機関誌『水の文化』36号
愛知用水50年

歌われない校歌の三番

王滝村小中学校の校歌

王滝村小中学校の校歌

牧尾ダム完成の翌年にできた王滝村小中学校の校歌。ダム讃歌ともいえる三番は、いつの間にか歌われなくなった、といいます。 その経緯を、公民館館長の堀内征二さんにうかがいました。

堀内 征二さん

長野県木曽郡王滝村公民館館長
堀内 征二(ほりうち せいじ)さん

1938年、長野県木曽郡木曽町(当時は西筑摩郡新開村)生まれ。

三番は「略」

私、郵便局の職員だったんです。1957年(昭和32)に、ダム建設で業務が忙しくなるからと増員のため採用され、王滝が良いもんだからそれっきり落ち着いちゃった。

私が来たときには、御嶽山は素晴らしいわ、水はきれいだわ、でこんなに良い所はどこにもないな、と思った。

郵便局には45年間勤めましたから、辞めたときには64歳になっていました。ああいう国の仕事をしていると、ほかの仕事ができません。それで、辞めた途端に「あれをやってくれ」「これをやってくれ」といろいろ頼まれた。それで王滝村の区長会長をやって、公民館にきた。7年目になります。

王滝村もご多分に漏れず、子供の数が減っています。小学校児童数は44人、中学校生徒数は29人です(2010年8月24日現在)。

校歌の歌われない三番の話は、信濃毎日新聞に連載された「『官』の村から」という記事にも取り上げられました。この連載は、東条勝洋という記者が住民票を王滝村に移し、住み込みで取材したもの。本になって出版もされました。

いつから、なぜ歌われなくなったのかは不明です。公民館は教育委員会も一緒なんで、よく理由を聞かれるんですが、わかりません。この校歌ができたのは1962年(昭和37)、牧尾ダムが完成した翌年。歌詞に、その理由があるんじゃないかなとは思いますが。

〈一番〉
御岳山の朝ぼらけ
あかねの色にそまる時
裾野の牧場(まきば)はてしなく
わが学び舎(や)につづくなり
清き姿のわが霊峰(おやま)
清きはわれらの心なり

校歌は四番まであって、村の象徴である御嶽山(嶽の字体を新字体で御岳山と表記されることもある)のことを歌い、木曽五木の繁る森のことに続きます。一番の歌詞に「牧場」という言葉が出てきますが、牧場も今はありません。

問題の三番は、ダムを讃える内容。校歌がつくられた当初は歌われていたそうですから、最初から拒否されていたというよりは、徐々に歌われなくなったらしい。

結局、村民の気持ちとダムの存在に少しずつズレが生じてきて、歌われなくなった、ということなのでしょう。

〈三番〉
一億トンの水湛(たた)
御岳湖上の漣(さざなみ)
国の栄えをこいねがう
われらが至情(まこと)のしるしなり
興せみ国の産業(なりわい)
はかれ郷土の幸福(さいわい)

卒業式の式次第にも、一番、二番ときて「略」とあって四番。子供たちも何の疑問も抱かずに一、二、四と歌います。

しかし、学校にある碑には三番の歌詞も書いてあるんです。

好景気に沸いた時期も

牧尾ダムの建設が行なわれていた当時は、3000人の労働者が昼夜突貫で働いていました。

その人たちを相手にした飲屋街もできたし、映画館もあったんですよ。名古屋の人が経営していて、木曽谷の映画は、ここが封切館になるぐらい繁盛していました。映画館の建物は、今でも残っています。昔は可燃性のフィルムだったから、火災を恐れてしっかりしたコンクリートの建物を建てたんで残っているんです。

補償金だけではなく、建設によるこうした景気も村に活気と利潤をもたらしました。だから、日本全国の銀行が出先機関をつくって、村に住み込んで営業をした。公民館があるこの場所は御嶽ホテルという宿があった所なんですが、こうした旅館に「○○銀行王滝出張所」という看板を掲げていた。

私は郵便局で配達をしていたわけですが、こういう銀行からのパンフレットが配りきれないぐらいあった。

今からは想像もできません。

私はこの上流にできた味噌川ダムのときも転勤で行っていたけれど、そのときは民家が沈むわけでもないし、補償のこともありませんでしたから、これほどのことは起こりませんでした。

写真

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水源を守ってきた

ダムができるときには、村民たちが話し合って、「水源になるんだから農薬のことも気にしなくちゃならない」と取り決めをした。ゴルフ場の話が持ち上がったときも、村を二分して意見が割れたけれど「水源地が汚染されてはいけない」ということで反対派が多数を占めた。汚泥処理場の話が持ち上がったときも、同じだった。

今、下流域の子供たちと王滝の子供たちが、こっちに来たり翌年はあちらに行ったり、と交流しているけれど、こういうことも最初から行なわれていたわけではありません。

やはり時間を経て、下流域の人たちの感謝の気持ちが深まって、水に苦労した経験がない子供たちに「水の有り難さ」を伝えていかなければ、と思ったから始められたことではないでしょうか。

その背景には、私たちが自分たちだけのことではなく、水源地を守る責任を感じて努力してきたことが、下流域のみなさんにわかってもらえた、ということがあると思いますよ。



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