機関誌『水の文化』57号
江戸が意気づくイースト・トーキョー

ひとしずく
ひとしずく(巻頭エッセイ)

親水の大事

ひとしずく

作家
山本一力(やまもと いちりき)

1948年高知県生まれ。14歳で上京し、高校卒業後、旅行代理店やコピーライター、航空会社関連の商社など十数回の転職を経て、1997年に『蒼龍』で第77回オール讀物新人賞を受賞する。2002年には『あかね空』で第126回直木賞を受賞。ほかに『損料屋喜八郎始末控え』『大川わたり』『深川黄表紙掛取り帖』『だいこん』『ほかげ橋夕景』など多くの時代小説を執筆。また、自伝的小説として『ワシントンハイツの旋風』がある。

大川(隅田川)の東側、深川。
「水の都」と称されることが多い深川の興りは、江戸時代初期にまでさかのぼる。
 明暦三(1657)年一月十八日に出火した明暦の大火は、二十日になってやっと鎮火した。
 消火できたわけではない。燃え尽きたのだ。大半が焼け野が原になったがため、公儀は江戸の町造りを根本からやり直す決断をした。
 各地に火除け地を設けて道幅も広げ、延焼対策を講じた。江戸城天守閣まで焼け落ちたのも、延焼を防げなかったからだ。
 町造りの一環として、埋め立ても断行した。慶長八(1603)年の江戸開府以来、江戸の人口は膨張を続けていた。新たな居住地造成には埋め立て地での対処を決めた。
 大川東側の埋め立てに際して、公儀は明確な都市計画図を作成した。江戸に廻漕される諸国からの物資集散地として、埋め立て地活用を考えたのだ。
 水運に便利な水路を縦横に張り巡らせた。
 江戸復興には建材となる丸太が欠かせない。いかだに組んだ材木水運の便を考慮し、大川と結んだ堀に面して木場も設けた。
 材木商、川並(いかだ乗り)、大工・左官・鳶・鍛冶屋など、建築関連の商人と職人が、大挙して埋め立て地に移住した。
 深川の地名は、町と町とを結ぶ掘割の多さと、水運に適した運河の深さから生まれた、ともいわれている。

埋め立て地はその当初から、飲料水の確保が深刻な問題となっていた。
 元来が海だった場所を埋め立てたのだ。井戸を掘っても塩辛い水しか出なかった。
 承応三(1654)年頃には、大川の西側と、埋め立て地以外の東側である本所や亀戸には、上水道が行き渡っていた。
 水道の名はついていたが、神田川や玉川などの清流を樋で張り巡らせただけだ。高低差を使った水道の果ては、江戸城の道三堀に落とされていた。
 落ちる余水を船の水槽に汲み入れて、深川各所に給水した。水源(水道や井戸)に恵まれた他所では見られない、深川ならではの「水売り」稼業が存在していた。
 暴れ水(洪水・水害)との闘いは、現代も日本中で続いている。
 深川はしかし、埋め立て地誕生時から水とは闘うのではなく、親しんできた。
 いまも青海・海辺・枝川・扇橋・塩浜・潮見・白河・豊洲・深川・若洲などなど、水にちなんだ地名が多数残っている。
 親水公園では名称通りに、だれもが水に親しんで遊ぶこともできる。
 川や運河には橋が架かっている。深川エリアの古い橋には「御船橋」「亀久橋」「黒船橋」「鶴歩橋」「万年橋」などのように、架橋当時を思わせる味な名称が付けられている。
 水は生きる根源であり、治水はなににもまして重要であろう。
 願わくば水との闘いではなく、親水を掲げて治水検討をいただけますように。

隅田川の東側を流れる平久川(へいきゅうがわ)と大横川の合流点。

隅田川の東側を流れる平久川(へいきゅうがわ)と大横川の合流点。こうした堀が、江戸・東京の復興と発展に大きな役目を果たした



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