機関誌『水の文化』53号
ぼくらには妖怪が必要だ


Report3

遠野に息づく民話の奥深さ

遠野市内の和野(わの)集落。

遠野市内の和野(わの)集落。この道はかつて山を越えて大槌町まで通じる近道だったという

民俗学者の柳田國男が執筆した『遠野物語』の舞台として知られる岩手県遠野市。「河童」の好物のキュウリを釣り竿から垂らしている「カッパ淵」は有名だが、この地には河童だけでなく「座敷童子(ざしきわらし)」や「オシラサマ」もいる。これらは妖怪なのか神様なのか……。渾然一体としているが、その理由は遠野の歴史的背景に深いかかわりがあった。

岩手県遠野市

『遠野物語』の情景が残る民話の里

霊峰・早池峰山(はやちねさん)や六角牛山(ろっこうしさん)、石上(いしがみ)山などに囲まれた遠野は、妖怪譚、神隠しなど地域に伝わる物語を今でも語り部が伝承する「民話の里」だ。

『遠野物語』は1910年(明治43)、遠野市土淵(つちぶち)町出身である民話収集の先駆者・佐々木喜善(きぜん)(注)が語った遠野の不思議な現象を、柳田國男が聞き書きして119話にまとめたものだ。後に発刊された『遠野物語拾遺(しゅうい)』に収録されたものも合わせると418話にも上る。

遠野にはなぜ、これほど多くの言い伝えがあったのか。

NPO法人遠野物語研究所(2014年に解散)で研究員を務めた大橋進さんによると、「人の交流が盛んな場所ほど伝説が生まれる」という。

遠野は三陸沿岸と旧奥州街道のちょうど中間にあたり、沿岸部や街道へ行くための中継地かつ交通の要所として栄えた場所だった。

「昔は宿泊する人間の恩義として自分が今まで歩いて回った地域の珍しい話を聞かせる風習がありました。だから人が多ければ多いほど噂話や物語が多く集まってきたのです」

遠野物語の舞台の中心である土淵町の山口集落などを大橋さんに案内していただいた。大橋さんの説明を聞きながら、幼いころから曾祖母や親戚に昔話を聞かされ育ったという喜善の生家や、座敷童子が出て行ったことで衰えた山口孫左衛門の屋敷跡、カッパ淵、デンデラ野(の)を巡る。デンデラ野は村の老人たちが家族の負担にならぬようにと身を引き、仕事をしながら共同生活を送り最期の迎えが来るのを待った場所だ。現在は畑地となっている。

また、大橋さんによると遠野にはカッパ淵が10カ所ほどある。「河童釣り」ができることで知られる常堅寺(じょうけんじ)裏手のカッパ淵のほかにも、「太郎淵」や「姥子(おばこ)淵」など河童が出たとされる場所は多い。

遠野の人は座敷童子や河童を純粋な「妖怪」とは捉えていない。「柳田國男が遠野物語を書いたときに座敷童子を妖怪の部類に入れたことで座敷童子は妖怪になった」と大橋さんは言う。「遠野では座敷童子は神様。河童は飢饉で餓死した子どもを川に流したなどといわれていることから、供養の意味も込めて河童伝説が残ったのでしょう」。

(注)佐々木喜善
1886年(明治19)生まれ。井上円了の哲学館、次いで早稲田大学文学科に学ぶ。1933年(昭和8)に48歳で亡くなるまで『江刺郡昔話』『紫波郡昔話』などの昔話集を刊行し、『奥州のザシキワラシの話』、『オシラ神に就いての小報告』などの論考も遺す。金田一京助に「日本のグリム」と言わせしめた人物。

大橋進さん

「遠野は神隠しの話も多いんです」と言う大橋進さん

小学生も含めて語り部を養成

そもそも遠野が「民話の里」として知られるようになったのはいつごろだろう。これについて遠野市観光協会の専務理事兼事務局長、運萬(うんまん)勇さん(以下、勇さん)に聞くと、遠野物語が発刊される前から遠野は民話の里だったそうだ。

「一般に浸透したのは『遠野物語』の影響ですが、遠野では子どもが寝るときに古い言い伝えを聞かせるのは昔から普通のことでした。おそらくほかの地域にもあったと思いますが、伝承の一つひとつが今に残っているのが遠野の特徴です」

しかし、伝承を受け継ぐ語り部が減っているのも現実だ。打開策として行政は、1000人の語り部を新たに育成する「遠野『語り部』1000人プロジェクト」を2009年から実施。語り部として認定されれば認定証がもらえる。これと連動して市内の四つの小学校でも昔話を覚える取り組みを行なっている。「子どもたちは忘れたりもするが一人でも二人でも語り部になってくれれば」と勇さん。

また、2015年からは市内の名所を音声ガイドとともにミュージアム的に楽しめる「聴き旅」も始めた。

課題があるとはいえ、遠野は北海道からの修学旅行先としても人気が高く、カッパ淵には年間10万人が訪れる。勇さんは「観光は仕掛けが大事。たんに昔話を聞いてくださいではもうダメ。より多くの方に来てもらえるよう力まず焦らずできることを考えたい」と話してくれた。

運萬勇さん

「たくさんの民話が今も残っていますよ」と話す運萬勇さん

厳しい暮らしが生んだ河童の切ない伝承

遠野市の有名な語り部が、「カッパおじさん」こと運萬治男さん(以下、治男さん)だ。治男さんは市公認の「守(まぶり)っ人(と)」として、15年ほど前から常堅寺裏手のカッパ淵を訪れた観光客にさまざまな民話を聞かせている。

治男さんは言う。「民話と昔話は違う。読み書きができない、貧しい、そんな民衆の暮らしのなかで子や孫になんとか今よりいい生活をさせたいと願い、教訓を口伝いに教えてきたものが民話の原点」だと。

『遠野物語』の背景には厳しく貧しい暮らしを強いられた歴史がある。それを象徴するのが河童だという。

古来、遠野地方は幾度となく凶作や飢饉に見舞われてきた。もっとも厳しいときは人口の約6分の1が失われた。そこで必要に迫られたのが「口減らし」だった。栄養状態や生活環境が不十分で、あまり健康ではない子どもは河童の子とみなされ、河童の神様のもとへ「返す」風習があった。遠野の河童の指が3本なのも、そうした子どもの象徴なのだ。

『遠野物語』の五五話、「河童」の冒頭に「川には河童多く住めり。猿ヶ石川ことに多し」とある。猿ヶ石川は遠野の大小の川が集まる本流で、その昔、猿ヶ石(さるがいし)川には「河童」が多く上がったと治男さんは言う。

「遠野の河童は顔が赤いことで知られています。猿が起源との説もあるが、子どもの顔があるいは赤く見えたのかもしれないね。だから遠野で河童さんは神様なの。神様がいる川を汚してはだめだと、遠野の人は昔から水を大切にしてきました」

しかし今は川にゴミが流れるのが現実だ。治男さんのいるカッパ淵も、昔の状態を保っているのは前後2㎞ほどという。「今じゃ河童さんも簡単に修行に行き来できなくなったぁ」と、治男さんは寂しそうに話した。


  • 遠野の河童の真実を語る「カッパおじさん」こと運萬治男さん。時が経つのも忘れて聞き入ってしまった

    遠野の河童の真実を語る「カッパおじさん」こと運萬治男さん。時が経つのも忘れて聞き入ってしまった

  • カッパ淵に接した常堅寺境内にある「カッパ狗犬(こまいぬ)」

    カッパ淵に接した常堅寺境内にある「カッパ狗犬(こまいぬ)」。頭にくぼみがある

  • 「遠野かっぱロード」に置かれた河童の石像。

    「遠野かっぱロード」に置かれた河童の石像。よくよく見ると手足の指は3本だった

  • 常堅寺裏手の「カッパ淵」

    常堅寺裏手の「カッパ淵」。蓮池(はせき)川にあるこの淵は遠野でもっとも有名

  • 遠野の河童の真実を語る「カッパおじさん」こと運萬治男さん。時が経つのも忘れて聞き入ってしまった
  • カッパ淵に接した常堅寺境内にある「カッパ狗犬(こまいぬ)」
  • 「遠野かっぱロード」に置かれた河童の石像。
  • 常堅寺裏手の「カッパ淵」

守っ人として伝えていくべきこと

『遠野物語』はすべて実際にあった話で、実在の人物、場所もあるが正直には記せないため、釈然としない書き方をしているという。

六九話に「オシラサマ」の話がある。その昔、農家の娘が飼い馬に恋をし、怒った娘の父が馬を殺したところ、馬と一緒に娘も天に昇りオシラサマになった、というものだ。現在オシラサマは農業の神様、馬の神様、養蚕の神様ともいわれている。

「でもよく考えて。馬と娘では夫婦になれないでしょ」と治男さん。

かつて遠野では馬は生活の糧となる仕事のパートナーだった。遠野に多くみられた「曲り家」と呼ばれるL字型の民家には厩(うまや)があり、馬はそこで大切に育てられていた。その一方、貧しい農家の次男や三男は裕福な家の使用人(下男)として住み込み、厩の脇の土間で残り物の食事を与えられ、なんとか食いつないだという。

オシラサマの話は、裕福な家の娘と貧しい農家出の下男という身分違いの二人が惹かれあった話なのだ。

「河童の話にしてもそうですが、今は食べものがなくて命にかかわることはありません。しかし、食べることに必死な時代があったことも次の世代にきちんと理解してもらわなければ」

治男さんは機会があればこうして遠野の民話を観光客に伝えている。だが、訪れる人すべてに話しているわけではない。「河童釣りに来る子どもたちには河童という言葉を大人になるまで忘れてもらいたくない」と治男さんは話す。

「いろんな修学旅行生が来るけども河童釣りが楽しかったと思ってもらえれば成功。大人になって分別がついてまたカッパ淵にやって来たらちゃんと今のような話をします。食べものをつくるのはお天道様と水と年寄りの知恵です。それを知らない人が増えると食べものを粗末にする、水も大事にしない、年寄りもないがしろにする。これらを大事にできなければ必ず原点から外れてしまう」

遠野の民話を通して先人の生き様を守り伝える。これが治男さんの「守っ人」としての役割なのだ。

  • 1000体ものオシラサマを展示している「御蚕神(おしら)堂」(伝承園)

    1000体ものオシラサマを展示している「御蚕神(おしら)堂」(伝承園)

  • 床の間に置かれたオシラサマ。

    床の間に置かれたオシラサマ。現世では結ばれなかった悲哀を感じさせる(遠野ふるさと村)

  • 移築された「曲り家」。

    移築された「曲り家」。左手前の入り口が厩(遠野ふるさと村)

  • 1000体ものオシラサマを展示している「御蚕神(おしら)堂」(伝承園)
  • 床の間に置かれたオシラサマ。
  • 移築された「曲り家」。

口頭伝承こそが遠野の民話の原点

遠野にはほかにも、民話を次世代へ継承する「語り部」たちがいる。

「ささやく声で淡々と」。これが遠野の語り部の特徴だと「遠野昔話語り部の会」の工藤さのみさんは言う。遠野の人にとって民話はもともと子どもを寝かしつけるための子守唄や眠り薬のようなもので、語り部もその音調を受け継いでいるためだ。

「遠野昔話語り部の会」は15名からなる会で、「とおの物語の館」をはじめとする各施設で定期的に民話を披露している。語り部の話を聞くために何度も遠野を訪れる観光客も多く、遠野の文化や観光を語るうえでも語り部は欠かせない存在だ。

語り部の人たちは、遠野の民話の根底にある厳しい過去を知りながらに語っているのだろうか。

「河童も座敷童子も私たちは妖怪とは捉えません。河童は河童。でも河童でもオシラサマでも深くは追求しません。追求すると夢がなくなるし語れなくなるから」と工藤さん。

同じく語り部の会の新メンバーである井出八重子さんは、「指導していただいた先生に『昔語りに追求は必要ない』と教わりました」と言う。

語り部にとって民話は、あくまでも聞きに来た人に楽しんでもらうもの。根底に流れる歴史もすべて飲み込んだうえで語っているのだ。

工藤さんたちは民話において「口頭伝承」をとても大切にしている。

「民話の基本が口頭伝承だから語り部も十人十色でいい。それぞれが聞いて育ったものを次の人に伝えるのが私たちの役割だと思っています。同じオシラサマの話でも年代や育った場所によって微妙に違いますが、そこも楽しみの一つ。教科書ではなく自分の耳で聞いて覚えてきたものだからこそ忘れないし、時に人の心を揺らす魂のこもった語りができると思う」と工藤さん。

民話を聞きに来る観光客のなかには、涙を流しながら聞き入る人もいるという。震災時には工藤さんたちの語りが被災者の心に寄り添い、癒した。

治男さんのような守っ人がいれば、工藤さんたちのような語り部もいる。そこに遠野の民話の奥深さを改めてみたような気がした。

  • 観光客に民話を語る工藤さのみさん。

  • 遠野昔話語り部の会の方々。右から井出八重子さん、後藤恭子さん、工藤さん、小松敦子さん

    左:遠野昔話語り部の会の方々。右から井出八重子さん、後藤恭子さん、工藤さん、小松敦子さん

  • 老いた人たちが小屋で共同生活をしながら寿命が尽きるのを静かに待ったという「デンデラ野(の)」

    老いた人たちが小屋で共同生活をしながら寿命が尽きるのを静かに待ったという「デンデラ野(の)」

  • 遠野昔話語り部の会の方々。右から井出八重子さん、後藤恭子さん、工藤さん、小松敦子さん
  • 老いた人たちが小屋で共同生活をしながら寿命が尽きるのを静かに待ったという「デンデラ野(の)」


(2016年4月25~26日取材)

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