機関誌『水の文化』44号
しびれる水族館

松島の幸と恵み
マリンピア松島86年の歩み

2011年5月4日、神戸から石巻に入った救援医療チームの一員が撮影した当時の様子。いち早く再開したマリンピアは多くの人に元気と希望を与えた。写真提供:松田聡さん

2011年5月4日、神戸から石巻に入った救援医療チームの一員が撮影した当時の様子。いち早く再開したマリンピアは多くの人に元気と希望を与えた。写真提供:松田聡さん

日本三景の一つ、松島湾の最奥部に位置するマリンピア松島水族館は、2011年3月11日の東日本大震災で、配管やポンプに損傷を受け、泥にまみれましたが、4月23日には早くもオープンして、日本中の人に元気と希望を与えてくれました。その蔭には、西條正義さんの専門知識と、何でも自分たちで行なう日頃からの姿勢があったのです。今年、創設86年目を迎えた当館の長い歴史と再出発への抱負についてうかがいました。

西條 正義さん

マリンピア松島水族館館長
西條 正義(さいじょう まさよし)さん

1948年宮城県生まれ。東北学院大学工学部卒業後、松島水族館(当時)に入社。副館長を経て、1999年より、現職。公益社団法人日本動物園水族館協会の役職 動物園水族館設備会議代表幹事(1990〜2012)、情報ネットワーク委員会会長(1997〜2010)、運営委員(総務部)(1998〜2005)、理事会監事(2000〜2003)、理事(2004〜2007)、ブロック代表理事(2006〜2007)
主な著書・論文に、『水族館における新しい水処理技術』(水処理技術 1992,8)、『コージェネレーションシステムの運転実績ー松島水族館の例』(空気調和・衛生工学 1992,11)、『水族館の熱源設備』(建築設備と配管工事 1994,5)ほか

創業期

マリンピア松島水族館は、1927年(昭和2)松島水族館として開業しました。現在営業している一番古い水族館は公立の魚津水族館(富山県)で、当館は2番目に古いです。また、民営の水族館としては日本で一番長い歴史を持っていて、今年86年目を迎えます。

開業した年は、私鉄宮城電気鉄道(のちの国鉄仙石線)が松島まで開業した年です。仙台から鉄道が通るということで、最寄りの松島公園駅(のちの松島海岸駅)開業に合わせて塩竈・松島への観光集客が大いに期待され、宮城電鉄は多額の投資を行ない、松島公園内に劇場や浴場を設置するなど多角的に事業を展開しました。

そんな時代に、高橋良作さんという大河原町出身の個人の方が尽力されて水族館が完成しました。まだ、日本の水族館は草創期でしたが、砂濾過槽を利用した閉鎖循環式の設備を導入するという、先進的な水族館だったといわれています。

太平洋戦争の前後は、閉館を余儀なくされましたが、1950年(昭和25)創始者の2代目である高橋良夫館長が、戦時中に疲弊した設備を更新し、再建を果たしました。高橋良夫さんは医師であり、学者肌でもあったようで、この時期には標本を充実させるなど博物館的傾向を強めたようです。1952年(昭和27)には、宮城県における戦後初の博物館登録を果たし、財団法人として認可されました。

当時は、冬前に魚を逃がしてやって水族館は閉館する、という形態でした。アカミミガメが水温低下で死んでしまう前に、桂島沖で酒を振る舞って放流するのが恒例行事になっていて、新聞記事にも紹介されています。

入口に竜宮門がありまして、それがシンボルのようになってみなさんに親しまれていました。私たちが受け継いだときにはニホンザルもいて、ブランコや滑り台といったレベルですが遊園地も一緒になっていました。博物館としての使命や、教育的役割を果たす一方で、松島という観光地での娯楽施設としても機能していたのです。

1974年(昭和49)まで、水族館の象徴だった竜宮門。写真提供:マリンピア松島水族館

1974年(昭和49)まで、水族館の象徴だった竜宮門。写真提供:マリンピア松島水族館

電気に強い館長

前の経営者が辞められるとのことで、1969年(昭和44)に仙台急行が経営を引き継ぎました。水族館を引き継いだのは、私の父でした。当時私は、工学部の電気科で学ぶ学生で、今の社長は2歳上の兄ですが、兄も当時はまだ学生でした。

通年営業になったのは、1972年(昭和47)ごろだったと思います。古い建物のときは、水温の維持がうまくできないようなつくりでしたから、冬の営業は難しかったのです。冬の間は閉館していましたが、熱帯魚や入手が難しい生きものは飼い続けていましたから、兄も私もしょっちゅう泊まりがけで夜勤をやらされていました。

1974年(昭和49)に竜宮門を取り壊して、本館(現在の第一水族館)を建て、〈魚の公園 松島水族館〉に改称しました。1980年(昭和55)に新館(現在の第二水族館)を増築しています。

私は畑違いの勉強をしてきたので、今でも生物のことは得意ではないのです。

しかし、新しくできた水槽の濾過器をすべて密閉加圧型にしたり、熱源制御に日本で初めてコンピューターを導入したりといったところで専門知識を生かすことができました。水族館の中にも電気や機械の知識は必要ですから、別の場面で役立っているのかな、と思います。

  • パンダイルカの愛称で子どもたちの人気を博したイロワケイルカ。

    パンダイルカの愛称で子どもたちの人気を博したイロワケイルカ。

  • 照明を効果的に使ってクラゲを美しく展示する。

    照明を効果的に使ってクラゲを美しく展示する。

  • 一世を風靡したウーパールーパーも。

    一世を風靡したウーパールーパーも。

  • パンダイルカの愛称で子どもたちの人気を博したイロワケイルカ。
  • 照明を効果的に使ってクラゲを美しく展示する。
  • 一世を風靡したウーパールーパーも。

デンキウナギの感電体験

電気の知識を生かすものとして、〈おもしろアクアラボ〉でデンキウナギの感電体験を始めました。

デンキウナギの身体の後ろ半分には探査用の発電器官があり、餌を探すときに身体の後ろ半分から弱い電気を放電して、前半分には餌や敵をしびれさせる発電器官があり、餌を見つけたときに前半分から強い電気を放電します。電圧だけでいったら800Vもあるんですよ。ただ瞬間的なことですので、電圧だけ高くても電流はそれほど取り出せないのです。

体温を色で表わす方法としてサーモグラフィがありますが、同じように電位分布を色で表わす方法があります。電気は目に見えないので、そういう方法で電気を可視化して展示する工夫をしています。補食時の放電は、一度に3回ぐらいのパルス(脈動波)を発します。1000分の1秒ぐらいのパルスが、ごく短い時間に3回ぐらい発せられることが電圧波形に表われています。

よく、「水は電気を通しやすいので、放電すると自分が感電してしまうのでは?」と質問されますが、デンキウナギは内臓などを絶縁体様のもので覆って守っているから大丈夫なのです。

テレビ番組の企画で、デンキウナギがどれぐらい放電し続けることができるのかを実験したことがあります。餌をやって放電させるのですが、胃袋が小さくてすぐに満腹になってしまうので、餌は少しずつやらないとなりません。それでも、あまり何度も餌やりしていたら、その内、反応しなくなってしまいました。

目が弱いから、電気信号を出すのでしょうが、それにも諸説あって、最初は見えているのだが電気を出しているうちにやられてしまう、という説もあります。

〈おもしろアクアラボ〉では、テッポウウオが捕食のために水を飛ばすのをアクリル板に餌をつけて的当てするという体験もできて、来場者の人気スポットになっています。

  • 西條館長がデンキウナギの放電を可視化した電位分布図。ウナギの前半分からは高い電気が出ていることを赤色が表わしている。放電するときのパルスもグラフから読み取れる。写真提供:マリンピア松島水族館

    西條館長がデンキウナギの放電を可視化した電位分布図。ウナギの前半分からは高い電気が出ていることを赤色が表わしている。放電するときのパルスもグラフから読み取れる。写真提供:マリンピア松島水族館

  • 感電体験の電気は弱めてある。飼育員がうっかりしてもろに感電すると、痺れがあとに残るほど強烈だとか。モニターを見ながら説明する西條館長。

    感電体験の電気は弱めてある。飼育員がうっかりしてもろに感電すると、痺れがあとに残るほど強烈だとか。モニターを見ながら説明する西條館長。

  • 西條館長がデンキウナギの放電を可視化した電位分布図。ウナギの前半分からは高い電気が出ていることを赤色が表わしている。放電するときのパルスもグラフから読み取れる。写真提供:マリンピア松島水族館
  • 感電体験の電気は弱めてある。飼育員がうっかりしてもろに感電すると、痺れがあとに残るほど強烈だとか。モニターを見ながら説明する西條館長。

新たな展示生物への挑戦

マンボウの長期飼育展示記録を更新したり、東北初のスナメリを展示するなど、新しいことに挑戦し続けてきました。イロワケイルカやラッコなどの人気動物が登場するたびに、近隣の子どもたちがワクワクしながらやって来てくれました。

海外での収集活動にも挑戦しました。

1986年(昭和61)には当時のサンシャイン国際水族館との共同プロジェクトで、南米アマゾン川へ魚類調査と採集に行っています。

はるばる松島まできた55種730匹の新着魚類には初見のものも多く、種名まで同定できない魚もいて、現地名をそのまま表記したものもありました。同時開催した〈大アマゾン展〉も大変な人気となりました。

この年は、チリ・マゼラン海峡へも採集に隊員を派遣しました。陸の動物として大人気のパンダと同じ白黒柄のイロワケイルカの捕獲・採集プロジェクトで、アマゾンでご一緒したサンシャイン国際水族館に鳥羽水族館を加えた三館共同プロジェクトでした。

クリスマスには帰国できる予定で出発しましたが、マゼラン海峡は強風で出航できない日も多く、クリスマスどころか正月も現地で迎え、17頭のイロワケイルカとチャーター便で出立できたときには翌年3月になっていました。

当館にやってきた6頭は、長旅の疲れも見せず、元気に適応し、パンダイルカの愛称で地元の子どもたちに大変親しまれています。

1989年(平成元)には、日本一のペンギンランドをお披露目しました。チリでのイロワケイルカ収集でできた現地とのネットワークを生かし、国内で調達したフンボルトペンギンとジェンツーペンギン、ケープペンギンに、マゼランペンギン、イワトビペンギン、マカロニペンギンを加えた6種90羽を展示しました。屋外展示のほかに冷房設備付きの屋内展示場も備えています。

この年にCIを一新し、長年親しまれた〈魚の公園 松島水族館〉から〈マリンピア松島〉に改称しました。



  • バックヤードを案内してくださった展示部部長の神宮潤一さんは、「当館の建物は古いですが、水圧がかかることを前提にした構造になっているので、東日本大震災の大地震でも水槽が壊れることはありませんでした。

    バックヤードを案内してくださった展示部部長の神宮潤一さんは、「当館の建物は古いですが、水圧がかかることを前提にした構造になっているので、東日本大震災の大地震でも水槽が壊れることはありませんでした。ただし、配管はずいぶん被害を受けました」と言う。「津波で幾つかの命が失われたことは残念なことでしたが、助かった命をつなぎたいという思いがあったから、一日でも早い復旧をと頑張れた」とも。

  • 展示水槽を上部から見たところ。

    展示水槽を上部から見たところ。

  • 展示水槽を上部から見たところ。

    展示水槽を上部から見たところ。

  • 裏方は餌の準備で大忙し

    裏方は餌の準備で大忙し

  • 裏方は餌の準備で大忙し

    裏方は餌の準備で大忙し

  • マリンピア松島水族館の一番の呼びものは、広場で行なわれるペンギンの餌やりタイム。

    マリンピア松島水族館の一番の呼びものは、広場で行なわれるペンギンの餌やりタイム。飼育場からスロープを伝って外に出てきたペンギンが、飼育員さんの手から餌をもらう。餌やりは、どの個体がどれだけ食べたか記録をつけながら、手際よく行なわれていた。

  • 水中では魚のように軽やかなペンギンも、地上ではよちよち歩き。

    水中では魚のように軽やかなペンギンも、地上ではよちよち歩き。

  • オレンジ色のくちばしは、比較的おとなしいイワトビペンギン。

    オレンジ色のくちばしは、比較的おとなしいイワトビペンギン。

  • 水中では魚のように軽やかなペンギンも、地上ではよちよち歩き。子どもたちも大喜びであとを追う。

    水中では魚のように軽やかなペンギンも、地上ではよちよち歩き。子どもたちも大喜びであとを追う。

  • もう一つの人気プログラム、アシカのショータイム。ほんのちょっとのサインで思い通りの動作ができるように訓練している。握手もしてくれるが、やはり本領を発揮するのは水の中。イルカ同様、ジャンプ力が素晴らしい。

    もう一つの人気プログラム、アシカのショータイム。ほんのちょっとのサインで思い通りの動作ができるように訓練している。握手もしてくれるが、やはり本領を発揮するのは水の中。イルカ同様、ジャンプ力が素晴らしい。

  • 握手もしてくれるが、やはり本領を発揮するのは水の中。

    握手もしてくれるが、やはり本領を発揮するのは水の中。

  • イルカ同様、ジャンプ力が素晴らしい。

    イルカ同様、ジャンプ力が素晴らしい。

  • バックヤードを案内してくださった展示部部長の神宮潤一さんは、「当館の建物は古いですが、水圧がかかることを前提にした構造になっているので、東日本大震災の大地震でも水槽が壊れることはありませんでした。
  • 展示水槽を上部から見たところ。
  • 展示水槽を上部から見たところ。
  • 裏方は餌の準備で大忙し
  • 裏方は餌の準備で大忙し
  • マリンピア松島水族館の一番の呼びものは、広場で行なわれるペンギンの餌やりタイム。
  • 水中では魚のように軽やかなペンギンも、地上ではよちよち歩き。
  • オレンジ色のくちばしは、比較的おとなしいイワトビペンギン。
  • 水中では魚のように軽やかなペンギンも、地上ではよちよち歩き。子どもたちも大喜びであとを追う。
  • もう一つの人気プログラム、アシカのショータイム。ほんのちょっとのサインで思い通りの動作ができるように訓練している。握手もしてくれるが、やはり本領を発揮するのは水の中。イルカ同様、ジャンプ力が素晴らしい。
  • 握手もしてくれるが、やはり本領を発揮するのは水の中。
  • イルカ同様、ジャンプ力が素晴らしい。

東日本大震災

東日本大震災のときには、2mの津波がきました。松島湾は湾の内側が壺のように膨らんでいるので、津波がきても力が拡散していくため、ほかの地域と比べて津波が低く抑えられたのです。

それでも中央広場には泥が厚く堆積し、流れ着いた漂流物が散乱してひどい惨状でした。1978年(昭和53)の宮城県沖地震の経験があるので、室内に水が入らないように防潮板を備えていたのですが、それを乗り越えて給餌室や電気室、機械室に水が入ってしまいました。

屋外で飼育していたビーバーは、津波に流され、油分を含んだ海水に浸かりました。洗ってやったのですが、そういうものの影響なのか体温低下が原因なのか、あとになってから6頭の内、3頭が死んでしまいました。

実は、当館は1987年(昭和62)からコージェネレーション(cogeneration:発電時に発生した排熱を利用したエネルギー供給システムの1つ)を採用していました。宮城県沖地震のときに長期間の停電を経験しましたし、当時は石油が安かったので、安上がりで安心な自家発電を導入していたのです。

そのお蔭で、今回の津波のときは停電は免れました。しかし、地震で配管の一部もやられ、マンボウを死なせてしまいました。

水没して使えなくなった設備類は、すべて自分たちで修理しました。何もかもが泥だらけですから、水槽の循環ポンプはモーター部分を分解して鍋でグラグラに沸かしたお湯に部品を入れて塩抜きしました。思いがけず、私の専門の工学知識が役立ったのです。

水洗いには真水が必要となります。洗浄用の水は、用水池やグループ会社で所有する近くの温泉源泉から運びました。水族館には水を運ぶ設備があるので、それらが大いに活躍しました。

毎日、ヘドロの片付けとかポンプの修理とか。なんでそこまでやれたのかと聞かれることもありますが、日頃飼育している生きものですから、死なせたくないという強い想いがあったからです。日頃より、自分たちでポンプなどの修理を手がけ、修繕の技術と部品の準備があったことも幸いでした。4月23日にオープンしたときに、「励まされた」と言ってみなさんが喜んでくれました。これが、何よりもうれしかったですね。

  • 津波の被災直後のマリンピア松島。松島湾にあるたくさんの島が津波を抑えてくれたのだが、それでも泥や漂流物が流れ込み、売店のガラスが割れて商品などもすべて流されたという。
    写真提供:マリンピア松島水族館

  • 配管類は泥に埋没したのを掘り起こし分解して熱湯で洗い、乾かしてから組み立て直した。電気に強い西條館長の指揮の下、普段から自分たちでメンテナンスを手がけてきた経験が役立った。
    写真提供:マリンピア松島水族館

藻場の再生

東日本大震災で松島湾の藻場が壊滅状態にあります。アマモは砂礫地に生えていたのですが、津波で土ごと持っていかれてしまいました。

水槽に入れたアマモの調子は、泡の出方を見るとわかるのです。植物が光合成するときに酸素を出します。それを水槽越しに泡で見ることができます。調子が悪いと光合成しなくなるんですよ。水生植物によって水環境が保たれていることがよくわかりますね。

水族館を営業することができたのも、松島湾の海の恵みのお蔭です。ですから、藻場の再生や、松島湾で盛んに行なわれてきた牡蠣と海苔の養殖など、貢献できることを行なって松島との関係をつなぎながら、ご恩返しをしていきたいと思っています。

  • マリンピア松島では、松島湾を再現した水槽を展示してアマモの藻場復活にも協力している。アマモから出る水泡は酸素。

    普段から水の入れ替わりが乏しい松島湾。今回の津波によって、砂が持っていかれてアマモの生息地も大打撃を受けた。マリンピア松島では、松島湾を再現した水槽を展示してアマモの藻場復活にも協力している。アマモから出る水泡は酸素。

  • 植物が、二酸化炭素を取り込んで酸素を出していることが目に見える形で繰り広げられていた。

    植物が、二酸化炭素を取り込んで酸素を出していることが目に見える形で繰り広げられていた。

  • 餌の準備をする厨房室への入口。津波に備えて入口に堰板をはめて防水する仕組みが備えられていたが、3・11ではこの高さを乗り越えて水が入ってしまった。

    餌の準備をする厨房室への入口。津波に備えて入口に堰板をはめて防水する仕組みが備えられていたが、3・11ではこの高さを乗り越えて水が入ってしまった。

  • マリンピア松島では、松島湾を再現した水槽を展示してアマモの藻場復活にも協力している。アマモから出る水泡は酸素。
  • 植物が、二酸化炭素を取り込んで酸素を出していることが目に見える形で繰り広げられていた。
  • 餌の準備をする厨房室への入口。津波に備えて入口に堰板をはめて防水する仕組みが備えられていたが、3・11ではこの高さを乗り越えて水が入ってしまった。

長い歴史にピリオドを

施設もだいぶ古くなってきて、建て直しを検討しました。同じ場所に建て直せるのがいいのですが、生きものがいるのでそれも難しい。特別名勝内にあるための規制も厳しく、今より大きな建物を建てることができないことがわかって断念しました。

当初は自分たちでリニューアルする計画でしたが、最終的には新しい水族館の飼育業務を私たちが委託される形に落ち着きました。2014年(平成26)の11月ぐらいまでここで営業を続けて、2015年(平成27)4月ぐらいに新しい場所で営業開始する予定です。

この敷地は県から借りているものなのです。リニューアル後も引き続きお借りして、ここの立地ならではのことをやりたいと思っていますが、まだ計画は固まっていません。

うちはお金もないし、宣伝も下手なので、積極的に来場者の誘致などはしてこなかったのですが、有り難いことに地域の水族館としてニュースや新聞に取り上げていただいてきました。仙台から二十数km、電車で来ても30分ですから、近いというメリットもあるのでしょう。仙台の子どもたちに限らず、近県の子どもたちが遠足で必ず来てくれる場所にもなっていて、長年親しまれてきたのです。春先に多く出現する、湾内に迷い込んできた生きものを保護したり、地域に根ざした水族館として営業してきました。

昔子どもだった人にも、閉館前にもう一度訪ねていただけたらうれしいです。

(取材:2013年4月10日)

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