機関誌『水の文化』53号
ぼくらには妖怪が必要だ

ひとしずく
ひとしずく(巻頭エッセイ)

歪んだ自然との結びつき

ひとしずく

哲学者
内山 節(うちやま たかし)さん

1950年(昭和25)東京生まれ。1970年代から東京と群馬県の山村・上野村との二重生活を続ける。NPO法人森づくりフォーラム代表理事。『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』『貨幣の思想史』『「里」という思想』『新・幸福論―「近現代」の次に来るもの』『内山節著作集(全15巻)』など著書多数。

かつての日本の人々は、みえている世界の奥にみえない世界があると考えていた。みえているのは現象の世界であり、みえない世界に本質があるというとらえ方である。  

たとえば「私」をみても、みえているのは私の現象だけだ。背が高いとか低いとか、どんな話し方をしてどんなことについてよく語るとか。ところが「私」の本質は何かと問われればよくわからない。誰も気づいていない本質があるかもしれないし、私自身もまた自分の本質を知らないのかもしれない。

自然の本質も同じことだ。暑い夏が来たり嵐に襲われたりといった現象は知っていても、自然の本質とは何かと聞かれれば満足な答えを出せる人はまずいないだろう。自然の本質もまたみえない世界だ。

妖怪や物の怪も、それがみえるかたちで現れるなら現象の世界なのである。それは妖怪や物の怪の本質ではない。

とするとすべてのものの本質はどこにあるのだろうか。かつての人々は、それは結び合う世界にあると考えていた。私たちにはみえない、気づかないだけで、すべてのものは奥の方で結び合っている。自然も人間も、最深部では結び合う存在をもっていて、この共通の存在から現れてきた現象が、ひとつひとつのものであり、私であったり、他の誰か、木や草や動物であったりする。

だから奥にある結び合う世界が「自然(じねん)」であることを人々は願った。自然(じねん)とは「おのずから」ということであり、作為の入らない本来のものという意味でもある。自然(じねん)に真理の世界、それゆえに神仏の世界をみたといってもよい。

ところが人間たちの行いが、自然(じねん)の結びつきをゆがめてしまうことがある。その結果古代の人たちが一番恐れたのは祟(たた)りだった。たとえば奈良時代には御霊(ごりょう)信仰が広がったが、それは謀略などによって命を落とした人が怨霊(おんりょう)となってこの世に祟るというものである。菅原道真は祟り神としてあまりにも有名だが、人々は怨霊を鎮めるためにいろいろなことをした。人間たちの誤った行いが自然(じねん)の結びつきをゆがめ、その結果怨霊が祟るという現象が生みだされたのである。だから人々は自然(じねん)の結びつきを回復するために努力しなければならなかった。

おそらく妖怪や物の怪も、結びつきのゆがみから生まれてくるものなのだろう。ただし江戸時代になると、それをも生きる世界の「友人」にしてしまう傾向も生まれた。絵画として妖怪が描かれ、カッパは少々悪さをする村の居住者になっていく。人々は結びつきのなかのゆがみも許容するようになり、それがいまに伝えられるようになった。

若い作家たちが自ら考案した妖怪グッズを出品する「妖怪アートフリマ モノノケ市」に人々が集う。

若い作家たちが自ら考案した妖怪グッズを出品する「妖怪アートフリマ モノノケ市」に人々が集う。その会場は、平安京を造営する際、陰陽道によって方位の厄災を解除する社として創建された「大将軍八神社」



PDF版ダウンロード



この記事のキーワード

    機関誌 『水の文化』 53号,ひとしずく,内山 節,水の伝説,宗教,妖怪,自然,信仰

関連する記事はこちら

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ページトップへ