機関誌『水の文化』39号
小水力の底力

小水力発電の巨人 織田史郎

農村を電化し、振興するという志を持って、戦後の日本で、小水力運動を展開した人がいます。それは、三段跳びで日本に初の金メダルをもたらした織田幹雄さんの実兄、織田史郎さん。石油は地球の限りある資源だし、ましてや外国から買ってこなくてはならない。コストは多少高くても、国産のエネルギーということに、水力の価値があるんだ、と訴え、後半生を捧げた織田史郎さんの働きを身近で支えた沖武宏さんにうかがいました。

沖 武宏さん

株式会社イームル工業 顧問
沖 武宏(おき たけひろ)さん

1941年生まれ。1958年中国電気学院卒業、イームル工業入社。小水力発電所地点調査業務、建設現場責任者を10年間担当。1970年から技術営業担当として電力会社、公営企業部門の開拓に取り組む。1993年取締役営業部長となり専務取締役を最後に退任。2005年から顧問として全国の小水力発電開発啓蒙に取り組む。

創業の経緯

イームル工業は、イームル商会として1947年(昭和22)創業しました。創業者は、織田史郎。中国電力の前身である中国配電にいたのですが、敗戦の翌年に50歳で電力会社を退社して、新しい人生を歩もうとしたのです。

織田は、19歳で広島呉電力に入社。広島呉電力は1921年(大正10)広島電燈と合併して広島電気に、1942年(昭和17)配電統制令によって中国配電を経て、1951年(昭和26)日本発送電株式会社中国支社と中国配電株式会社が合併して、現在の中国電力になっています。

社名のEAMLは、創業当時はElectric(電気)、Apparatus(器具)、Machine(機械)、Light(照明)の頭文字を並べたもので、イームル商会が取り扱った電気製品を表わしていました。

入社以来、ずっと水力発電畑でやってきたので、自分の能力を生かして何かするには水力発電だろうと思ったわけですが、水力発電というのは電力会社がやる仕事です。それでいろいろ考えた結果、農村に小さな川がたくさんあるんだから、そこに発電所をつくって地域の発展に貢献できないかと思い至ります。イームル商会を立ち上げたのも、小水力運動の資金づくりというのが主な動機です。しかし、戦後の物不足の中で、商品は思うように集まりませんでしたから、資金づくりにはほど遠く、会社経営と小水力運動は両立しなくなりました。

織田が電力会社を辞めたときは取締役(社長、副社長に次ぐ、当時の肩書きで筆頭理事)でしたから、中国電力でも結構、力を持っていたんです。行政や政治家ともパイプがあって、ずいぶん霞が関にも働きかけています。1948年(昭和23)10月には、オーム社主催で「小水力発電の可否について」の一大討論会が開催され、中立論が電気庁、反対論が関東配電(東京電力の前身)、推進論が織田でした。この討論会の数週間後、経済安定本部から呼び出しを受け、何回かの討議を経て、結果的に「じゃあ、織田に小水力発電をやらせてみよう」ということになった。

こうした社業の変遷もあって、EAMLの解釈も、器具をAgriculture(農業)に照明をLife(生活)に置き換えて、今に至っています。

織田史郎さん

織田史郎さん

小水力発電が始まる

国策となった最初のプロジェクトには、1億円ぐらいの補助金がつき、その金で全国に16カ所の小水力発電所をつくりました。

地元の村に「発電所のオーナーをやりなさい」と言ったわけですが、村はいわば役所だからなかなか動けないというんで、農協へ話を持っていった。

農協が持っている小水力発電所というと、用水路を利用したと考えがちですが、中国地方の小水力発電所は、基本的にすべて専用の水路であり、堰堤なんですよ。その設計を、結局、織田自身が全部やりました。

と言いますのも、織田史郎が小水力発電を考えた時代には、今のような土地改良区が管理するような用水路なんていうものがなかったんです。当時は、手掘りの土水路が普通で、今のようなコンクリートで整備された用水路なんてなかった。

しかし、専用の堰堤や水路をつくって水を引っ張るというと、田んぼを持っている人が水を取られるんではないかと心配する。それで、その水路で引いた水を田んぼに入れるようになった。水を優先的に供給しましょうという条件で、農民からの許可を得たんです。

現在は堰堤には砂防堰堤を、水路は農業用水路を使うので、建設費の一番大きなウェイトを占めていた部分(約7割)を、直接発電原価に入れなくていいというケースが比較的多くなっています。

  • 山守発電所の水車を広島県宇品造船所にて、組み立て検査。

    山守発電所の水車を広島県宇品造船所にて、組み立て検査。

  • 1961年(昭和36)の小水力地点調査・岩手県内。織田さんは左端。

    1961年(昭和36)の小水力地点調査・岩手県内。織田さんは左端。

  • 小水力地点調査。織田さんは右から二人目。

    小水力地点調査。織田さんは右から二人目。

  • イームル工業八本松工場において、水車仮組み立て。中央が織田さん。

    イームル工業八本松工場において、水車仮組み立て。中央が織田さん。

  • 広島県の布野村農協・天神発電所(発電出力120kW)。左に写っているのは、若かりしころの沖さん。1960年(昭和35)。

    広島県の布野村農協・天神発電所(発電出力120kW)。左に写っているのは、若かりしころの沖さん。1960年(昭和35)。

  • 山守発電所の水車を広島県宇品造船所にて、組み立て検査。
  • 1961年(昭和36)の小水力地点調査・岩手県内。織田さんは左端。
  • 小水力地点調査。織田さんは右から二人目。
  • イームル工業八本松工場において、水車仮組み立て。中央が織田さん。
  • 広島県の布野村農協・天神発電所(発電出力120kW)。左に写っているのは、若かりしころの沖さん。1960年(昭和35)。

全量売電方式でスタート

当時の小水力発電というのは、すべて自家用なんです。愛媛の住友銅山同様、自分たちが起こした電気は自分たちが使う、というのが原則。

「そうではなくて、電力会社に売るんだ」と言ったのが、織田です。自分たちが使う電気は、従来通り、電力会社から買えばいい、と。こうすれば、配電会社との関係をあまり複雑にしないでやれるという狙いもありました。私は、この〈全量売電方式〉の仕組みを〈事業用発電所〉という呼び方をしています。

しかし、結局それをOKしてくれたのは、自分の古巣の中国電力だけでした。ほかの電力会社には、織田の力が通用しませんからNOと言われました。

ですから、中国地方の小水力発電所の設備は、すべて〈連係式(または誘導式)〉。当初から全量を売ることを前提にしていたから、自分で電気を起こさないで既設の配電線に接続して発電する仕組みになっています。織田が考えた〈連係式〉にすると、簡便な誘導発電機を使うこともあって、イニシャルコストもランニングコストも安く抑えられるんです。

こういうことで始めたんですが、資金が必要になる。それで織田は国に働きかけて、1952年(昭和27)〈農山漁村電気導入促進法〉を実現。その背後には、太田川水系水力発電所群の建設を通じて培った、有力メーカーとの信頼関係や政治家の働きかけがありました。のちに参議院議長になった重宗雄三(明電舎社長)とのつきあいもあったようです。

この法律は議員立法で成立し、今のような補助金制度ではなく、資金を借りる仕組みです。全量売電だから、借りても返せる当てがあるんです。

売電価格は、当時のお金で3円/kWh。今の価値でいえば30〜50円で、今よりずっと良かった。100kWの設備で1年間に100万円の利益が出る、といわれていたんです。給料が数千円の時代にですよ。だから、みんながやりたがった。

ところが、全国規模で見たときには、全量売電の仕組みができていないから、結局、実施されたのは中国電力管内中心に留まった。織田は中国電力管内に、50〜500kWの小水力発電所を、74カ所つくりました。最後のほうは大きくしないと収支が合わないから大きくなっていきました。

電力事情の変遷

織田が小水力を始めたころは、まだ石油による火力発電所もできなかった時代。しかも、食料増産と戦後復興の必要性から、農村を豊かにすることが求められた。だから、小水力発電が認められたんです。

その後、高価な石炭火力に変わって、1959、1960年(昭和34、35)ごろから安価な石油がどんどん入ってきた。何十万kWという大型の火力プラントもつくられるようになった。

このころから、電気需要も極端に増えていって、安い電気がたくさん必要になったんです。1960年(昭和35)12月に池田勇人内閣において長期経済計画〈所得倍増計画〉が閣議決定された時代です。

こうなると、小水力発電の影響力は小さくなってしまいます。あのころは石油が安く、1バーレル6ドル。「石油なら2円か3円でできるんですよ」って。小水力でやると、5円とか6円だった。地球温暖化効果ガスなんていう発想もなかったですし。小水力発電というものに、日本全部が関心を失ってしまいました。

〈自家用発電の余剰売電方式〉という仕組みがあって、使ったあとの余った電気は買い叩かれてしまう。これは任意契約だから、法律で保護されていません。いくらで買うかは当事者同士の話し合いで決まり、買わなくてもいいんです。

ただ唯一、中国地方だけは織田の理念が引き継がれて、最初から原価主義を取っているんです。コストがどれぐらいかかったかを考慮して、元が取れるように価格設定する。ですから、今でも10円プラスマイナスいくら、というところです。

そういうことで、我々も昭和40年代まで、小水力発電を細々と続けてきました。ただ、だんだん設備が古くなって、ランニングコストはかさむ、売電価格は上がらない、ということで維持が難しくなってきた。そこで提案したのは、やめるぐらいなら依託して続ける仕組みを考えてはいかがですか、ということです。

しかし、一番難しいのは、水というのはもともと地域のものですよね。それなのに他所(よそ)の人間が地域の権利を使って金を稼ぐ、ということが感情的になかなか受け入れ難い。そういうこともあって、委託まで踏み切れずに廃止された発電所もありました。

当社では現在、JA広島市の3カ所の発電所を受託運営しています。農協も合併を繰り返していますから、合併によって庄原農協では、九つの発電所を持っています。これだけ数が多ければ、コストが下がって事業として成り立ちます。

イームル工業は、小水力発電のためにつくった会社。織田がやるからといって、中国電力も資本を出した。しかし、織田の発想としては小水力発電のための会社だから電力会社の水力発電はやらないとの方針、そのため地元中国電力の水力発電所改修も他の会社がやっていた。ところが、1961年(昭和36)ごろになると、小水力発電の仕事がなくなってくる。それで電力会社の水力発電機器改修もやるようになりました。

しかし、1973年(昭和48)の第一次石油ショックで、いっぺんに風向きが変わった。石油火力にシフトして電源としての価値が低くなっていた水力に再び脚光が集まりました。

県営の小水力、電力会社の既存設備のバージョンアップなどなど、仕事が殺到。事務系の営業マンでは素早い対応ができないため、技術分野から営業に移っていた私は、1年365日の内、360日ぐらい働かされた。大企業(重電5社)だと高くつくので、うちぐらいの規模がちょうどいいということで、とにかく忙しかった。まあ、会社としては良い時代。昭和50年代は、売り上げが毎年、倍々に増えていきました。

しかし、技術向上した石炭火力の復活や原子力発電が進んで、昭和60年ぐらいから再び下火になってしまい、イームルはこの先どうするのかが課題となりました。営業の幹部になっていた私は、リスクはあるが大きな投資をして、小水力から中水力発電分野を目指そうと方針転換を提案し、中国電力の承認も得て実行されました。当時の電力会社では改修工事でもせいぜい数千kWの発電所しかやらせてもらえなかったのですが、広島市にあった本社を東広島市の現工場敷地に新築移転して、業務効率を高めコストの低減を図るとともに、組み立て工場増設やモデル試験場新設等の設備強化を行ない、電力会社や公営企業で5000kWまでの新設の認定が受けられました(現在は2万kWまでの認定)。このことは重電5社の独占であった水力発電機器業界に、大競争のきっかけをつくることにもなり、厳しい船出ともなりました。

ですから織田史郎の理念は生きているけれど、現実に今のイームルは、小水力発電でやっているわけではありません。しかし年間の売上比率は小さくなっていますが、全国での小水力発電の新設もあるし、納入した農協や土地改良区の発電所のメンテナンスを確実に行ない、小水力発電の明かりが消えないよう頑張っています。

水中タービン発電機

現在、小水力市場向けで力を入れているのは、水中タービン発電機です。スウェーデンのポンプメーカー、フリクト社が、世界に500カ所余り納入している製品の製造・販売の独占ライセンスを取得しています。

これは、小型プロペラ水車と発電機を一体化し、縦置き型にしたもので、水中に設置するため建屋を省略できるし、洪水時でも被害を受けにくい方式です。

プロペラ式水車のブレードの角度を変えることで、落差の多様性に対応できるから、水車発電機の標準化ができています。ただし50kWのものは実際にやってみると、水車が小さいためゴミが入り込んで抜けなくなってしまうこともあるので、今は100kWを最小機種にしています。また、〈連係式〉専用ですから、近くに配電線がきていないと使えませんし、出力が大きくなると線路容量や位置の関係もあり、計画時に電力会社との協議が必要です。

しかし、通常の半値ぐらいで簡便に設置できるので、浄水場や下水処理場、ダムの維持放流水、老朽化した水力発電機の更新などに最適です。

2006年度(平成18)から国内各所に納入され、順調に運転を続けています。海外でも、スペインに1台、イタリアの公共事業体へ昨年3台納入し、フランス、ドイツ、アメリカなどからも引き合いがきています。

水車発電機の標準化は、ずっと言われてきたことで、これができればコストが大幅に下げられます。水がないときはダウンして、ありすぎるときはオーバーフローして逃がせばいい、という緩い考え方にすれば可能なのですが、日本では1滴の水も逃がさず有効に使うことを目指すから、一つひとつカスタムメイドになり、コストも加算されてしまいます。

水中タービン発電機が、小水力発電に新たな可能性をもたらしてくれればいいですね。

  • 水中タービン発電機構造模式図

    水中タービン発電機構造模式図

  • 水中タービン発電機の汎用性の高さを表現したイラスト。
    1.ペンストック(導水管)(落差6~20m)2.分岐管(落差6~20m)3.傾斜管据え付け(落差6~20m)4.サイフォン(落差6~20m)5.開水路スルースゲート(落差5~10m)6.タンデム(1水槽2台)据え付け(落差3~10m)7.開水路シリンダーゲート(落差3~6m)8.地下式水車室(落差3~6m)9.コンクリートサイフォン(落差2~5m)

  • 構造がよくわかるように、敷地内に置かれたフランシス水車。

    構造がよくわかるように、敷地内に置かれたフランシス水車。

  • 試験設備

    試験設備

  • クロスフロー水車

    クロスフロー水車

  • 水中タービン発電機構造模式図
  • 構造がよくわかるように、敷地内に置かれたフランシス水車。
  • 試験設備
  • クロスフロー水車

小水力発電のピーク

私が入社したのは1958年(昭和33)で、小水力発電所建設のピークのときです。

全国の5万分の1の地図を集めて、適地探しに明け暮れました。当時、入手できる5万分の1の地図は、1255枚。毎日毎日、地図とにらめっこで、織田さんが印をつけている適地に、何kWの発電所がつくれるのかを計算しました。落差は等高線を数え、水量は、堰堤をつくる上流側の流域面積をプラニメーター(紙に描かれた図形をなぞり面積を計測する装置)といってクルクル回す文具で測り、その地方の年間の河川流量から単位面積あたりの水量を計算し、測定した流域面積を掛けて算出しました。

当時、建設省が主な河川の年間流量データを公表しておりそれを使い、毎日毎日先輩と二人で計算した。計算機もない時代、そろばんと計算尺でやるわけです。

家に帰って夜寝るときにも、天井に地図が浮かんでくる、正直言って、本当にこれで続けられるのだろうか、と気弱になってしまったが、2年間もしたら現場が忙しくなってこの作業からは解放されました。

私が入ったときはまだ18人の会社で、同期は5人ですが、小水力がピークの時代で後輩も数多く入ってきて、瞬く間に大きくなっていった。1年間に6カ所も7カ所も新規建設を掛け持ちでやりましたが、やっぱり、現場のほうが楽しいですよ。

ただね、中国電力が配電線を引いてきてくれるまで、現場には電気がないので、作業も朝は夜明けとともに夜は日暮れとともに、なんです。だから冬の現場作業はすごく短くなるし、逆に夏はものすごく長い。冬はもうすこしやらんと工程が消化できないと心配し、夏は身体がくたくたになるまでやった。そういう思い出がありますよ。

織田さんというのは自分が天才だから、誰もが何でもできるもんだと思っているんです。もしできないのなら努力しとらんからだという発想。だから、電気屋の私が地図で発電所の立地計算をするのも、適任かどうかなんて関係ない。

先輩に一度、建設現場に連れて行かれた経験だけで、地図ばっかり見ていた若者が、新設現場に電気機器責任者として派遣されるのです。機械担当嘱託社員はついてきてくれましたが、通水時からは一人で試運転竣工検査、保守員指導までやらすのです。今考えたら、信じられないようなことばかりです。そういう時代だったんですよ。

小水力の巨人 織田史郎

私もこの人の側近として、長いことそばにいましたが、この人は天才です。

学校は、今でいう工業高校を中退している。首になったんですよ。自分が毎日猛勉強していって、先生が答えられないような質問しては先生たちを困らせていたんです。そのころたまたま県知事が学校視察に来て、だれかがドアノブに微電流を流してビックリさせるといういたずらをやった。それを案内していた校長が先に触って大騒ぎになった。本当に織田がやったのかどうか、真偽はともかくこれを理由に退学になった。

織田は確かにすごい人なんだけれど、自分の考えが正しいと思えば、相手の立場や考えは無視してそれが通るもんだという頑固さがあった。だけれど、それぐらい強い意志を持っていたから、あれだけのことがやれたともいえます。

織田史郎は、1928年(昭和3)のアムステルダム・オリンピックで、日本で最初に金メダルを取った織田幹雄(三段跳び)の実兄です。10歳下の幹雄は家庭が経済的に苦しかったので、大学にいくのをやめると言った。しかし、広島県の陸上界ではすごい記録を持っていたので、史郎は「俺がなんとかするから陸上を続けろ」と早稲田大学に行かせたんです。

電力会社の技術者がいいのは、学歴だけでなく資格制度によって昇格できるところなんです。学歴がなくても国家試験は受けることができるので、織田は退学後独学で電気主任技術者第三種をとり、入社後は大卒でも難しい第一種も取ってしまった。電力会社の中でも、それだけの資格を取れる人は少なく、織田はどんどん出世して、20代で発電所の所長になったりしています。

ものすごい勉強家で、水力発電所建設担当になると、発電所をつくるために発注したメーカー(重電5社)が出してきた資料を、全部自分でチェックし、残した資料をもとに、イームルの設計マニュアルを独自につくったのです。だから起業して小水力発電を手がけることになったとき、全部自分でやれたのです。

織田は「日本は資源がないと言うけれど、水力という資源は豊富にあるじゃないか、それを活用しなくては」と、一生涯を賭けて訴え続けました。当時は、石油が安かったから、いつも火力発電との単純比較をされていた。「石油は地球の限りある資源だし、ましてや外国から買ってこなくてはならない。コストは多少高くても、国産のエネルギーということで、水力には価値があるんだ」と、いつも言っていました。

また、「小水力は地域のエネルギー」と、あのころから言い続けていたんです。全国規模で見ると、大規模水力発電からこぼれた適地が無限にあると言い、その調査を自費で現地調査もしてデータもつくり、論文を10冊発表しています。

小水力発電のこれから

せっかく日本にあるエネルギーを有効に使おうという織田の理念は、現代でもまったく遜色ありません、問題はどうやってそれを使うか。

中国地方では小水力発電により、今でも農協の収入になっている。結果として地域に還元されていますが、一人ひとりには実感はない。

発電所をつくるときには村中が沸いてね。竣工式は学校でやるんですが、織田は当然、現場担当の私も呼ばれてもうへとへとになるまで飲まされるほど喜んでもらった。ところが数年して行ってみると、みんな関心がなくなっているの。つくるときは村人が雇用されたりして恩恵があるんだけれど、済んだら農協にしかお金が入ってこないから。

だから、これからはそういうやり方ではなく、「地域のエネルギーなんだ」という意識を長期にわたって持ってもらえるような仕組みが必要。本当に実感してもらおうと思ったら、自分たちで出資して配当を受け取るとか、雇用の場にしなくては、というのが私の思いです。

あとは、小水力発電では普通の企業のように常勤の人は不要ですから、退職したシルバー人材などで資格を持った人をうまく使っていったらいいと思います。

地域エネルギーとしての小水力発電は国家のエネルギー政策でもあるのです。新しくできた〈再生可能エネルギー特措法〉(電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法 2011年8月26日成立)は、これまで地域独占の電力会社保護の立場でできていた小水力関係の法律とは異なり、大きな期待が持てます。しかし、今度は補助金がないんだから、設備資金は全額自分たちで用意しなきゃならないわけで、全量買い取り制度だけでいかれるのかどうか。

全量買い取りといっても、10年間の期間限定ですから、その間に減価償却できないといけないし、そのあとの買い取り価格がどうなるかも決まっていない。中国電力がやってくれているような原価主義になるのか、買い取り価格を下げて続けていくのか、そこのところを明確にしないと先に進めませんね。

日本人は、すぐ反対側に振り切れるじゃないですか。石油火力や原子力発電が主流だったときの小水力発電不要の論議が、3・11震災後の状況ですべて自然エネルギーであるべしと、反対側に振り切った話になってしまうことに危惧を覚えています。それは非常に恐いことだと思う。

水力発電というのは、確かに使い始めたら100年使える。だから息の長い設備であることは間違いないんだけれど、その間の時代の変遷にどう適応していかれるか。我々のころは減価償却が25年だったから、最初にあんまり良いことを言って、本当に25年先に保障できるのかと考えたものです。

当社は60年間小水力発電をやってきて、私も多くの場面に立ち会ってきた。最初の理念もよかったし、地域社会に非常に貢献したことも事実。だけれど、時代が変わると厳しい状況に追い込まれたことも、また事実なんです。

この経験は、長期を見据えた国家のエネルギー政策がないと、地域の活性化も、それに取り組む関係者も、その時代の状況に振り回されるという証しでもあります。

  • 太田川の支流、水内川にある「水内川第一発電所」。

    太田川の支流、水内川にある「水内川第一発電所」。発電開始は、1952年(昭和27)5月18日で、今はイームル工業が依託されて管理している。最大出力は170kW。上流部に専用の堰堤を設け、水路で水圧鉄管に導水して流下させている。水車のケーシング以外、すべてリニューアルしているそうだ。

  • 太田川の支流、水内川にある「水内川第一発電所」。


(取材:2011年8月4日)

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