機関誌『水の文化』23号
水商売の理(ことわり)

渇水地における水道ビジネスの難しさ
節水の意味を問い直す 香川県高松市

香川県の水瓶、早明浦ダム(高知県)

香川県の水瓶、早明浦ダム(高知県)



高松市水道局

昨年(2005年)の夏は全国的に暑かった。四国地方でも降水量は少なく、四国の水ガメ早明浦ダム(高知県)の貯水量は日を追って減少していった。6月時点では「この夏は平成六年以来の渇水になる可能性がある」とニュースで報じられるに至った。

早明浦ダムの貯水率は7月2日に22.8%にまで下がり、その後一旦52.6%まで持ち直したが、雨は以前と少ない。そして、ついに8月19日に貯水率0%となったのである。

高松市水道局は、香川用水で早明浦ダムから水を「仕入れている」(正確に言うと、香川用水から取水した県営水道から、高松市が水を買っていた)。高松市民は、香川用水に水を頼って暮らしているのだ。市民は1994年(平成6)の渇水、すなわち平六渇水のつらい記憶が頭をかすめたに違いない。

1994年6月はほとんど雨が降らず、6月29日から始まった給水制限は139日間にも及んだ。7月15日〜8月15日の間は16時〜21時の時間給水に追い込まれた。

そんな平六渇水の記憶をもった市民たちだ。昨年もさぞかし市民は危機感を抱いていたのではないかと思い、まずは現地を歩いてみようと、編集部は昨年9月3日に高松に入った。

確かにホテルには節水を促す貼り紙がしてあるが、断水もなく、市民の危機感は感じられなかった。

そして、翌々日の9月5日には台風14号が襲来し、それまで0%だった貯水率が一夜にして100%になるほどの記録的豪雨がもたらされ、早明浦ダム取水制限も解除されたのだ。もしダムが満水なら、おそらく下流の徳島では水害が起きていてもおかしくなかったかもしれないが、それは余談である。

とにかく、高松市民は断水もなく、渇水を余裕で乗り切ったように見える。

高松市の水道は渇水に強くなったのか? この点を調べてみると、意外な事実が浮かび上がってきた。

高松市の水道は香川用水に依存していた

高松市水道局経営企画課の釜野清信さん、山本充英さんは、1973年(昭和48)渇水のことから高松の水事情について話してくれた。

「高松市は瀬戸内海に面しており、年間降水量が1100mm程度と少なく、水源となる山地も少ない土地柄です。そのため毎年のように渇水が起きていました。

全国1位に数えられる溜め池密度は、そうした水不足と闘った先人の苦労の結晶ということができます。

昭和48年は、空梅雨で田植え時期にも雨が降りませんでした。折しもどんどん人口が増えている時代でしたし、たいへん水が逼迫しました。エレベーターのない集合住宅が、当時はかなりありましたから、バケツにロープをくくりつけて水を引っ張り上げるのに自衛隊に協力してもらったほど、惨憺たるものでした」

このときは結局63日間の給水制限をせざるを得ず、「高松砂漠」と呼ばれた渇水となった。

毎年のように起きる渇水に何とか対処できないか、という悲願の末につくられたのが香川用水だ。吉野川総合開発の一貫としてつくられたもので、1974年(昭和49)に通水した。吉野川上流に早明浦ダム(高知県)をつくり、その水を池田ダム(徳島県)の手前から阿讃山脈の下を堀り抜いたトンネルで導水し、香川県に引かれている。

農業用水として造られているので、都市部の利用にはいろいろと制約があるのだが、とにかく、この用水ができたおかげで「もう渇水が起きても、心配ない」とばかりに、埋められた溜め池や井戸があるほどだ。それほど、期待の用水だった。

平六渇水当時、高松市水道局は、香川用水に約65%を依存していた。そこに、渇水が到来したのだ。

高松市水道局経営企画課の釜野清信さん(右)と、山本充英さん

  • 高松市水道局経営企画課の釜野清信さん(右)と、山本充英さん

    高松市水道局経営企画課の釜野清信さん(右)と、山本充英さん

  • 香川用水の取水口の1.8km下流にある池田ダム(徳島県)。

    香川用水の取水口の1.8km下流にある池田ダム(徳島県)。左の写真は導水トンネルの出口。香川用水の記念公園が併設されている。

  • 高松市水道局経営企画課の釜野清信さん(右)と、山本充英さん
  • 香川用水の取水口の1.8km下流にある池田ダム(徳島県)。

平六渇水の経験は何を変えたか

平成6年も、昭和48年渇水と同様、6月に雨が降らず空梅雨となり、早明浦ダムも完成以来初めて利水量がゼロを記録した。

6月は田植えの時期だ。この時期は農家の水需要が最も高まるときで、香川用水から農家に給水される。もちろん、この年は渇水が予想されたことから、香川用水管理組合としても農業用水を節約して都市部に水を融通できるようにしている(この時の経緯は長町博『近代的水利施設と伝統的水利用-平六渇水の経験から』山崎農業研究所編、『21世紀水危機』農山漁村文化協会 2003にくわしい)。

しかし、全体量が限られているだけに、高松市水道局としてはどうしても利用の自由度が制約される。

このときも、6月29日から始まった給水制限は11月14日に解除されるまで、実に139日間(断水期間69日)に及び、夏場は5時間給水に追い込まれた。

「あのときは断水の間、市内37カ所の学校の校庭に応急給水所を設け、職員が2名の交代で4名、朝6時から夜10時ぐらいまで張りつきました」

と、釜野さんは語る。

渇水対策の要となるはずだった香川用水ができても、このような状況に追い込まれるに至って、高松市としては、少しでも渇水リスクを分散できないかと考えた。

まずは、自己水源を増強することだ。香川用水頼み、つまり早明浦ダム頼みではあまりにもリスクが高すぎるのだ。

そこで、3つの既設浄水場を整備するなどして、自己水源を増強した。それにより、高松市の香川用水依存率は50%程度にまで下げることができたのだった。

この他にも、配水池や井戸掘削、下水道再生水の公共用水への利用、雨水タンク設置や排水再利用施設などへの助成などを進め、まずは水源を分散・増強し、節水を着々と進めてきたのである。

しかし、高松市は2005年(平成17)9月26日に塩江町と、翌年1月10日には、牟礼町、庵治町、香川町、香南町、国分寺町の6町と合併、人口33万6000人から42万人を擁する新高松市に生まれ変わった。合併した町の中には香川用水に100%頼っているところが多く、新高松市の香川用水依存率は再び上がることになってしまったのだ。

  • 早明浦ダムの奥深く、渇水で干上がった湖底にみえる旧大川村役場。

    早明浦ダムの奥深く、渇水で干上がった湖底にみえる旧大川村役場。

  • 早明浦ダムの奥深く、渇水で干上がった湖底にみえる旧大川村役場。

    早明浦ダムの奥深く、渇水で干上がった湖底にみえる旧大川村役場。

  • 早明浦ダムの奥深く、渇水で干上がった湖底にみえる旧大川村役場。
  • 早明浦ダムの奥深く、渇水で干上がった湖底にみえる旧大川村役場。

平成17年渇水?

さて、2005年(平成17)である。このときも3月から8月の降雨量は、平年の57%しかなかった。早明浦ダムはカラカラになってしまったが、実は、阿讃山脈を越えた瀬戸内海側、香川県の自己水源域では7月上旬にそれなりの降雨があり、平年並みの貯水量を回復していた。お蔭で6月の田植え時点で困ることもなかった。

渇水が問題化したのは、田植えの後からだった。水道局では今までの経験を踏まえ、今回は「断水のない渇水対応」を合言葉に、市民による自主減圧を押し進めることにした。断水にすると、通水後に濁り水が出るために、せっかくの節水分が濁り水の放水でほとんど無駄になってしまうことを、今までの経験でわかっていたのである。

自主減圧とは、止水栓を調整することで、通常よりも送水を1〜2割少なくすること。各利用者に、検針メーターの手前にある止水栓をいったん閉めてから、2回転分開けてもらう。そうすると、利用者にとってはちょっと水の出が悪くなった程度しか感じないで節水することができるのだ。自主減圧の実施により、平常時水量の約17%、2万2000tの節水に成功したのだった。

この結果、断水もなく、減圧給水だけで2005年(平成17)は乗り切ることができた。これが表面的には市民に危機感を感じさせない理由だったのだ。

  • 満濃池(香川県)。右が2005年の渇水期、左が2006年の満水時。

    満濃池(香川県)。2005年の渇水期。
    満濃池は、文武天皇の大宝年間(約1300年前)に丸亀平野を潤す溜め池として築かれた。周囲約20km、全国最大という規模。大水のたびに決壊が繰り返され、復旧のため弘仁12年(821年)空海が別当として派遣される。長安滞在中に得た新たな技術によって難工事が成し遂げられた、と今に伝えられている。

  • 満濃池(香川県)。右が2005年の渇水期、左が2006年の満水時。

    満濃池(香川県)。2006年の満水時。
    満濃池は、文武天皇の大宝年間(約1300年前)に丸亀平野を潤す溜め池として築かれた。周囲約20km、全国最大という規模。大水のたびに決壊が繰り返され、復旧のため弘仁12年(821年)空海が別当として派遣される。長安滞在中に得た新たな技術によって難工事が成し遂げられた、と今に伝えられている。

  • 豊稔池ダム(香川県)。現存する日本最古の石積式マルチプルアーチダム。

    豊稔池ダム(香川県)。現存する日本最古の石積式マルチプルアーチダム。多連式アーチダムとしては全国に2つの内の1つ。1997年に国の登録有形文化財(土木構造物)に登録された。度重なる大干ばつへの対策として1926年(大正15)に着工され、1930年(昭和5)に完成。地元住民延べ15万人による人海戦術により、約4年で完成された。

  • 満濃池(香川県)。右が2005年の渇水期、左が2006年の満水時。
  • 満濃池(香川県)。右が2005年の渇水期、左が2006年の満水時。
  • 豊稔池ダム(香川県)。現存する日本最古の石積式マルチプルアーチダム。

自主減圧が戻らない

ここまでならば、渇水を乗り切った高松市水道局と市民の成功談だ。興味深いのは、実はここからである。

今年になって、地元新聞に「自主減圧続く、給水量が戻らない」と掲載されたのである。渇水時に市民が自主的に閉めたバルブが、渇水が過ぎ去った後も戻されずに、市民はそのままの水量で利用しているというのである。

この結果、現在でも給水量が約1割以上減少して戻らないまま、料金収入の減少となってはね返っているのである。

つまり、利用者は昨年の夏に「渇水だから」という理由で、自主減圧をした。その結果、多少圧力は下がったのだろうが、実は家庭生活にそれほど支障がなかったため、わざわざバルブを開ける必要もないと考えているのだろう。

さて、これを「節水意識の定着」と呼んでもいいものだろうか。

節水とは、必要な水をあえてやりくりして水を節約することだ。

しかし、この場合、自主減圧前の水量が利用者にとって多少多すぎたのかもしれない。

自主減圧をしてみて初めて「これでも支障なく生活できるじゃないか」と気がついたのだ。これは、自分が余計に水を使っていたことに気がついたということでもある。

とはいえ、この自主減圧という水道局の努力が無ければこの気づきは無かったわけで、渇水地の水道局にとって「節水」は進めなければならないが、進めすぎると料金収入が減るという、痛しかゆしの結果を引き起こしている。

これからも渇水は起きるのか

経済成長期には、毎年のように渇水が起きた。そして、今後も天候の不安定が予想されることから、渇水そのものは起きるに違いない。

しかし、実際の水利用量は人口動向や景気で変わる。そう考えると、少子化が進み、節水意識が高まった現代に、水需要が上向くことは考えられないだろう。したがって、今後は高松市の水道にも余裕が生まれ、渇水に強い水道に生まれ変るのではないだろうか。

ただ、それでももしもの備えは必要でもある。自己水源が半分までになったとはいえ、高松市水道局にとって、香川用水は生命線といっても過言ではない。その香川用水の水は、利用されなければ、そのまま海に流れ去ってしまう。その水を溜めておこうということで、香川県では今300万tの水を貯水できる水道専用の調整池をつくろうとしている。これは、香川県民が2週間持ちこたえられる量だという。

水需要は横ばいでも、節水をPRし、貯水池を整備し渇水安全度を高めなくてはならない。ここに、渇水と常に向き合わざるを得ない地域ならではの水道局ビジネスの難しさがある。

【『節水型都市たかまつ』を目指して
雨水利用に取り組む高松市水道管理課】

高松市で節水に取り組んできたのは水道局だけではない。下水道管理課は、1997年(平成9)から具体的な助成制度を施行して雨水利用を促進している。また、香川県の企画部水資源対策課は「節水型街づくり推進協議会」を立ち上げ、小規模雑用水の有効利用を訴えている。高松市土木部下水道管理課の大谷光男さんにお話をうかがった。

浄化槽を貯水タンクに

高松市では、下水道整備によって使わなくなった浄化槽を、雨水貯留槽に転用することに助成している。下水道が敷設され不要になった浄化槽の有効利用である。実施件数はまだわずかであるが、その累積貯留量は着実に増えてきている。節水意識が一般家庭において静かに広がっているのだろう。

また雨水の貯留施設の設置や雨水浸透施設に対しても設置助成をしており、下水道管理課が担当している。

これらの取り組みは、節水と併せて雨水の有効利用を図り、節水型都市づくりを進めたいという高松市としての希望が反映されている。

  • 雨水利用助成による水の累積総量

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  • 浄化槽くんガンバルの物語

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