機関誌『水の文化』9号
北前船から北洋漁業へ

北前船から北洋漁業へ
〜 富山『バイ船文化研究会』が見た大日本海時代 〜

米騒動も売薬も、海につながる オホーツク、シベリア、カムチャツカへと広がる越中商人の壮大な開拓物語

富山 和子さん

評論家・立正大学教授・日本福祉大学客員教授
富山 和子 (とみやま かずこ)さん

早稲田大学文学部卒業。自然環境保全審議会委員、中央森林審議会委員、河川審議会専門委員、海洋開発審議会委員、中央公害対策審議会委員、林政審議会委員、食料・農業・農村基本問題調査会委員。環境庁「名水百選」選定委員など歴任。「富山和子がつくる日本の米カレンダー、水田は文化と環境を守る」を主宰。 主な著書に『水と緑と土』(中公新書)、『水の文化史』(文藝春秋)、『日本の米』(中公新書)、『川は生きている』(講談社、第26回産経児童出版文化賞)、『道は生きている』(講談社)、『お米は生きている』(講談社、第43回産経児童出版文化賞大賞)、『水と緑の国 日本』(講談社)、『環境問題とは何か』(PHP新書)などがある。



井本三夫さん

歴史家・元茨城大学教授
井本三夫さん

岩瀬五大家のうちの宮城家・畠山家と姻戚関係にある。茨城大学理学部教授を経て、1980年(昭和55年)より著述生活にはいる。バイ船文化研究会の会誌『バイ船研究』で連載した富山湾沿岸の三十余名の古老たちの回想聞き書きをまとめを、1998年『北前の記憶』(桂書房)として上梓した。京都大学理学部・同大学院博士課程卒業。1930年(昭和5年)富山県四方の出身。



犬島 肇さん

富山県議会議員
犬島 肇さん

1964年(昭和39年)~1974年(昭和49年)まで富山県立高岡高等学校教諭。バイ船文化研究会の発足に奔走、理事を務める。「古志の松原を育てる会」、「馬場公園の歴史と自然を愛する会」、「県民がつくるオペラ・ガラ・コンサート」など様々な市民活動の中心的存在。著書に『嵯峨寿安、そしてウラジオストックへ』(桂書房 1993年)『県政に挑む』など。東京教育大学文学部卒業。1941年(昭和16年)岩瀬の生まれ。



畠山 道行さん

バイ船文化研究会代表理事
畠山 道行さん

五大家のひとつ畠山家出身。畠山ホームクリニック院長。バイ船文化研究会での様々な研究活動や執筆のほか、短歌の同人誌の編集人でもある。また青年期にかかわった演劇活動を通して音楽・芸術分野にも造詣が深い。旧制富山高等学校、金沢大学医学部卒業。1931年(昭和6年)岩瀬の生まれ。

三津七湊と越中岩瀬

「京の文化は日本海文化である」として、私が日本海文化論を世に問うたのは1979年、雑誌『文芸春秋』誌上に『水の文化史』を連載してのことでした。

日本列島を水系でとらえ、水と土の文化である米。その米作りを経済基盤とする日本人の歴史を国土の上に眺めるとき、雪の意味、土壌の意味、海流と対岸との関係など明快に見えてきて、私は自分が交通の研究者であったこと、同時に水の研究者でもあることの幸せを思ったのでした。交通手段とは、文明の基盤です。水利用の技術、これも文明の基盤です。二つの文明の基盤をあわせ通して歴史を見るとき、それまでの常識とは違った姿が見えてきたからでした。

私は「北陸や東北は、奈良や京の文化の養い手だったのである」と書き、「日本海側こそ表日本」と書きました。「ショックを受けたのは水の専門家であるよりも、歴史家たちだ」との書評を頂いたりしたものです。

当時はまだ日本海側は「裏日本」と呼ばれていたのです。現在ではテレビも新聞も天気予報も、そのような呼び方をしなくなりました。『水の文化史』以来、「裏日本」の語は次第に消えて、使われなくなりました。

私のその日本海文化論の心証形成に力のあった一つが、三津七湊でした。

日本最古の海事法規集「廻船式目」には、鎌倉室町時代を通しての日本の十大港として、次の名があげられていたのです。先ず三津とは伊勢安濃津、筑前博多、和泉堺で、それに次ぐ七湊は、能登輪島、越前三国、加賀本吉、越中岩瀬、越後今町、出羽秋田、津軽十三湊です。このように七湊がすべて、北陸、東北の日本海側で占められています。いずれも河口港で、米の積出港として栄えるのです。

中世の交通史を繙(ひもと)くうち、この十大港の記述を見つけたときの私の感動は、いまでも忘れられません。それまでの常識とは逆の理論を世に問うということは勇気のいることですが、この三津七湊が私にその勇気を与えてくれた論拠の一つになったのです。それゆえ、それらの港町は現在でも、私にとって特別の思いがあります。

今回はその一つ、越中岩瀬(富山市岩瀬)のみなさんにご登場いただきます。神通川河口のこの港町は、江戸時代になると北前船でさらに栄えるのですが、富と情報を集めたその商都の末裔たちが、いま、バイ船文化研究会という聞き慣れない名の研究会を作って、先祖たちの足跡を研究しています。

お話を伺うと、一つの港町の盛衰史は、そのまま壮大な日本海文化史でもありました。その世界は海運から北洋漁業へ、あるいは海運から鉄道へと続く産業、交通の変遷史であり、その舞台は対岸のウラジオストクはもとより遠くアムール川へ、カムチャツカへと広がっていくのです。そして富山の売薬も、米騒動もやはり海につながり、漁業や港湾と深い関係があったのです。

岩瀬と隣接する水橋。水橋は天下の急流、常願寺川の河口の小さな漁港です。常願寺川は明治初期、オランダ人技術者デ・レーケが来て「これは川ではない、滝だ」といったという、有名な話が伝えられている川です。彼の行った治水により、町の姿はすっかり変わっていまのようになったのですが、この古い港町にも、水の文化が凝縮されています。そして、売薬や米騒動はむしろここが中心でした。その水橋のお二人にも紙面で参加していただきます。

発端は次郎吉少年

もそもの発端は平成5年(1993年)1月のことでした。犬島肇さんがお見えになって、講演を依頼されたのです。主催は富山市岩瀬の「バイ船文化研究会」。バイ船とは北前船のこと。そして犬島さんは『水の文化史』以来の私の愛読者で、バイ船文化研究会のために是非とも岩瀬へ来てほしいとのお誘いでした。

ちょうど私は『日本の米』を執筆の最中で、日本人が如何に数学能力のある民族だったか、世界的数学者、関孝和も私たちはあたかも突然変異のごとき存在として教えられるが、歴史にそのようなことのあるはずもなく、この数学者が出現する歴史的必然のあったこと、それは検地による水田の測量であったこと、そして江戸時代、庶民の数学レベルの如何に高かったかなど、我ながら面白がって書いているところでした。その一例が黒部川から取水する十二貫野用水であり、その高度な用水開削の背景には、石黒信由(1760〜1836年)のような優れた数学者たちのいたこと、富山県は数学者集団の拠点の一つであったことなど、私は書いたばかりの話をいい気持ちになってお話ししたのです。

「江戸時代、町人たちのレジャーといえば数学で、江戸時代を通しての大ベストセラーといえば数学書だったのです」とも。

すると、犬島さんの目の色が変わりました。

「そういえば」と彼は話し出したのです。

「長者丸の漂流、という海難事故がありました。岩瀬船籍の北前船で、江戸時代、三陸沖で遭難して漂流中をアメリカの捕鯨船に助けられた事故ですが、昨年バイ船文化研究会で、この長者丸漂流事故の研究者を講演にお招きしたのです。すると、ブラマーさんという米人女性のその講師がいうには、乗組員の次郎吉という少年などは、八十桁も数えてアメリカ人を驚かせたと」

犬島さんは続けました。

「まさかと、話半分に聞いていましたが、ではその話は本当なのですねえ」

聞いている私もびっくりしました。早速、次郎吉のインタビュー記事が載っている当時のハワイの新聞など送っていただき、私は執筆中の原稿に次郎吉の話を書き加えたのでした。

次郎吉のそんな物語を引き出すような活動ぶり。それだけでもなんとすてきな研究会だろう。以来私はバイ船文化研究会の活動に注目するようになったのです。

明治中期のバイ船(福井県河野・磯前神社蔵)。掲載した『海事史研究』第9号の解説者石井謙治氏によれば、福井県の有名な北前船船主右近権左衛門の持ち船八幡丸だという。船の横腹に伝馬船が寄り添っている。1.500石積か2.000石積の大船で、帆柱や帆桁の巨大さが水夫と比較してよく分かる。写真は、井本三夫『北前の記憶』桂書房 1998年より引用。

明治中期のバイ船(福井県河野・磯前神社蔵)。掲載した『海事史研究』第9号の解説者石井謙治氏によれば、福井県の有名な北前船船主右近権左衛門の持ち船八幡丸だという。船の横腹に伝馬船が寄り添っている。1.500石積か2.000石積の大船で、帆柱や帆桁の巨大さが水夫と比較してよく分かる。
(※)写真は、井本三夫『北前の記憶』桂書房 1998年より引用。

古老の聞き書き三十人

富山県とのおつきあいはずいぶん古いのですが、そうでなくとも前述のように、岩瀬には特別の思いがありました。そして講演でお訪ねしてみれば、研究会のみなさんも岩瀬の町並みも味覚も、お酒まで魅力的でした。

それ以上に心惹かれたのは、その活動のユニークさでした。

その活動は単に機関誌の発行や講演会などの催しばかりでなく、たとえば対岸のウラジオストクとの交流を復活させ、ウラジオストクから子どもたちを招いてホームステイまでさせています。

あるいはロシア、韓国からオペラ歌手を招いてコンサートを開くなど多彩です。

更に私を驚かせたのは、歴史家、井本三夫さんのお仕事でした。北前船の乗り組み員、漁業関係者、売薬、糀屋、大工など北前船に関わる古老の方々に会って、その記憶を丹念に聞き書きして記録に残されています。それも三十余人という大変な人数です。これは後に、井本三夫編『北前の記憶』(桂書房1998年)として出版されるのですが、これはもうかけがえのない歴史の資料、証言集でした。少し繙けば、どんなに大変な仕事であったか想像できる労作でした。

著者の井本さんは京都大学で理論物理学を専攻された、湯川秀樹門下の理学博士で、茨城大学教授をされていた方です。が、「科学的認識の自然・歴史・社会への統一的適用を志して」(同著)、大学専任を辞め、非常勤としては教壇に立つものの、著述生活に入られた方です。その経歴も異色なら、この聞き書きの大仕事に取り組まれたことも驚きでした。しかもそれは、バイ船文化研究会の活動の一環であったのです

膨大な聞き書きに加えて、巻末には井本さんの論文「日本海近代史としての北前船の変容」が収められています。井本さんはその中で日本海文化について、

「北陸は古代、幾内の権力が北へ進出する際の『海つ道』で、いいかえれば北陸は畿内権力により先ず海から征服され、さらに水稲モノカルチャー、即ち米の単作地帯として強制され、その重量貢納物たる米を運ぶ交通手段を畿内、東海側中心の権力機構に従属させられた」と記し、

「水稲モノカルチャーとともに生じたこの海運の従属こそ日本海地域の特性に他ならない」
と特徴づけています。

同じ日本海を眺めるにも、乾燥して寒い太平洋側の東国の地から、この湿度高い雪国へのいささかの憧れとロマンをこめて語るのとは異なる、やはり中央政権との関係を階級的に捉えた、地元ならではの厳しさがありました。一度、研究会のみなさんにその研究成果をお聞きしようではないか。こうして、今回の企画となったのでした。

ご登場頂く畠山道行さんは、後に出てくる岩瀬五大家の一つ、畠山家の方で病院を経営される外科医。バイ船文化研究会の代表として、この会を育ててきた方です。犬島肇さんは明治・大正期の岩瀬の言論人、犬島宗左右衛門のお孫さんで県会議員。そして井本三夫さんです。

神通川河港に面する馬場家の荷積み降ろし口(船着き場)。

神通川河港に面する馬場家の荷積み降ろし口(船着き場)。

【なぜ「バイ船」なのか ーー 北前船と呼ばない理由】

バイ船文化研究会 畠山 道行 

北前船の名前がよく知られるようになっていながら、何故「バイ船」という名前をつけたのか?と、知人に会うたびに質問されます。確かに、北前船と云ったほうが普遍性もあり、大衆の理解も得られるでしょう。しかし、私たち富山の岩瀬港に住んでいる者たちには、北前船という名前は全く憶えのない呼称なのです。この土地では誰に訊いても「バイ船」とはっきり答えてくれる。先日もよそに住んでいる友人が、「バイ船」と呼ぶよりも、北前船と云ったほうがスマートではないかと私に言った事もありました。果たして北前船というほうが「バイ船」というよりもスマートなのだろうか。その問題はさておいて、我々は航海用語で「北前」に近い言葉をふつう使用している。東前の風だとか、南前の風だとか・・・つまり東方から、また南方からとの意味であり、北前船の北前も当然北方から・・・という意味に解して良いものでしょう。

私自身長い間富山に住み、土地の古老たちにも全く馴染みのない北前船という言葉はどこから来たものでしょうか。

確かにこの言葉は文献の上では石川県の牧野隆信先生が一般化されたように思えるのですが、私自身、私の全国にいる知人たちに確かめてみても、関西、瀬戸内、方面の方々だけが素直に理解されて、日本海側では、山陰も含めて、むしろ「バイ船」といったほうが、理解されやすい感じがしました。つまり私の肌に対する感触は、関西の人たちが港に入って来る船を見て、「あれは地方(じかた)の船、今あちらから来たのは北前の船・・・」と言って区別したように感ずるのです。従って、幕末から明治にかけて、日本海側に種々の文化を創り、全国交通網の発達とともに衰退していった和船は、我々の目から見ると、「バイ船」であり、北前船ではないはずです。この研究会が発足するにあたり、会の名称を決める時にその点を力説し、会の名称を「岩瀬バイ船文化研究会」としたのは、以上の理由によるものです。
(畠山道行氏『バイ船研究』創刊号・発刊のことばより抜粋)

バイ船(明治中頃、伏木港での撮影か)。武部保人氏所蔵

バイ船(明治中頃、伏木港での撮影か)。武部保人氏所蔵(※)

回船問屋の旧家が次々に取壊されていく

富山 今回のテーマは海です。日本文化と海といえば先ず日本海をあげなければなりません。そこで今日は日本人がいかに海を舞台に文化を築きあげてきたかをお話頂きたいと思います。とりわけ富山県は日本列島の中央に位置するし、富山湾というこれまた実に独特の海にのぞんでいます。そんな特徴と関係するかどうか判りませんが、バイ船文化研究会も実にユニークな活動をされています。最初に先ず、バイ船文化研究会とはどんな会なのか、ご説明いただきたいのです。

畠山 バイ船文化研究会を作らないかという話は、昭和60年に犬島さんと会って話をしたのが始まりです。その時、岩瀬では回船問屋の旧家が二、三軒壊されていて、その一つは昔から有名な船を使った家の醸造の蔵だったんですが、みんな壊されまして散逸したんです。私の家の本家も蔵は残っているんですが、重要な文献のほとんどが売られてしまいました。

それから、大町通りの町並み保存という問題があります。富山市の中で戦災に遭っていないのはこの地区だけです。戦前の富山を想像できる町並みはここしかないんです。それを保存する意味もあった。この町並みは貿易によって起こったものであるし、貿易によって外観がつくられた町を保存していこうと関係各方面に訴え、そして我々自身で何ができるかということも手探りしていこうという提案をお互いにしたわけです。

そのためには、今まで閉鎖的であった多くの旧家ですね、旧家に対しては知り合いが多いものですから私が紹介しますといいまして、お互いに手を組み、犬島さんと二人でそういう旧家を訪ねまして資料の開放をお願いしました。その資料を編纂して出したわけです。

それから、旧役所等に残っていたいろいろな文献がありまして、これを書き出すと切りがないと思うんですが、いろいろな移民の記録もありますし、漂流の記録もありますし、様々なものがあるんですが、それをやり出したら何十年かかるかわからないくらい膨大なものです。手をつけたいのですが、手をつけていないのが実情でございます。

犬島 旧家というのは五大家が中心ですが、何と言っても岩瀬の五大家の歴史がなかったらバイ船の歴史はなかなか語ることができない。

通りに面した表の戸をゴロゴロと開けるあの重々しい音。大戸を閉めて小さな戸しかないでしょう。あれをそろそろと開けるときゴロゴロと音がするんですよ。あの音に負けてしまって重みがあって足が震えるんです。音にも歴史があるんですね。岩瀬の歴史を知りたい、バイ船について知りたいと思えばそこをこじ開けて行こうという勇気が必要なんです。

私たちの会の特徴は、いわゆる郷土史家の郷土史研究と違うのですね。つまり、古い文献を復元したり、あるいは解読したり、それを記録するというような郷土史家の研究会ではないという自負がある。どういうことかというと、過去の文献を読む。それから過去の歴史を知る。そして、過去を読むということを通じて現在をどう見るか。これから先の未来をどう切り開いていくかに、バイ船文化研究会はかなりアクティブに動いてきたというのが大きな特徴なんです

具体的に申しますと、例えば北前船のエートスと言いましょうか、あるいはバイ船の心・文化がなければ、嵯峨寿安(注1)という怪物は生まれてこなかった。そこで、嵯峨寿安を訪ねながらウラジオストクとの交流というテーマへ進んでいく。それを通じて、いわゆる練習船に乗っているウラジオストクの商船学校の学生たちと今後大きな交流をする。まさに現在の日本海をどう開くかという問題に一挙に切り込んでいます。

長者丸(注2)をめぐるシンポジウムや神通川水運フォーラムなどもバイ船文化研究会で企画、実現させたものです。すべて会員で費用を集めてやってきました。畠山先生にはさんざん散財させましたが(笑)。

それから、歴史の分野では、井本先生が切り開かれた米騒動の研究。これは、北前文化、バイ船文化との密接な結びつきをたどりながら、米騒動にも視点を置いて、実際に今生きている人たちの記憶をしっかりと記録し、「日本海とは何であったか」ということを「移動」の側面からたどる仕事も起きてきました。

こうしたバイ船文化研究会がどんどん広がり、韓国とウラジオストクの両方からオペラ歌手を呼んで、富山県で一九九八年から三年連続のオペラガラコンサートを行うなど、現在の活動にどんどん広がっている部分もある。

(注1)嵯峨寿安(さがじゅあん)
1842年(天保13年)金沢の生まれ。江戸に出て村田蔵六(大村益次郎)の鳩居堂でオランダ語を基礎に、医学、軍事技術を学ぶ。1869年(明治2年)金沢藩よりロシア留学の命をうけ、日本で初めて単独でロシア大陸を横断した。五年後に帰国した時にはすでに金沢藩はなく、北海道開拓使御用係、東京外国語学校教官などの職につくがなじめず、不遇のうちにサハリンを経て広島にて没す。一時祖父が伝馬屋を営む岩瀬に滞在したことがある。
(注2)長者丸(ちょうじゃまる)
江戸の鎖国時代、海難事故でアメリカに保護され、5年後に帰還した岩瀬船籍のバイ船。1838年(天保9年4月)西岩瀬港を出帆し、三陸沖で難破し漂流していたところをアメリカの捕鯨船に救助された。十人の乗組員のうち米田屋次郎吉、鍛冶屋太三郎など六人がハワイで生活し、1843年(天保14年)無事帰還することができた。鎖国体制下であったため、帰国後厳しい取り調べを受けることとなった。

神通川河口、東岩瀬町。大正十五年東岩瀬町要覧より

神通川河口、東岩瀬町。
出典:大正十五年東岩瀬町要覧(※)

岩瀬五大家

岩瀬には、幕末から明治にかけて繁栄を極めた回船問屋の旧家が多く、中でも五大家と呼ばれる五大船主の家系は、この地域の経済・文化に大きくかかわる存在であった。バイ船の歴史はこの五大家ぬきには語れない。

馬場家 加賀藩・富山藩と結び発展。天保頃から北海道交易に乗り出して急速に経営を拡大した。五大家の中では馬場家だけが汽船会社を経営し、日本郵船の独占に対抗して「日本海運業同盟会」の中核として活躍した。

米田家 幕末から明治初年にかけて北前船主となり、昭和初年には肥料問屋としても成長した。魚肥を農民に小売りする商法で、販売先は富山市以北、神通川流域の八尾にまで及び、「米田四千石の高持」と称された。

森家  安政年間から続く回船問屋。1900年(明治33年)頃には北海道通いの汽船を持っていた。大正期にはカムチャツカに出漁し、漁場経営にも乗り出した。1988年(昭和63年)、同家建物は富山市の指定文化財となり、現在も公開されている。

畠山家  明治初期には北海道と能登などの近海交易にあたったと伝えられる。明治末年頃、畠山合名会社を設立。回漕部は北海道交易のほか、銀行・電気事業への金融業務を、漁業部は北洋、カムチャツカ方面での漁業を扱った。

宮城家  明治前期に急成長した回船問屋。明治34年樺太に渡航、買魚で巨利をあげた。日露戦争後いち早くニコライエフスク、沿海州に出漁、カムチャツカ、房州にも進出した

  • 富山市指定文化財「森家」 代々四十物屋(あいものや)仙右衛門と称し、明治以降は苗字を森とした。現在の建坪は八十坪で表から母屋、道具蔵、米蔵、肥料蔵と続いていたが、今は米蔵と肥料蔵はない。玄関から背後の船着き場まで土間廊下が通じる。

    富山市指定文化財「森家」
    代々四十物屋(あいものや)仙右衛門と称し、明治以降は苗字を森とした。現在の建坪は八十坪で表から母屋、道具蔵、米蔵、肥料蔵と続いていたが、今は米蔵と肥料蔵はない。玄関から背後の船着き場まで土間廊下が通じる。

  • 森家の蔵 防火のため頑丈な造りになっているが、普段は閉じている扉の内側には、財力にあかして作らせた豪華な芸術的意匠が彫りつけてある。

    森家の蔵
    防火のため頑丈な造りになっているが、普段は閉じている扉の内側には、財力にあかして作らせた豪華な芸術的意匠が彫りつけてある。

  • 米田家の「みせ」表通りから入ってすぐの玄関にあたる空間。ここで当家の主人(旦那はん)は客と応対。小作人や船乗りは、この畳の間から一段低い土間側に座ることになる。

    米田家の「みせ」
    表通りから入ってすぐの玄関にあたる空間。ここで当家の主人(旦那はん)は客と応対。小作人や船乗りは、この畳の間から一段低い土間側に座ることになる。

  • 加賀藩の藩蔵で、現在は岩瀬米穀という米店になっている。前の道は旧北陸街道。加賀藩主の参勤交代の行列なども通った街道筋。

    加賀藩の藩蔵で、現在は岩瀬米穀という米店になっている。前の道は旧北陸街道。加賀藩主の参勤交代の行列なども通った街道筋。

  • 富山市指定文化財「森家」 代々四十物屋(あいものや)仙右衛門と称し、明治以降は苗字を森とした。現在の建坪は八十坪で表から母屋、道具蔵、米蔵、肥料蔵と続いていたが、今は米蔵と肥料蔵はない。玄関から背後の船着き場まで土間廊下が通じる。
  • 森家の蔵 防火のため頑丈な造りになっているが、普段は閉じている扉の内側には、財力にあかして作らせた豪華な芸術的意匠が彫りつけてある。
  • 米田家の「みせ」表通りから入ってすぐの玄関にあたる空間。ここで当家の主人(旦那はん)は客と応対。小作人や船乗りは、この畳の間から一段低い土間側に座ることになる。
  • 加賀藩の藩蔵で、現在は岩瀬米穀という米店になっている。前の道は旧北陸街道。加賀藩主の参勤交代の行列なども通った街道筋。

北前船・弁財船・ハガセ船

富山 そこでお聞きしたいのは、漁業と海運業との関係です。「水と文明」といえば最初に魚撈(ぎょろう)があり、同時に水の移動、交通があります。陸地における農耕の水利用などはずっと後でしょう。

その魚撈と交通、つまりは水面の世界にしても最初は河川湖沼などの内水面が舞台で、海に進出するのは後のこと、というのが私の認識です。海岸の縄文の世界にしても、砂丘の内側の潟などが最初でしょう。このパターンはたとえば琵琶湖などでは近世まで続き、湖の漁村の次男三男が、分家のため止むなく海岸へ出ていくという姿でした。もう二十年以上も前のことですが、その話を建設省の河川技術者たちとの雑談でお話ししたら、うーん、としばらく考えてから、「そうでしょうねえ、海の方がこわいもの」といわれたのが印象に残っています。

それでは漁業と輸送業とは、どのように関連して発展していくのでしょうか。たとえば三津七湊と一体であった琵琶湖交通。琵琶湖は江戸中期まで日本の交通の要でしたが、その琵琶湖にはいまも何十という漁港と漁協があります。その中で漁業として最も栄えたのが堅田でしたが、湖の交通業でも主役は堅田だった。では海の場合、漁業と海運業とは発展過程に関係があるのでしょうか。

漁業で儲けて海運業に手を伸ばしていくといったような。

犬島 「漁業」と「バイ船による輸送」というのは全く質が違っていて、両者は連続的につながっているものではないと思っています。

井本 乗組員の出身層の一つ程度でしょうね。たとえば四方(現・富山市四方神通川を挟んで岩瀬の対岸)にいた私の曹祖父は、嘉永年間(1850年前後)の青年期に、能登通いの小帆船から始めて、佐渡通い、松前通いと拡大し、北前船主といえるものになりましたが、その前の代はどうやら漁師をかねていたようです。

犬島 ただ、岩瀬の場合には、例えば畠山さんは城川原(注3)でしょう。城川原という農村で、かなり富を蓄えた人が川筋へ来て、ここで商売をしますね。米田さんのところは、柳町(注4)の出身。馬場は道正(どうしょう)です(注5)。どれも漁師ではない。岩瀬の漁師たちがだんだん資産を蓄えて北前経営者になっていったというものではない。

井本 たとえば畠山さんのところが一つの典型だと思うのです。肥料商売から始めておられます。ニシン肥料です。それを扱う商売から出発し、北海道通いの船を持つようになる。

一方、初め若者が、その中には漁民もいるでしょうが、下っぱの船乗りとして乗せてもらい、それがだんだんと独り立ちするというタイプもあります。藩の船や藩が雇った上方船、瀬戸内船、それから近江商人の船などに乗っていた者が独立していくのですね。

北前船というのは買い積み船ですから、船に乗っている沖船頭というのは商売の全責任を担うことができるのです。港、港で機転をきかせて、そこの状況によってはこれを売ったら得、これを買ったら得と売買する。そういう采配を沖船頭が振るう。船頭兼商人としての役割を負っているのです。そのうち、自分の荷も少々積み込み、商売をすることができる権限を獲得し、やがて自分の船を買い、独立の北前商人となるのです。

畠山 戦前のことですが、うちでは航海を行うだけではなく、商売のための情報収集もでき、商取引のすべてを任せられる沖船頭を育成するため、人材を富山商業学校で学ばせていました。そこで勉強し、卒業すると、ジャワや南洋諸島に駐在員として派遣される。このような制度がありました。

富山 北前船が登場するのは江戸時代に河村瑞軒が西廻り東西廻り航路を開発してからでしょう。その西廻り航路の開発は加賀藩の米の輸送に始まっている。が、それ以前の運輸業はどうなっていたのですか。

畠山 弁財船(べざいせん)と言いまして、歴史的には弁財船が北前船の前です。藩米を輸送するための、藩から受けた輸送ということですね。弁財船というのは、船の形態を言うのと、藩の財政やお米を弁ずるという、両方の意味で使います。

井本 古い時代に貢米など租税を積み取りに来た、弁済使の名が転用されたというのです。ただし船舶史の研究者は、弁財型は瀬戸内で発達した船型で、そちらで使われていた他の船型と違って「押し(みおし)」と言われる水切り舳があるのが特色なので舳在(へざい)と呼んだのが、梵語の弁財天に似た音なので弁財、弁才と当て字するようになったのだと言います。いずれにせよ北陸から北海道にかけての日本海側では、上方から来た船を弁財船、その船乗りたちを弁財衆と呼びました。

津軽の十三湊(とさみなと)の民謡が「十三(とさ)の砂山米ならよかろう、西の弁財衆にみな積ましょ」と歌うのはよく知られています。

日本海側には本来、17世紀までは北国船・ハガセ船という別の形の船があって、活躍していたのですが、18世紀には、この西から来た弁財船の形が定着し一般化しました。だから北前船といわれるものは、船型としてはみな弁財型です。ただし、その北前船を、能登内浦以東ではバイ船と呼びました。たとえば佐渡でもそう言いました。

買積み船なのでたぶんその売買行為からきた名と思われます。また北前というのは、江戸前の魚と言われるのと同じように、北陸の前の海という意味です。だから北前船(きたまえぶね)というのは、上方や瀬戸内の船乗りたちが北陸の船を指して「あれは北前の船だ」と多少田舎者扱いで始めた呼び名なのです。そんなわけで呼び名はいろいろなのですが、船型としては弁財型なのです。

富山 その弁財型の船、バイ船は西から伝わってきて、やはり近畿のものが最初ですか。

井本 藩主が上方や瀬戸内の船を雇っていた間はそう言えましょう。しかし、18世紀中頃を境に、北陸に自立した船主たちが生まれてからが、北陸の船という意味での本当の北前船の時代です。そうなると藩主たちも地元の船主たちに依拠したほうが経済的で、それによって北前船はいっそう発展しました。つまり船の原型は弁財型であっても、北前船自体は北陸の自主性回復の象徴であり、その旗手であったと言うことができます。そして中世でも日本海側では北国船、ハガセ船と呼ばれ、その風土に適合した独自の商船型が発達し、17世紀までは中心的な役割を果たしていたのです。その背後にはおそらく中世の日本海海運の長い歴史があった。

富山先生が『水の文化史』の本にお書きの、安東水軍も、北からの船、これがこれから大事です(注6)。安東水軍の十三湊(とさみなと)の掘り起こしが注目されていますが、その周辺の北方史研究が対岸アムール河流域との交流をも視野に入れて進めば、日本海側が非常にクローズアップされてまいります。中世の日本海海運についても網野善彦氏たちが指摘しておられるように、歴史像を転換させる時期がきていると思うのです。

(注3)城川原
富山城下と岩瀬を結ぶ神通川沿いの街道道筋に位置する。
(注4)柳町
富山市柳町、市内で最も早く開けた市街地の一つ。
(注5)道正(どうしょう)
富山市北東部の農業地帯。昭和15年9月まで上新川郡針原村大字道正。
(注6)安東水軍
(津軽の)十三は鎌倉室町時代、安東水軍として勇名を馳せた安東氏の本拠地であった。安東氏は源氏に追われた安部貞任の子が起こしたといわれ、瀬戸内海、熊野地方はもとより、揚子江を遡って中国との交易を行い、インド、フィリピンへも進出している。『その造船法は韓国及び唐に学び、遠く南蛮にも学びて得たる安東水軍なり。三本帆柱、六十艫の巨船は、日本幕軍たりとも得たるためしなし。安東水軍は、興国年間以前、その威勢は塩飽(しあく)水軍、村上水軍の八幡(ばはん)も及ぶ事なし』(『安東船覚書』正保2年、1645年)というほどで、壇ノ浦の合戦では平氏を応援して軍を送り、合戦がすでに終わっていたので、宮崎から平氏の落人を救出して連れ帰っている。また文永七年(1270年)の蒙古水軍がやって来た際には鎌倉幕府の要請を受けていち早く壱岐対馬へ軍船十艘を派遣し、対馬の島民を救出し、移住させている。更に、中央政府から追われた者を常に受け入れながら、十三の地に一大王国を築いていたのが安東氏であった。(富山和子『水の文化史』文藝春秋、1980より)

積舟港における千石船「伊勢丸」米田元吉郎氏所有。(大正5年)米田六三郎家の船艦札(右が表、左が裏)神通丸の模型。神通丸は明治初期から昭和8年頃まで米田元吉郎家の持船として活躍。この船を造った船大工の能崎留吉さん、船頭として乗っていた松川幸太郎・勝次郎さん、家の大工中田粂次郎さんが本物と同じ素材の木を使い、縮尺も厳密に、し、船倉内の間取り竈や鍋釜、湯沸器など小指の頭ほどのもの、小さな箒や塵取まで備えつけた。米田家は昭和55年、これを富山県に寄付した。『バイ船研究』第一集に米田寿吉氏による説明や船艦札の写真がある。大正10年のウラジオストク港に停泊の日本の船舶 (『第9師団・西伯利派遣記念写真帖』大正11年より)

左上:積舟港における千石船「伊勢丸」米田元吉郎氏所有。(大正5年)(※)
二段目左:米田六三郎家の船艦札 (右が表、左が裏)(※)
二段目右:神通丸の模型。神通丸は明治初期から昭和8年頃まで米田元吉郎家の持船として活躍。この船を造った船大工の能崎留吉さん、船頭として乗っていた松川幸太郎・勝次郎さん、家の大工中田粂次郎さんが本物と同じ素材の木を使い、縮尺も厳密にし、船倉内の間取り竈や鍋釜、湯沸器など小指の頭ほどのもの、小さな箒や塵取まで備えつけた。米田家は昭和55年、これを富山県に寄付した。『バイ船研究』第一集に米田寿吉氏による説明や船艦札の写真がある。(※)
下:大正10年のウラジオストク港に停泊の日本の船舶 出典:『第9師団・西伯利派遣記念写真帖』(大正11年)(※)

十三湊と安東水軍

井本 北海道のアイヌたちと関係を持ち、それを通じてサハリンや沿海州への視野も持っていた津軽の安東氏は、北条氏の代官という形で蝦夷管領になる一方、北条氏が列島全域にわたって海上交通を支配しようとする気運に乗って「関東御免の津軽船」と呼ばれる大船を二十隻も駆使することになります。

その上、山脈が東北を貫いていて、関東側からは実質的に日本海側をコントロールできないので、鎌倉の連中は北条得宗家の旗を安東氏たちに渡し交易させる。

富山 『市浦村史資料』として『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』が出るとすぐ、私はこの本を入手、一気に読みました。昭和55年頃です。興奮しました。私はいまもこの本を全四巻、書棚の一番大事なところに置いています。むろんこの本の資料価値について、評価が様々なことは知っていますが。

私の安東氏への執心ぶりを見て、朝日新聞社が青森へ取材に行こうと計画を立てるのです。考古学者の斉藤忠先生にご一緒していただいてという企画です。まだ中央の歴史家たちには、『東日流外三郡誌』の存在が殆ど知られていない頃でした。日程調整の段階まで話が進みながら、何かで中断してそのままになってしまいましたが。以来私は折りにふれては、北へ、北へと「北への回帰」を言って、石を投げてきたつもりでした。『日本再発見水の旅』(文芸春秋)などで。しかし敏感に反響が返っては来ませんでしたねえ。最近のように発掘が進んでくると、いよいよ日本海へも、中世へも目が向けられてきましたが。

井本 北陸や東北は、一度近畿の勢力に抑えられましたが、それは北へ行くほど不徹底です。だから東北太平洋側から安倍貞任の息子たちが日本海側へ逃げると、そこで後期縄文文化から切れていないとも言える日本海文化を、ある意味では彼らが再編成する。そこに中世に北から一定の押し返しをする力が出てくると思うのです。

一方で北陸自身ではだんだん土豪たちが一向宗徒と連合して「百姓の持ちたる国」を形成する。だから、律令体制期の大伴家持の時代には、近畿勢力の橋頭堡だった伏木がもはや能力を失っていて、ほとんど土豪にひっくり返されてしまいます。伏木の大きな勝興寺、あれは一向一揆の城になったわけですね。古代の伏木は近畿勢力の施設に付随したものにすぎなかったから、室町時代に作られた廻船式目にはもう出てこない。そして岩瀬が十三湊と並んで出てくる。この時代の岩瀬は西岩瀬ですが。

富山 越中伏木というと、最古の外国語専門学校が置かれたところですのに、何で岩瀬の方が有名になってしまったのでしょうか。

井本 京都の勢力が中世には衰えます。鎌倉が力を持ち、直江津にもそうですが、日本海側に手を出します。しかし、抑えきれない。すると安東氏や一向宗徒と結んだ土豪の方が実力をふるう結果となる。このため、かつて畿内権力の出張所だった伏木は機能を果たさなくなっていた。

その敦賀をはじめ若狭の湊も廻船式目の日本海側七湊に数えられていないのは、何か理由があったのでしょうね。加賀の本吉や越前の三国は輪島とともに七湊に入っていますが、安東氏と関係の深かった若狭が出てこないのですから。

正保2年(1647年)に西岩瀬でどれだけの船を持っていたかという記録を見ますと、「四、五百石積み船、何風にても五、六拾艘も港へ入りおり候」「小石浜にては御座なく候。但しから船にては弐百艘も入り申し候」(「越中道中記」)とあります。後半の文意は不明確ですが、四、五百積みが常時五,六十艘とは盛んな大港です。

富山湾の北前船時代は1800年頃からで、それより150年も前の中世海運の延長とも言える時期のことですから、それが十三湊あたりを中心にして蝦夷地まで、他方では能登半島あたりまでの大きな交易圏が、廻船式目の挙げた七湊を結んであったのではないかと思われてきます。

日本海世界について考えなおすと、その中世は重要な時代だったことが見えてくる。それを富山湾で、今の時代に伝えているのが西岩瀬周辺、放生津(ほうじょうず、現・新湊市)の歴史です。

畠山邸での座談会。右から犬島肇氏、畠山道行氏、井本三夫氏、富山和子氏。 一般公開されている「森屋敷」の河港側出入り口。 往時の建物の風情を再現している。

左:畠山邸での座談会。右から犬島肇氏、畠山道行氏、井本三夫氏、富山和子氏。
右:一般公開されている「森屋敷」の河港側出入り口。往時の建物の風情を再現している。

「日本海幹線」と「季節風の道」

富山 同じ富山湾でも港によって発展の時期など違う。丹後半島の外側と内側、といったように。能登半島、男鹿半島、佐渡もですが。いろんな要素が絡み合っているのでしょうが、何か法則性がありますか。

井本 私が思うに、日本海には「日本海幹線」と言うべきものがあると思うのです。これはやはり、対馬暖流が流れるのに沿って、縦軸が間宮海峡まで貫いている。ですから、この幹線は非常に重要なのです。

我々の日本海は大陸のふちの縁海といわれるもので、それを貫く日本海幹線に乗ってオホーツクという隣の縁海に入っていく。間宮海峡や宗谷海峡を通って。逆に西南のほうを見ると、東シナ海という西隣の揚子江流域から対馬海峡を通じて稲作など日本文化のベースにあるものが入ってくる。つまり日本海幹線は日本海世界の主軸であるだけでなく、それを東アジア縁海連鎖の一環として位置づけているものでもあります。黒潮に乗って日本海へ意外に南方的なものが入ってきているわけですね。能登半島の先とか、佐渡とか男鹿半島とかへ。出雲や南朝鮮のものが若狭・能登・北陸へ来るのも、基本的にはこの力によっていると言えるでしょう。

富山 男鹿半島や青森県まで、南のものがずいぶん来ています。椿の北限だとか。岩瀬での講演でもお話ししたことですが、以前海上保安庁が調査をしたところ、暖流は津軽半島で二つに分かれ、一つはまっすぐに北上し、もう一つは津軽海峡を越えて三陸沖で消える、と。おもしろいですねえ。

井本 今言ったことは、日本海幹線とか、東アジア縁海連鎖を貫く軸の一環であるという言い方は別としても、一般に言われてきたことで、最近は藤田富士夫さんの「古代の日本海文化」や伊東俊太郎氏の「日本海文明交流圏」(『比較文明』第十一巻所収)にも出ています。

第二に挙げなければならないのは、この日本海幹線を横切る「季節風の道」というべきものがあることです。池内敏さんという方の研究によると、江戸時代を中心にした1599〜1872年の274年間だけを見ても九六七件、一万人の「朝鮮漂着民」が日本海沿岸に着き、実質的に交易を行っていたというのです。古い渤海国(注7)の時期だけではなかったのですね。

ところで日本海文化を考えるのには、この二つのルート、日本海幹線と季節風の道のほかに、さらに二つの外回りコースがあったことをも意識せねばなりません。

一つはアムール北回りコース。もう一つは北九州・瀬戸内回りコースです。環日本海世界というのは、火山の裾のように外が広く内側が火口のように山が日本海のふちに寄っています。大陸側では、シホテアリニ山脈が沿海州のふちを日本と隔てています。そうすると渤海国の出てきたポシェット湾以外には海へ出る窓口はない。このため、アムール河が山を避けて北へ走り、間宮海峡でやっと海に注ぐことになる。

日本海のみならず、さらにその後に、シホテアリニ山脈やアムール河があり、それがはるか北の間宮海峡まで切れずに続いて、この地勢が、日本へ騎馬民族や大陸側の軍隊が直接わたってくることを防いでくれたわけです。たとえば元寇の際、元軍は二つの回り道、朝鮮半島から九州へとアムール流域から樺太への道でしか攻撃できず、いずれも失敗しました。安田喜憲さん等が指摘するように、日本が外敵から護られていたのはこのように日本海だけでなく、沿海州側の地勢の役割もあったわけです。

そして、北へ伝わった中国文化とアムール流域の諸民族の文化は、間宮海峡・サハリン・北海道と回り道をし、北日本海に入ってくることになる。これが第三の道、アムール北回りのコースで、安東氏や平泉の藤原氏を後ろから支え、また能登以北の北日本海文化に以西とは異なった要素を与えたものです。

ところで朝鮮半島でも日本列島側でも山脈が日本海側に偏っているので、その外側に位置する黄海側や、瀬戸内・東海側の方に平野部が広がることになります。したがって中国文化が伝わるルートは朝鮮半島の黄海側・北九州を経た後は瀬戸内・東海側をメインルートにします。これが第四の道、北九州・瀬戸内回りコースで、日本海側でなく外側の太平洋側の方に内海があり平野部が広いことは、畿内・東海側に強力な国家を生ぜしめ、鉄器を備えた権力を畿内に確立します。そして、それが琵琶湖・若狭ルートで日本海側へ侵入してきたのが、日本海文化の西からの征服というわけです。

ですから西から日本海幹線に乗って出雲や能登の輪島などから入ってくるものは文化的ですが、畿内から日本海側に出てきたものは征服的です。しかし、森浩一氏が古代日本海の「潟港文化」(注8)がつぶされた過程として言われたものは、北へ上っていくほど不徹底で、北に行けば行くほど近畿勢力の力が弱いですね。それが十三湖という潟に拠る安東氏を中世に立ちあがらせると共に、越中の西岩瀬から四方(潟)にあった中世の岩瀬港や放生津潟を十三湊と結ぶ中世の要港とし、北日本海文化を復活させた理由です。若狭以西は古代から少し別に考えなければなりませんが。

富山 確かに丹後半島、琵琶湖沿岸は鉄の文化地帯。それが九頭竜川、手取川、庄川、神通川へと東へ移動するに従い急に鉄の影が薄くなる。

(注7)渤海国
七世紀末から十世紀初にかけて、現在の中国東北地方、朝鮮半島北部、およびロシア沿海州にまたがって存在した国家。727年、日本に使節を派遣し919年まで34回の使節が来日した。
(注8)潟港文化
対岸大陸からの季節風が対馬暖流の蒸気を脊梁山脈に吹き付けることで、世界屈指の降水量を雪として保存する日本海側では、その漸次の溶解によって水量豊富の大河川が多いから、河口港が近代の築港以前に、太平洋側においてよりも大きな役割を果たしたことは知られている。しかし、そのもうひとつ前に、日本海側では縄文末期から潟の発達が著しく、それを利用した潟港のまわりに文化が栄えた時期が奈良時代まで続き、その潟港を結ぶ水運のネットワークシステムこそ、古代日本海文化の基盤であったことを同志社大学名誉教授の森浩一氏は指摘している。(森浩一他編『古代日本海文化の源流と発達』1985年発行183ページを参照)

北前船の意味の変遷

井本 東海側地域に抑えられたみたいに見えた日本海文化が北部から、中世に力を盛り返す。その中心になるのが十三湊です。それを中心に中世が栄えたときの様相が廻船式目に顔を出しているわけで、だからかつて畿内勢力の橋頭堡だった伏木は書かれてはいないけれども岩瀬がある。

富山 廻船式目の七湊には、信濃川、阿賀野川、最上川が入っていない。最初これが不思議でした。だんだん判ってきて、何故かについて私の推理を『日本の米』に書きました。川とのつきあいの技術上、出来ない相談だったと。大河川過ぎる、砂丘や季節風もある、と。ところで北前船時代になると、七湊の風景はどう変わるのですか。

畠山 北前船という言い方がおかしいのですよ。北に行く北前船は、ここから藩米を積み、大阪の蔵屋敷に通じる、そういう船を北前船という。その北前船の荷主は藩であり、大阪の船を藩がチャーターしたものが多かった。地元で造った船というのはなかったのです。

井本 今では、北前船というと西回り航路全体をさすように言いますが、初期にはなんと言っても瀬戸内・上方の船であって、正確に言えば北陸の船としての北前船ではない。それに船乗りとして北陸の連中が北陸の米を運ぶのだからということで乗っていると、彼らがだんだんと沖船頭などになり、自分の商売もするようになり、加賀藩も自分の土地の船を養うようになる。そのようにして独立していく。こうして、名実ともに北陸の船としての北前船になる。それを地元ではバイ船という。

犬島 能登の内浦からこちらはバイ船と言ったのです。黒部、入善、朝日町あたり、大体船乗りの話を聞くと、佐渡辺りまでがバイ船と言っています。

畠山 そのときの格好が、チャーターしたものを運ぶ荷船的な意味ではなしに、自分が船主になって買い積みをして、買い積みした荷物を自分で売りに行くために売買の「バイ」を使ってバイ船と言ったのです。

バイ船が最初に出現してきたのは、能登の外浦で1750年前後、能登の内浦で盛んになるのは1800年頃からです。

井本 富山湾沿岸について言うと、大体小矢部川水系辺りが1815〜20年ぐらいからで、ここら辺になってくると1830年前後です。ですから、長者丸が西岩瀬の港を出たと同じ頃、1838年です。

富山 長者丸もいわゆるバイ船ですか。

井本 バイ船ですが、西岩瀬から出ました。あのころはすでに川がこっちへ来て、東岩瀬の人口が増え出しているわけです。ですから、西岩瀬の港は小さくなっていましたが、東岩瀬が加賀藩に属していたので、富山藩にとっては西岩瀬の港は唯一の大事な港でした。富山藩というのは、神通川の西の岸に沿って細長いので、そこが海への出口でした。だから、富山藩の商人だった船主の能登屋は、長者丸を西岩瀬から出したのです。

富山 富山湾以外の本拠地は福井ですか。

井本 越前三国・橋立(現・加賀市内)、加賀の宮越、能登のつけ根あたりからと言うべきでしょうね。

加賀の宮越、つまり現在の金岩は、銭屋五兵衛(注9)が出てくるところです。けれども、加賀の殿様自身が大事な米を載せるには、上方船という、朝鮮まで往復していたような経験をもつ連中に任せるというのが最初の姿勢です。自国の船を培養するという姿勢は初めは弱いわけですが、だんだん自国の船を信用するようになり、北陸の船という意味での北前船というものが台頭してくるわけです。ですから、初めは雇っている上方船や瀬戸内船で、その沖船頭として越中者なり、加賀者なりが台頭してくるというわけです。最初は、船主は関西の人たちで、加賀藩が雇うかたちでした。その上―

犬島 富山の場合は、西回り航路で大阪へ米を運ぶという海運が始まってしばらくしたら、加賀藩が止めてしまう。それでいったん衰退期に入りましたね。富山すると、日本海側は、船主の基地というよりも、港湾都市として栄えるわけですね。

井本 そうですが、後になり、北前船と言える段階では船主自身も北陸人になっていくわけです。

(注9)銭屋五兵衛
(1773〜1852年)加賀の豪商・海運業者。祖先が宮腰浦に住みつき銭両替をしてきたので銭屋と呼ばれる。父の代に海運業を始めるが天明の不況により一旦廃業。1789年に家督を相続し、1811年に百二十石積三人乗りの船を元手に海運業に乗り出した。その後、全国各地に支店を設け、蝦夷地との交易を主とした。また大坂回米、米相場で巨富を築いたが、晩年は河北潟干拓計画に関連して執政奥村栄実の政敵黒羽織党らに謀られて入牢、獄死した。

  • 左上:明治41年に写された東岩瀬港(米田寿吉氏所蔵)。バイ船の多くが西洋型帆船に取って代わられたのは明治中期からという。(※)
    左下:昭和4年の東岩瀬港 出典:『富山県の産業と港湾』(昭和11年・港湾協会発行)(※)
    右:大正3年末の「三州船舶通覧」には総トン数百トン以上の(洋)帆船十二隻、積石数五百石以上のバイ船が八艘とある。 出典:『目で見る富山市の100年』(1993年(株)郷土出版社発行)(※)

  • 明治44年陸地測量部2万分の1地形図「東岩瀬」より

    明治44年陸地測量部2万分の1地形図「東岩瀬」より(※)

回船問屋は魚肥で大儲け

富山 北前船でこしらえた資産についてうかがいたいのですが。どのように儲けたのですか。あのすごい屋敷。

畠山 住む番頭と、派遣する番頭がいるのですが、派遣する番頭が細かい文(ふみ)を書いてくるのです。いつごろ何々を持って来いと書いてくるのです。それを受け取りまして、その荷物を集めて積んで行くのです。多かったのは食料品、ワラ、工芸品、です。運び先は能登を通じて佐渡島、それから東北の北の方と松前と。

富山 そうすると、佐渡へも、こちらから積み荷を持って行き、下ろすのですか。

井本 売買の値段次第です。昔に遡るほどいろいろな商品を売ったり買ったり。でも北向きで一番メインになるのは、松前に持っていく米とワラ製品、持って帰るものは北海海産物。途中に秋田の杉とか、そういう時期もあります。そういう初期には材木船、つまり北の方の森林と北海海産物が南へ流れる。北へ流れるのは稲作と農耕関係から生じたものですね。西向きでは関西への米と北海魚肥。

富山 いつも思うのですが、北海道でそれだけ需要がありましたか。人口はどうだったのでしょう。

井本 近代では、北海道の開拓が進むに従って米の需要が増します。しかし、初め、ここら辺の北前船は、畠山さんの出発点のように魚肥が多かった。他の連中も米を持っていくよりは北海肥料を持って帰る方が儲けになったのです。ここ(岩瀬・大町)の並びは肥料屋さんですよ、私の家の隣りも肥料屋さんでしたし。米は瀬戸内、上方へ持っていった方が儲かるというのが明治の前期までです。明治の中期から北海道が開拓されるに従って、米の流れがだんだんと逆になるのです。北海道は後々まで米は一部でしかとれませんでしたから。

畠山 北海道の松前藩の石高を調べますと、最初は一万石位でしたが、元禄には十万になり、天保以後は三十万位です。

井本 松前藩の場合、石高はニシンの漁獲量を換算したものですから、消費者は漁業人口でした。近代に移民が進むに従い、米は北海道で売れるようになるし、日露戦争後は樺太にも売れるようになる。けれども、明治の少なくとも中期までは、ここら辺の米の流れは関西向きが大きかった。

犬島 肥料の売り買いというのは、すさまじいものだったと思います。例えば、私が聞いている話では、近郷近在の農家が、例えば畠山さんのところへニシンかすを買いに来るとしますね。「旦那さん、金がないがで」と言いますでしょう。「なくてもいいぞ。あるとき払いの催促なしで持っていけ」となるわけです。それで持って帰って使う。しかし、米の取れ高が良い時もあれば悪いときもあり、だいたい農家はひいひい言っていますね。そうすると、「お前のところの土地をよこせ」となるわけです。ですから、この辺の北前船関係者は土地持ちにどんどん成長していって巨大な地主になるわけです。

畠山 つまり、土地の名義を書き換えて、小作に貸すということになるわけです。

犬島 今度は、小作人にきちんと肥料を提供しなければいけなくなる。そこで、米田さんのところの場合だと、自分のところが抱えている小作にきちんと肥料を提供して、きちんと米をつくってもらうというところに限ってのみの商いだとなっていますね。ですから、あの人は土地を非常にたくさん持っていて、べらぼうなものです。儲けると農地に変え、だんだん大きくなっていく。

井本 このパターンは世界的に見てもそうですね。例えば、地中海の海運というのは、イスラム勢力が入ってくるとか、大西洋貿易が発展しだすとか、危険を感じ出すと、土地持ちに変わるのです。

海運業者は危険だというと地主に変わるのです。バルト海沿岸のハンザ同盟もそうです。末期になるとみんな土地持ちに変わる。

肥料はあるけれども、その肥料はあくまでも米作りのための肥料というのが北陸の大きな特色です。北前船が瀬戸内へ肥料を運んでいくと、瀬戸内では綿を、徳島では藍を作っていて、肥料と交換します。ところが、北陸では昔から水稲単作で来ていますので、やはり米作りのための肥料となるわけです。

  • 左:ニシンを釜で煮て石で締め付け、油を採る。搾り粕は左方の筵で乾してニシン粕とする。釜は木枠の横に見え、堀り穴をカマドにして右端の木片を燃料にする(写真は留萌海岸)(※)
    右上:四角い木枠で油を採った後のニシン粕。ほぐして干して肥料として売る。 出典:内田五郎『鰊場物語』(昭和53年)(※)
    右下:鱈の内臓を除去する作業(※)

  • 70〜150メートルの深さに棲息する鱈は3月から5月が釣り漁期 網揚げした鮭を浜でウインチで吊って揚げる。 鱈を処理する女性たち 干し鱈には棒鱈と開き鱈の2通りがある。開き鱈は鱈を切り開いて薄塩を施して日干しする。

    左:70〜150メートルの深さに棲息する鱈は3月から5月が釣り漁期(※)
    中央左:網揚げした鮭を浜でウインチで吊って揚げる。(※)
    中央右:鱈を処理する女性たち(※)
    右:干し鱈には棒鱈と開き鱈の2通りがある。開き鱈は鱈を切り開いて薄塩を施して日干しする。(※)

  • ニシンを釜で煮て石で締め付け、油を採る。搾り粕は左方の筵で乾してニシン粕とする。釜は木枠の横に見え、堀り穴をカマドにして右端の木片を燃料にする(写真は留萌海岸)四角い木枠で油を採った後のニシン粕。ほぐして干して肥料として売る。(内田五郎『鰊場物語』昭和53年より)鱈の内臓を除去する作業
  • 70〜150メートルの深さに棲息する鱈は3月から5月が釣り漁期 網揚げした鮭を浜でウインチで吊って揚げる。 鱈を処理する女性たち 干し鱈には棒鱈と開き鱈の2通りがある。開き鱈は鱈を切り開いて薄塩を施して日干しする。

沿海州買魚(かいぎょ)の始まり

富山 さて、少し話を展開させていただきましょう。北洋漁業と先ほどから出てくるウラジオストク、その位置づけです。まず漁場の広がりと、これが北前船と関係ないのかあるのか伺いたい。

井本 日本海幹線は南北につながっていると言いましたが、明治20年前後から洋式帆船が普及しますし、明治30年前後に海運の産業革命が起こり、動力船で日本海を横にも渡るようになる。大陸へ向かって横に行く。昔は季節風に乗って渤海国から来て、帰るのは風向きが逆になる時でした。ところが、風がどうあろうとも行きたい時に東西に横切る、そういうふうに日本海に産業革命がおこったのです。これが明治30年から日露戦争の時期です。

このときに、ニコライエフスクへの魚買いというものが出てくるのです。「買魚」カイウオと呼ばないでカイギョと呼びます。買うのはサケ・マスです。日本列島側は北海道でも、樺太でもそうですが、ニシンが主です。ところが沿海州側ではサケ・マス、カムチャツカでもやはりサケ・マスが中心になります。それに蟹・タラ。

富山 それは肥料のためですか。

井本 ニシンは肥料ですがサケ・マスは食用です。それに昆布もあります。ところが、沿海州側になるとサケ・マスが中心になるのです。ですから、ニコライエフスクへ行き、サケ・マスを買って帰ってくる。

だいたい高井文治(注10)が明治の日露戦争ちょっと前、明治30年前後かな。私の本(「北前の記憶」)にも、沿海州買魚の始まりというのがあります。本格的になるのは明治31年に東岩瀬の高井文治が行くと、それよりちょっと先に新湊の連中が明治20年代から始めていますね。

沿海州の海岸には、ポシェット湾から北は山脈がありますでしょう。だから、アムール河が間宮海峡へ口を開く所まで行かなければ、サケ・マスが大量にあがるような大きな川がなかったのです。

ウラジオストクがロシアの手に入ったのは比較的新しいので、アムール河沿岸が古くから文化的にも漁業的も発達していた。ただ、ニコライエフスク買魚の時代というのは、ソ連になる前だけで主にロシア人がとって、日本の岩瀬の連中や新湊の連中は、それを買って帰ってきたのです。ですから、買魚と言った。

富山 自分でとったわけではないのですね。

(注10)高井文治(たかいぶんじ)
明治30年、岩瀬から帆船岩勢丸でニコライエフスクに航海し、最初に買魚を始めた。

カムチャツカに定置網をはる

犬島 そこの漁場は富山県人が開拓したと聞いています。カムチャツカのサケ・マスの定置網を。

井本 カムチャツカはそうでしょう。ニコライエフスク付近でも、ロシア人の名義で実際には日本人が漁場を経営していたというのがかなりあったようです。沿海州の方は富山でも新湊の連中が多く入っています。

それからもう一つ、新潟も早い。その先に、樺太が日本とロシアのどちらのものかよくわからない時代がありましたね。けれども、そのような歴史的な経過があるから、樺太へは早くから税金なしで漁業に行けた。そういう時期に新湊の米田六四郎というのと岩瀬の宮城彦次郎さん、畠山先生や私のひいじいさんですが、彼らが行っている。これは明治34年です。

富山 カムチャツカへは、どのようにして行くのですか。

井本 宗谷海峡を通ります。ここは暖流と寒流がぶつかるところで、霧がすごい。ここを走るのが怖かったという話ですね。ボーボー汽笛を鳴らしながら行くが、気味悪かったといいます。

それから秋に戻ってくる時の台風シーズンですが、畠山さんのところ明治丸も、ここでやられるわけです。一方で北前船の運んだ北海産物は近世以来「長崎俵物」としても、また昆布のように沖縄を通じても中国に行っています。

財産三分法土地・株式・漁業

富山 日本人が北洋へ開発のクワを入れたわけですね。これは今までの漁民が行くのですか。北前船の人たちと関係があるのですか。

井本 だいたい北前船主から転業した人たちが開拓者です。

これにはそうせざるを得ない面もありました。太平洋側の政商・財閥系の汽船会社が日本海に入ってきて、北前の連中が積んで運んでいた米やニシンの荷をさらっていってしまう。汽船の方が帆船よりあらゆる点で有利で積載量も比べものになりません。そこで帆船を生かす道として、漁具や漁夫食糧を運ぶ北洋漁業主に変わって行くのです。

畠山 財産三分法をやっていまして、三分の一は地面に投資、三分の一は株式に投資、残り三分の一は漁業に投資するのです。

井本 危険度の分散というわけです。運送業が成り立たなくなって買い積み船の時代が残念ながら終わると、無理して洋式帆船までは買うのです。幕府の大船禁止令で和船は長いあいだ一枚帆でした。それが洋式帆船では帆が何本もあって回転が自由になります。

しかし、汽船まで買えるというのは、岩瀬では馬場さんくらいしかいない。昨日見学した森さんも一時は持ったということですが。新湊・伏木にはそれぞれいましたし、福井県にも大家・広海・右近などは汽船会社になりました。

でも、汽船会社になっても財閥系の日本郵船には対抗が難しい。荷物は大部分を汽船がとっていく。では、北前の持ち船である帆船をどう使うかということで、北洋漁場へもっていくわけです。漁場には食べる時の米もいりますし、帰りにサケ・マスも積んで来たいし、網などいろいろな道具を積んでいかなければならない。そこで、持ち船を北洋遠征に活用した、漁業主になることに使おうということになった。

米騒動はなぜ海から始まったか

富山 ところで富山湾といえば米騒動発祥の地です。米騒動はなんで海と関係があるのでしょうか。

井本 有名な米騒動、つまり大正の米騒動の以前に、一般に食糧騒擾といわれるものが近世に、商売が盛んになってくると出てきます。

商品経済の成長の中で貧しい階層が分離されて出てくる一方で、基本消費財である穀物などが商品となり、価格が投機的に変動するようになるからです。

北前船は米を主要商品の一つにするのですから、北陸では、北前船が盛んになってくる宝暦の時代から米騒動が頻繁におこるようになります。しかし、これは北前船と直接のつながりがあるということではありません。万人の命にかかわる基本消費財である食糧、ことに穀物を投機的な商品にして、その価値変動を抑えられないという、その時代の社会の構造に原因があるのです。近世後半から近代前半にかけての日本はそうでした。

大きく分けると米騒動に二種類ありまして、一つは、大消費地帯で起きるもの。例えば、江戸や大坂の米騒動。これは純粋に消費地へ輸出した連中が、それを売るときに高く売るために起こる移入地帯型の米騒動です。大坂や江戸、そこへ入る主要街道沿いの都市に多いものです。

ところが、日本海側で起こるものは、持ち出されるのを見せつけられるので騒ぐ移出地帯型の米騒動です。

この型は、近世においては加賀と越前でも三国辺りまで、そこら辺が一つの中心、もう一つは新潟、佐渡あたりが中心。それからこれは面白いのですけれども山形盆地の最上川沿岸が一つ。大石田中心ですね。近世の移出地帯型米騒動はそういう所ですね。それから、細かく見れば東北の北上川沿い、九州の筑後川沿岸にもあるのですね。

地方ではだいたい移出地帯型と言えます。ただ、これも地域の大筋として言うことで、そのような地域の中にあっても、金沢や富山・盛岡などの城下町の中心都市は消費人口が集中していますから、その都市だけで見れば消費地型と言えるのです。

北陸の米騒動は明治になると富山が中心になる。実は、加賀藩の実高百二十万石といった米の五十数パーセントは越中の米で、能登が二十五パーセント位。つまり、加賀自身の米というのは多くはなかったのです。それを取っていって、金沢城下で殿様に気に入られている特権商人たちが宮腰、つまり金石辺りから積み出す。そういうことで金沢と加賀は近世米騒動の中心だったのです。

ところが、その米が廃藩置県で富山県へ戻ってくるわけですね。そうすると、富山の地主が海岸地帯の商売人と提携して、海岸線から運び出すものを氷見・伏木から泊までの海岸都市の庶民が見せつけられるわけです。ですから、明治になると俄然富山湾沿岸の米騒動が発生してくるのです。それ以前は、富山県の米騒動は大したことはなかったのです。

富山 水橋に行くと海岸に、米騒動発祥の記念碑が立っています。

井本 水橋では近世にもあったらしいのですが、多くなるのは明治からです。特に東水橋です。

犬島 いわゆる日本列島全体を揺るがす大事件としての米騒動の一番最初は水橋だというのが説ですね。

井本 それは1918年(大正7年)の米騒動のことです。時代によって発生中心が動くのです。明治の前半に最も激しかったのは県西半の高岡・伏木と、その周辺の新湊(昔の放生津)、石動(今の小谷部市の核)などです。もちろん富山市など県東もありました。

犬島 岩瀬にもありましたから。

井本 そうです。水橋、魚津、滑川や生地でもありました。そして明治後半には県東半、ことに海岸都市に偏ってきて魚津が中心になりますが、大正七

年の米騒動の時には、もう中心が水橋・滑川に移っています。最初に始まったのは東水橋、最大になったの滑川で、全国化したのも水橋・滑川のそれが伝えられたからで、魚津からではありません。

犬島 日常茶飯のように起きているのです。

井本 北陸には、関西へ運ぶにせよ、北海道へ運ぶにせよ、はっきりいって米しか商売はないのです。ワラ製品は持ち出せる。けれども関西の様に菜種をつくるとか、綿をつくるとか、そういう付加価値の高い商品開発がない。特に、加賀藩は米をもっぱら作らせて売った。それが北前船を栄えはさせたけれども、陸上の産業としては米以外のものはできなくなった。米しかないのに、その米を売るのを見せつけられて、米騒動が起きる。

富山 見せつけられたのはどういう人たちですか。

井本 米を積み出す海岸線の連中が見せつけられるわけです。内陸でも集散地、例えば上市だとか、五百石だとかに、岩瀬や水橋へ持ち出す仲介業者がいる。そういう在郷町の米問屋へ押し掛けた。

富山 押し掛けるのは一般の人ですか。

井本 町の庶民、つまり米の生産者でなくて消費者です。

富山 農民ではなくて。

井本 農民が騒ぐのは、飢饉や不作の年の秋から暮れにかけてで、年貢や小作料を減らしてくれという形でした。

左上:農作業に必要なワラ製品はバンドリ、もっこ、草鞋、筵、縄、箒、笠、俵など、たくさんあった。自家用だけでなく家の副収入としても大切だった。明治末期の婦負郡杉原村におけるワラ加工の様子(『富山県婦負郡実業写真帖』明治42年より)右上:1俵に米4斗(60キロ)を詰めて移送に耐えるよう縄で結うのは力技として難しい。二段目左;東岩瀬の対岸の八幡村で肥料(魚肥と思われる)を持ち帰る農民たち。明治42年『富山県婦負群実業写真帖』より 左下:魚津では男たちが仲仕を独占し、日中戦争で男手がなくなるまで女性は仲仕になれなかった。倉から胴舟まで運ばれるムシロ。北海道や樺太の漁業・肥料の包装用に大量に移出された。大正期の写真(『目で見る富山市の100年』郷土出版社・1993年より)。地図:近世米騒動分布『歴史評論』1988年7月 米騒動特集号より 右下:浜から艀で沖の蒸気船まで米を積み出す。(大正頃の滑川で)

左上:農作業に必要なワラ製品はバンドリ、もっこ、草鞋、筵、縄、箒、笠、俵など、たくさんあった。自家用だけでなく家の副収入としても大切だった。明治末期の婦負郡杉原村におけるワラ加工の様子 出典:『富山県婦負郡実業写真帖』(明治42年)(※)
右上:1俵に米4斗(60キロ)を詰めて移送に耐えるよう縄で結うのは力技として難しい。(※)
二段目左;東岩瀬の対岸の八幡村で肥料(魚肥と思われる)を持ち帰る農民たち。 出典:『富山県婦負群実業写真帖』(明治42年)(※)
左下:魚津では男たちが仲仕を独占し、日中戦争で男手がなくなるまで女性は仲仕になれなかった。倉から胴舟まで運ばれるムシロ。北海道や樺太の漁業・肥料の包装用に大量に移出された。大正期の写真 出典:『目で見る富山市の100年』(郷土出版社・1993年)(※)
右下:浜から艀で沖の蒸気船まで米を積み出す。(大正頃の滑川で)(※)

米騒動の主役漁は村の女性たち

富山 つまり、米騒動は一揆とは違うわけですね。

井本 農民一揆、つまり生産者の一揆ではありません。あえて言えば消費者の一揆です。だから季節的も違うわけです。都市の連中は、米の値の上がる端境期に騒ぐ。

富山 女性が中心になったというのは、どういう理由ですか。

井本 海浜の男たちはカムチャツカや北海道へ出稼ぎ漁業者として、あるいは汽船の海運労働者として連れ出されている。

財布の一切を任されていて、鼻息は荒いし強い女たち。米の値段が上がる時には、彼女たちが戦うよりほかない。男はいない。男が帰ってきても「やっと北海道・樺太から帰ってきたのだから寝させてくれ」とか、「女のやることだ」と初めは逃げる。しかし騒ぎが大きくなると出てきます。

富山 米騒動の始まりは女性たち。

犬島 はい。浜のおっかちゃんたちです。

井本 特に浜のほうは女性です。しかしたとえば富山市とか高岡市のような都市部では男性が増えます。高岡の明治23年の米騒動では男性の大集団が打ち毀す、火をかけるで、高岡の米商会所に集まる米商たちの家を軒並み壊しました。投機的な売り買いや輸出で庶民の迷惑を省みない、と平生からにらんでいる連中を打ち壊すわけです。しかしそれは大きな都市の場合です。浜と違って。

富山 浜のおっかちゃんたちとは、漁民のお母さんたちですね。

井本 層としてはそうですが、明治も日露戦争後になると別の要素が加わってきます。

日露戦争後、ポーツマス条約で有利な条件を獲得した北洋漁業が盛んになって、その基地である北海道・樺太・千島へ、移住を含めて男がどんどん出てからっぽになり、富山湾沿岸都市の人口が減るわけです。その時に、女たちが今度は仲せ(注11)として働かざるを得ない。彼女ら自身が労働者になるわけです。

土地柄は古くさいのですよ。地元では地主や網元が抑えている。だから格好を見ていると古くさいのだけれども、実は海運労働者、出稼ぎ労働者の奥さん。しかも女性自身が米や北海道魚肥を担ぐ荷役労働者になる。そういう女性仲士が生まれてくる町というのは余り大きな町ではないのです。魚津になるとかなり大きいので、まだ男手があるのです。ところが、水橋とか滑川になると女が働くよりほかない。ですから、女の仲仕というのが出てきた水橋・滑川で、大正の米騒動は一番激化したわけです。

今もそうですが、労働組合が騒がなければ賃金アップしない。米の値段が上がっているのに、自分たちが担ぐ賃金は据え置き。結果としてはそれをアップさせることができたわけですが、そこは意識的な労働組合ではないので、まず値の上がる米の積み出しをストップさせる。彼女たちは理屈でやっているわけではないのですから。

富山 打ち壊しではなく、要するにストライキなんですね。

井本 破壊的なことはやりませんよ。米の積み出し阻止の集団行動です。その範囲で水橋から向こうの東では露骨な積み出し阻止です。

というのは、東海側から財閥系汽船会社が入ってきて、それに米肥という荷を奪われて、岩瀬など北前商人たちは主に北洋漁業者に転身し、米を大量には積み出さなくなっていました。ところが船持ちが少なかった水橋より東の海岸都市では、商人が米の輸出自身を中心的な商いにして、海岸線に汽船を呼びつけ、はしけで盛んに積み込むようになりました。だから水橋以東で米騒動は大きくなりましたが、岩瀬では大きくなりませんでした。

犬島 畠山さんのところにも来ましたか。

畠山 はい、大正7年です。共同体的なカンパのような形で解決しました。

(注11)仲せ(なかせ)
港の倉庫と岸壁のバイ船や船との間のみならず、移出米商や農村との間をも運んだので、主として沖仲仕を意味する太平洋側の仲仕のなまったものとは、語源的にも異なる可能性がある。

倉庫から出した米を艀に積んでいる最中の東水橋港口(『富山県の産業と港湾』昭和11年発行より)昭和10年前後の米を運ぶ女仲仕たち(魚津の浜で=野沢岩雄氏撮影)米を10俵つければ風袋ともで700キロ、大変な重さを樺太犬と引っ張るヒサさん。後に笠をかぶって引っ張る人は島田まつよさん(明治36年生まれ)。こちらは二人で引っ張っているので15俵も付けているようである。昭和12年頃の生地港。俵物を女性たちが移動している。(写真集『明治・大正・昭和・黒部』1986年国書刊行会発行より)

左上:倉庫から出した米を艀に積んでいる最中の東水橋港口 出典:『富山県の産業と港湾』(昭和11年発行)(※)
左下:昭和10年前後の米を運ぶ女仲仕たち(魚津の浜で) 撮影:野沢 岩雄さん(※)
右上:米を10俵つければ風袋ともで700キロ、大変な重さを樺太犬と引っ張るヒサさん。後に笠をかぶって引っ張る人は島田まつよさん(明治36年生まれ)。こちらは二人で引っ張っているので15俵も付けているようである。(※)
右下:昭和12年頃の生地港。俵物を女性たちが移動している。 出典:写真集『明治・大正・昭和・黒部』(1986年 国書刊行会発行)(※)

共同体的な米騒動

犬島 岩瀬では米の配分にも二種類あるのです。一つは、五大家が米を集めて、岩瀬の町役場として役場が米を分けるというもの。比較的民主的で、行政的なコントロールが働いている。

もう一つは、これは私の祖父・犬島宗左衛門(注12)が実行した面白い話だけれども、岩瀬漁業協同組合がその頃に初めてできて、初代会長、つまり組合長になった。そして、処理の仕方として「漁業組合がまとめて米を買う。だから、お前さんのところは米の値段を下げてくれ」と、私の祖父はそういう交渉をしたそうです。それで一軒崩れるわけです。一軒崩れたらみんな下げさせられて、それで岩瀬はおさまっているというのは、やはり漁民との関係があるからですね。

井本 共同体的な相互依存といいますか、お互い平生からの持ちつ持たれつの関係ではないかと思います。「あんたらが金を持っているのはわかっているよ。困っている時に助けるのが当然だよ」という意識があるのです。ですから、畠山さんのどなたかが亡くなられたとなると、供養に米を山盛りにして、葬式の棺桶が出る前に、前へ出すのですよ。そうすると、貧乏な家だと、それをもらいに来るわけです。それが亡くなった人への供養だという、そういう社会的な一つの合意があるのです。

犬島 そういうある種の秩序があるわけです。

井本 ですから、あえて米騒動という言葉を使うならば、岩瀬の場合は共同体的な米騒動でした。

富山 共同体的なもの。農村ならば、それはずっとありますね。大抵一揆の先頭に立つのは庄屋です。岩瀬という港町では、今のお話ですと町ぐるみでそういうシステム、秩序があったわけですね。

井本 町の場合にも、共同体というのはもっと調べなければいけないと思いますね。こういう時に、大きな役割を果たしていました。

富山 それは今まで続いているのですか。

井本 米騒動はもちろんありませんが、持ちつ持たれつの共同体的要素は残っていますね。この犬島さんが五大家と一緒に催事を行うというのだってそういう面があります。だから、水橋、滑川から向こうのように、本当の米商人が汽船会社に米を大量に積ませているような形とは違うのです。ここ岩瀬では「旦那はんにねだるのは当然だ」という合意の習慣があったのです。

犬島 今もそれはあります。

井本 米というものに意識が高いということは共通だけれども、地域によってその現れ方が違う。

富山 五大家が連携してそういう施しをしていたのですか。

井本 例えば、じいはんが亡くなられた時の供養という時には、物持ちが一軒一軒でやるけれども、米の値段が上がって騒動が起こりかけているという時には五大家よりもっと広く申し合わせて、米の廉売券を配るわけです。もっともその頃の町長さんは五大家が代わりばんこにやっているわけですよ。だから、お役人としての町を救う役割も兼ねている。分かちがたくくっついている。その点で、まさしく共同体的です。

犬島 明治22年に地方自治法ができます。明治憲法下における地方自治だけれども東岩瀬町という機構を持ちますので、米田さんのところも大正12年に町長を、その5年前の米騒動の時は誰だったのかね、町長は、大正7年には。あの時には、東岩瀬町役場で米を分けた。それは、五大家が米を出したということですね。

井本 明治の前半までは岩瀬の船主たちもまだ米の荷をかなり出していましたから、馬場さんなどで騒いだということがありました。

富山 馬場屋敷を拝見したときに、館長さんがここが隠れ部屋だと、天井裏のような部屋に案内してくださいました。押し掛けてきて家屋を壊すということもあったのですか。

井本 破壊的なことはしません、脅かしをやる程度。つまり、馬場さんの旦那が上の部屋に隠れて、そこから秘かに見ていなければならないという程度の心理的な圧力はあったようです。馬場さんは明治23年に最初の貴族院議員選挙に富山から唯一出るという様な大した物持ちでしたから、目立ったのですね。富山県の金の西の半分は高岡・伏木にあり、東のは岩瀬にあって、という調子で、そこの五大家で唯一汽船会社になっていたのは馬場さんだけだったのですから。

(注12)犬島宗左衛門(いぬじまそうざえもん)
明治41年、「日本海之岩瀬」という新聞を創刊し、意気高く時事問題を論じ、岩瀬の産業・経済の再生と繁栄、そのための人士の結集を呼びかけ、その実現(岩瀬の商工会設立・東岩瀬港の修築・鉄道問題)に尽力貢献した。

売薬も船に乗って

富山 さて、富山の売薬に話題を移しましょう。水橋郷土史料館には立派な売薬の展示があって、懐かしくておもしろくて、飽きません。売薬も海と関係があるのでしょう。

井本 奈良売薬がありますが、あれに比べると富山の売薬というのは船に乗って広がったという特色があります。ですから、船に乗って鹿児島まで行ったり、北海道から樺太の端まで行っている。

ご存命の方では三上さんのおじいさんが先駆的な人です。それから、サハリンの奥の方まで入ったり、千島のエトロフで熊と出会ったり、熊が出たところだというところまで行ったり、そういう売薬さんというのはやはり大したものだと思いますね。

富山 昔、枕崎の漁村のお母さんたちの鰹節の行商を取材したことがありますが、野越え山越えずいぶん遠くまで行っている。昭和四十年頃のことでしたが。各地にお得意さんが待っていて、訪ねては補充して歩く。取材しながら富山の薬売りを思い出したものでしたが、富山の売薬の特徴は。

井本 行商はいろいろあるけれども、売薬はその中で、簡単な言い方をすればインテリだったのだと思うんですよ。というのは、帳面をつけるのに字を書けなければならない。読み書きそろばんができなければならない。富山は寺子屋が多かったそうです。そろばんのみならず帳面をつけなければならない。

犬島 幕末には富山に小西屋という寺子屋があって、生徒が八百人いたということで、全国五指の中に入る規模だということですから、すごいものですね。

井本 漢方でなくても、役立つとなると熊の胃でも何でもいろいろ取り入れるでしょう。だから、化け学に近いような知識をかなり持っていた。それから、粉にひく方がいいとか、熱冷ましには何がいいとか、そういうお医者さんの代わりをする。北海道の開拓地へ行って、樺太の場合には医者のかわりになったと。医者のいないところだと皆に有り難がられたりとにかく頼りにされる。特定医という資格をとった売薬の若い者もかなりいますね。

どれだけ徹底しているか知らないけれども、後ろに立山なんか山岳地帯があって、修験道という?自分らの身体と精神を鍛えるものとしてクスリというものを必要としたのでしょうね。山岳信仰もいろいろあります。たとえば、立山信仰と白山信仰との違いですが。

畠山 白山信仰は白山周辺に限定しますが、立山信仰はお講をつくって、全国から引っ張ってきている。そして案内人がいまして、岩峅寺に二二坊ありまして、全部自分で大きな宿舎をつくって、そしてそれぞれ契約して迎えに行っているのです。

井本 そういう意味では、海だけではなく山と海とが一緒にあるということが大事で、海へ出ていくのも山が後ろに大きくあるからだし、売薬のように山の文化をも取り入れている。山と海と両方あることが大事なことなんです。

富山 数年前、中沖知事のお手伝いで、富山県のP R の講演をしたことがあります。93年11月、バイ船文化研究会の講演で岩瀬にお邪魔した直後の、同じ11月のことでした。東京、ホテルニューオータニで経済界のみなさんなど約六百人をお招きして富山県フェアが催され、最初に先ず三〇分ほど講演があり、そのあと、別室での立食パーティに移るのです。その講演で私がお話ししたのは、「とやま水ビジョン」という、この県独自の持つ水の憲法(後述)のことや、富山湾の魚がなぜおいしいか、地形や川の特殊性などお話して、一度、松月さん(注・岩瀬の古い料亭、松月楼)にでも行ってご覧なさいとおすすめした後、富山県人はコスモポリタンだと言いましたの。海へ出ていったばかりでなく、あの立山連峰を越えて、薬売りが全国へ出ていった。これが象徴的だと。私の頭には実はもっと昔のさらさら越え(注佐々成政の故事)まであったのですが、まあそこまでは言いませんでした。

製薬会社の丸薬造り 売薬の薬包(三上さんの所蔵)昭和初期の頃の売薬さん 富山市の製薬会社広貫堂を出立する売薬さんたち

左上:製薬会社の丸薬造り(※)
右上:昭和初期の頃の売薬さん(※)
右下:富山市の製薬会社広貫堂を出立する売薬さんたち(※)

北前船(バイ船)と売薬の里 水橋

小松外二 (財)水橋郷土史料館館長


わが水橋の町は、標題に挙げたことをもって自任しているが、古くは延喜式に定められた越中八駅の一つであり、当時より場所も地名も変わらぬ唯一のところである。

水橋という名のもつ雰囲気から寛正6年(1465年)「善光寺紀行」のなかで堯恵法印は「徒(いたづら)に 人たのめなる水はしや 舟より外に行方もなし」と詠んでいる。また、享保の頃、室鳩巣は、水橋と題し七絶を詠んでいる。その一節に「平川海に連なりて浩きこと涯(はてし)なし」とある。当時相当の川幅を有していたと考えられる。水橋湊は、この水橋川の河口に位置し、寛文2年(1662年)西水橋に給人蔵が、その後東水橋に藩倉が設けられてから、中小の廻船が沿岸や能登、佐渡などの交易に従事し、外港は北前船の船懸りとなっていた。

北前船(バイ船)の運航については、水橋の船乗りは近江商人から習い、県西部よりやや遅れ天保年代から本格化したという。やがて力をつけて船主となり、海商として成長した。また、水橋の産業である売薬は、18世紀半ば富山藩や加賀藩越中高月からの株分けが契機となって飛躍的に発展し、安政年間には富山町についで盛んな地域となった。行商は、古くから行われた交易の一つであり、このスタイルは様々であるが、売薬を背に商品を負って各家庭に配置し、一年後に使用代金を受け取る。近江の日野売薬は店舗売薬であるが、富山売薬は置き薬という方法で店舗を構えないところが異なっている。

当時の職業別記録として杉木文書がある。安政6年(1859年)他国・地廻り売薬は156名、舟手商売46名の記載がある。個人別に詳しく調べると売薬と北前船(バイ船)を兼業し、多角経営をしていたと思える人も10名余りある。この異業種の兼業は興味ある課題であり、当地区の特異性といえるだろう。

危険を顧みず北は蝦夷地より南は瀬戸内大坂に至るまで、積極果敢に活動し、日本の交易動脈として機能した北前船、全国津々浦々に至るまで販路の拡張をした越中売薬、この両者の底流に存在するものは何か。そこには、近江商人の“三方よし”や越中売薬の“先用後利”という共通語がある。共に、商売は“菩薩の業”と考えた精神と、積極果敢の永続性こそ先祖の残した最大遺産であり、これを継承発展させてきた町民性があった。

鉄道の敷設が海を広げた

富山 ところで鉄道が敷かれて舟運が衰退します。鉄道の幹線網は明治中期にほぼ敷設し終えるのですが、この舟運から鉄道への転換が日本人の土地利用の土台である川とのつきあい方、即ち治水の方式を一八〇度転換させる。低水工事から高水工事への転換です。それは日本人の土地利用の技術と思想を一変させることであり、日本人の自然観を一変させることになり、その後のコンクリート漬けの現代日本へと道を開いていく。日本人の土地勘まで大きく変えた。表日本と裏日本の関係もそれです。

この交通手段の転換、明治中期という時代に私は歴史の重大なエポックを見出してきました。それが『水と緑と土』(中公新書)なのですが、その舟運から鉄道への転換は、日本海海運にはどんな変化をもたらしたのでしょう。

畠山 普通、交通路というのは海岸沿いの道が多いのですが、富山では海岸沿いの道が非常に狭く、危ない道が多かったわけです。その結果、海岸沿いには一遍南に下がって鉄道を利用してから行かなければならないという不自由がありました。海岸沿いに移動するという、そういう拘束はなくなったのですが、それが一番、地区地区の港が少しさびれた原因だと思います。

富山 それで船員さんたちがどうなったのか。職を失った船の労働者たちが売薬へ転じたという話を水橋で伺ったのですが。

畠山 水橋ではあるかもしれませんね。長男は、主に重厚長大産業に就職しまして、家を継いでいる場合が多いのですが、二男、三男はそういった売薬さんとか、出稼ぎに出るタイプになることが多かったようです。

新潟もんと富山もん

犬島 単純な話が、海の上の仕事は経営者の、それから乗組員の危険が多いでしょう。だから、この地域全体としては早く危険な海上生活をやめたいのです。陸に上がりたいわけです。そのことが、このあたりの人々の内面的な衝動になっている。しかも財力はある。ちょうど大正時代から始まった水力発電で電力もあり余るほどある。では、いかに工業化するべきかということで、いわば電車を引く、港湾改良をする、工場誘致をする。さらには高等学校をつくるという大変化が大正から始まったわけです。

ですから、今おっしゃったように結構この辺の工場労働者として吸収されていく部分があるのです。それからもう一つは、売薬というのは、例えば岩瀬売薬という会社がありますが、やはり売薬というものはひょっとしたら岩瀬でも一定の規模を持ったものになっていたのは、こういう北前が開発した地域的なつながりをどうやってたどって新たな商売に展開するかと考えた連中もいたに違いないのです。私の母の父親は岩瀬売薬の社長をしていましたから、そんな感じが大体わかります。それから、米屋ですよね、岩瀬に大きい米屋さんも結構あった、米穀問屋ですね。陸送の時代に入った米屋さんです。

井本 確かに、鉄道ができたことで一番こたえたのは北前船だったことになります。米を運ぶのだって、関西行きは全部福井の方へ鉄道が入ってきた明治30年頃から陸送するようになる。肥料だって関西が買ってくれた北海魚肥が化学肥料に置き換えられるわけです。それから、四国の藍玉のためにだって、染料が化学染料に変わってしまう。そういう広い意味での産業革命というのが、北前船の西半分の商売をなくしてしまう。だから、もっぱら北海道、北洋という方へ目を向けていったのです。

富山 なるほど、鉄道の敷設が海を広げた。

井本 新潟には富山よりもずっと早く、鉄道が関東から早く入りましたね。新潟の出稼ぎが、例えば関東の風呂屋を探せば新潟もんだという、そういう出稼ぎの仕方をするのです。北海道移民の仕方だって、人口の比率で見ると新潟より富山はずっと多いのです。

海のルートで最後まで北につながっていたのは富山なのです。鉄道も最後まで入ってこない。そういう状況で、労働問題の面でも米騒動を起こすようになるのは、そのような状況があったわけです。新潟もんは東京へ行って東京の米騒動に参加しているわけですから。一方、こちらは移出地帯型の米騒動を長い間最後までやり続ける。

富山 そういう意味では、富山は最後まで「港の文化」がつくった都市だったということですね。

  • 北陸線が富山まで開通したのは明治32年、富山~魚津間は明治41年、米原~直江津が全通したのは大正2年。(写真は明治43年の早月川を渡る汽車)

    北陸線が富山まで開通したのは明治32年、富山~魚津間は明治41年、米原~直江津が全通したのは大正2年。
    (写真は明治43年の早月川を渡る汽車)(※)

  • 井本三夫 編『北前の記憶―北洋・移民・米騒動との関係』桂書房 1998年
    富山湾の中東部沿岸地域の、かつての「バイ船」乗組員とその後身である「北洋出稼ぎ者」及び港湾に生きた人々など三十余名の人々の証言を生きた言葉で蒐集した聞き書きの集大成。岩瀬バイ船文化研究会発行の『バイ船研究』に連載されたものに加筆してまとめられた。
    桂書房(電話0764-34-4600)

常願寺川・水橋川の河口にあった町「水橋」
~ デ・レイケが行った水橋川の分川 ~

水橋郷土歴史会 大村 歌子

水橋町を東西に二分して流れる白岩川は、明治24年(1891年)まで、現在その西1kmにある常願寺川に、2km上流で合流され、川幅250mの水橋川として富山湾へ流入していた。枕草子に“みづはしのわたり”と記され、芭蕉翁が“奥の細道”の途次舟で渡った川のことである。文献には常願寺川、水橋の里の中川、尼ヶ瀬河などと記されている。

東西水橋の川沿いには、藩の米蔵、給人蔵、廻船問屋、網元・地主の蔵や屋敷などがあり、船の行き交いで賑わっていた。

その水橋は明治24年(1891年)7月、富山県は大洪水にみまわれ大きな被害を被った。
 当時土木行政の副大臣クラスの高官になっていたオランダ人技師で、日本の治水行政の指導的役割を果たした御雇い外国人として著名なデ・レイケ(1842〜1913年)は、現地調査のため8月3日東京を出発し富山の各河川を回った。8日から18日までの11日間、常願寺川を下流から源流まで遡り、立山へ登るなど詳細に流域を視察し、洪水を流過させる余地を造る必要を説き、次のように提案した。「水橋地先の河口はあまりにも狭すぎて、拡張することはほとんど不可能な位置にある。それ故にこの村落の左側に新分流口を造り、延長半里の新河道に連絡した方がよいだろう。旧河口は、白岩川という排水路のために残せばよい。」

そして、常願寺川付近の山の岩石構造が透水しやすく、破砕しやすいため、湧き水、地下流路も多いことを指摘し、山が荒れていることから森林の保護を説き、その論は農民の貧窮にまで及び、正しい河川改修と農業経営に目覚めれば、悪循環なく国の利益になると提言している。デ・レイケの視点に人間への優しさと、水理学に裏打ちされた技術の確かさを感じる。

明治24年(1891年)12月着工、26年(1893年)3月、霞堤、用水合口化、そして白岩川との分流を終えた。
 水橋川はなくなり川幅100mの白岩川となった。
 町の様子も一変し、時代は船から鉄道輸送へと移っていく。
 現在の白岩川流域には、若王子塚、稚児塚、清水堂古墳など、平野部にもかかわらず、多くの古墳群を残している。古墳群の存在は、古代より白岩川が開削されていることを証明している。

白岩川の上流を離れ立山参りの道なりをゆく、山道を越えると、常願寺川の上流芦峅寺の雄山神社前に出る。そして常願寺川を下ればぐるっと一周水橋へもどる。

二つの河口に立ち、多くの水鳥、船の行き来を眺めるとき、常願寺川の源流の立山カルデラの砂防ダム工事が明治39年(1906年)より営々と今も続くことに、また白岩川流域の歴史に、自然と人間の営みの深い関係を教えられる。多くの先人の魂が山、川、平野、海を揺さぶっている。

「水の憲法」と「漁村まるごと博物館」
 対談を終えて 富山 和子

「とやま二十一世紀水ビジョン」

日本列島のほぼ中央に位置する富山県。ここに立って海を眺めるとき日本海文化は西側と東側とで性格を大きく変えること、あるいは日本海文化と畿内政権との関係や、太平洋側資本との関係など、実に立体的に見えてきた特集になりました。

DNAなどによる最近の研究では、日本人の主要なルーツはアムール川、シベリア地方へとたどれるようです。しばらく休んでいた私の「北への回帰」が、再びかき立てられる思いの特集ともなりました。

ここで、「水の文化」に関連して「とやま水ビジョン」についてもお話ししなければなりません。

富山県は「水の王国」というキャッチフレーズのように水資源に恵まれた土地です。大陸からの季節風は能登半島に遮られるので冬暖かく、しかも背後には立山連峰や、飛弾、白山の山々が屏風のように立ちはだかり、雪を受け止めます。その急峻な山々から滝のような急流河川が富山湾めがけて一斉に流れ落ち、地図を見ればおわかりのように富山湾はさながらすり鉢の底。富山湾の魚がおいしい秘密も暖流と寒流に加えて、湾深くに常時流れ出ている地下水に鍛えられるからだと言われています。

そんな急流河川ならではの独特な水の文化が、この地には豊かに養われてきました。治水技術でいえば霞提も立山砂防もその一つですし、コシヒカリ反収日本一を育てた「流水客土」という技術もあります。チューリップも実は水の文化であると私は書きましたが、詳しくは『日本再発見水の旅』に譲ります。ともあれ「水」という、足元の財産を資源として自覚し、水とつきあってきた先人の知恵を文化遺産として受け止めて、二十一世紀の県のあり方を水をふまえて考える。そのためのいわば「水の憲法」とも「水の総合計画」ともいえるのが平成3年に策定された「とやま二十一世紀水ビジョン」だったのです。

この策定には3年をかけ、子供たちも含め県民の様々な層が参加し、私もまたアドバイザーとしてお手伝いしたのでしたが、東京での会議にも中沖知事自ら出席され、知事の力の入れようが伝わってくるのでした。

水に関して、このようなものを作った自治体は私の知る限り世界にも例がなく、さすが富山県と感心しています。ただこれが、真に県民のものとなり二十一世紀の県民の生活にどう生かされていくかは、これからです。

氷見に生まれた漁村空間博物館

もうひとつは、田園空間博物館、漁村空間博物館事業の話です。

農業は環境と文化の担い手です。それ故一つの民家とか家並みだけを取り出して保護するのではなく村ぐるみ住民ぐるみ生きた博物館として、丸ごと守り育てていくことは出来ないか。

私のそんな提案が実って、国は平成11年度から「田園空間博物館事業」を発足させました。その第一号に礪波平野の散居村が指定され、私はアドバイザーとして最初の一年間、お手伝いいたしました。

農村文化はトータルで見なければ守れません。そこには民家がある。森林も水路も棚田もある。祭りもある。みな農業を通して育てられてきたもので、一つだけ切り離して守れるものではありません。それ故、林業、農業を守ることはもとより道の見直しもあれば水路の手直しも必要だし、昔のような石組みの水路を復活させるなら石工の養成も必要だし、屋根葺きの職人も、大工から畳職人まで、技術者を育てねばなりません。養蚕も機織りも、祭りも踊りも民謡も、子供歌舞伎も。まさにあらゆる省庁の分野が重なり合うそうした事業を、丸ごと博物館としてトータルの事業で実現していこう。博物館というけれど、決して箱もの作りではないのです。

自分たちの町をどうすればそのようにして守っていくことが出来るか。これは壮大な住民運動です。富山県だけでなく、この事業はすでに全国各地で始まっていますが、提案者の私のそんな思想がどこまで実際に実現されるかは、ひとえに行政と住民のみなさんの見識にかかっていると私は思っています。そして、日本の伝統文化を誇り高く守ろうというこの事業に、どうかカタカナ語など登場させるような情けない事業になり下がることのないよう、祈るような思いで行政の指導力を見守っています。

ところで、富山県のアドバイザーとしてお手伝いをしていたその最中のことです。犬島さんからお電話がありました。「田園空間博物館があるなら、漁村空間博物館があってもいいのではないか」とのご意見です。

それもそうだ、と思いました。漁村は、ときに農村以上に、伝統ある漁村文化が守りにくい状態に置かれています。私は早速水産庁へ出かけていって話を聞いていただき、併せて私自身も少し漁村について勉強しなければと、犬島さんにお願いして漁村文化の残る町を歩くことにしたのでした。こうして訪ねたのが水橋だったのです。当日は水産庁からも担当官が同行されました。

水橋は歴史の古い町ですが今はホタルイカの漁家がほんのわずかの、漁村としてはあまりに小さく、むしろ水産加工業の盛んなところです。私の個人的な調査旅行にもかかわらす四十数団体の代表が集まって、話を聞かせてくださったのでした。今回の特集テーマも実はこの水橋での調査が元になっています。

漁村空間博物館事業は、農水省の田園空間博物館事業より一年遅れでスタートしました。残念ながら水橋は指定されず、代わりに氷見市に決まりました。

その氷見の漁協で私は、定置網というもののいかに精巧かつダイナミックな技術かを、知らされたのでした。氷見は日本の定置網漁業の元祖で、現在も全国の定置網漁業の指導的立場にありますが、海深百メートルというようなところに一瞬にして巨大ビルを築くに等しい定置網。その事業について、ここではとうてい説明しようもなく、出来れば一度氷見漁協をおたずねして、入り口に展示してある定置網の模型を見学し、直接説明をお聞きになることをおすすめします。

氷見漁協での取材から、地元の富山湾の中でさえ大変な事業だと私は驚かされたのですが、それだけにその定置網を、カムチャツカまで出かけて行って敷いたというこの座談会での話には、ただただ圧倒されるばかりです。

ともあれ犬島さんの電話がきっかけで、漁村空間博物館事業が生まれました。それはこの座談会で、「私たちの研究会はいわゆる郷土史家の郷土史研究と違う。過去を読むことを通じて現在をどう見るか、未来をどう切り開いていくかを考えること」と言われたバイ船文化研究会の活動理念が、現にこうして国を動かしているということの証でもありました。このことをご報告して、この海の物語の締めくくりにいたします。



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