2015年(平成27)に「世界かんがい施設遺産」に登録された「上江(うわえ)用水路」。江戸幕府が成立する前から多くの農民の努力で掘り継がれ、今も広大な高田平野を潤す重要な用水路である。4世紀以上にわたるその歴史のなかで、上流域と下流域では水の分配に関する独特なルールを設けて対立を避けるよう努めてきた。そして21世紀を迎え、上流域と下流域にあった古来の取り決めは話し合いによって見直され、後世に受け継がれていく。
上江用水路からの水を用いて穀倉地帯となった高田平野
日本全国の田畑には網の目のように用水路が張り巡らされ、農作物の命綱である水を供給している。この灌漑施設は、主要なものだけでも総延長約4万kmと、日本の一級河川総延長(直轄管理区間)の4倍に及ぶ。その8割がたを管理しているのが、地元の農家を組合員とする団体組織「土地改良区」だ。
新潟県南西部、関川(せきかわ)流域の扇状地が広がる高田平野。「関川水系土地改良区」管内の水田は、上越市と妙高市をまたいで広がる。耕地面積5746ha、組合員5790名に及ぶ大規模な穀倉地帯だ。
笹ヶ峰ダムと野尻湖を水源とする主要な二大用水路が「中江(なかえ)用水路」と「上江用水路」。ダムと湖から放流された水は、関川の上中流にある12カ所の東北電力水力発電所を経由してから2つの用水路に流れ、水田を潤している。
「当管内の最大の特徴は水力発電所との共存です」と話すのは、関川水系土地改良区事務局長の松橋聡さん。
「電力会社は売電益を得る、そして農家は水源から用水取入口までの間の分の維持管理費がかかりません。相互に利点があります」
中江用水路は1674年(延宝2)、高田藩の藩営事業として小栗美作(おぐりみまさか)の指揮のもと5年間で開削された。一方で、水路延長約26kmとほぼ同様の長さの上江用水路は、1573年(天正元)ごろから実に130年間もかかって、農民たちの手によって掘り継がれた。
その裏には、農業用水を巡る軋轢と妥協の歴史があった。
今でいう公共事業の中江用水路に対し、上江用水路の開削は、水量を確保したい農民たちの自主的な発案で始まった民間事業である。1694年(元禄7)までの第1~2期工事以降は80年間も中断した。流域の村が増えるにつれ、多くの用水を下流に届けるには大規模な水路が必要になる。それには田畑を削って水路を広げなければならない。下流の村のために土地を犠牲にするなどもってのほかと上流の村が反対し、中断を余儀なくされた。嫌がらせなのか、上流の村が用水路の橋を崩落させ水流を止めたことも古文書に残されている。
そこで考え出されたのが、この地域で「客水(きゃくすい)」と呼ばれる制度だ。上流部の村が用水路の拡幅に土地を提供する代わりに、下流部の村は上流部の用水の維持管理費を全額負担する。つまり用水管理の費用を免除される区域を設けたわけだ。江戸時代の農民が編み出した苦肉の策、いや知恵といえよう。
しかし、その後も水路開削はことごとく上流地域の農民の反対に遭い、実現しなかった。そこで意を決したのが下流域の大地主、下鳥冨次郎(しもとりとみじろう)である。上江用水路の掘り継ぎを江戸幕府へ請願した。道中、反対派の襲撃に備え、近所に住む江戸相撲の巨漢力士・万力を用心棒として護衛につけたという。だが、もとより幕府とて水利権の申請を認めるにしても、地方農民のいさかいにまで介入する故も益もない。
客水にまつわる逸話が伝承されている。上江用水路の通る板倉地区の板倉郷土史愛好会会長の岡本郁栄さんが明かしてくれた。
「上流の村人たちが座敷で用水の維持管理の収支決算をしている間、下流の村人たちは土間の筵(むしろ)の上で正座して待っていたそうです。それが終わると“なおらい”すなわち宴会なのですが、上流の村が望んだ料亭の仕出し料理が宴席に並び、支払いはすべて下流の村。そんな話を古老からお聞きしたことがあります」
大水が出て用水路に溜まった土砂をさらう作業などは上流の村人がするのだが、その日当まで下流の村が支払ったという。水をもらっている立場の下流の村は、上流の村に頭が上がらなかったのだろう。
維持費用を負担せずに上江用水を使う権利があった客水の水田は約200haに及んだ。
上江用水路の開削は山を繰り抜き(川上繰穴隧道(かわかみくりあなずいどう))、川の下を通し(三丈掘)と困難を極めたが、1772年(明和9)から9年間の第3期工事で完成した。私財を投じた最大の功績者、下鳥冨次郎は上江北辰(ほくしん)神社に祀られ、偉業をたたえる例大祭が今も7月17日に行なわれている。
上江用水路や中江用水路の壁面には、地元の人が「ガニ穴」と呼ぶ小さな穴の空いている箇所が多数ある。これは正式の分水口とは別に、江戸時代の農民たちが渇水期の非常用に内緒でつくったものらしい。水位が下がると見えてくる。国営事業で用水路を石積みからコンクリート張りに改築した際も、ガニ穴は黙認され、そのまま残った。水利権上は微妙な問題だが、江戸時代からの既得権が尊重された格好だ。
客水にしてもそうである。古くからの水利組合に代わり、1949年(昭和24)の土地改良法制定で生まれた土地改良区には、かんがい施設の維持管理のため賦課金(ふかきん)の強制徴収権が認められている。にもかかわらず、賦課金が全額免除される客水の制度は変わらず続いていた。
だが、地域の土地改良区が合併した関川水系土地改良区の成立により、歴史的な転機が訪れる。
「古文書も有効だし土地改良法も有効。仮に上流と下流が係争しても和解調停になる、というのが弁護士の見解でした。そこで互いに折り合いをつけ、新たなルールで合意したのです」と松橋さん。
2008年(平成20)、客水地域の町内会と覚書を交わし、客水の権利は今後も尊重することを確認したうえで、一般区域(客水地区以外の区域)の50%を基準に賦課金を負担してもらうことになったのである。
関川水系土地改良区では渇水時の対策として、節水のための配水管理「番水(ばんすい)」を導入している。当初は中江用水路と上江用水路で交互に1日ずつ一方を流し、一方を止めた。だが、双方とも総延長が長いので、渇水時には下流に行くにしたがって水量が減って、水が行き届かない。
そこで最近では、双方の用水路とも水を流すが、上流と下流で順番に取水することにしている。下流で取水するときには、30カ所近くある上流の分水ゲートを4名の「水配人」が夜6時に締め、翌日の夜6時に開ける。だが、100ha以上の水田に使われる分水ゲートもあるので、1日交代では足りず、今では2日交代にして、あまねく水を行き渡らせている。
「ダムの水量に応じて『毎秒何トンで落とせば何日間で使い切るか』が計算できるので、逆算すれば用水の水量を何割に減らせばよいかわかります。限りある資源を上手に分配する方法です」と松橋さんが説明する。
水不足になるかどうかは雪解け水の多寡と降雨量による。日本海側は豪雪地帯であるがゆえに、降雪が少ないとたちまち水が足りなくなる。とりわけ異常気象が多い昨今は、早めに情報収集して先手を打たなければならない。
「過去40年間のデータを見ると積雪量は明らかに減少傾向です。春先の山の雪解け水を利用して笹ヶ峰ダムと野尻湖の水を溜め込み、梅雨明けごろになると河川の自流はほぼなくなって、例年、7月中旬から下旬にダムと湖から放流が始まります」と関川水系土地改良区総務課長の池田康広さんは言う。
2016年(平成28)は例年になく雪が少なく、5月20日から放流が始まった。2020年(令和2)も同程度の積雪量だったので2月から農家に番水を予報し、あぜの鼠穴(ねずみあな)をふさぐ、深く耕して稲の根の張りを広げることで水の吸収をよくするなど節水対策を促した。幸いなことに、6月、7月と雨量が多く、番水しなくても済んだ。
圃場(ほじょう)整備の一環として、関川水系土地改良区では大区画化とスマート農業の実証実験に取り組んでいる。一例として4.2haの超大区画圃場に自動給水栓を設置した。スマートフォンやタブレットから遠隔操作でバルブの開閉ができる。節水と労力軽減になり、コストが85%に削減されるという。
「水管理システムのみならず全工程にスマート農業の導入が急務です」と強調するのは関川水系土地改良区理事長の齋藤義信さんだ。
「重労働からの解放と収益の向上は農業の担い手不足を解消します。自動田植え機、ドローン、GPSなどのテクノロジーを使えば経験がなくても農業ができる。最近も、元建設業の45歳の方が興味をもって就農されました。うれしいことです」
用水路の改修や、田んぼに水を圧送するポンプ場の補修工事などの発注も、土地改良区の仕事だ。また、上越市と妙高市の小学校から依頼され「水の使い方」をテーマとした校外学習の見学会や、若手職員による出前授業も実施している。
「2015年(平成27)に上江用水路が世界かんがい施設遺産に登録されてから、毎年趣向を変えて見学ツアーを実施し、百数十名の参加者があって好評です。農業用水の歴史や土地改良区の仕事を広く知っていただきたいですね」と松橋さんは話す。
農業用水がどこから来ているのかあまり関心がなかった農家の若い世代も、世界かんがい施設遺産登録や番水の告知などを機に、用水路の歴史的価値と水資源の大切さに目覚めているという。スマート農業の進展に合わせ、水遺産も次世代へ受け継がれるだろう。
(2020年9月17日取材)