• 機関紙 38号目次

水の文化 38号 記憶の重合

太田川の広島
ヒロシマ復興の軌跡


石丸 紀興さん

石丸 紀興(いしまる のりおき)さん
元・広島国際大学教授

1940年旧・満州(中国東北部)生まれ 。1966年東京大学大学院工学研究科修士課程修了。同年 広島大学工学部助手、1988年広島大学工学部助教授を経て、1996年同学部教授。1999年同大学大学院国際協力研究科教授。2003年広島国際大学社会環境科学部教授。2011年4月より広島・平和・地域再生研究所主宰、6月に株式会社広島諸事・地域再生研究所設立。
主な著書に『広島被爆40年史 都市の復興』(広島市企画調整局文化担当 1985)、『世界平和記念聖堂―広島にみる村野藤吾の建築』(相模書房 1988)、『近代日本の建築活動の地域性―広島の近代建築とその設計者たち』(共著/溪水社 2008)ほか。

世界で最初に原子爆弾の投下を受け、軍都から平和都市へと変貌を遂げた広島。
その背後には、都市計画の上からも大変な苦労がありました。
戦争が終わって、66年。石丸紀興さんは、多くの犠牲の上に成立したこの平和の意味を、風化させまいと調査、発信し続けています。


世界で最初に原子爆弾の投下を受け、軍都から平和都市へと変貌を遂げた広島。

戦災復興計画、研究のきっかけ

1966年(昭和41)に大学院の修士課程を出て、広島に来ました。来た途端に総合計画策定の委員とかに引っ張り出されたり、調査をしたりで3、4年間は県や市のために無茶苦茶働いていたんです。

都心部における戦災復興計画というのは、そのときにはもう、ほとんど終了段階に入っていました。復興の次の段階として、人口が周辺部にスプロール式に増えていった。北の方角ですと、祇園、安古市(やすふるいち)、佐東町とか、東に行くとマツダ、府中、海田市(かいたいち)、瀬野川とか、西は五日市、廿日市とか。

広島では、まず1933年(昭和8)に大きな合併の波があり、それ以降は被爆したときまで、ほとんど変わらなかった。しかし周辺部の都市化が進むにつれて、実際的な行政区域をつくっていこうという目的で、再び合併するようになりました。まずは1955年(昭和30)と1956年(昭和31)に戸坂(へさか)、井出、井口三村を合併、次に1971年(昭和46)ぐらいから、周辺部も合併しています。

それには合併建設計画という手厚い計画が策定されるわけですが、私はその内側のほうの戸坂という所で地域整備計画を任されました。住民参加の方式、今でいえばワークショップ形式でやると宣言して、〈考える会〉という会をつくりました。

1971年(昭和46)ですから、時期としてはものすごく早い。だから行政の人なんか、「住民参加なんかでやるんだったらやめてくれ」と、ものすごくブレーキをかけてきましたが、私も、「もう世の中、こういう時代なんだから」と押し切って、2カ年度でやったんです。

1973年(昭和48)に『広島市周辺部整備基本計画』という報告書にまとめた途端に、行政から一気に排除されました。それまでは、大袈裟にいうと私の青春の結構な年月を捧げ、自分の時間を削って、行政の仕事をしてきたつもりだったんですが、一気に排除されました。危険人物視されて、いろいろな委員会からも、すべて外されました。

私はもっけの幸いだ、と考えました。このときにやらなければならないことが、いくつかある、と思い、一つは学位論文を書きました。それと併せてやろうと思ったのは、復興計画にかかわった人たちのオーラルヒストリー収集です。私がこの研究を始めたのには、こうした経緯があるのです。

オーラルヒストリーを残す

たまたま県庁の人と、広島土木建築事務所の所長とで雑談をしていると、所長が「自分は、最初に平和大通り(百メートル道路)の線を引いたんだ」と言うんです。そんなことができるのか、線を引いたからといってそれが実現するのだろうか、とちょっとビックリしてですね、これはこういう人の話を聞いたり、調査しなくてはいけないな、と思いました。

オーラルヒストリーを聞くには少し遅かったんですが、1978年(昭和53)から聞き書きを始めました。最初の研究成果を発行したのは、その翌年です。やっているうちに何人かの方は亡くなってしまうので、少し遅くはあったんですが、ギリギリ間に合った。

当時、行政の人事は、かつての内務省、その後の建設省(現・国土交通省)がコントロールしていました。地域の都市計画課の課長なんていうのは、下(県)から上がってくるというよりも、内務省が派遣してくる。地域によってランクがあって、広島県で課長をやって、本省に戻ったり、愛知県や福岡県に行く。それで地位が上がっていくわけです。そういうプロセスとして、広島県で課長ポストに就く。

最初に聞きに行った太鼓矢(たいこや)守さんは、かつての朝鮮で街路事業、下水、防空壕をやっていた人で、1946年(昭和21)4月以降に日本に帰ってきています。山岡敬介という人が当時の朝鮮総督府の勅任技師で、のちに内務省に入ります。戦災復興院は内務省の管轄だったので、太鼓矢さんは山岡から都市計画課に斡旋された。百メートル道路の話を最初に聞いたのは、この人からです。

復興計画当時の課長は1978年(昭和53)ごろ東京にいるということでしたが、あまり会わせたくないような様子でした。でも、会わないわけにはいかないと思い、出かけていきました。課長だったのは竹重(たけしげ)貞蔵さんで、原爆投下の前の日に自転車がパンクしたお蔭で、直撃を免れています。今の本川(ほんかわ)小学校の所に県庁の出先機関があって、3kmほど離れた寮を毎朝8時に自転車で出ていた。前の日に自転車がパンクしたので徒歩で帰宅し、当日の朝は同じ時間に徒歩で出勤したために、投下されたときは爆心地から2kmほど離れた観音という所にいて助かったのです。

私が聞き取りを始めた当時、トヨタ財団に助成金の制度があり、申請して認められたんで、休みになるとテープレコーダーを提げてあちこち出かけていきました。

戦災復興院を設立した大立て者は、やはり東京にいて中央でコントロールしていたことがわかりました。その内の大橋武夫さん(注1)、山田正男さん(注2)、佐藤昌(あきら)さん(注3)などにも話を聞きました。

名古屋が面白そうだとか、大阪が面白そうだとか、あちこち行きました。長崎大学には土木はあるんだけれど建築はない。かつての長崎造船大学、今の長崎総合科学大学には都市計画をやっている面白い連中がたくさんいましたが、長崎の復興計画のことはあまり研究されていなかった。それで、長崎にも4、5回通いましたよ。冊子としては広島で3冊、長崎で1冊まとめました。

(注1)大橋武夫(1904〜1981年)
陸軍少将大橋常三郎の長男。1928年に東京帝国大学法学部を首席で卒業、内務省に入省する。厚生省労働局賃金課長、内務省土木局計画課長。戦災復興院設立に伴い、計画局長、同次長を経て、1949年 当時の民主自由党から出馬し当選。1950年第3次吉田内閣第1次改造内閣で法務総裁に抜擢され、国家公務員のレッドパージを指揮した。翌年、警察予備隊担当国務大臣、1962年 第2次池田内閣第2次改造内閣で労働大臣、1966年の第1次佐藤内閣、第3次改造内閣では運輸大臣を歴任する。
(注2)山田正男(1913〜1995年)
1937年 東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。内務省都市計画課から戦災復興院計画局に移り復興計画に携わった。当時の上司は石川栄耀。1930年代から1971年 首都高速道路公団を退任するまで、首都高速道路・東京外環自動車道などの立案・設計に積極的に関与。東京都建設局長・東京都首都整備局長・首都高速道路公団理事長などを歴任した。
(注3)佐藤昌(1903〜2003年)
1927年 東京帝国大学卒業後、内務省復興局、満州国ハルピン特別市都市計画局技佐、都市建設局土木課長、新京特別市工務処公園科長を歴任。官庁造園技師として日本国内や戦前の満州で多くの公園緑地計画と都市の計画設計に携わる。戦後は神奈川県土木部都市計画課長、建設省計画局施設課長を務めた。

建物疎開

建物疎開自体は全国で行なわれましたから、広島だけが特別というわけではありません。京都の四条通や御池通などは、みんな建物疎開によって拡幅することになった道路です。もしも建物疎開をやっていなかったら、昔の幅員のままだったでしょう。

百メートル道路は、戦時中に防火帯をつくるために行なわれた建物疎開と密接な関係があります。東京や大阪に大空襲が起きたことで、広島も危ないという認識が深まって、防火帯の整備がいわれるようになった。鶴見橋から小網町を横切って観音の辺りまでが広島の中心部。そこを守るには、道路をちょっとぐらい拡幅したんでは足りない、という考えがあった。それで1944年(昭和19)の11月、12月あたりから建物疎開が始まるんです。

初めはちょこちょこ進めてはいたんですが、終戦の年の5月ぐらいになると「今までのやり方じゃ、もう追っつかない」ということになって、粟屋仙吉市長の指示でスピードアップされました。中学生とか国民義勇隊なども動員されて、赤紙が貼られた家を片っ端から壊していったんです。ひどい場合は、24時間以内の退去を命じられた家もありました。原爆投下の瞬間も、屋外で建物疎開の作業をしていましたから、建物疎開の関係者からは被爆した人が多く出ました。

広島には南北に川が何筋も流れ、川幅は広い所で80mから100mもあって防火帯となるから、どうしても東西に貫通する防災道路が必要だったんですね。

竹重さんにしても、中国から引き揚げてきて広島の都市計画課に派遣された吉川久蔵さんにしても、みんな「自分が百メートル道路の線を引いたんだ」と言いましたよ。本人たちも嘘をついているつもりじゃない。共同幻想という表現が当たるかどうかわかりませんが、みんな自分が計画したと、真剣にそう思っている。それが面白いと思うんですよ。

100m幅にした意図は、単に建物疎開が行なわれていたから、という理由だけではないですよね。

竹重さんなんかは「多少、都市計画に便乗した」と言っていますし、当初からグリーンベルトだという意識でいました。都市計画は往々にして進まないから、これを機にやってしまいたい、という気持ちが働いたことも否めないでしょう。

これは広島市民も知らないことなんですが、1946年(昭和21)に最初に立てられた街路計画、公園緑地計画では、現在の百メートル道路と平行してもう1本計画道路があって、計画図にも載っています。太鼓矢さんは「川が6本あるから横(東西の道路)は2本欲しいと思ったし、私自身とにかく太いものをつくろうというのが夢だったから」と言っていますが、これはさすがに1950年(昭和25)ぐらいの段階で縮小されてしまった。

しかし、百メートル道路は、結果的には建設省(当時)絡みの人事ががっちりとガードしていたために実現したのです。

戦後の区画整理

建物疎開をしたとはいえ、全部が空き地になっていたわけではありません。復興計画は1946年(昭和21)の9月、10月あたりには計画決定してきますから、建築規制がかかって、少なくとも新たな建物が建つことは規制された。

資料は焼却処分されたため出てこないんですが、建物疎開をしたときにわずかですが補償しています。戦後はバラックがどんどん建つのですが、いったん補償をもらってどいている建物疎開の人は、建てることにちょっと躊躇(ちゅうちょ)していたようなところがあったかもしれません。

戦災復興は、とにかく測量をして、図面をつくって、土地の調査をするところから始まっています。そして区画整理。本来は全部を市がやるべきですが、全部はやりきれないということで、平和公園付近で半分に割って、東側を広島市が、西側を県がやりました。

換地処分というのですが、区画整理にときには、権利をクリアするために元地(もとち)に対して一定比率の換地が与えられる。その比率はまちまちですが、広島の場合は3割とか4割とか減歩され、かなり削られていることが多いんです。地価評価でやられると、場合によっては半分以下になってしまう。減歩され過ぎてしまった人は、お金をもらうとかですね、悲喜こもごもなんです。

換地処分は、登記と同時にやるんですが、これは全部が終わらないとできない。1カ所でもトラブルがあると、終わらない。広島で換地処分が終わったのが、広島市分が1970年(昭和45)、広島県分がやっと1971年(昭和46)のことです。

このように区画整理が終わっていない段階で、百メートル道路の利用変更をしたら大変な混乱が起きるわけですから、当時の建設局長が自らの首を賭して阻止したのです。このエピソードを、紹介しましょう。

住宅難民の救済

区画整理の設計が進めば公園の位置が固まるんですが、当初の段階では、取り敢えず三大公園として、広島城の周りの中央公園70.48haと中島公園10.72ha、そして練兵場跡地の東公園だけ決められました。

都市計画が進む一方で、続々と帰ってくる引揚者の住む家が足りなくなる、という矛盾をはらんでいました。1945年(昭和20)の冬をよく越したな、と思うぐらい大変な住宅不足でした。

それで1946年(昭和21)の越冬住宅として、暫定的に基町の中央公園用地に、県と市と住宅営団が住宅を建てました。不法占拠による住宅も建てられるようになり、のちに〈原爆スラム〉(後述)と呼ばれましたが、これらを動かそうと思っても、簡単に動かせる先がないんです。

1955年(昭和30)、渡辺忠雄市長の時代に中央公園の敷地の一部を、住宅地として明け渡すことになりました。城の辺りからすぱっと切り離して、北半分は住宅地に用途変更したのです。

1958年(昭和33)が最初の完成だったと思いますが、4階建て、5階建ての市営住宅、県営住宅を川沿いから建てていきました。 しかし、この調子ではとうてい全戸は収容できない。そして川沿いに住んでいる人たちは立ち退かないと主張していましたし。

普通だったら、中層といっても25mか30mぐらいずつ隣棟間隔をとって、南面させる。一番日の短い冬至の時期でも、3時間か4時間は陽が当たるようにする。日本の多くのところでは、そういう条件を満たした団地がたくさんつくられたわけですが、その条件でやっていたら、増え続ける都市人口を収められない。

どうしようか、ということになって、残りの8〜9haは、徹底的に高密度でやらなければ埒(らち)があかないだろうと。それで大高正人(おおたかまさと)(注4)のところに設計依頼しに行きます。藤本昌也という広島出身の建築家が実質的に担当して、今のような超高密な住宅都市ができました。

南東向き、南西向き、という風に軸をずらしてくの字につないでいったわけです。さすがに北向きはありませんが、日照が足りない部屋もあるとは思いますね。とにかく、こうでもしないと収まりきれなかった。すごい密度でした。

これが、市が行なった基町地区の再開発事業です。県は、長寿園地区の再開発事業を独自に行なっています。

(注4)大高正人(1923〜2010年)
建築家、都市計画家。東京大学大学院修了後に前川國男建築事務所に入所。1960年に開催された〈世界デザイン会議〉をきっかけにして菊竹清訓、黒川紀章らとメタボリズム・グループを結成した。メタボリズムとは新陳代謝の意であり、都市や建築も人口の増減などの社会変化に合わせて、有機的に成長すべきと提唱、日本における現代建築思想の端緒となった。

百メートル道路の評価

広島における百メートル道路への評価は、ものすごく振れ幅が大きい。

基町にできた通称〈相生通り〉のバラック密集地帯は〈原爆スラム〉と命名されました。原爆のことをいろいろと書いた太田洋子という作家が、当時、不法占拠によって形成された地域、〈相生通り〉を舞台として『夕凪の街と人と』(三一書房 1978)という本を書いています。その中で1953年(昭和28)ごろの広島の状況を描き、〈原爆スラム〉の住人の口を借りて百メートル道路批判をしています。

また、1955年(昭和30)には、渡辺忠雄が「百メートル道路を半分に削って住宅を建てる」と言って、現職の浜井信三市長を退けて当選しています。市民レベルでこういう批判が醸成されていって、その世論を代弁した渡辺さんが通ったわけです。このとき建設局長が百メートル道路計画縮小を断念させたのです。

渡辺市長が在任中に行なったことをつけ加えると、「百メートル道路があんなに人気がないのは、殺風景だからだ。緑化しよう」と言って行なった、献木運動、供木運動。「苗木があったら寄付してくれ、なんだったら取りに行くよ」ということでものすごい数の苗木を、県内だけでなく国内や海外からももらったわけです。その名残が、平和大通りのグリーンベルトです。いきなり持ってきて、とにかく植える。植栽計画も何もないんです。春になるとミモザやアカシアがばあーっと咲きますけどね。

カープの本拠地だった市民球場を建設したのも、渡辺市長です。今は、取り壊し中ですが。あのお金のない時代に、寄付を募って1957年(昭和32)に竣工しました。

奇抜なアイディアを次々と出した渡辺市長ですが、一期だけで、次の選挙のときには前市長の浜井さんが返り咲きます。

上:1972年(昭和47)ごろの基町地区 下:基町・長寿園住宅の高層アパート群。

上:1972年(昭和47)ごろの基町地区
写真提供:広島市公文書館提供

下:基町・長寿園住宅の高層アパート群。1995年(平成7)10月撮影
写真撮影:井手三千男さん Photo by Ide Michio

GHQに直訴

戦災復興事業はスムースに進行したわけではありません。

大きな道路や橋梁などができないうちは、細街路や宅地の区画も確定できなくて、民間も建物建設が進められないで待たされている。許可が与えられませんから。

それで、1948年(昭和23)の暮れぐらいになると、いよいよどうしようもなくなる。そういうときに、ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission:原爆傷害調査委員会)が拠点を広島につくろうとして視察に来たんです。ABCCは1975年(昭和50)に日米共同出資でつくられた放射線影響研究所の前身です。アメリカ・GHQ(連合国最高司令官総司令部)が、治療ではなく、原爆にどういう効果があったかを長期的に調査をしようとしてつくった機関です。

このときに対応したのが、市議会議長の任都栗司(にとぐりつかさ)で、「実はGHQに聞いてほしいことがある」と切り出した、といわれています。「こういうことになって残念だけれども、結果として戦争は終わったし、アメリカの犠牲も終わったじゃないか。だから広島の復興に協力しろ」と。

任都栗さんはマッカーサーにも会ったと言うんですが、それはちょっと証明されていない。ただし、GHQのかなり上の人に会ったのは確かです。任都栗さんは、もう亡くなりましたが「そのときに自分たちの会話は録音されていた。それでアメリカは違うなあ、と思った」と話していました。

当時はまだ、広島が被爆を超えて復興すると、GHQを刺激してしまう、と恐れている人がいたのですね。池田勇人なんかもある意味の正義感があって、広島を特別扱いしなかった。報道でも原爆のことを大々的に言っちゃいけない、というプレスコードがあった。そういう状況の中で、任都栗さんというのは堂々とGHQに乗り込んでいって、取引をしたわけです。

戦災地復興計画基本方針

前後しますが、戦災からの復興ということでいえば、戦災復興院(注5)が1945年(昭和20)にできて、同年12月30日に戦災地復興計画基本方針が閣議決定されました。

復興計画基本方針によって、全国的に戦災都市として115都市が規定され、のちに112都市、さらに縮小されて区画整理が実施されました。

名古屋なんかは田淵寿郎(じゅろう)さん(注6)が中心となって、ものすごく頑張ってやったんです。

東京は計画だけは理想的なものでしたが、限られた地区でのみ実施されます。計画がすご過ぎて、実務を担当する有能な人がいなかったからかもしれません。まあ、当時のことを批判しても仕方がありませんが、石川栄耀(ひであき)なんて理想主義者で、緑地や空き地をふんだんに取って、建物が建てられないような計画をしたんですから。

(注5)戦災復興院
終戦の年の11月5日、幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)内閣により設置され、1947年(昭和22)12月31日まで存在した。総裁は、小林一三国務大臣。1948年(昭和23)1月1日に内務省国土局と統合して建設院(のちに建設省を経て国土交通省)となった。
(注6)田淵寿郎(1890〜1974年)
東京帝国大学工学部で土木工学を専攻後、内務省入り。琵琶湖の利水計画、淀川低水路計画などに功績を残したほか、上海や南京などの戦災地復興を指揮。木曽三川の治水などに携わったのち、再び中国に渡った。戦後は、名古屋市の戦災復興事業の技監・助役を引き受ける。百メートル道路実現にあたっては、名古屋刑務所、墓所の移転において大変な抵抗に遭うが、これを実現。全市の20%を超える土地を道路・公園用地にした功績は、モータリゼーションに適した交通インフラに寄与した。

窮余の策であった特別法

広島は実行力はあったのですが、財源に乏しかった。税金を払ってくれるような住民が少ないから、人口が増えても固定資産税なんて、なかなか増えていきませんから。

それで国会議員や大臣が視察に来たときに、特別な援助をしてくれと頼むんですが、広島だけにそんなことはできません。そういうことが1947年(昭和22)、1948年(昭和23)と続くんです。

これとは別に復興計画を国の直轄事業として行なう〈復興国営請願〉というのがあります。関東大震災のときにもその考え方があったのですが、1948年(昭和23)ぐらいから広島県選出の国会議員が働きかけを始めました。

これを仲介していたのが、広島出身の参議院の議事部長だった寺光忠で、やがて憲法95条の特別法という規定に思い至るんですね。アメリカ主導でつくられたといわれる憲法95条ですが、アメリカではこういう規定を持つ州もあったのです。

それで寺光さんは、広島を平和記念都市として建設すると。平和ということは、戦後の日本では過剰なぐらい使われてきたんですが、平和記念都市という考え方を定着させて法律に盛り込むということを考えついたのは、寺光さんです。一晩のうちに法案を起草、広島市公文書館に第7次案ぐらいまで残っています。任都栗さんはすぐに乗ったみたいですが、市長は半信半疑だったようです。

もちろん、原子爆弾が投下され、戦争が終わって、平和を標榜するという理念的な意味合いもあります。しかし本当にあの法律を必要としたのは、復興計画の担当者だったんです。

当時、法律をつくるにあたっては、全部GHQの許可が必要だった。それで、国会課長(アプルーバル)という肩書きのジャスティン・ウィリアムズという元締めに持って行った。この人のところを通らないとマッカーサーまでたどり着かないんです。

寺光さんの機転で特別法に光明を見出して、みんなもいけるかもしれないと希望を持つようになったときに、長崎から横槍が入った。「広島だけがそんな法律をつくってけしからん」と。それで、平和記念都市は一つで充分だから、長崎は国際文化都市でやるんです。

参議院が中心となって審議会を重ねていったんですが、いけそうだということになった途端に、衆議院の連中が出てきて、委員会審議にもかけずに1949年(昭和24)5月10日、本会議に提出した。そして、広島平和記念都市建設法(法律第219号)と長崎国際文化都市建設法(法律第220号)が可決されました。

この特別法の規定には、その後乗っかってきた都市もいっぱいある。呉なんかも軍用地跡を造船や鉄鋼といった平和産業に転換するんだ、といって1950年(昭和25)に旧軍港市転換法を駆け込みで成立させた。これは呉だけでなく、長崎の佐世保と京都の舞鶴と神奈川の横須賀の4市でやったんです。国有財産の払い下げという意味においては、広島市より呉市のほうがうまくやった。まあ、いずれにしても特別法への突破口を拓いたのは広島です。

私は、中国新聞の記事や社説を徹底して調べました。公文書館の紀要にも書きましたが、特別補助を求める動きに対して、最初は突き放したような一般論的な正義感で書いていたものが、決まりそうになった途端に法制定を支援する論調に変わった。こういうことを見ていると、流れが決まったときの展開はすごいな、と思います。

ただ、翌年から「平和」という言葉自体が規制されるようになりました。朝鮮戦争が始まって、「平和」と言ったら、アメリカ軍が朝鮮戦争にかかわることを批判したというニュアンスでとらえられかねない時代に変わった。ですから、制定が1年遅れていたら広島を平和記念都市に、という特別法はできなかったかもしれない。

中国電力ビル屋上から北望。
上:1945年(昭和20)秋、中央に原爆ドーム
写真提供:広島原爆被災撮影者の会
中:1947年(昭和22)11月、空き地が畑になる
下:1950年(昭和25)4月、手前のビルの向こう側にとてつもなく広い道路の建設が始まる。
写真撮影:3枚ともに岸本吉太さん



完成を待つ原爆資料館。この段階で、まだ平和記念公園の敷地内にたくさんの住宅が残っている。1954年(昭和29)12月撮影 写真提供:広島市公文書館所蔵

平和記念都市の証しとして

広島が平和記念都市となることの証しとして盛り込んだのが、平和記念施設をつくること。これは3分の2を国からの補助でまかなうという特例が採用された。

1949年(昭和24)にこのコンペが行なわれた時点では、まだ法律は公布されていません。5月ぐらいにコンペ要項を発表して、8月6日に入選案を発表して、丹下健三案が通った。

私には、丹下案が構想されたのは奇跡的に思えます。なぜなら、丹下案には両面あったからです。

軸線をどう考えるかが決め手ですが、軸線というのは、ナチスなんかも好きなんですよね。軸線には権力的な面があるんです。

最初は慰霊碑はありませんでした。ですから、資料館の建物から原爆ドームに向かった軸線です。この線と百メートル道路(平和大通り)が、少しずれますがだいたい90度の角度。この軸線を見出したというのは凄い。丹下は、大東亜建設記念営造物コンペ案もそうでしたが、こうした軸線を用いるのがうまかったんです。こうして最終的には原爆ドームの保存に至りました。

あの場所を平和記念公園の用地に選んだのは、丹下ではありません。県と市が決めたわけですが、あそこを選んだのは、ある意味で勇断と言えば勇断でしたね。

当時の中心街は八丁堀。明治時代に外堀が埋められたため、電車の軌道が一部入ってきて、新天地として次第に賑やかになっていきました。紙屋町はもっとあとからの町です。繁華街の中心が東に引っ張られていって、中島地区は昭和初期には寂れていたとはいえ、かつての繁華街ですから、突拍子もない。

焦土と化したとはいえ、土地の権利は全部生きていますからね。区画整理というのは、元地の権利を抹消するものではありませんから、どかせるためには、全部に換地を与えなくてはなりません。そういう意味でいうと、大変な勇断です。

しかも、当時の会議の速記録などを読みますと、十日市とつながって、西国街道、昔の山陽道ですが、それがここを公園にすると分断されてしまう。だから、この辺の商店街の人たちはかなり反対しているんです。

しかし、当時は表立って何かやるのは市ではなく県で、県の連中はエリートだという意識が強いですから押し切った。特に県の上のほうのポストには、中央から天下ってきていましたから。1946年(昭和21)というのは、そういう雰囲気がぎりぎり残っていた時代です。

善悪でなく、歴史のヒトコマとして

しかし、ヒロシマ平和記念都市というものが、こういう経緯で実現したということは、かなり忘れられています。そのときは有り難いと思っていたんでしょうが、2010年(平成22)には60周年も終わりましたし、戦後もこれだけ経過すると「もう、充分復興は果たした」と。

この法律の役割は終わったという人もいるし、法律自体のことを知らない人もいる。一般にはほとんど知られていませんし、若い行政職員に伝えようと積極的に研修することもありません。

『広島被爆40年史 都市の復興』(広島市企画調整局文化担当 1985)に載せたんですが、平和公園の建設途中の写真を見ると、ちょっと驚きますよね。1950年(昭和25)に原爆記念資料館を着工して5年ぐらい工事にかかるんですが、まだ敷地内に民家がたくさん残っている。

区画整理が始まるのが1946年(昭和21)ですから、それまでに帰ってきて家を建てた人もいる。換地が決まって立ち退いた人もいれば、居座った人もいるし、立ち退いた跡に違法で家を建てた人もいる。そういう混乱の中で、ここを平和公園としてつくっていくのは、並大抵のことではなかったと想像できます。

しかし、それまでこういうことが指摘されてこなかったために、この写真を見ても「なんで平和公園の中に家が建っているんだ」ぐらいにしか思わない人が大半です。

河岸緑地を整備するにしても、そこに人がいっぱい住んでいるから、やろうにもできないわけです。それをどうやって突破したか。河岸緑地のことを紹介しようとすると、どうしても駅前で行なわれた強制代執行のことに触れないわけにはいかないのです。良い悪いじゃなくて、歴史ですから。その過程を経て、河岸緑地ができたということは事実で、それを書かないと歴史にならない。

川沿いの強制代執行は1966年(昭和41)1月に始まり、一番激しかったのが、川沿いで駅前の的場という所です。反対派は国会議員に働きかけたりいろいろありましたが、最終的には建設省(当時)も基町地区の再開発に腰を上げ、改良住宅の枠組みでなんとかすることになりました。

太田川放水路のことも、戦前からの計画でしたから実現したのでしょうね。戦後いきなりやろうとしたら、計画にすらならなかったと思います。

立ち退きに関して、結束力の強い同和地区が存在して、その地域を幅300m、ところによっては330m抜くわけですから。このことは市民も知らない人が多いし、今となってはあまり言われないんですが、新書判の『広島県の歴史散歩』(山川出版社 1992)では取り上げています。もちろん、戦後になって実施する際にも苦労しています。しかし、「決まったことだから応じてくれ」という姿勢を押し通した。実現しなかったら、デルタ地帯の広島は、川の都市として成立しませんから。

以前から私は、県や市とかかわってきましたが、『広島新史窶箔市文化編』(広島市 1983)の編集に携わったときに、これはちょっと徹底してやりたいことをやろうと思いました。

これまで編集された広島都市計画史の多くは、広島平和記念都市建設計画が策定された1952年(昭和27)から始まる、とされる。しかし、それ以前からまちづくりの計画はあったはずです。

歴史資料を持っている人はあまり多くはないんですが、戦争終結から、戦後復興をどうしていくのか、ということについて、ちょっとでも発言しているのを徹底して拾い上げていったんですね(『広島新史』の中に表で記載)。これは、新聞か雑誌のマイクロリーダーを読むしか調べようがないんですが、これにはかなりの労力をかけました。

実現されなかった復興構想を調べるなんていうことは、今まで誰もやっていなかった。しかし、実現されなかったとしても、構想が上がってきた背景にこそ、歴史の事実が隠れていると思います。これをやったときに、何となく「視点が開けたな」という思いを抱きました。

復興期の都市計画では、どこに住むか、ということが問題になりました。今回の東日本大震災の復興計画においても、そこが大きな問題となるでしょう。

もちろん補助金を出すということはあるのでしょうが、国土利用の観点から考えるのと、実際に居を構える人たちが納得するシステムというのとは、違うと思う。実際に暮らしていく人たちを納得させるための過程が、絶対に必要だと思います。

ワークショップというと言葉が軽いですが、上からばーんと網をかぶせるようなことは良くない。必ず、双方が納得する仕組みが必要で、そこをおろそかにするとどこかで必ず亀裂が入ります。

果たして広島で、それができていたのかどうか。その検証をすることが、今を生きる私たちに問われています。

平和大通り、平和記念公園、河岸緑地の三つは、復興が生んだ広島の財産。当時の市民の犠牲の上にできた。もっと生かす利用法を考えるべきでしょう。

(取材:2011年4月6日)

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目次

水の文化楽習実践取材  地図が広げる未来の可能性 編集部
地図で表わす世界観 長谷川孝治
ハザードマップと空間認知 岡本耕平
測量の歴史とその現場 政春尋志
住宅地図から電子地図まで 山下弘記
概説 太田川の広島 編集部
太田川の広島 四季 太田川 熊本隆繁・隆杉純子
太田川の広島 ヒロシマ復興の軌跡 石丸紀興
シリーズ里川 江戸川区の水神様 沖中千津留
文化をつくる 記憶の重合 編集部
水の文化書誌29 地図は河川研究の原点なり 古賀邦雄

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