機関誌『水の文化』35号
アクアツーリズム

《熊本の水循環》

古賀 邦雄さん

水・河川・湖沼関係文献研究会
古賀 邦雄 (こが くにお)さん

1967年西南学院大学卒業。水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)に入社。30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集。2001年退職し現在、日本河川開発調査会筑後川水問題研究会に所属。
2008年5月に収集した書籍を所蔵する「古賀河川図書館」を開設。

夏目漱石は29歳のとき、第五高等学校教授として熊本に赴任した。桃山様式の回遊式庭園や江津湖周辺の散策を楽しんだことであろう。漱石は水前寺公園の水景を眺め〈湧くからに流るゝからに春の水〉の句を残し、また高浜年尾は〈江津の水浮藻を流し止まざりし〉と詠んだ。熊本県はいたる処で湧水に遭遇する。阿蘇山に降った雨は地下水となり、やがて伏流水として表われる。豊かな地下水を涵養する九州山地の広葉樹林帯を有する熊本県は、水源地や湧水群の宝庫である。肥後は「火の国」と言われるが「水の国」でもある。昭和60年選定、昭和の名水に轟渓流、白川水源、菊池水源、池山水源が選ばれ、日本の水をきれいにする会編『平成の名水百選』(ぎようせい 2009)には、水前寺江津湖湧水群、金峰山湧水群、南阿蘇村湧水群、六嘉湧水群・浮島の4地点が掲載されている。名水の書として、田中伸廣著『阿蘇山と水』(一の宮町 2000)、熊本日日新聞社編・発行『熊本の名水』(1998)、同『くまもと水と緑の百景』(1986)がある。嘉島町下六嘉の六嘉湧水群の中に、縦25m、横20m、7コースの天然プールがある。ローマオリンピック100m背泳ぎで銅メダルを獲得した田中聡子さんは、中学時代この湧水天然プールで練習を重ねた。阿蘇の湧水がオリンピック水泳選手を育てたといえる。

数ある名水のなかで上益城郡御船町田代の吉無田(よしむた)水源を取り上げてみる。阿蘇外輪山の裾野にある水源で、吉無田の国有林地の伏流水と地下水が一緒になり湧水となっている。周囲に茂っている大木は、文化12年(1815)に当時の細川藩山支配役が、水不足解消の一大植林事業を興し、杉や檜などがうっそうと林立し、水を蓄え、それが八勢(やせ)川に注ぎ、農業用水に利用され、村の人々の暮らしを助けた。200年経た今でも役立っている。湧水量は一日当たり約1.3万t、水温14℃(水温は湧水地の温度と同じだという)、水質も良く多くの人が水汲みに訪れる。水源のそばには、道を隔てて「水神社」と「山神社」が祀られてあり、さきに「水神社」にお参りして、湧水を戴き、帰りには「山神社」にお礼をするという。

熊本の湧泉研究会編『水は伝える 熊本の湧泉』(熊本電波工業高等専門学校出版会 2004)は、1984年から9年をかけて、県下の自然の湧水を対象とした調査研究書である。調査湧水は1333カ所で、調査項目は、湧水にまつわる伝説・伝承、行事・風習、湧水の呼称の由来、利用現況、水質分析となっている。この調査では、お寺や神社以外に、多くの個人の家庭で使われている湧水も紹介されており、日常の生活用水に重宝されていることもわかる。水を使って、水を守る精神が生きている。

ここで、熊本県の河川の姿を追ってみたい。熊本県は九州地方のほぼ中央に位置し、人口は182万人を擁し、面積は7405km2、その内訳は森林62.7%、農用地17.2%、宅地4.8%、道路3.8 %、水路・河川2.7%、原野0.1%、その他8.7%となっている。熊本県の北東部には、世界的なカルデラを持つ阿蘇山、南部には九州山地が広がり、これらの山地を水源とする菊池川、白川、緑川、球磨川は、それぞれほぼ東から西へ向かって流れ、有明海と八代海に注ぐ。八代海を挟んで天草諸島が連なる。気候は内陸山地と海岸ではかなり違うが、全体的に温暖多雨で寒暑の差は大きい。阿蘇の外輪山の渓流を集め、菊池渓谷を下り菊池平野を潤し、有明海に注ぐ菊池川、阿蘇根子岳に源を発し、豊富な湧水を集めて南郷谷を流れ、阿蘇谷を下ってきた黒川と合流し、熊本市を流下し有明海に注ぐ白川、熊本県のほぼ中央部を東西に横断して有明海に注ぐ緑川、九州山地を水源として人吉盆地、八代平野を流れ八代海に注ぐ球磨川の四つの河川である。

江戸初期に、加藤清正はこれらの四つの河川に対し、治水と利水事業を行ない、現在の熊本の町を形成した。清正は慶長12年(1607)熊本城を築き、その城や町を守るために、白川を付け替え、水門、堰を造り、土砂の流入を防ぐために、白川と坪井川を分離させ、洪水を減災させ、また坪井川には城を防禦する堀の役割をもたせ、舟運にも役立つように改修した。城内には120基の井戸を掘り、食用のための銀杏を植えた。白川での治水、利水技術は堰を造り、その堰からの灌漑用水路には「鼻ぐり」という工法を用い、水勢で土砂が用水路に溜まらないように工夫されている。白川の下流には石塘(ども)、石塘堰、二本木堰を築き、水量調節や水田保護を図った。菊池川では、河口玉名の干拓、横島小島石塘、唐人川改修、くつわ塘8カ所、船着場の工事を行なった。さらに緑川では、鵜の瀬堰の施工、御船川の付け替え、六門わんど(流土の沈降池)、杉島どんと(石造りの直線水路)、たんたん落とし(乗越堤)、清正堤を築いた。球磨川では遥拝堰を造った。清正はこれらの工事従事者には男女の区別なく米や給金を支払い、労働時間を厳守させたという。清正の事業については、熊本城跡保存会編・発行『加藤清正の土木治水』(1936)、中野嘉太郎著『復刻版加藤清正伝』(青潮社 1979)、矢野四年生著『加藤清正-治水編』(清水弘文堂 1991)、谷川健一編『加藤清正-築城と治水』(冨山房インターナショナル 2006)、熊本工事事務所編・発行『加藤清正の川づくり・まちづくり』(1995)に詳しく論じる。

  • 『熊本の名水』

    『熊本の名水』

  • 『加藤清正の川づくり・まちづくり』

    『加藤清正の川づくり・まちづくり』

  • 『熊本の名水』
  • 『加藤清正の川づくり・まちづくり』


中世から近世に向かって、河川舟運が最も発達した時代であり、次のような書が刊行されている。それは、熊本県教育委員会編・発行『熊本県歴史の道調査-菊池川水運』(1987)、同『熊本県歴史の道調査-菊池川水運・資料編』(1987)、同『熊本県歴史の道調査-緑川水運』(1989)、同『熊本県歴史の道調査-球磨川』(1988)の書である。菊池川の高瀬湊、緑川の河口川尻湊は米や小麦の物資輸送で賑わった。肥後米は有明海、瀬戸内海を通して大坂の米蔵に運ばれた。

清正は坪井川と白川を分離し治水対策を行なったにもかかわらず、その後もたびたび水害は起こった。1953年6月、西日本を襲った豪雨は白川を氾濫させ、熊本市内に大災害を及ぼした。白川の流路が洪水のため旧河川に流れ込んだ。総降水量は阿蘇黒川で880mmを超え、熊本市でも600mm近い記録的な豪雨で阿蘇の山肌は削りとられ、火山灰を含んだ泥水が市街地を埋めつくした。この未曾有の災害について、熊本工事事務所編・発行『濁流の中から昭和28年6月26日白川大水害体験記』(1995)、熊本日日新聞社編・発行『6.26白川水害50年』(2003)にその惨事を映し出す。この災害を機に白川は河川改修が進んだ。なお、坪井川については、柿本竜治編『坪井川とともにくらす』(成文堂 2007)がある。

  • 『熊本県歴史の道調査-菊池川水運』

    『熊本県歴史の道調査-菊池川水運』

  • 『6.26白川水害50年』

    『6.26白川水害50年』

  • 『熊本県歴史の道調査-菊池川水運』
  • 『6.26白川水害50年』


このように白川は、ときには流域の人々に害を及ぼすが、古来から農業用水の役割を担ってきたことはいうまでもない。そして、その水は還元されて下流域の熊本市における豊富で清浄な湧水をもたらし、水前寺・江津湖・浮島などの湧泉も地下水バイパスを通じて表れ、それがまた熊本市民の水道水として供されている。このことを指摘するのは、柴崎達雄編著『農を守って水を守る-新しい地下水の社会学』(築地書館 2004)である。大津町上井手堰、下井手堰で取水された白川の水は、白川中流域の灌漑用水として使われる。ここの水田はザル田であって、普通の水田の減水深は30mmほどであるが、110mm程にのぼる。この水量は地下水涵養となって、地下水バイパスを通じて、砥川溶岩分布域の健軍・庄口水源地、江津湖、秋田水源地、浮島などに湧き出てくる。清正によって開発された人工の地下水流である。清正によって開田された白川中流域(大津町・菊陽町)にある約1500haの水田で使用された水、すなわち熊本の飲料・生活用水の100%をまかなう地下水は、そこからの浸透水であることが判明した。水田における使用水量が熊本市民の命の水を左右することになる。現在減反政策により、地下水涵養量の減少が生じたため、その対策として、湛水面積をなるべく減少させない営農方式として、飼料イネの導入、ニンジン畑の湛水(水張り)が行なわれている。

  • 『農を守って水を守る-新しい地下水の社会学』

    『農を守って水を守る-新しい地下水の社会学』

  • 『熊本市水道80年史』

    『熊本市水道80年史』

  • 『農を守って水を守る-新しい地下水の社会学』
  • 『熊本市水道80年史』


熊本の水道は100%地下水でまかなわれているが、熊本市水道局編・発行『熊本市水道80年史』(2007)をひも解けば、その地下水の確保は苦労の連続であったことが記されている。その恵まれた地下水は産業の発展に伴い次第に汚染が拡がり、過剰汲み上げの結果、水の減少をきたしている。くまもとの地下水を考える会編・発行『地下水からの警告-市民がつくった地下水の本』(1990)、朝日新聞熊本支局編『水は救えるか』(葦書房 1989)は、熊本の水の汚染、枯渇の実態とその対策に迫っている。昭和51年3月熊本市議会は、次のような地下水保全都市宣言を行なった。「わが熊本市は豊かな緑と清冽な地下水に恵まれた自然の下生成発展を遂げて来たが、今日における無秩序な地下水の開発と自然環境の破壊は、今や地下水の汚染をはじめその枯渇さえ憂慮される状態にある。よって、本議会は市民の総意を結集して自然環境の回復、保全をはかり、貴重な水資源を後世まで守り伝えていくことを誓い、ここにわが熊本市を地下水保全都市とすることを宣言する」。そして熊本市地下水保全条例を制定した。熊本県保険医協会編『くまもと水防人(さきもり)物語』(槙書房 1998)、熊本市環境保全局編・発行『くまもと「水」検定公式テキストブック』(2008)の書は、日本一地下水都市熊本をアピールするとともに、熊本市民の手によって、森と川と海の地下水を含んだ水の循環システムの健全化と永続性を図り、その行動を強調する。

終わりに、熊本における農業水利として、本田彰男著『肥後農業水利史』(熊本県土地改良事業団体連合会 1970)、熊本県編・発行『熊本県農業水利誌』(1974)、『砥用東部土地改良区史』(1976)、高田素次編・著『百太郎溝史』(百太郎溝土地改良区 1993)、幸野溝土地改良区編・発行『復刻 幸野溝』(1996)、矢部町・通潤地区土地改良区編・発行『通潤橋架橋150周年記念誌』(2004)を挙げる。

  • 『くまもと「水」検定公式テキストブック』

    『くまもと「水」検定公式テキストブック』

  • 『通潤橋架橋150周年記念誌』

    『通潤橋架橋150周年記念誌』

  • 『くまもと「水」検定公式テキストブック』
  • 『通潤橋架橋150周年記念誌』


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