機関誌『水の文化』21号
適当な湿気(しっけ)

肌環境を司る化粧文化

村田 孝子さん

ポーラ文化研究所 主任研究員
村田 孝子 (むらた たかこ)さん

化粧品も機能化の時代

現在の化粧品は、昔から比べるとサイエンティスティックになり、カタカナ用語が飛び交っています。

1980年代後半になると、生体由来の高分子ポリマーが、バイオ技術で人工的につくれるようになってきました。これらの成分が、化粧品の機能化を促進しました。

例えばヒアルロン酸は、水分保持や調節を行なう真皮の組織のひとつ。水分を大量に保持する性質のために、皺を防ぎ、肌の老化を防止する働きがあるとされています。このほかにも水溶性コラーゲンは、真皮内の水分保持能力を促進し、弾力を持続させて皺を防ぐといわれたり、角質層の細胞どうしを接着している細胞間脂質の主成分であるセラミドも注目を集めています。こうした機能性成分を謳う傾向は、他との差別化のために、化粧品メーカー間で、一層積極的に進められました。肌の保湿に関心が高まった背景には、こうした機能化の促進があります。

もうひとつの傾向は、「サラッとしてしっとり」という官能面での特質です。「サラッとしてしっとり」という感触を大切にするのは、日本独自の特徴でしょう。

日本人の肌は、高湿度のためにきれいだとか質がよい、と一般的にいわれていますが、そういうことを裏付ける具体的なデータはありません。しかし、日本海側の東北部出身者に美人が多いといわれ、日照時間が少ないことで紫外線による肌のダメージが少ないことが一因と考えられる節もあります。

冬の乾燥時と湿気の多い梅雨時では、圧倒的に後者のほうが肌のコンディションが良いというデータがあります。紫外線さえ気をつければ、湿度が高く、適度な皮脂の分泌量があることは、肌にとって良い環境だということです。

しかし最近のオフィスでは、エアコンによる乾燥やストレスが肌を傷める要素ともなっており、日本人の肌環境も従来どおりとはいえないかもしれません。こうした悪条件も、化粧品を機能化に向かわせ保湿に関心が集まる要因の一つでしょう。

情報発信は遊女や役者から

一時期は、化粧品メーカーのキャンペーンで提案した商品、4月には新社会人向けの口紅が、秋にはアイシャドーがよく売れたといいます。

しかし、アイシャドーやマニキュアというのは、かつては夜の化粧などと美容本には書かれ、一般の化粧品として市民権を得たのは、高度経済成長期に入った昭和40年代か、もう少し後のことでしょう。江戸時代、化粧やヘアスタイルの流行を発信していたのは遊女や役者といったアウトサイダーでした。

ヘアスタイルのことでいえば、平安中期からずっと垂髪だったものが、江戸時代に結い上げるスタイルが遊女から流行して、上流階級から庶民にまで広まりました。

欧米や中国では宮廷や貴族から流行が始まっていますが、前述したように日本では遊女や役者がファッションリーダーでした。例えば、勝山髷(まげ)という髪型がありますが、承応から明暦(1652057年)にかけて、江戸吉原の遊女勝山が結い始めたといわれます。遊女や役者がファッションリーダーになるというのは、宮廷の王族や貴族から化粧の流行が生み出され、一般に広がっていったヨーロッパとは流れが逆となり、面白い現象です。

流行といっても、西と東とでは違います。現在でも、祇園の舞妓さんと新橋の芸者さんとでは鬢(びん)やたぼの形が違っています。祇園では福髷と呼ばれる、髷が大きくたぼが短い丸い感じの結い方をします。新橋の方は島田で、たぼを長めに取るし、左右への鬢の張り出しも広くします。かつて東西の境界は岡崎といわれ、名古屋は西に属するとされます。

  • 「美艶仙女香」渓斎英泉(1818〜30年 文政ころ)

    「美艶仙女香」渓斎英泉(1818〜30年 文政ころ)
    「志きぶ」という名入りの刷毛を使って、白粉を伸ばす芸者は、髪を「つぶし島田」という髪型に結い上げ、簪(かんざし)、笄(こうがい)、手絡(てがら)といった飾り物を挿している。ちなみに「志きぶ」という刷毛は筆の老舗が売り出して、全国的に有名になったという。提供 :ポーラコレクション

  • 明治末期の東京では、薄肉、中肉、厚肉、上製、両国形、老松形などと呼ばれる数多くの丸髷形があったようだ。丸髷に水色の手絡をかけるのは、既婚女性でも年配の方である。髷の丸みを出すために「丸髷形」という紙でできた型を入れ、形をつくっていた。

    明治末期の東京では、薄肉、中肉、厚肉、上製、両国形、老松形などと呼ばれる数多くの丸髷形があったようだ。丸髷に水色の手絡をかけるのは、既婚女性でも年配の方である。髷の丸みを出すために「丸髷形」という紙でできた型を入れ、形をつくっていた。
    出典:「結うこころ-日本髪の美しさとその型」(ポーラ文化研究所)

  • 『化粧眉作口傳』水嶋流の書(1762年 宝暦12) 江戸時代に成立した礼法の一つ、水嶋流の眉化粧の書。

    『化粧眉作口傳』水嶋流の書(1762年 宝暦12)
    江戸時代に成立した礼法の一つ、水嶋流の眉化粧の書。
    提供:ポーラコレクション

  • 「美艶仙女香」渓斎英泉(1818〜30年 文政ころ)
  • 明治末期の東京では、薄肉、中肉、厚肉、上製、両国形、老松形などと呼ばれる数多くの丸髷形があったようだ。丸髷に水色の手絡をかけるのは、既婚女性でも年配の方である。髷の丸みを出すために「丸髷形」という紙でできた型を入れ、形をつくっていた。
  • 『化粧眉作口傳』水嶋流の書(1762年 宝暦12) 江戸時代に成立した礼法の一つ、水嶋流の眉化粧の書。

色白志向

古今東西、色白がもてはやされたのは、単に美しいというだけではなく、太陽の下で労働をする必要がない階級に属するという、階級意識の延長だと思います。深窓の令嬢はあまり日焼けすることはないように思います。

この階級意識は西洋でも同じで、色白を強調するために、首筋などにブルーペンシルで静脈を描くという手の込んだことまでしました。

日本で長いこと続いてきた色白志向ですが、白粉(おしろい)も紅も控え目にすることが求められました。しかし、江戸より京阪のほうが化粧が濃く、洗髪回数も少なかったそうです。宮廷に近い分、伝統を重んじ保守的だったからでしょう。

白一辺倒だった白粉に色白粉が登場したのは、明治の末ごろからです。当時は肌色とはいわず、肉色などといっていました。紅は紅花からとったものが使われ、抽出量が大変少なかったので高価でした。容器も紅猪口(べにちょこ)などにほんの少し入った紅を大事に大事に使っていました。大正になって本格的に口紅が合成でつくれるようになると、色数も増え、やがてスティック状のものも開発されていきました。顔は白く唇は赤、という画一的な化粧法は、やがて個人の好みや肌合いに合わせて多様化していくのです。

前田美波里さんや夏目雅子さんの化粧品キャンペーンで、真っ黒に日焼けした健康美が流行した時代もありましたが、今また紫外線の害がいわれ出して、再び色白志向になっています。しかし、美白がいわれる一方で、日焼けサロンも相変わらず隆盛ですから、昔と違って多様性があるということでしょう。

大正時代に入って女性の社会進出が進むと、短時間で手際よくできる化粧法、化粧崩れがしない、化粧崩れしたときに手軽に直せる、といった機能が求められるようになりました。夜の手入れは5分から10分、朝の化粧は3分、昼間の化粧直しは1分というような極端なスピード化粧もあったようです。クリームを下地に使って粉白粉をはたくとか、コンパクトに入った白粉は、こうした働く女性の要望で出てきたものといえます。

左:「集女八景洞庭秋月」五渡亭国貞(江戸後期)着物が汚れないように、もろ肌脱いで襟足化粧をする女性。手鏡には三本足の襟足が写っているが江戸では二本といわれた。鏡台の上には、豆絞りの手拭い、白粉溶き、引き出しの中には房楊枝、白粉刷毛、髪飾りの他、伏せてある紅猪口が見える。(ポーラコレクション) 中:「紅つけ」橋口五葉(1920年 大正9)祇園の舞妓が紅を引いている。鬢は後ろに引かれ、髷が丸くて大きい割に、たぼは短くまとめられている。(ポーラコレクション) 右:「新柳二十四時 午後一時」月岡芳年1880年(明治13)新柳は新橋・柳橋のことで、24枚そろいの美人画で芸者の24時間を描いている。鬢の左右への張り出しが広く、たぼ(襟足のすぐ上の部分)が長めに結われている。(ポーラコレクション)

左:「集女八景洞庭秋月」五渡亭国貞(江戸後期)着物が汚れないように、もろ肌脱いで襟足化粧をする女性。手鏡には三本足の襟足が写っているが江戸では二本といわれた。鏡台の上には、豆絞りの手拭い、白粉溶き、引き出しの中には房楊枝、白粉刷毛、髪飾りの他、伏せてある紅猪口が見える。(ポーラコレクション)
中:「紅つけ」橋口五葉(1920年 大正9)祇園の舞妓が紅を引いている。鬢は後ろに引かれ、髷が丸くて大きい割に、たぼは短くまとめられている。(ポーラコレクション)
右:「新柳二十四時 午後一時」月岡芳年1880年(明治13)新柳は新橋・柳橋のことで、24枚そろいの美人画で芸者の24時間を描いている。鬢の左右への張り出しが広く、たぼ(襟足のすぐ上の部分)が長めに結われている。(ポーラコレクション)

水の質を問う

洗顔のときの水の質も、問題にされてきました。『欧米最新美容法』(東京美容院編 1908年 明治41)では、化粧の準備は、顔を洗うことから始まる、といっています。そして熱湯で洗うと気持ちがいいが、皮膚の弾力が失われ皺が早く寄るので、熱湯を使うなら蒸浴にせよ、洗顔には微温湯を用いるように、と勧めています。

『化粧美学』(三須裕著 都新聞出版部 1924年 大正13)には、洗顔と同様、入浴にも軟水を使え、とあります。水の中では一番軟らかい雨水がよい、とも書かれています。水道水でも構わないが、井戸水のような硬水はカルシウム塩を含み、肌がざらざらするしカチカチに乾燥するので、浴槽にひとつかみの炭酸ナトリウムを入れて軟水にするように、と勧めています。軟水を勧める記述は、1911年(明治44)の『あわせ鏡』(藤波芙蓉著 実業之日本社)にも見ることができます。

硬水は肌につけるとスッとするので、用い方によっては重宝がられたこともありますが、やはり肌には軟水がいいとされています。

寒中の雪は清潔水(きよきみず)

寒中の雪という言葉が『都風俗化粧(けわい)伝』(全三巻佐山半七丸著 速水春暁斎画 1813年 文化10)に見られます。寒の中にとった雪を壺に入れ、蓋をしておくと、雪が融けて「清潔水」になるというのです。

この水で白粉を溶くと、夏になってもよく光沢が出て、色白になるし、汗疹(あせも)や湿疹にも効くといっているのみならず、寒中の雪水を笹の葉に注いで四方に振れば、蚊や蠅も退治できるし、調理に使えば煮物も傷みにくくなると、手放しで礼賛しています。これは雑菌の少ない雪からできた水を、質の良い水として評価していて、興味深い記述です。

当時の白粉は「生白粉」「はふに」「京白粉」などと呼ばれる鉛白粉と、「はらや」「伊勢白粉」「軽粉」などといわれた水銀白粉です。鉛白粉は、鉛を酢で蒸し、水にさらしてつくりました。細かい上質なものを生白粉、その次を舞台香、一番粗いものを唐土といって、安白粉と呼ばれるのはこの唐土を指します。

水でよく溶いた白粉を肌に塗り、上から美濃紙などの和紙を載せて、水を含ませた刷毛で掃くと、粉浮きせずにきれいに仕上がります。下地には鬢付け油を塗りました。小鼻の廻りなどには、鬢付け油を丁寧に塗り込んでから白粉を塗ると、汗で流れず化粧崩れがしにくいのです。鬢付け油は、生蝋を植物油で練って香料を混ぜてつくります。油といっても固形で、体温で柔らかくなるタイプの脂です。歌舞伎役者さんは、鉛白粉こそ使っていませんが、今でも鬢付け油を下地に使って化粧しています。

江戸時代の洗顔などには、糠袋で優しくこすって落としていました。木綿で袋を縫って中に糠を詰め、桶に溜めた湯の中でもみ出して、糠の成分がにじみ出た袋で肌をこすって使います。化粧落としと同時に、クリームの役割も果たしていました。糠袋を使うと、肌がしっとりとして大変いい具合になります。江戸時代に庶民にも化粧が普及したとはいえ、特別の日以外はあまり白粉はつけませんでした。

左:「婦人たしなみ草」香蝶楼国貞(1847年 弘化4)右:白粉三段重と刷毛、白粉包み。(ポーラコレクション)

左:「婦人たしなみ草」香蝶楼国貞(1847年 弘化4) 着物が汚れないように肩掛けをして、足下には元結(もとゆい)、梳き櫛、鬢付け油、握りばさみなどが見られる。髪を洗うには、湯にふのりを浸し、小麦粉を混ぜて熱いうちに髪に擦りつけてから、よく揉んで洗った。 提供:ポーラコレクション
右:白粉三段重と刷毛、白粉包み。白粉三段重は、白粉を入れて仕舞っておくだけでなく、白粉を水で溶くのに用いられた。色柄も凝ったものが多く、白粉用と知らないと、食器に使ったと勘違いするような大きさと形である。 提供:ポーラコレクション

肌に目覚めた明治

鉛や水銀でつくられる白粉は、日本では明治時代まで続きました。どちらも身体に害があるといって、徐々に製造中止になっていきます。

維新直後の鹿鳴館時代には、西洋からきた高級化粧品が、富裕層にもてはやされました。洋行帰りのおみやげとして、日本に持ち込まれたそれらの化粧品、化粧法が、洋装と相乗効果となって急速に普及していきます。

近代になると、化粧への意識が目覚ましくなり、想像以上に美の追求が進んでいたことに驚かされます。白粉、紅のいわゆる修正化粧が中心だった時代から、肌に目覚めていったのも明治末ごろのことで、肌への注目は、皆さんが想像されるよりも早い時期から始まっているのです。

1905年(明治38)には、美顔術という言葉が登場しました。有名なのは遠藤波津子さんが始められたもので、銀座に我が国初の美顔術を提唱する「理容館」を開業しています。もちろん、こうしたサロンに通えるのは、富裕層に限られていて、一般市民にまで普及するのは高度経済成長を待たなくてはなりません。

当研究所で、明治末年に生まれた方の初化粧のアンケート調査をしたことがあります。実際に経験したのは大正時代ですが、お母さまから明治のことも聞いておられるので、近代の化粧意識を探るには参考になる内容です。

意外なことに、化粧は女性のたしなみ、身だしなみとして行なっていた方だけでなく、あまり化粧はしないという方もいました。当時でさえ、生まれた階層や背景で、化粧への思いも違っていたということがわかります。

気持ちのリフレッシュは、男性にも有効

化粧というと狭義の化粧、白粉、紅を連想しますが、本来化粧はけわいと呼ばれ、身だしなみや足運びに至るまでの全般を指していましたから、女性だけの専売特許ではなかったはずです。平安時代には貴族階級の男性も化粧をしましたし、江戸時代でも男子の公家などはお歯黒や眉化粧をしていましたから、時代によってはメイキャップも女性だけのものではなかったのです。

現代でも、男性エステを一度体験されると、その心地よさでリピーターになるという話を聞きます。ただ皮脂は男性ホルモンの働きによって分泌されるため、閉経後の女性の場合と違って、男性では一気に皮脂分泌量が落ちることはありません。

また、紫外線などの外部からの刺激をブロックすることは、男女を問わず肌の老化防止に必要なことですし、マッサージで血液の循環をよくすると気持ちがリフレッシュしますから、男性もスキンケアにもっと関心を持っていいと思います。

これからの化粧品

皆さんが化粧品を買うときには、どこに行かれるでしょうか。デパートに行って高級品を買えば、販売員が個別対応してくれて、中には自分の肌色に合わせてカスタムメイドのファンデーションをつくってくれるところもあります。

片やスーパー、コンビニエンスストアでは、気軽に自分で選ぶことができます。通信販売も盛んですね。このように、消費者の選択肢は、かつてないほど広がっています。また、女性誌やインターネットでは、溢れんばかりの情報が提供されていて、消費者の持つ化粧品の知識はプロ顔負けです。

好みや肌環境がそれぞれ多様化していく中、化粧法や化粧品が変わっても、みずみずしい肌を保ちたいと願う気持ちや、装うことの華やぎは、人が社会の中で生きる限り変わることがないと思います。



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