました。しかし、ヨーロッパではけっして出てこなかったものです。町人も都市の活気ある文化を作る主役だったわけです。

ここでは、みんなが船で移動します。ですから、船でアプローチする所に茶館ができます。船でそのまま乗り付け、お茶を飲めるという贅沢な構成になっている茶館もあります。さらに、演劇の舞台(戯台)が水の側に向いて建っています。場合によっては、船を浮かべてそこから芝居を見るということが行われた場所もあったそうです。水というものは、いかに人の心を解放し豊かにするか。そして、それはコミュニティに対する人々の愛着やつながりを作り出すサロンの役割も果たしていたのです。ですから、水空間はコミュニティにとって欠くことのできない場所ですし、経済を活性化させる文化をつくる場所でもあります。こういう意義のある場所が、どこでも水辺に来る。特に、橋のたもとというものが、とりわけ重要になってくる。この様なストーリーは、日本と非常によく似ているのではないかと思っています。

  • 南北に流れる、同里の中心を成す運河。舟運の基地となっている。

    南北に流れる、同里の中心を成す運河。舟運の基地となっている。

  • 蘇州を網の目のように巡る運河

    蘇州を網の目のように巡る運河

  • 高速道路の下に封じ込められた東京・日本橋。 それにもめげず、船で水上からのウォッチングを行う。

    高速道路の下に封じ込められた東京・日本橋。 それにもめげず、船で水上からのウォッチングを行う。

  • 南北に流れる、同里の中心を成す運河。舟運の基地となっている。
  • 蘇州を網の目のように巡る運河
  • 高速道路の下に封じ込められた東京・日本橋。 それにもめげず、船で水上からのウォッチングを行う。

バンコク―水と共生する都市

バンコクのチャオプラヤ川を俯瞰すると、水上がまるで交通渋滞している様に、船が使われています。むしろ、陸上は排気ガスがひどく、渋滞していて、とてもいたたまれません。このため、市民も船を使って移動するということを平気で行います。けっして観光だけではありません。このため、通勤用の水上交通が最近見直されています。

ここでは、トンブリ地区という、旧市街よりももっと古い、そしてもっと水が生きている空間があり、この生活空間として生きている水辺と、かつて運河を巡らして立派な都市を築いた、城壁で囲われていた旧市街ゾーンの両エリアを調査しました。

水の都市では、重要な建築、施設はみんな水辺に来ていましたが、バンコクも例外ではありませんでした。チャオプラヤ川の西側、右岸には、ヨーロッパのカトリックの教会がありました。宣教師達が東南アジアにも多数の教会を造りましたが、この界隈にも教会があります。イスラム教のモスクや仏教の寺院なども、水からアプローチするように、水の側に正面を向けた軸線をもって建っています。ですから、華やかな水辺が構成されます。

トンブリ地区を内部に入っていきますと、いろいろな種類の船が使われているのを眼にします。これはかつては物を運ぶ船として機能してきました。それが今も使われて生活空間にもなっています。水辺に住宅が建っていますが、奥に伝統的様式の建物があります。水からの玄関をもっています。ベランダ風で、ここで夕涼みしたり食事したり、水辺に建っているメリットを活かしたアメニティの高い空間を造っているのです。幹線として舟運が生きているので、物売りも船でやって来たりします。プランテーションで栽培した収穫物を船で売りに行くということが、まだ行われているそうです。

私たちは、できるだけこういう水辺を活かしたコミュニティとか建物の実測を行いました。宗教空間の周りにできた門前の町がありましたが、テラスが水の方に張り出していて、船でもアプローチできる。そこから、お寺に入っていくようにメインエントランスも水の側にとられています。

住宅も、気候、風土にピタリと合った、開放的な造りになっています。水中に杭を打って、水上住宅のようにできているタイプの住宅もあります。大分減ってきているようですが、フローティング住宅もありました。

さらに、旧市街の方ですが、十九世紀にも運河を造っています。つまり、旧市街から外へ新しい市街を広げていく際にも、排水と舟運の両方を考えて、運河を掘削し、市街を広げていきます。このため、バンコクは、アムステルダムと同様、外側に行っても運河が重要な役割を果たしています。

通勤や市民の足として使われだした快速船もあります。ものすごいスピードが出る船です。伝統的なトンブリ地区の方に行きますと、おじいさんが水の中にそのまま入って体を洗ったりしています。お風呂がいらないのですね。近代の発想から見ると、非衛生的にみえますが、あいかわらずそういう生活も続いている。これから、どの様に彼らが水とつきあいながら近代化していくのか、大きい課題を抱えることになると思いますが、われわれいろいろなことを振り返る上で、たいへんヒントになる町だと思います。

バンコクのトンブリ地区。各家の船着き場は格好の休息場でもある。

瀬戸内―歴史を物語る港町ネットワーク

瀬戸内は最近、考古学の発掘が進み、港町の姿がだんだん浮かび上がってきています。瀬戸内には、下関、上関、(共に山口県)(とも)、尾道、(共に広島県)などの港町があります。それから昭和三十年代から発掘を続け、埋まっていた中世の港町の遺構が都市ごと出てきたというのでみんながびっくりした、草戸千軒も有名です。草戸千軒は、広島県福山市の河口の遺跡ですが、出土品がたくさん出てきました。特に、中国からの輸入品が出土し、国際交流のあったことがわかりました。瀬戸内は古代から船の行き交う、たいへんな幹線水路だったわけです。

随・唐の時代からも活発に何十回と、瀬戸内を伝わって遣唐(随)使船が派遣されました。最初、高句麗や新羅との関係が良好だった頃は、朝鮮半島沿いの北路を通ったのですが、関係が悪化してからは、危険を犯して、東シナ海を横切る南路を行ったそうです。

上関で朝鮮通信使を迎えるシーンを描いたパレードの絵が残っていますが、これを見るとたいへん賑わった港町の全景がよく分かります。朝鮮通信使の制度は、江戸時代に徳川家康が始めたということですが、朝鮮との関係を修復する意味が込められていました。そこで、通信使は各地で大歓迎されました。これは都でも江戸でもそうでした。各港はこぞってもてなしに努め、素晴らしい料理を出して歓待したわけです。ここから分かることは、港町がいかに国際交流の舞台だったかということです。

尾道は、古代から発達し、中世には寺領が多数あり、大きな経済力をもちました。そういう背景で生まれてきた港町ですので、町人もだんだん育ち、港機能を造っていきます。斜面にできた港町の景観構造は、アマルフィを思わせます。

そして、銀山街道という内陸から銀を運び出す古い街道があり、港の機能が中世からありました。港そのものは江戸時代に埋め立てて変化し、中世の空間は内陸側にしか受け継がれていないと言われていますが、それにしても中世と江戸時代、そして明治の港の機能が重なっている、なかなかおもしろい町です。それを、できるだけ絵に表して読みとっていくという作業を行っています。

地元の郷土史家の方に案内していただき、この迷宮巡りも行いました。発掘の成果で、例えば、銀行の下から、中国から輸入した白磁の器が出土しています。考古学の研究や文献の研究、そして私どものように、場所・建物・道などを観察して研究していく建築の立場と、総合していくと、もう少し中世の尾道の姿が浮かび上がるのではないかと期待しています。

(とも)も古代から近世にかけて発展した町で、港町の構造がたいへんよく分かります。そして近世の港の遺構がこれほどよく残っている町はないと言われています。海の方に張り出すように、江戸時代に造られた桟橋の遺構が残っていますし、朝鮮通信使を迎えた施設も高台にあります。遊郭も残っています。港には雁木、船付き場があり、その奥に豪商の町家が並んでいます。背後に高台、お寺、それから中世からの城の跡という、中世から近世にかけての港町の典型的な姿がよく町並みの中に残っています。風待ち、潮待ちにはもってこいの丁度良い入り江でした。

現在は評価が進み、焚場(たで場)という、富士壺等、船底にへばりついたものを取り去る船の維持のためのドックが江戸時代から明治にかけて造られ、それら遺構が出てきています。まさに現物そのもので港町の構造がだんだん浮かび上がってきました。町並みとしても、いい建物がたくさん残っていまして、町の人も熱心に保存活動を行っています。ここは日本の港町でも天下一品だと思います。

以上が、これまで行ってきたフィールドワークの成果の一端です。今後、前半で紹介したヴェネツィア、アムステルダムのフィールドワークも行い、今まで述べてきた水の都市の共通点・その土地固有の相違点、これらを統一的に比較し、「舟運から見た都市の水の文化」とは何かについて、一つの解答を出したいと思っています。

  • 尾道における中世都市の迷宮空間を徘徊。住民が使いこなす路地空間に魅せられる。

    尾道における中世都市の迷宮空間を徘徊。住民が使いこなす路地空間に魅せられる。

  • 鞆には豪商が建てた素晴らしい町家が多く残る。

    鞆には豪商が建てた素晴らしい町家が多く残る。

  • 鞆の港を高台の中世の城跡から眺める。

  • 瀬戸内 鞆(広島県)連続立断面図

    瀬戸内 鞆(広島県)連続立断面図

  • 尾道における中世都市の迷宮空間を徘徊。住民が使いこなす路地空間に魅せられる。
  • 鞆には豪商が建てた素晴らしい町家が多く残る。
  • 鞆の港を高台の中世の城跡から眺める。
  • 瀬戸内 鞆(広島県)連続立断面図

【“水の都市を読む”とはどういうことか】

都市は生きた存在です。まず、空間の広がりの中で様々な要素相互が複合的に関係しあい、織りあわされて組織体を成しています(都市組織)。こうして都市の隅々にまで血が通い、都市の全体は常に機能しています。

同時に、都市は時間の流れの中で生きています。それは過去に規定されながら新しいものを付け加え、常に変化しつつ幾重にも層を重ねて形成されていきます。このように過去の条件に縛られるからこそ、その町の固有な形態や容貌も生まれてきます。

生き続ける都市は、その都市組織の中に、これまでの形成過程を物理的な形跡として刻み込んでいます。そこで、私達は、都市組織を構成する建物の壁、敷地境界、道路などのあり方や時代に応じて変化する機能を読みとることによって、都市が歴史の時間の中で展開してきた動的な軌跡を分析することができるわけです。舟運から都市を探る視点では、これに、都市を構成する港、運河、橋や、舟運ネットワークが重点項目として加わります。

都市を調べる上で、現在の町を観察することと、歴史的な史料を比較することが重要です。ヴェネツィアを例にとると、幸い描かれた景観や地図が史料として数多く残っています。重要な町ほど古い史料がたくさん残っています。アムステルダムも同様です。それらと現在の姿を比べますと、実にいろいろなことが分かります。例えば、サン・マルコ寺院、そして総督宮殿ですが、1500年の木版画の鳥瞰図を見ると、現在と同じ姿でほとんど変わっていない。驚くべきことです。ただ、1000年の歴史をもった鐘楼は1902年に崩壊し、すぐに再建されたために、とんがり帽子が一寸高くなり違っています。概ね当時の共和国が繁栄した時代のものを受け継ぎながら、時代に合わせ機能を更新して現在に至っています。

  • 尾道における中世都市の迷宮空間を徘徊。住民が使いこなす路地空間に魅せられる。

    都市の発達,成長変化の図式
    都市Tでは、最初の核aができ、やがてb、c、dと拡大成長する。同時に先にできていた部分も変容する。現在を見ながら、古い時代へ発見的にさかのぼっていく。
    陣内秀信『都市を読む・イタリア』法政大学出版局 1988

  • 鞆には豪商が建てた素晴らしい町家が多く残る。

    左:アムステルダムの場合 1544年の鳥瞰図(上)と現在を比べると、古い中世のコアのまわりに、より計画的に市街地が形成された様子が読み取れる。
    右:ヴェネツィアの場合 1500年の鳥瞰図(上)と現在を比べ、何が変わり、何が持続しているのかを知ることができる。

  • 尾道における中世都市の迷宮空間を徘徊。住民が使いこなす路地空間に魅せられる。
  • 左:アムステルダムの場合 1544年の鳥瞰図(上)と現在を比べると、古い中世のコアのまわりに、より計画的に市街地が形成された様子が読み取れる。右:ヴェネツィアの場合 1500年の鳥瞰図(上)と現在を比べ、何が変わり、何が持続しているのかを知ることができる。

【港・運河・都市の構造を読むには―ヴェネツィアを例に】

ヴェネツィアを例に、港と運河を中心とした都市の構造を把握してみましょう。ヴェネツィアのように12世紀〜13世紀頃に、東方貿易で繁栄した町と、アムステルダムのようにヨーロッパの中心が北に移り、17世紀〜18世紀にその中心となった都市とでは、その町の姿もだいぶ異なります。どのような所に町ができ、どのような地形を利用して造り、どのような都市の構造ができあがったのだろうか。そこに注目します。実際に、港、運河、建物の関係を対比の目をもって調査をしていくことは、フィールドワーカーにとってもたいへんおもしろい経験になります。

カナル・グランデ

ラグーナ(内海)は干満の差が普段でも1メーターぐらいあり、そこに浅瀬の陸地が顔をのぞかせています。そして、大陸の方から流れてくる水の流れもあります。カナル・グランデは元から存在していた水の流れです。それを段々と整備して、華やかなカナル・グランデに仕立てたのです。その運河も、時代と共に水の果たす役割・意味・機能が変化してきています。例えば、かつては東方貿易で活躍した船が行き来する物流の軸であった運河沿いも、現在では、サロンやカフェテラスが集まるアメニティ空間に装いをあらため、市民が見事に生活の中で使いこなしているのです。

カナル・グランデ沿いの建物

このカナル・グランデ沿いには、いろいろな時代の建物が残っています。12〜13世紀のビザンチン様式、14〜15世紀のゴシック様式という中世の建物など、ここに限らず、ヴェネツィアには中世の建物が数多く残っています。その後を追いかけるようにして建てられたのがルネサンス様式の建物です。つまり、いろいろな時代の建物が集積して、現在では歴史の厚みを感じさせるすばらしい町になっている。このような美しい建築が水辺を飾るというのが、「さすがヴェネツィア!」ですね。

迷宮空間

内側の水路に入っていくと、いかにもヴェネツィアらしい変化に富んだ迷宮<ラビリンス>の空間が味わえます。舟運の観点から見ますと、くらしのすべての物資が船で運ばれます。引っ越しも船ですし、救急車も救急船。万一火事があれば、消防車の代わりに消防船がやってきます。船の交通が今でも決定的に重要なのです。

商人と職人

港町は、豪商を輩出します。日本では回船問屋、ヴェネツィアでは商人貴族です。こうした豪商は、自らリーダーシップをとって、東方の海に乗り込んでいくという、スピリットをもっています。彼らの館が、カナル・グランデ沿いに並びました。これは、15世紀のゴシック様式で、東方の物資がどんどん入ってくる時代よりは少し後になります。一階は船着き場、アプローチの空間で、住む場所ではありません。居住するのは二階、三階です。オリエントやイスラムの文化とよく似ていて、中庭があり、外階段で上に上がります。

港の東端の方に、立派な造船所が造られていきます(写真右)。イスタンブールでも、ピサでも、港町はどこでもそうです。そして、どんどん拡大していきます。12世紀頃からスタートして19世紀まで拡張を続けます。世界で最初のベルトコンベヤシステムの生産をヴェネツィアの造船所が行ったと伝えられています。世界最初の工業地帯がこのヴェネツィアの造船所の周りに出来たと言えるかもしれません。周囲にはいろいろな職人が集まりました。縄を編む職人、木工の職人、鉄を扱う職人。現在でもヴェネツィアのダウンタウンの気分を一番味わえる界隈になっています。

都市への眼差し

ローマ・ヴァチカン宮殿にある16世紀の地図(フレスコ画)を見ると、彼らが都市をどのような眼差しで見ていたかがよくわかります(写真下)。現在のように航空写真や正確な地図がありませんから、彼らは自らの想像力を働かせながら地図にしているわけです。日本でも各地にいろいろな古地図が残っていますが、当時の人々が、どのような眼差しで地図を描いてきたかは、人々が都市についてどのような象徴的意味を抱いてきたかをたどる上でたいへんおもしろいテーマになります。

ヨーロッパでは鳥瞰図が発達し、15世紀終わりから16世紀にかけてのルネサンス期では、多くの都市が鳥瞰図で描かれます。現在のヴェネツィア空港からローマに向かって飛び立つと、眼下はこのフレスコ画のように見えます。当時の人々は、本当に想像力逞しく、海の上に浮かんでいるヴェネツィアという都市を鮮やかに描きだしたわけです。

水からの風景演出

まず水の方から見た時に、どのような風景をつくるか、どのような都市の素晴らしさを演出するか、これが「水の都市」に住む人々の一つの大きなテーマです。おそらく中世〜近世と、舟運が活発だった時代には、大勢の人が海の側から都市を見た。海の側から都市にアプローチするという経験をみんながもっていたわけです。そのことが現在のヴェネツィアを訪ねるとよく分かります。

建物と運河の関係

舟運という観点から見ますと、建物と運河との関係、あるいは道との関係が注目すべきポイントです。これは日本の町を見る場合にも同様です。道路と川、掘割りがどの様に関係しているか。ヴェネツィアに一番古いタイプというのは、運河から直接建物が立ちあがる。そして、曲がっているほど古い。そして岸辺がついてくるのが、おおよそ13世紀。これらを折衷すると、運河沿いのトンネルになる。トンネルというのは公的な空間と私的な住宅とをうまくからめるということで、人々の間の調整機能がないとうまくできません。地中海の周りにはそういうノウハウが発達します。ですから、おもしろいトンネル状の空間が、アラブ都市や南イタリアには多いのです。さらに時代が新しくなり14世紀〜16世紀位になると、両側に岸辺がついたものができてきます。実は、これが、アムステルダムでよく使われるようになります。

サン・マルコ広場

船で入ってきますとここが玄関、大広間となります。ナポレオンがヴェネツィアを征服した時に、「美しいサロン」といって絶賛した広場です。世界の広場の中でも最も美しいものが、ここに時代を重ねてできあがっていきます。

リアルト・マーケット

ここは資本主義の発祥地ともいわれています。つまり、中世に銀行や保険会社などがここに出来ます。軍団を組んで交易に出かけていく商人はたいへんなリスクを取るので保険をかけるわけです。また、現金を動かさずに商売ができる決済システムや、二重簿記もヴェネツィアで始まりました。

  • カナル・グランデ

    カナル・グランデ

  • 迷宮空間

    迷宮空間

  • 商人と職人

  • 商人と職人

  • ローマ・ヴァチカン宮殿にある16世紀の地図(フレスコ画)

    ローマ・ヴァチカン宮殿にある16世紀の地図(フレスコ画)

  • 水からの風景演出

    水からの風景演出

  • 建物と運河の関係

    建物と運河の関係

  • サン・マルコ広場

    サン・マルコ広場

  • サン・マルコ広場

    サン・マルコ広場

  • リアルト・マーケット

    リアルト・マーケット

  • カナル・グランデ
  • 迷宮空間
  • ローマ・ヴァチカン宮殿にある16世紀の地図(フレスコ画)
  • 水からの風景演出
  • 建物と運河の関係
  • サン・マルコ広場
  • サン・マルコ広場
  • リアルト・マーケット

【市場と広場―ヴェネツィアに見る】

都市を見る際に広場がどこにできるか、そして、マーケットがどこにできるか、これがたいへんに重要です。日本の都市でも魚市場とか青物市場、あるいはいろいろな市場が舟運と結びついて生まれるケースが多いわけですが、とりわけヨーロッパでは市場が都市の原点として都市の中心にできることが多いのです。ドイツやベルギーでもマルクト広場が都市の中心を造っています。

ヴェネツィアでは政治・行政の中心地であるサン・マルコ広場と同時に、経済の中心地となるリアルト・マーケットを作ります。政治・行政の中心地と市場が分かれて立地しているケースも多いのです。

サン・マルコ広場

港町としてヴェネツィアを見た時に、もっとも重要なポイントとなるのが、サン・マルコ広場です。ここは、ヴェネツィア共和国の政治の中心(総督宮殿)、宗教の中心(サン・マルコ寺院)、そして官僚組織の中心でした。また、図書館と造幣局が造られる。ヴェネツィアの貨幣単位、ドゥカートというのは地中海全体でたいへん重要視された貨幣です。いわば、地中海の金融センターでもあり、知の集積地でもあったわけです。

港町の機能として正面に階段状の船着き場があります。どのような種類の船が使われ、船がどのように接岸し、荷を揚げ、人がどのように都市に入っていったか。史料としての鳥瞰図を見るとよく分かります。鳥瞰図では見事に階段になっていますから、現在とほとんど変わりません。一寸異なるのは、岸沿いに共和国の大きな穀物倉庫があることです。入荷した穀物をここに保管することにより税金をかけ、共和国の財源にしたのです。このような倉庫、日本でいえば蔵が多数並ぶわけですが、どこで荷揚げしてどこに収納するか、貯蔵するか、都市の機能としてはたいへん重要です。

水がショーアップする空間

ここは、演劇的なスペクタクルとして様々な催し物が行われる空間として、ヴェネツィアの華麗なイメージを作り上げる上でも最も重要だった広場です。この町には倉庫も現在までたくさん残っていまして、ヴェネツィア・ビエンナーレ等のアートのイベントでこのような場所を活用しています。港湾施設としてできたものが、現在は文化的なヴェネツィアの世界を発信する舞台として使われるようになっている。つまり、どんどん水の都としての魅力をショーアップしていきます。中世に東方貿易で稼ぎ、それをまちづくりに投資し、見事なストックを造っていったのですが、だんだん東方貿易の中継地点というイメージよりも、都市文化の表現の場になっていきます。建築のスタイルも水との結びつきを最大限に生かすような魅力的なものになっていきます。

遊興地区

ヴェネツィアの飲み屋です。日本の赤提灯の代わりにランプシェードがあります。ここは立ち飲みの居酒屋ですが、海産物のおつまみや地元の大陸の方でできる白ワインがたいへん美味しい。こういう所で、マーケットで働く人々が手を休める。毎日行っても安い値段でワインとおつまみが堪能できる。はしごをする人も多い。こうした遊興空間も、港町共通の要素の一つだと思います。様々な機能が集積してくると、人と金が集まり、当然のように美しい女性が出没するということになります。

徐々に、いかがわしい界隈もでき、やがて公認の遊郭も作られます。ポンテ・デッレ・テッテという橋がありますが、これは日本語で「乳房の橋」という意味です。色っぽい名前ですが、ここに美しい女性が上半身はだけて窓辺で男どもを誘ったといわれています。実際、この界隈にはそういう遊郭的なものがあったわけです。これを地名として、橋の名前としてそのままおおらかに書いているというあたりが、いかにもイタリアらしい。

都市の活気―リアルト・マーケット

カナル・グランデの途中にリアルト・マーケットがあります。これは1400年代後半に描かれたカルパッチョという画家の作品です。賑やかなリアルトの当時の様子がよくわかります。黒人のゴンドラ漕ぎもいますし、非常に国際的な雰囲気も漂っています。商売のために集まった人々、そして地元の貴族、庶民、いろいろと描きこまれていて風俗もよく分かります。建物も、ゴシックの館が並んでいて、屋上テラスでは物を干している。現在の香港やシンガポールにありそうな、竹竿で洗濯物を干している庶民的な姿が、当時のヴェネツィアの中心で見られたわけです。ある意味ではアジア的風景。このような美意識を生む文化が当時にはあったということです。都市の活気がどこから生まれたか。多くの都市の活気は、運河、掘割り、港の周りに生まれてきます。これは日本もヨーロッパも変わりません。

国際マーケット

ここリアルトは運河がカーブする場所で、地形的に高い所になっています。このため、7世紀頃から教会が造られ、9世紀にはマーケットが出来始めます。周囲の広場は、オリエントのバザールです。イスラム都市のように活気があります。織物、絨毯、貴金属等を売っている高級ショップ。あるいは、船でどんどん野菜、魚、肉、が搬入されてくる活気のある生鮮食料品マーケットが開かれています。その裏には、16世紀頃から活発になってくるヴェネツィアのファッション産業を支えた職人の工房やオフィスがひしめき、活発な経済活動が展開されます。国際都市ですから、ドイツ人の商館があったり、ペルシャ人の商館もある。まさに、様々なエスニックグループが集まった一大国際都市として機能していたわけです。

  • サン・マルコ広場

    サン・マルコ広場

  • サン・マルコ広場

    サン・マルコ広場

  • 水がショーアップする空間

    水がショーアップする空間

  • 遊興地区

    遊興地区

  • 都市の活気―リアルト・マーケット

    都市の活気―リアルト・マーケット

  • 国際マーケット

    国際マーケット

  • サン・マルコ広場
  • サン・マルコ広場
  • 水がショーアップする空間
  • 遊興地区
  • 都市の活気―リアルト・マーケット
  • 国際マーケット

【アジア―橋のたもとのマーケット

蘇州では、橋のたもとが、大きな意味をもってきます。日本の港町でもそうです。日本橋にしても、大阪の橋にしても、もっと小さな港町でもそうだと思います。橋の周りにマーケットができるのです。荷揚げをし、魚の市場、やっちゃばがある。そして山門があって、宗教空間がくる。さらに、廟が来まして、ここが演劇的な舞台になる、戯台が来る。蘇州は、社会主義になって久しいので、宗教的なものが衰退してしまったのですが、コミュニティセンターとして年輩の人がここでゲームを楽しんだり、マーケットが広がったりしています。バンコクの中心部も、マーケットです。橋の上あるいは岸辺を埋めて、布のマーケットがたっています。こういう場所も、もともとの舟運と結びついて生まれ、陸の時代になってもここに発達しているのではないかと想像しました。船着き場が造られ、現在は通勤に使われています。

  • アジア―橋のたもとのマーケット

    アジア―橋のたもとのマーケット

  • アジア―橋のたもとのマーケット

    アジア―橋のたもとのマーケット

  • アジア―橋のたもとのマーケット
  • アジア―橋のたもとのマーケット

【宗教空間・祝祭空間―都市のイメージ発信】

宗教空間や祝祭空間がどこに位置するかは都市の成り立ちを知る上での大きなポイントです。例えば、イタリア中世の都市と、日本の港町の違いは、広場があるかどうかということ、そして、教会や寺院といった宗教建築が都市の中でどの様に町を飾っているかという点です。特に宗教空間を見ますと、日本の場合は、高台に参道を上って奥まった所に、自然をバックにしたお寺やお宮がある。ところが、例えばアマルフィでは、堂々と公共広場に面して宗教空間が来る。そして、その裏にアラブの世界に紛れ込んだような素晴らしい中庭が潜んでいまして、複合体になっているわけです。

リアルト広場もその発祥は教会でした。宗教空間、マーケット、お祭り、スペクタクル、これらが有機的に結びついている。それが、水を舞台にした都市だと際だつわけです。

ヴェネツィアの場合

特権的な市民、貴族達がどこに、どの様に館を構えるかということが、都市の意味構造を捉えていく上でも非常に重要です。それは現在までも受け継がれて都市の文化を物語っているものが多いわけです。

ヨーロッパの貴族達、特にイタリアの貴族達は、メインの華やかな公共空間に面して館を構えます。それに対し、日本の豪商は一寸メインの空間から引っ込んだ、山の手的な所にお屋敷を設けます。そしてお店、町家はメインストリートに出します。これは尾道でもそうでしたし、亀崎(愛知県)でも、そういうお話を聞きました。ヴェネツィアと日本とでは公共空間における豪商の館の配置が逆になっているわけです。

やがて、ヴェネツィアは、東方貿易の物資が行き交う活発な経済空間というイメージから、華やかな祝祭が行われる、スペクタクル、演劇的な空間に変わってきます。16世紀から、特に18世紀。ヴェネツィアが一番爛熟した時期に、ここは完全に祝祭空間に変わりました。外国からの賓客をもてなすパレード、祝祭、スペクタクルが頻繁に行われます。

レガッタがよく行われますが、ナポレオンもカナル・グランデ沿いの館から見物したそうです。水辺空間が、ますます華やかな舞台として発展していくこととなります。

そのためもあって、現在の私達はヴェネツィアを観光都市としてイメージし、活発なコンベンションシティとしても機能しています。現在でも、歴史的建造物がたいへん上手に使われています。情報発信都市なのです。映画祭、ビエンナーレ、オペラ、展覧会、学会、シンポジウム、そういうものの開催件数がたいへん多い。

私もたびたびここでの学会に参加したことがありますが、そういう場合は水辺のホテル、つまり元の貴族の館に泊まって、朝になるとモーターボートのタクシー船が迎えに来ます。会議が終わると、船でホテルに戻り、着替えて、また船でレストランに行くという演出を行うわけです。ヴェネツィアに招かれた人は、大いに喜んで「またヴェネツィアに行ってやろう」という気になります。すばらしい水の空間価値を現代に活かし維持しているのです。そのことがヴェネツィアの経済の活性化にもつながり、文化イメージの発信にもつながっています。

ヴェネツィアも水の都市ですから、水上を使った祝祭というのが非常に活発です。センサと呼ばれる、ヴェネツィアと海との結婚を宣言する祭りがありますが、国を挙げてのイベントです。金箔のお召し船で総督(現在は、市長)がアドリア海の方まで出かけていって「海よ、ヴェネツィアは汝と結婚せり。真実と永久の海洋支配を祈念して」という言葉とともに、月桂樹の王冠と金の指輪を投げ込みます。(写真下、18世紀)

ボートをもっている市民が多いというのもヴェネツィアの特徴です。日本の隅田川の花火も7月末に行われますが、レデントーレ教会のお祭りでは、みんなが船を飾って出かけて行きます。午後から出かけ、夕方、水上でワインと料理で楽しみながら、午後11時頃花火が打ち上げられます。市民生活の中で水が生きているわけです。都市のイメージアップのための、演劇的・祝祭的な空間づくりに、船が一役買うことも多いことは記憶に留めておくべきだと思います。

  • ヴェネツィアの水辺空間は時代とともに機能、イメージを変えてきた。今は岸辺にレストランのテーブルが並ぶ。

    ヴェネツィアの水辺空間は時代とともに機能、イメージを変えてきた。今は岸辺にレストランのテーブルが並ぶ。

  • アマルフィの「海の門」をくぐると、中心の広場に出る。イスラム様式の大聖堂の姿に圧倒される。

    アマルフィの「海の門」をくぐると、中心の広場に出る。イスラム様式の大聖堂の姿に圧倒される。

  • バンコクのチャオプラヤ川に正面を向ける教会建築。渡し船は市民の足として活用されている。

    バンコクのチャオプラヤ川に正面を向ける教会建築。渡し船は市民の足として活用されている。

  • ヴェネツィア

    ヴェネツィア

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