機関誌『水の文化』76号
そばと水

そばと水
【江戸そば】

時代によって変わりゆくそば

江戸時代から続くそばの老舗として「藪(やぶ)」「更科(さらしな)」「砂場(すなば)」の三系統が知られており、江戸そば御三家とも称される。「更科」はソバの実の芯だけを用いた色の白いそばが特徴だ。創業者の系譜を継ぐ「総本家 更科堀井」九代目の堀井良教さんに、そばと水の関係性や伝統と革新のバランスについてお聞きした。

ソバの実の芯の部分だけを用いることで麺がくっつきにくいうえ、見た目も美しい「さらしなそば」

ソバの実の芯の部分だけを用いることで麺がくっつきにくいうえ、見た目も美しい「さらしなそば」
撮影協力:総本家 更科堀井

三和 伸彦さん

インタビュー
総本家 更科堀井 代表取締役
堀井 良教(ほりい よしのり)さん

1961年東京都生まれ。「総本家 更科堀井」九代目。慶應義塾大学文学部哲学科を卒業後、そばの修業を重ねる。1985年、父とともに麻布十番に店を構え「総本家 更科堀井」を復活させた。

鳴かず飛ばずで手打ちの道へ

わが家の先祖は太物(ふともの)(綿織物や麻織物)を扱う反物商でした。江戸と信州を行き来し、江戸では領主・保科家の下屋敷に泊めていただいたようです。反物商として八代目にあたる布屋太兵衛(ぬのや たへえ)はそば打ちが得意で「江戸に出てきてそば屋をやらないか」と言われ、麻布永坂に店を構えたのが1789年(寛政元)。ほどなくして将軍家にもそばを納めるようになりました。

当初は信州のやり方でそばを打っていたはずですが、江戸で研鑽を重ね、ソバの実の芯の部分だけを用いる色の白いそば「さらしなそば」を編み出します。夾雑物(きょうざつぶつ)がないので時間が経ってもさらりとほぐれるのは、将軍家や大名屋敷へ持参したときに麺が固まらないように工夫したからでしょう。白い麺は見栄えもよかった。明治時代にもりそばが15銭だったのに対し、さらしなそばは1円と高級なそばでした。長野県の地名は更級、そばは更科なのは保科家にちなんだようです。

私は太兵衛から数えて九代目にあたりますが、実は七代目の祖父が出資した銀行が倒産するなどして1941年(昭和16)に一度閉店しています。地元の方々の支援もあって戦後に再開し、祖父も父もそこで働いていましたが、私が大学を卒業すると同時に父が独立し、二人で今の店を構えました。

ところが、どうしてもそばが売れません。質のいいそば粉を使っていましたが、打ち方は当時主流の機械打ち。私は他店で修業したので一応手打ちはできましたし、そばはやっぱり手打ちの方がうまいと常々思っていたので、30歳のときに手打ちに切り替えました。すると7~8年で売り上げが倍になったのです。

手打ちは木製の棒で延すので麺の表面に少しざらつきが残り、無理に圧迫しないので柔らかさもあってつゆの乗りがいい。ゆで時間が短いため香りが残り、麺の角も崩れにくいなど、手打ちのうまさには複合的な要因があります。

日々の仕事が培う その水に適した方法

さらしなそばの手打ちは、木鉢に入れた粉に湯をかけて練る「湯ごね」です。ソバの実の芯だけを挽いたさらしな粉はほぼでんぷん質のみなので、湯ごねじゃないとつながらない。十割そばも湯ごねにする地域が多いので、先祖がさらしなそばを考案する過程で信州の経験を踏まえ「湯ごねでやってみるか」と試したのかもしれません。

さらしなそばが湯を必要とするように、そばと水は切っても切れない関係にあります。麺の約40%は水分ですし、ゆでると水を吸収して水分量はさらに増すので、そば全体の6~7割は水。仕上げも水で洗って冷やしますし、つゆもかつおぶしを煮詰めます。硬水だと出汁が出なかったりもするので、水の影響は極めて大きいです。

店で使う水道水には、水のクラスター(分子集団)を細かくする装置を用い、さらにフィルターを通して浄水しており、フィルターはこまめに取り替えます。本店と支店では、厳密には水に違いがあるはずですが、日々そばを打ち、つゆをつくるなかで「出汁の出が悪いな。煮詰める時間をもう少し延ばそうか」と職人が味を追究し工夫することで、次第にその地域の水に適したオペレーションになっていきます。

  • かつては座敷だった店の奥を改修し、手打ちそばに切り替えた「総本家 更科堀井」。職人たちはそれぞれの持ち場でそばを打つ

    かつては座敷だった店の奥を改修し、手打ちそばに切り替えた「総本家 更科堀井」。職人たちはそれぞれの持ち場でそばを打つ

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    かつては座敷だった店の奥を改修し、手打ちそばに切り替えた「総本家 更科堀井」。職人たちはそれぞれの持ち場でそばを打つ

  • かつては座敷だった店の奥を改修し、手打ちそばに切り替えた「総本家 更科堀井」。職人たちはそれぞれの持ち場でそばを打つ

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  • かつては座敷だった店の奥を改修し、手打ちそばに切り替えた「総本家 更科堀井」。職人たちはそれぞれの持ち場でそばを打つ

    かつては座敷だった店の奥を改修し、手打ちそばに切り替えた「総本家 更科堀井」。職人たちはそれぞれの持ち場でそばを打つ

  • かつては座敷だった店の奥を改修し、手打ちそばに切り替えた「総本家 更科堀井」。職人たちはそれぞれの持ち場でそばを打つ

    かつては座敷だった店の奥を改修し、手打ちそばに切り替えた「総本家 更科堀井」。職人たちはそれぞれの持ち場でそばを打つ

そばは時代によって変わっていく

そばは麺とつゆからなるシンプルな料理ですので「こうあらねばならぬ」という伝統的な意識は若干強いかもしれません。しかし基準はあくまで「うまいか、うまくないか」。なぜなら、素材一つとっても時代とともに変わるものだからです。

例えば砂糖。以前は上白糖を使っていましたが、7~8年前からはてんさい糖です。「味がちょっと丸くなるな」と量を調整したりします。「前の方がよかった」と言う人がいても、自分がおいしいと思えば続ければいいのです。

「天抜き」(天ぷらそばのそば抜き)で一杯やるのが粋とされていますが、江戸時代の天ぷらは上州の小麦粉で揚げた分厚い衣。しかも揚げ置きしていましたから、熱々のつゆに入れてかじるのがよかった。ところが今の薄力粉の天ぷらを同じようにしたら衣が溶けてしまいます。かつて自動販売機で水やお茶を買うのが考えられなかったように、時代は変わるものです。

変わらないのは、受け継がれる味と技です。私は父のつくったつゆで育ち、息子は私の影響を受けていますが、味の基準はそこにありますから、あとはどうアレンジするかだけです。

今、あらゆる人にそばを楽しんでもらうために、大豆由来の調味料を用いたつゆにチャレンジしています。グルテンフリーのさらしなそばの乾麺もつくりましたし、そばパンにも挑戦中です。こうしたことを可能にするのは、磨き上げたさらしなそばの技があるから。伝統的な技法に、時代に応じて新しいものを取り入れ、さらに積み重ねていく。そうすることで、そばもそば店も続いていくのだと思います。

そばは時代によって変わっていく

(2024年1月15日取材)

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