機関誌『水の文化』13号
満水(まんすい)のタイ(タイランド)

微笑みの国 タイ

所澤 さやか (しょざわ さやか)さん

東京世田谷生まれ。 1997年アジアの人材育成を手がけるNPO、Asia SEED入社、タイ人研修生のケアなどを行う。2001年10月より結婚を機にバンコク駐在。東南アジアのe-learningプロジェクトのコーディネーターとして各国の事情調査や調整を行っている。

タイの大都会、バンコクに住んで驚いたのは、家では料理をしない人が圧倒的に多いということだ。日本でも、最近はコンビニエンスストアと安い外食産業の発達で、自宅にまな板がない人とか、包丁を持っていない人とかがいて話題になっているが、バンコクの場合はそんな生易しいものではない。普通のアパートに、コンロがないのだ。これではお湯さえも沸かせないから、インスタントラーメンすら作れないことになる。では、キッチンには何があるかというと、流しのシンクがあるだけ。お湯ぐらい自分で沸かしたいという人は、このシンクの脇のスペースにガスコンロを持ち込むことになる。私が知る限りでは、どうもバンコクだけではなく、チェンマイなども同じような状況らしい。 私が住んでいるのは、住民の7割が外国人という集合住宅だから、電気のコンロが2口ついている。こういう例外を除いて、コンロを備えた、つまり普通の調理機能を持ったキッチンがあるのは、200m 2ぐらいの豪邸で、このキッチンはメイドさんのためのキッチンだから、やはり家庭の主婦は料理をしないことになる。 なぜ、こんな事態になったのだろう。 そして、みんなはどこでごはんを食べているの? という疑問に答えてくれるのは、圧倒的な数を誇り、安くておいしい屋台の存在。バンコクの一般市民は、朝から家族総出で屋台でごはんを食べているのだ

もちろんタイにもきちんと料理をする人はいるし、バンコク、チェンマイといった大都市のケースは例外なのかもしれない。しかしメニューの選択肢も幅が広いため、わざわざ食材を買ってきて自分で作るのが馬鹿馬鹿しくなってしまうのだ。実際、屋台で買ったほうがずーっと安上がりである。例えばスーパーで野菜を買って炒め物を作るとだいたい材料費だけで40〜50バーツはかかるが、屋台で食べれば20〜30バーツくらいである。彼らは朝市で仕入れているから新鮮で安い食材が手に入るのだ。あまりに安く美味しいタイ料理が買えるので、こっちにいると家庭でタイ料理を作る気になれない。

タイでは、女性の社会進出がとても盛んだ。これが家で料理をしない習慣を助長しているのか、はたまた働く女性が多いから屋台が盛んになったのか?謎である。

料理はできたらやりたくない、と思っているタイ人も、こと入浴については相当に清潔好き。日本のようにバスタブに入るわけではなくシャワーをさっと浴びるのだが、最低でも一日2回シャワーを使う習慣は、高温多湿の土地柄ではエチケット以上に快適なことだ。スーパーマーケットには、日本でもお馴染のシャンプーや石鹸がずらっと並んでいる。先日知り合ったタイ人が、真冬に奈良に留学する娘さんのところを訪ねたとき、寝る前にやっぱりどうしてもシャワーを浴びたくて、夜中に寮の共有シャワーを使ったそうだ。部屋まで戻る途中、寒くて寒くて凍え死にそうになりながら、それでも毎日浴びてしまったと言っていた。昔は川で沐浴していた習慣が、シャワーに変わっても続けられているのは、やはりタイの人たちが清潔好きだからだろう。

タイ料理を自分で作る気にはなれない私だが、大の蕎麦好きの主人のリクエストで、よく蕎麦を茹でる。タイに来たばかりのころ、蕎麦を作ってと言われた。お湯を沸かし準備をしていたら、彼が冷凍庫をがばっと開けて、ひどくショックを受けているので何事かと思ったところ、「水が冷えてない!」。タイの水道水は年中生暖かいので、茹で上がった蕎麦を冷やすのに充分ではなく、主人のポリシーでは必ずお湯を沸かす前からミネラルウォーター(最後に口に入るものなので)を冷凍庫に入れて冷やし、そのお水でお蕎麦を冷やさないといけないということ。確かに、そのときは冷水が間に合わずに、そのまま水道水で蕎麦を洗ったけれどどうも味がしまらず、ぬる〜い蕎麦になってしまった。次回から主人のやり方でやってみたところ、日本で作っていたよりおいしい蕎麦ができたので、蕎麦好きのこだわりに大いに納得した。

水温に限らず、水の性質も日本とはずいぶん違う。昨年タイに現地工場を作って、国内用供給を始めた日本のビールメーカーも相当苦労したらしい。たまに日本のビールが懐かしくなる我々が試してみたところ、「ど、どこが日本のビール?」という味で大不評。なんでも日本の製法をそのまま持ち込んだため、水の違いでまったく上手くできなかったそうだ。その後、しばらくして「どうも、中瓶はおいしくないのに、小瓶と缶ビールはおいしい気がする。でも気のせいだよね」と言っていたところ、これらは工場が違うことが判明。土地ごとにつくり方を変えないとならないほど水が違うのか、と素材の重要性に感心してしまった。でも、もしかするとクオリティーコントロールの問題だったりして。真相は謎である。

東南アジアに来て、よく言われるのが氷でお腹をこわすということ。タイの観光ガイドでも「氷は危ないので避けたほうがいい」と書いてあるけれど、普通のレストランではミネラルウォーターや沸かしたお湯から作った氷とかを使っているので、本当は心配ない(もちろん、店によって違いがあるので、デリケートな人は注意してください)。実はみんな氷にあたるんじゃなくて、あまりに辛いものを食べてお腹がびっくりしている、ということはあまり知られていない。

タイで一番メジャーなシンハービールなどは、味が濃いのでそのまま飲むと日本のテレビCMのように「ゴクッゴクッゴクッ〜ぷはぁー」ではなく、「ゴクッゴクッゴクッ〜ゲホッ!」となってしまうので、氷を入れるくらいで丁度いいということがあり、何も言わないとビールに氷を入れられてしまう。日本人はびっくりして「やめてくれ」という人が多いけれど、そんなに神経質になる必要はないのだ。これは濃い味のビールを頃合いよく薄める役割のほか、屋台や屋外のお店で飲むときに、どんどん温度が上がってしまうのを防いでくれる。慣れると、結構いけますよ。

争いを好まず、ニコニコしながら敵の矛先をかわすタイ人に囲まれていると、自分もどんどん同化しているようで、ちょっとコワイ。世界中にネットワークを広げる中国人ですら、タイ人の中に入ると自然に同化されてしまうのだから、私が太刀打ちできる相手ではないと思ってあきらめるしかないのかも。

「微笑みの国、タイ」という言葉は、いまや観光ガイドブックの常套句になっているが、タイ人の微笑みは、敵を作らず、相手の懐に飛び込むことで無言実行してしまうのに、とても役立っているように思う。ボスのくだらない洒落に穏やかな微笑みを浮かべてくれたら、それはファン・イム。面白くなくても笑わなくてはいけない類の作り笑いだ。いくつにも分類されるほど種類の多い、タイ人の微笑み。複雑で深いその微笑みが、じわっじわっと広がれば、世界に新しい価値観を生み出すパワーになるかもしれない。



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