機関誌『水の文化』36号
愛知用水50年

流域を見据えて

いろいろあったけれど、王滝村は立ち直る目処が立ちました。 これからの課題は、人づくり。王滝村と瀬戸村長の新たな挑戦は続きます。

瀬戸 普さん

長野県木曽郡王滝村村長
瀬戸 普 (せと ひろし)さん

1949年、長野県木曽郡王滝村生まれ。

ダムができて

谷あいの村で耕地が非常に少ない王滝村にとって、ダムができたのは、耕地面積でいうと3分の1に当たるんです。村外移住もあって、人口もだいぶ減りました。それで、残った人間はどう生きていくか、ということになりました。

正確を期すために、村史から当時の記録を確認しておきました。村への補償が、4年間で2億1000万円。これは補償金としてではなく、残村対策として4年間という限られた期間内に事業が行なわれた場合に、上限で2億1000万円が支払われるというもの。

道路や水道といったインフラ整備や診療所の開設などを村として行ない、7割がたが御嶽山方面の道路整備にあてられました。村の拠って立つ方法は観光しかない、という考えに基づいてやったことです。

林業雇用の減少

村の面積は名古屋市より少し小さいぐらいで、とても広い。90%近くが国有林です。以前は国有林野に働いている人間は500人。家族を含めると1200人でした。

つまり、今の村の総人口より多い。ところが国有林の事業自体がどんどん縮小して、日本一の売り上げを誇る営林署でありながら撤退させられ、木曽森林管理署管轄の王滝事務所になってしまった。だから今は、20人を切るぐらいになりました。

王滝村は、本来、山の仕事があってなんぼの村なんですよ。1975年(昭和50)以降の国有林の事業縮小は、村の経営にものすごく響いています。そうは言っても、ここから持っていく木は長野県内でも最も単価が高い良材なんで、大事な山だということには変わりないと思いますよ。

良材はもうない、ないと言いながら、まだある。聞いた話じゃ、今年の初市で出た材はヘリ集材(ヘリコプターを使った集材)した檜に1185万円の値がついた、といいます。12mでですよ。素性がいいということですよね。12mの材で1185万円ですから、製材して最終製品になったときには幾らになっていることか。恐ろしくなりますね。

合併してしまったから、森林作業に近場の人を雇用することが難しくなっています。王滝村の森林の作業に、木曽のほかの地域に住んでいる人が来てやっている状態。雇用につながらないんですね。

だから山奥の人間がいらなくなって、麓に住んで上がってくればいい。そんならいっそ「廃村にしてどこかに引っ越せ」と言ってくれたほうがスッキリするなあ、という気分にもなりますよ。

以前から尾張の殿様の山であったり、国有林であったりしたわけですから、我々の山や木ではなかった。でも、そこで働くということが有り難かったわけじゃないですか。それもないのは、心情的にもきついです。

1972年(昭和47)ぐらいから皆伐を始めて、植え直したところもありましたが、このごろは放ったらかし。山を見ればわかります。今、育てておかないと、次の100年先、200年先に収穫する材がない。

林野庁では群状伐採といって、100m四方のメッシュで木を伐っていく森林施業が行なわれるようになっています。空から見たら碁盤の目のようになっている。

間伐も人手をかけるのが面倒なので、列状間伐といって列で伐ってしまう。1haの内の30aを間伐するのに列状だろうがなんだろうが一緒、という理屈なんですね。

人手がないから、なんでもありなんです。間伐というのは混んでいる状態を透いてやるのが本来の目的でしょう。こんなことじゃ、山の精が怒るよねえ。こういう考え方が山を壊して、結局は水にしわ寄せがいってしまう。

今、一番問題になっているのが林道です。10tトラックが入る林道の総延長が、この村だけで300kmになんなんとしているんですよ。名古屋から横浜ぐらいの距離。

伐ってもいいんですが、用がなくなった林道は元に戻して木を植えておかないと、雨が降るたびに土色の水が流れ出してくる。それが一気に川に入る。長野県は問題にしていますが、ほかには案外知られていないことです。

東京都がCO2の排出量取引を始めましたよね(温室効果ガス排出総量削減義務と排出量取引制度の導入のこと。削減義務の開始は2010年〈平成22〉4月1日から)。自分のところで出しているCO2を差し引きにするために、山にお金を投資するというものです。ああいう仕組みを木曽川流域でも取り入れてくれれば、森林を守り、水を守ることに役立ちますね。

民有林も30町歩とか40町歩の森林団地をつくるように林野庁から指示が出る。長野県でも森林税というのをつくって、補助制度をやっています。今度はそれを1000町歩単位にしようということを言い出している。しかし、そんな大きな団地はつくれません。

山はいずれにしても放っておいたらダメです。そのことに国も国民も気づき始めてはいます。

村営スキー場

当時は年間100万人の観光客がおいでになるということで、ちょっと鼻が高くなっていて、こんな山の中でも、観光立村と威張ってこれたわけです。若い連中も、結構移住してきましたし。「1000人の村になんであんなに」というぐらい視察もやって来ました。

スキー場は村で独立採算制の公営企業として、運営していました。職員も「冬はスキー場で働けて、村の職員でもある」という安定した身分を確保して、全国から募集しました。多いときには30人近くが働いていました。作業員やバイトを入れれば200人規模で、この村にとっては大企業。雇用面でも経済的にも重要な施設でした。

それが平成に入ってしばらくすると、客足が落ち始めた。原因は東海北陸道の開通でお客さんがそっちに流れたとか、スキーブームが去ったとか言われましたが、私たちの受け入れ態勢の悪さも一因です。調子が良過ぎたもんだから、サービスをするというより、こなしていくようになって丁寧にできなかった。こういうことが徐々に重なって、印象を悪くしていった。

宿のほうも老朽化しても売り上げが落ちているからリニューアルできずに、悪循環が起きていきました。

1998年(平成10)ごろ「お客さんが20万人来ないとペイしない」というところにまで手を広げてしまったのが、とどめを刺しました。2003年(平成15)には、来場者が採算ラインを割ってしまった。スキー場には多いときで66万人の入り込み客を数えていたんですが、今はその1割にも満たない。まだ、減っています。

村営スキー場は2005年(平成17)から、札幌に本社がある加森観光というところに民間委託しました。奇しくも夕張のリゾートも同じ会社が再建に入っています。

牧尾ダムの対岸から見た、王滝村最大の集落上条地区

牧尾ダムの対岸から見た、王滝村最大の集落上条地区。雲がかかっているのが霊峰、御嶽山。

出直し選挙

スキー場がダメになったときに、一般会計はまだ余裕があって17億円ぐらい基金があったから回してやればよかったんですが、それはタブー視された。

この辺から牧尾ダムの堆砂事業が始まって、7億円ぐらいだったですか補償金をいただいて、一息つきました。

この時期に平成の大合併が起きます。木曽郡の中の11町村で市をつくろうといったんですが、どんどん頓挫して最後は5町村で合併することになった。このときうちの村だけ置いていかれたんです。

「借金があるから嫌だよ」と言われて、それで困った。さあ、どうする? ということになって、再建への取り組みを始めた。1000人の村で63億円の借金というのは、日本で有数の借金自治体らしかったです。

そんな状況で、なんで私が村長になったかというと、一度は落選したんですよ。前村長の小林正美さんと私と前村議だったもう一人の三人が村長選に立候補した。スキー場民営化という同じ公約を掲げましたが、小林さんと私では、中身が違った。ただ、そのことをうまく伝えられなくて私は落選しているんです。

村議会と村長は、合併話がご破算になって財政再建団体になるのも止むなし、という覚悟をしたのですが、村の皆さんはそんなことは知らなかったので「えっ!」ということになった。行政への不信感が出て、村民が議会に解散請求を出したら通ってしまった。これは日本でも珍しい例だそうです。

リコールされた議会、旧勢力側は「借金なんて何とかなるよ」とたかをくくっていた。正直に言うと、私もそっちのほうの人間だったわけなんですが。

一方、議会に解散請求を出した人たちは熱心に活動したし、主張していることも正しいものだから、旧勢力側の村民の中にも、新しい人たちに賛成する人が増えていったんです。だからこそ、議会解散請求が通った。こういう保守的な地域では、珍しいことでしょう。

それで出直し選挙をしました。リコールされたときのメンバーは1人も立候補しませんでしたから、議会は全員新しい人になりました。

リコールされた連中も、もう一度立候補すればよかったんですよ。落選してもいいから。ところが「やれるもんならやってみろ」と蹴っ飛ばしてしまった。

そうしたら結構うまくいってしまった。4年間やってみて、何とかお金が返せる状況になってきたんですね。だから村内の人間関係がおかしくなるということはなかった。もちろん、旧勢力側には忸怩(じくじ)たる思いはあると思いますよ。

リコール選挙当時、村長は私の前任者の小林正美さんでしたが、新しくなった議会とことごとく対立したので辞職しました。

そのあとに立候補したのは実は私のいとこなんですが、リコールされた議会側の勢力のほうが強い村でやっていくのは難しいだろうと思い、再度私も立候補したのです。

財政再建への取り組み

小泉純一郎内閣の〈三位一体改革〉(注1)で地方交付税が削られたのが一番痛かった。王滝村の場合、13億円が6億8000万円ぐらいまで減らされ、4割減でした。

2006年度(平成18)には10年を見据えて、村の財政再生計画を立てました。民主党がやっている事業仕分けの先駆けをやりました。王滝村でも4000項目の事業をすべてチェックし、その内の117項目を廃止したり、減額したりしています。

診療所の歯科の廃止などのほか、70人いた職員を現在の43人にまで削減。給料も25%カットしたので、4年に1年はただ働き。日本で一番給料の安い自治体職員というレッテルを貼られた。今もまだ5%カットが続いています。道路の補修もお金がないので10年間はできないよ、と。でもこれは、昨年、自民党が提案した緊急経済対策の支援を受けて助かりました。

もう一つは〈森と緑のふるさと基金〉という寄付をお願いしました。御嶽山にお参りに来るお客さんと、愛知用水の下流域の方々を中心に発信させていただきました。特に愛知県の皆さんは、ビックリするぐらい寄付をくださいます。本当に有り難いことです。これらのお金は森林の間伐に使っています。間伐をしないと、森林の保水力も維持できませんし、山が荒れてしまいます。

それと豊明市、日進市、東郷町、長久手町、みよし市に水道を給水している愛知中部水道企業団では、木曽広域連合と協定を結んで、水源地の山を手入れするために水道水1m3につき1円を集めています。その基金を使って、毎年800haぐらいの森林の間伐が行なわれています。

(注1)三位一体改革(さんみいったいかいかく)
2001年に成立した自由民主党の小泉純一郎内閣における聖域なき構造改革の「目玉」として、小さな政府論を具現化する政策として推進された。「国庫補助負担金の廃止・縮減」「税財源の移譲」「地方交付税の一体的な見直し」をいう。2002年6月に閣議決定された「骨太の方針2002」において初めて使用される。

水でつながる関係

借金返済の目処は立った。でも、問題はこれからなんですよ。この地域をどうしていくか。人口も減っていますし、雇用もない。スキー場も規模が縮小していますし。

王滝村でも、何か、特産物がつくれないかなあ、と思って、半田市長の榊原純夫さんにも赤かぶの件でお世話になったのですが、事業としてやるには規模が合わない。ショックを受けて帰ってきました。ただ、そういうことがわかっただけでも価値がありました。こういう風に、水でつながっているご縁を大事にさせてもらっています。

半田市さんは、王滝村に年に60万円寄付してくれています。すごい決断ですよね。今年で5年目です。これのすごいところは、金額だけじゃなくて、自治体が自治体に寄付するところ。前代未聞です。しかも半田の水道水は、以前は愛知用水でしたが、現在は長良川の水なんですから。

王滝村に産業を、と考えたときに企業誘致というのは、まず考えられない。高速からも遠いですし。そうなると中間処理とか末端処理の施設の引き合いしかないんです。

しかし、水源の村としては、そういうことは絶対にできません。この水を使っている人たちとのつながりを、一番の価値として生きていくしかない。このことは、これからの世代にも伝えていかないといけないと思います。今までもそういう気持ちで取り組んできたという現われが、下水処理場です。

なにしろ何百人の規模の施設だから、町場から来た人が見ると「何これ?」って笑っちゃう規模なんですよ。でも、視察にいらした方には、「水源の村としてこういうことにも取り組んでいます」とまず最初に見ていただいています。

この施設は、確か1985年(昭和60)ごろ、農業基盤整備の次に手がけました。導入が早かった。しかし、つくった当時より人口が減って1軒あたりの負担が大きくなるから、更新時期がきたら困ります。つくったときに利用した補助金の返済金もまだ残っていて、つらいところです。

王滝村は農業集落排水の位置づけで簡易なんですが、本式の下水道を整備しているところはもっと大変なはずです。かかる経費が桁違いです。

導入の早い地域は、だいたい更新時期を迎えていますので、どこも困っているんじゃないでしょうか。こういう施設は、早く国になんとかしてほしいですね。

王滝村の下水処理場

王滝村の下水処理場

誇りを取り戻すには

国策で愛知用水のダムがここに決まらなかったら、どうなっていたでしょうね。1984年(昭和59)の長野県西部地震が王滝村に及ぼした影響も大きいです。御嶽山が崩落して、川に土砂が入ってダメになってしまいました。そういう意味ではもう、「たら」、「れば」は言いません。

スキー場は難しいけれど、まだ終わったわけではない。アメリカの場合も淘汰の時代があったそうですが、そこを乗り越えたところは生き残っているそうです。

身の丈に合った形で村が継続していかなくてはならないだろう、というのが私個人の考えです。

地道に、といっても、指導員などを養成しながら続けていかないと無理なんです。人をつくらなきゃ、絶えてしまう。

実際には、いったん止まっちゃったんですよ。だから今の若い子はスキーなんていっても魅力を感じない。それは違うぞ、と私は言ってるんだけど、「村を潰した悪の元凶」なんていう見方をしています。

逆に他所に修業に出て、優秀な指導員として帰ってきたけれど、力を発揮しようがなくて下を向いている人もいますよ。誇りに思っていたものが、虐げられているもんだから。

この村に今ある沈滞ムードは、ある意味、そこに起因している。何しろ30年、40年、それで生きてきて誇りに思っていたものが否定されているわけですから。

我々はそうなる前から生きているから前を知っているけれど、30〜40歳代の村民は、現状しか知らないから。どんどん人口が減っているのは、こういうことも一因。この5年間で157人減っています。157人ってわずかですけれど、割合からいったら大きいですから。

〈1000人の村〉と言っていたんですよ。それが来年には下手したら900人を切ってしまう。もう〈1000人の村〉というフレーズは使えなくなっちゃった。

少ないことだけが問題じゃない。少なくても各世代がちゃんといて、バランスが取れていればいいんです。それが、ねえ。今年の出生数は2人。0になったら、やっていく気にならんじゃないですか。

施策的に何かできないか、ということで、給食費や保育料の無償化なんかを検討しています。住宅供与とか、周囲の地域から来る場合は通勤費も出すという案も出ています。

協力しましょう、と言ってくれる方はたくさんいるんです。三洋電機の代表取締役会長をやった野中ともよさんも「ファン・応援団をつくりなさい」と叱咤激励してくれて、いろいろやってくれる。総務省のICT(情報通信技術)政策の補助金をいち早く持ってきて光通信も引いたり、ポータルサイトも今年の6月に立ち上げた。

和歌山だったかに北山村(和歌山県東牟婁郡北山村)という所があって、400人ぐらいしかいない小さい村です。ここもポータルサイトをやっていて、応援団を村民と呼んでいて何万人といるらしい。

学生を連れて来て、村のおばちゃんちに泊まったり。そうすると、気が合っちゃって面白がる。年寄り連中は飾らないし、気が合って盛り上がる。

そこまではいいんですよ。応援団をつくらなきゃならないことも、わかってはいるんです。しかし、受け入れ先の宿や態勢が整っていない。「そんな面倒くさいことを」という感覚なんです。このように、商売を絡めていくと旧態依然とした態度が出てきてしまう。それを何とか直してつなげていきたいなあ、と考えているんです。

今までは黙っていてもお客さんが来てくれた所だから、何にもしない癖がついている。でも、細かいことも、ここの地域で生きている人間がやっていかなきゃいけない時代がきたということです。何かをしないと、対価をいただくものがない。そんなことになったのは、王滝村の有史以来初めてでしょう。

愛知の人がしっかりしていると思えるのは、ちゃんと流域を見ているから。横浜だって流域を見ている。道志村に感謝している。東京は、このごろやっとじゃないですか。

でも東京だって、高度経済成長期に夜汽車に揺られて来た人たちの集まり。二代目がちゃんとその辺のことをわかってくれれば、田舎も生きていく余地があると思いますけど、今はまだ、そうはなっていない。

川も水も上には上がっていかないわけだから、上流があって下流もある。川がダメになると海もダメになる。そういう意味では木曽川も長良川も揖斐川も伊勢湾にいっているわけで、私はやっぱり流域で見ていくことが、一番自然なんだと思いますよ。



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