機関誌『水の文化』74号
体に水チャージ

体に水チャージ
【登山】

山登りに必要な飲水量と欠かせない塩分補給

一歩ずつ地面を踏みしめて頂を目指す登山。登りきったときの爽快感は言葉では言い尽くせない。登山は高所を目指すため、平地とは異なる環境となるうえ水場も限られる。脱水が進みやすく、夏場ならば熱中症の危険性もはらんでいる。登山を安全に楽しむための水分補給に関してはどんな点に注意が必要なのか。登山に関する運動生理学の第一人者である山本正嘉さんに、持参すべき水の量や水補給に関して注意すべきポイントなどを聞いた。

屋久島の登山道を歩く人たち。水補給はところどころにある水場が頼りだ

屋久島の登山道を歩く人たち。水補給はところどころにある水場が頼りだ

山本 正嘉さん

インタビュー
鹿屋体育大学名誉教授
山本 正嘉(やまもと まさよし)さん

1957年神奈川県生まれ。東京大学大学院教育学研究科修了。博士(教育学)。専門は運動生理学とトレーニング学。中学生で登山をはじめ、日高山脈の単独無補給全山縦走、シブリン北稜の初登攀、アコンカグア南壁のアルパインスタイル登攀、ヒマラヤ山脈のチョーオユーの無酸素登頂などを成し遂げた。1998年鹿屋体育大学助教授、2005年同教授、2023年3月に退官。著書に『登山の運動生理学とトレーニング学』など。

縦走で身に染みた水のありがたさ

植物が好きで、中学生のときに山の植物が見たくなり、一人で秩父の山に登りました。それが山との出合いです。高校1年生の夏、新潟と山形の県境にある朝日連峰というハードな山の縦走(じゅうそう)に出かけました。一人で泊まりがけの山行をするのは初めて。ベテラン登山家でも経験だけに頼っていた時代で、「水を飲みすぎるとバテる」など真逆の誤った迷信が広まっていました。私も1Lの水しか携行せず、猛烈にバテてつらい思いをし、銀玉水(ぎんぎょくすい)という水場にたどり着いたときは、生き返る心地がしたものです。

そんな経験が刷り込まれ、大学の体育学科で学ぶうち、登山にも人体のしくみの科学的な知見が必要だと考えたのが、登山の運動生理学やトレーニング学に取り組んだきっかけです。大学生だった1980年代初頭から、陸上や競泳などオリンピック種目を中心に運動生理学の知見がスポーツに導入されはじめました。それを私は登山にも適用したわけですが、登山界にそうした知見が浸透したのは、およそ10年遅れています。というのも「登山は命を賭(と)して行くのだから一般的なスポーツとは違う」との通念が根強く残り、科学を軽視するきらいがあったからです。

しかし、8000m峰の無酸素登頂など登山が先鋭化していくと、運動生理学の基礎を無視したら地力や根性や気合だけではまったく通用しないことが痛感されるようになり、登山界も関心をもつようになりました。

生死の境をさまよった南米最高峰の登頂

1981年(昭和56)、禿(かむろ)博信さん(注)と二人で、南米アンデス山脈の最高峰アコンカグア(6959m)の南壁である岩と氷の断崖(標高差約3000m)を5日間で登った際、2日目の夜にコンロが壊れました。氷雪を溶かして水を得られなくなったので、パウダー状の宇宙食「マウンテンハウス」も溶かして食べられず、3日間、飲まず食わずを強いられたのです。

私は頂上直下500mくらいの岩壁で、低血糖と脱水症で目が見えなくなり、手足にも力が入りません。禿さんもまた脱水症の影響か、足指が凍傷になり感覚がなくなりました。岩壁と氷壁が交互に現れる強い傾斜の要所要所にハーケンを打ってロープを結ぶのですが、もともと3日で登頂する予定なのにルートを間違えてしまい、岩がボロボロで支点があてになりません。一人が落ちたら、もう一人を引きずりこみ、二人とも墜落して死ぬ危機的な状況に追い込まれました。

足指の感覚を失いながらも禿さんが登り切り引っ張り上げてくれたおかげで私は生きています。

高所では酸素が少なく呼吸が激しくなることに加え、空気も冷たく乾燥しているため、呼気(こき)から多くの水分が奪われるのです。生死の境をさまよったこの経験も、運動生理学の研究を登山にフィードバックする強いモチベーションになりました。

(注)禿 博信さん
中国・ヒマラヤのチョゴリ(K2 8611m)無酸素登頂など偉業を達成。日本人初のエベレスト峰(8848m)東南稜、無酸素登頂に成功したものの下山中に滑落し逝去。享年32。

軽登山でも1.5Lの水 塩分補給も欠かせない

行動中のおおよその脱水量(ml)は「体重(kg)×行動時間(h)×係数5」という式で推定できます。

例えば体重60kgの人が1時間歩けば300mlの脱水です。トータルで6時間かけて、整備された登山道を軽装かつ標準的なペースで登り下りするとしたら1.8Lの水が必要ということになります。

ただし、登山者の場合、マラソン選手並みの体力のある人もいれば、運動不足の人や高齢者、子どもなどもいます。そのような多様性を考慮し、水分補給の指針を4つのレベルに分けました。

一般の登山者は右表(図1)の「レベル1」の指針を使うとよいでしょう。この場合、脱水の許容範囲は体重の1%まで。体重60kgの人なら、60kg×6h×係数5−係数10×60k=1200mlという計算になります。安全で快適な登山のためには、1〜1.5L程度の水なら軽く持って登れるくらいの体力をつけておくべきです。

人体には「自発的脱水」と呼ばれる現象があります。汗をかくと水だけでなく塩分(ナトリウム)も失われますが、このとき真水だけ飲んでいると体液中の塩分が薄まり、脳は脱水が解消したと勘違いし、口渇(こうかつ)感を止めてしまうのです。ほんとうは危険な状態なのに喉は渇いていない。だから水分と同時に塩分の補給も欠かせません。

  • 図1 レベル別に示した水分補給の指針

    一般的な登山者はレベル1の指針を用いる。Xは体重(kg)、Yは行動時間(h)を表している。体重60kgの人が標準的なペースで6時間の登山をした場合は「5×60kg×6h−10×60kg=1200ml」となる 提供:山本正嘉さん

  • 図2 登山者はどれくらいの水を飲んでいるのか?

    男性65名(平均年齢64歳)と女性62名(同59歳)に「春や秋などの暑くない季節に、上り3時間、下り2時間の合計5時間のコースを標準タイムで歩くとした場合、どのくらい水を飲むか」とアンケート調査した結果。望ましい充足率の人は多いが、少なすぎる人、多すぎる人もいる
    提供:山本正嘉さん

意識的にゆっくり登る週1回の低山登山を

標高にかかわらず一般的な登山コースを8時間歩くエネルギー消費量は、なんとフルマラソンの走破時と同じです。市民マラソンのランナーは大会に備えて走るトレーニングをします。一方で、何もしない運動不足のまま、レジャーで山に登る人も少なくありません。

安全で快適な登山をするには、ランナーと同程度のトレーニングが必要です。それには週に1回、トータルで500mの高低差がある低山や丘陵地を登り下りすること。月に4回で2kmの登り下りが、フルマラソンを完走するための最低基準とされる月間60kmの平地ランニングに相当します。

スクワットなどの筋トレも欠かせません。登山で必要な体力は持久力と筋力ですが、あえていうなら筋力のほうが大切。特に筋力が重要になるのは下りで、足の速筋線維という素早く力を出せる筋肉を使います。これは加齢により衰えやすい筋肉で、中高年に多いのは、速筋線維を鍛えず弱ったまま登るから下りでどうしようもなくなり転んでしまう事故です。

また、山を登るペースが速いとバテます。1時間に300〜350mの上昇率が安全・安心な標準ペースですが、中高年を対象に調査したところ、男性で600m、女性でも500m程度で登っている人が多い。これは駅の階段を上がるよりも若干遅い程度。登山でも日常生活の癖が出てしまうのですね。人と会話しながら歩けるくらいのペースでいいのです。

また、水の賢い節約法や新聞紙で暖をとる方法など、登山技術の知恵は震災などの非常時にも役立ちます。水分補給やペースなど生理学的な基本を心得たうえで、スポーツとしての登山を安全に楽しんでもらいたいですね。

  • 図3 健康や体力に及ぼす登山の効果

    登山を上手に行なえばさまざま意味で健康によい効果をもたらす。ただし、不適切に行なうとダメージも大きいため、運動処方に関する知識が不可欠 提供:山本正嘉さん

  • 内蔵助氷河の調査でガレ場を下る。速筋線維を鍛えておかないと下りはかなり危険

    内蔵助氷河の調査でガレ場を下る。速筋線維を鍛えておかないと下りはかなり危険

(2023年4月28日取材)

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