機関誌『水の文化』13号
満水(まんすい)のタイ(タイランド)

コラート高原の溜池から見る タイ社会の移り変わり

「この村にわしらが移住してきたのは、ここに大きな池があったからだ。ほら小学校の前に池があるだろう。あそこに池があったから、わしらはここに村を建てることにしたんだ。あのころここは水が豊かで、ウドムソンブーンだったんじゃ。」 東北タイ地方コンケン県、市街地から50kmほど離れた農村で村の来歴を尋ねた私に、村の老人はこう語って聞かせた。雨期にもかかわらず雨に恵まれなかったその年、村は灼熱の太陽の下で乾ききっていた。だからか、老人の「水が豊か」という場違いな言葉は印象深かった。

東京大学大学院総合文化研究科博士課程、
日本学術振興会特別研究員
森田 敦郎 (もりた あつろう)さん

1975年生まれ。専攻は文化人類学。現在、東北タイ・コラート県において産業化と社会変動について調査中。

■ 溜池の謎

コラート高原と呼ばれる東北タイ地方一帯は、その乾いた気候とやせた土壌で知られており、タイ国内で最も貧しい地域である。この地方をバイクで走っていると、村の片隅にしばしば大きな溜池があるのが目に付く。東北タイの農村はたいてい密集した塊村なのだが、その密な集落にはたいてい外側に自然の池を拡張した四角い溜池が築かれている。先ほどの老人の言葉は、その池の来歴を尋ねたときの答えである。

これらの溜池には実はちょっとした謎がある。それは、使いみちが今一つはっきりしないのである。まず、たいていの村では池の水を大して利用していない。水が不足していると盛んに言われる割には、池の水を農業用水に使うわけでもないし、たんぱく質が不足しているといわれる割には、魚の養殖をするわけでもない。生活用水や水浴びに使われているのを見ることもほとんどない。しいて言えば、ときどき水牛の水浴びに使ったり、休日に若者が釣りをしていたりするぐらいだろうか。

その一方で、村人に聞いてみると、先の老人が言うように、村にとって池が歴史的に重要だったことを感じることがしばしばある。さらには池という言葉が村の名前に使われることも多い。例えばこの地方でよくある村名に、ノーンサアードとかノーンサワンとかノーンブアという風に、ノーンがつく名前がある。このノーンは池や沼という意味があり、上の村名は直訳するとはじめから「きれいな池」、「天国の池」、「蓮の池」というような意味になる。

古くは村人にとって非常に重要だったことをうかがわせる一方、今ではあまり活用されていないように見える溜池、これらはいったいどんな歴史をたどってきたのだろうか。

■ウドムソンブーンを探しに

こういうことを知りたいなら、村人に聞いてみる、というのが一番手っ取り早い方法である。しかし、歴史を聞くことは難しい。

そもそも、現在コラート高原に住んでいる人々は、タイ系民族の一グループであるラオ族の血を引いており、ここ200年ほどの間にラオスから移住してきた。彼らは農民であり、戦乱や土地の不足、そのほかさまざまな理由から故郷を離れて、当時は未開の地であったコラート高原に移住してきたのである。その後も、土地が豊富だったコラート高原では、しばしば移住が繰り返され、次々と新しい村が建設されてきた。

冒頭の村は60年から70年前に建てられた新しい村だった。そのため、村の建設を覚えている老人が生きているという貴重なケースだったのだ。

この地にやってきたラオ族にとって、移住して村をつくるときのキーワードとなったのが、老人が口にした「ウドムソンブーン」という言葉。タイ語で「豊穣な」という意味であり、東北タイの農民の間では、水が豊かで土地が肥えた場所という意味合いがある。かつてコラート高原で移住と開拓が盛んに行われていた時代には、「ウドムソンブーンを探しに」というのが移住の合言葉だったのである。

おそらく、灼熱の荒野を旅してきた農民たちにとって、自然の池は、そこがくぼ地であり、周囲から水が集まってくる所だというしるしだったのだろう。

だが、この池の水は農業用水に使われたわけではないようである。むしろ農業用水のためにはそれぞれが農地に個人で池を掘るのが普通である。村の集落から外れて、農地に入っていくとそのような灌漑用の小さな溜池をいくつも見ることができる。では、村の池はいったい何に使われていたのだろうか。

その答えはどうやら生活用水といったところにあるようである。洗濯や水浴びなどの日常の水仕事に、池の水が使われていたようである。ただし、もともとタイでは雨水を甕(かめ)に貯めたものを飲み水として使っているため、飲み水に使われたことはない。今でも農村では、家の軒下には大きな甕があり、多くの家では屋根から雨樋(あまどい)を通して貯めたその甕の水を飲んでいる。

このように、溜池の水は飲み水以外の、洗濯や水浴びなどの生活用水として使われていたようである。ラオ族の農民たちは、このように自然の池を見つけそのそばに村をつくった。そして、しばしば共同で池を拡張し、雨期に降った雨を貯蓄できるようにしていたようである。先ほどの老人は池を拡張したときのことを生き生きと語ってくれた。何代目の村長の誰が指揮を取ったのか、どんな風に拡張したのか。こうした事業は、当時の人々にとって長く心に残る大きなイベントだったに違いない。

■溜池の下のクメール都市

村の池についてはとりあえず解決したように見えたのだが、少し調べていくと溜池があるのは何も村に限らないことがわかってきた。コラート高原ではたいていの都市も大きな池や湖のそばに作られている。ではこれらの池はもともとそこにあった自然の池だったのだろうか。

村人に池の来歴を尋ねると彼らはたいてい、そこにもともと自然の池があった、という。確かに池の多くはもともと自然のものである。しかし、いろいろ調べてみると必ずしもすべての池が自然のものではないかもしれないということがわかってきた。そこから見えてくるのは思いもかけない壮大な歴史である。

コラート高原の大部分は、かつてアンコールワットを建設したクメール帝国の支配下にあった。アンコールワットが建設されたのとほぼ同時期、11〜12世紀にはコラート高原にも相次いでピマーイ、サコンナコンといった都市が建設された。クメール帝国の絶頂期は13世紀といわれ、その版図はカンボジアとコラート高原を越えて中部タイのチャオプラヤー川流域と南ラオス、中部ベトナムまでに及んだという。

クメール帝国は支配下の各地に首都アンコールワットと共通のプランを持つ都市を建設していった。その典型は十字の回廊を持つ寺院や宮殿の傍らに「バライ」と呼ばれる大きな人造池を配し、さらに城壁の外側を二重の堀で囲むものだったという。今遺跡として残るピマーイや、後にタイ族が占拠して王都としたスコータイやロッブリーは元来このようなクメール都市であった。

コラート高原では15世紀のクメール帝国の衰退以降、こうした都市は次々に放棄され廃墟となっていった。そしてラオ族が南下を開始する18世紀ごろにはコラート高原は無人の森林地帯となっていたのである。新たにやってきたラオ族は新しい村を作るだけでなく、こうした古い都市の跡に再び町を作った。だから、あとからやってきたラオ族が利用した池の中には、かつてのクメール人の村や都市に作られた溜池、「バライ」だったものもあるのである。

このような例の一つとして、コンケン県にあるプアイノーイ郡がある。プアイノーイには小さなクメール遺跡があり、その遺跡から100m弱のところに大きなバライがある。100年ほど前にここに移住してきたというラオ族の村人たちは遺跡のかたわらに村を作って住んでいる。今は遺跡も修復され、バライもきれいに拡張整備されているが、かつてバライの水は隣接した水田の農業用水に使われていたという。そして現在ではバライのほとりに建てられた病院がこの拡張された池から若干の水を取水しているという。

この地方ではクメール遺跡と都市が共存している例は数多い。有名なクメール遺跡であるピマーイは町そのものが遺跡の内側に建てられている。また、サコンナコンは四角形の堀で囲まれたかつてのクメール都市の真上につくられており、堀の内側にはまだバライが残っている。コラート高原で見かける何の変哲もない溜池も、その背後を探っていくと幾重にも重なる歴史の積み重ねが見えてくる。そこにはクメール帝国から続く数百年単位の長い歴史の流れと、数十年単位で刻まれたラオ族の村人たちの生活の歴史が重なり合うようにして流れている。

こうした歴史の流れの締めくくりとして、最後にここ10年の池を巡る動きを見てみよう。

■役割が変わる

現在、集落の溜池のほとんどはもはや生活用水にも農業用水にも利用されていない。しかしその一方で、各地の池を見てみるとここ最近、拡張や整備工事が行われたものが多いことに気づく。

こうした工事の多くは、政府によって行われている。プアイノーイのように観光地として遺跡を修復・整備する中でバライが拡張されたり整備されたりした所も多い。バライではない普通の村の池もここ数年で急激に整備が進んでいる。重機によって底を深く掘り直し、きれいな四角形に岸を整備するというのがこうした整備の基本である。こうした池には必ず看板が立てられている。そこには、何年に内務省によって拡張工事が行われ、その後きれいになった池が国から村の自治体に贈与されたことが記されている。

中央集権国家のタイには、最近まで村落に自治体と言えるようなものはなく、公式には地域の資源は国家が直接管理していた。村の池もまた例外ではない。しかし最近の地方分権推進の中で、新たにタンボン(行政区)自治機構といわれるものが設立されてきた。そして近代的な地方行政制度が成立してから一元的に内務省が管理していた村の池も、この自治機構の成立とともに再び村人の手に返されたということらしい。

こうして新たに整備された池は、主に地域の人たちの憩いの場として利用されているようだ。市街地に近く、最近急激に住宅地化したような村の池の中には公園としてきれいに整備されたものもある。それほど整備されていない池でも、休日には近所の人々が釣りをしたり、周りの木陰でのんびりしている姿を見ることができる。

長い歴史の中でクメールのバライからラオ族の村の池へと変化したように、村の池の役割も人々の生活の変化と共に移り変わりつつあるらしい。



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