機関誌『水の文化』64号
氷河が教えてくれること

氷河が教えてくれること
海外(山)

ヒマラヤへの熱い眼差し
──「第三の極」の氷河の今

ヒマラヤの氷河から流れ出す雪解け水は、灌漑(かんがい)や水力発電に用いられている。こうした恵みをもたらすヒマラヤの氷河だが、その下流部にある氷河湖が決壊し、実際に死傷者が出た事例もある。温暖化の影響も含めて、ヒマラヤの氷河の現状と課題を知るために、名古屋大学の藤田耕史さんにお会いした。

かつて氷河がつくったモレーンと呼ばれる土砂の堆積物がダムサイトの役割を果たしている氷河湖「ツォ・ロルパ」 撮影:藤田耕史さん

かつて氷河がつくったモレーンと呼ばれる土砂の堆積物がダムサイトの役割を果たしている氷河湖「ツォ・ロルパ」
(撮影:藤田耕史さん)

藤田耕史

名古屋大学環境学研究科 教授
藤田耕史(ふじた こうじ)さん

1969年埼玉県生まれ。京都大学理学部地球物理学科卒業。名古屋大学大学院理学研究科修了。博士(理学)。1992年からチベット高原とネパールヒマラヤでの氷河観測をスタート。その一方、ロシアのアルタイ山脈や中央アジア・キルギスでのアイスコア掘削、南極のドームふじ基地での越冬観測にも従事。ブータンやネパールでヒマラヤの氷河観測を継続。JICA/JST「ブータン・ヒマラヤにおける氷河湖決壊洪水に関する研究プロジェクト」を実質的にリード。

ある報告書を機に注目浴びたヒマラヤ

サークル棟からのサックスの音色が響く名古屋大学東山キャンパス。鬱蒼とした木々の坂道を歩く。雪氷圏研究グループの研究室のドアを叩くと、長年にわたり極地に足を運び研究を続けてきたからだろう、若々しく精悍な顔つきの藤田耕史さんが迎えてくれた。

藤田さんは京都大学理学部、そして山岳部出身だ。20歳のとき山岳部のOBによる登山隊が計画した中国西部への遠征に潜り込み、そこで目にした氷河をまとった山々の風景に圧倒され虜になってしまったのだという。そして当時より氷河の研究で知られていた名古屋大学の大学院に進み、以来30年近くヒマラヤを中心に、南極、グリーンランドなどの極地をフィールドに研究を続けてきた。

「そういった場所に行きたいというのが一番の動機だったのは間違いないです。でもそれは私だけではないはず。当時の氷河の研究者は『山屋(やまや)』が多かったんです。最近は全国的に山岳部が衰退して変わってきているのですが」

少し残念そうに藤田さんは言う。名古屋大学のヒマラヤでの現地調査は1970年代より断続的に続けられてきたが、当時と今では背景が異なるという。

「70年代は、いずれ地球は寒冷化して氷河期がくるのではないかと考えられていて調査や研究もそれに関するものが多かったのですが、近年は温暖化を前提とし、それがヒマラヤの氷河にどんな影響を及ぼすかといったものが多い。また、かつて欧州の研究者たちはアクセスのよいアルプスを主なフィールドとしており、ヒマラヤには手が回っていませんでした。それは、日本に住む私たちがヒマラヤを目指す理由にもなっていたのです」

しかし2009年(平成21)、ヒマラヤの氷河に関してある出来事があった。それは「国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」が2007年に発行した第四次報告書の「ヒマラヤの氷河が世界のどこよりも早く縮小しており、2035年までにほとんどが消失すると見込まれる」という記述に端を発する。「これは根拠に乏しく、執筆者の『ヒマラヤの環境変動を大きく見せたい』との意識が働いた不正確なもの」との厳しい指摘が著名な科学誌からなされ、IPCCは査読システムを見直すに至る。「グレーシャーゲート」とも呼ばれるこの出来事でヒマラヤの氷河研究を取り巻く環境は変わる。

「報告書の検証を通じて、ヒマラヤの氷河が温暖化の影響をどれだけ受けているかを正しく把握するには、より一層の研究が必要との認識が広がり、2010年ごろからヒマラヤの氷河の研究が増え、欧州の研究者たちもヒマラヤに興味をもつようになりました」

第三の極地・ヒマラヤの氷河は、一気に「熱い」領域となったのである。

  • 藤田さんが氷河を研究するきっかけとなったムスターグアタの氷河(中国・新疆ウイグル自治区)

    藤田さんが氷河を研究するきっかけとなったムスターグアタの氷河(中国・新疆ウイグル自治区)(撮影:藤田耕史さん)

一様ではないヒマラヤの現状

近年の研究により、衛星で取得された画像を用いてデータベースをつくり、世界中の氷河の分布や状態が把握できるようになった。

「世界の氷河の変動に関してコンセンサスのとれている見解は、もっとも古い記録が残る1970年代と比べ、2000年代に入ってからの氷河の縮小速度が倍くらいのペースになっているというものです。ただし、これは世界共通というわけではありません。ヒマラヤでは、K2などで知られるカラコルム山脈やタクラマカン砂漠の南端に近い西崑崙(にしこんろん)などでは、氷河が増えていることが確認されています」

温暖化で地球が温まり、その熱で氷河が融け、減っていく――。私たちが描きがちな単純なイメージよりも、現実は複雑だという。

「氷河の縮小や増加には、降水量も影響していると見られています。気温の上昇で標高の低い氷河の末端が融けても、標高の高いところで降水量が増えれば氷河は大きくなることもある。逆に気温はさほど上昇しなくとも、降水量が減ることで氷河が小さくなっているかもしれません。カラコルムや西崑崙などで氷河が増えていることの原因について、私たちは別の説を提唱していて、この地域の気温や降水量の変化に対する氷河の反応がヒマラヤとは異なっているからではないかと考えています」

ヒマラヤの氷河の縮小・増加のメカニズムは、未知の部分を多く残したフロンティアである。

多様に活用される氷河の融水

ヒマラヤの氷河の特徴の一つとして、人口の多い地域に近い場所に存在し、人々の暮らしと密接なつながりをもつことがある。(図1)

氷河から融け出した水は、人々の生活を支える大きな役割も担っていて、氷河を有する高山域は「アジアンウォータータワー」と表現されることもあるそうだ。多くの人口を抱える中国などは特に重視しており、ヒマラヤを南極、北極に次ぐ第三の極と位置づけ、チベット高原の環境に関する研究に国家として注力していくと表明している。

「チベット高原を源に北部インド、パキスタンなどを広く潤すインダス川は、氷河の恩恵を受けている河川として知られています。流域に乾燥地域をもつインダス川が水量を保っているのは、ヒマラヤの氷河が雨季に氷を溜め込み、逆に少ないときに融解水を供給する『調整弁』になっているからともいわれています」

氷河の融解水は灌漑用水や水力発電に活用されており、特にブータンでは、氷河の水を使った発電は貴重な外貨獲得の手段となっている。

「これから氷河が減るとすれば、インダス川流域や氷河の融解水を使う地域の暮らしに影響が出るかもしれません。近年、インドやパキスタンでは氷河と並んで地下水の減少も確認されており、今後の水不足を危惧する声も上がっています。人口密度の低い地域の氷河にこのような影響はほとんどありませんから、ヒマラヤならではの懸念といえるでしょう」

なお、少し意外だったがヒマラヤの氷河から融け出た水は、その近くで暮らす人たちの飲料水としてあまり使われていないことだ。

「氷河は地表の岩盤を絶えず削りとっていて、その粒子が融け出た水と混ざるため、飲み水には適していないのです。かなり白く濁っていて〈グレーシャーミルク〉と呼ばれることもあるほどです」

  • 中央ネパール・カリガンダキ川上流のマルファ村。乾燥した環境のなか、氷河に端を発する河川の水を利用して大麦やリンゴを栽培している

    中央ネパール・カリガンダキ川上流のマルファ村。乾燥した環境のなか、氷河に端を発する河川の水を利用して大麦やリンゴを栽培している(撮影:藤田耕史さん)

  • 中央ネパール・カリガンダキ川上流のマルファ村。乾燥した環境のなか、氷河に端を発する河川の水を利用して大麦やリンゴを栽培している

    中央ネパール・カリガンダキ川上流のマルファ村。乾燥した環境のなか、氷河に端を発する河川の水を利用して大麦やリンゴを栽培している(撮影:藤田耕史さん)

  • 氷河の分布範囲と人口密度

    図1 氷河の分布範囲と人口密度
    氷河の分布(青色)と人口密度(赤色)。氷河のある地域を見ると、圧倒的にヒマラヤ周辺の人口密度が高い(人口密度のデータは2015年のもの。単位は人/km2)(提供:藤田耕史さん)

氷河湖決壊時のリスクを研究

氷河の変動と並び、藤田さんたちが取り組んだテーマの一つに氷河湖に関するものがある。氷河湖とは、氷河によって運ばれたモレーンと呼ばれる土砂で堰き止められた湖のことを指す。

「氷河湖を取り囲むモレーンは氷河が押し出しただけの土砂ですから脆弱であることが多いのです。1990年代にはブータンとネパールでこの氷河湖が決壊し大きな被害が発生しました。このときには温暖化に起因する災害という見方もされ注目を浴びました」

一方で、過去の衛星写真などに写っている痕跡から決壊の発生頻度を推定すると、「温暖化に起因する氷河湖の決壊の増加は確認できない」という報告もあるそうだ。しかし、目前にあるリスクに備えるべく藤田さんは決壊のメカニズムを探り、さらには決壊に備える施策が危険度の高い氷河湖から順番に行なわれるよう、ヒマラヤ全域の氷河湖の決壊時のリスクを推定する研究も行なった。(図2)

これについて藤田さんは言った。

「あるとき調査で協力を仰いでいたブータンの役人に、『君たちのその研究はほんとうにブータンの役に立つのか?』と問われたのです。その疑問にこたえるためリスクを推定したという面もあるんです」

使命感に駆られて藤田さんは取り組んだ。決壊時のリスクが大きい地点から改修・補強工事を進めてほしいとの思いもあった。

衛星で取得したデータを用いた研究が花盛りの昨今、それに頼りきらず現地調査を続けることについて藤田さんはこう話す。

「衛星のデータは誤差も大きいし、何より誰もが手に入れることができる。でも、現地で観測して得られるデータは自分たちの力でしか手に入れられないオリジナルです。そこから何かしらの答えが見つかると信じています。山に行きたいということもあるんですけどね」

そう言って笑う藤田さん。氷河のなかでもっとも人口密度が高い地域と接するヒマラヤという未知でホットなフィールドを、これからも自ら歩いて解明していく。

  • 図2 氷河湖の「潜在的洪水量」

    図2 氷河湖の「潜在的洪水量」
    ヒマラヤの氷河湖が決壊したときに出水する最大の水量(潜在的洪水量)を示した図(潜在的洪水量は藤田さんが定義した用語)(提供:藤田耕史さん)

  • 氷河から流れる水がそのまま溜まって湖となっているネパール最大の氷河湖「ツォ・ロルパ」と接するトラカルディン氷河の末端

    氷河から流れる水がそのまま溜まって湖となっているネパール最大の氷河湖「ツォ・ロルパ」と接するトラカルディン氷河の末端(撮影:藤田耕史さん)

  • 藤田さんたちが2019年10月~11月に調査した、ネパールヒマラヤ・トランバウ氷河6000mでの野営の様子

    藤田さんたちが2019年10月~11月に調査した、ネパールヒマラヤ・トランバウ氷河6000mでの野営の様子(撮影:藤田耕史さん)

(2019年12月2日取材)

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