天保年間(1830〜1844年)の橋番付には大坂の公儀橋は205橋の内、わずかに12。残りの大半は、町橋だったといいます。町人文化が花開いた大阪で、水の文化を創造するまちづくりに取り組む市民団体〈水都の会〉の大阪の橋にまつわる活動について代表の藤井薫さんに、物語っていただきました。
水都の会(水都大阪を考える会)代表
藤井 薫(ふじい かおる)さん
1956年大阪市生まれ。京都大学法学部卒業。公共団体勤務。2002年水都の会(水都大阪を考える会)設立。水都大阪2009企画準備委員、韓国順天湾国際庭園博覧会2013日本招待団体代表。
豊臣秀吉が大坂城を築いて以降、外堀として開削された東横堀川(1585年〈天正13〉)を手始めに、西横堀川、道頓堀川、長堀川などの堀川(水路)が市中に巡らされ、多くの橋が架けられました。これらの橋は、通路という本来の機能以外に、恋人との待ち合わせや夕涼みの場などにもなり、大阪人の生活文化に欠かすことができない役割を担ってきました。
現在、淀屋橋南詰に、江戸時代からの伝統を引き継ぐ牡蠣船が浮かんでいるのをご存知でしょうか。江戸時代初期(万治〜寛文年ごろ)、晩秋の広島から殻付き牡蠣を俵に詰めた帆船が大挙して大坂にやってきました。市中の主要な橋のたもとに係留し、土手鍋や焼き牡蠣を販売。2月ごろに帰っていきます。個々の船は定位置として係留する橋が定められていたようです。
1707年(宝永4)に起きた大火で、高麗橋西詰にあった幕府の高札を草津(現・広島県佐伯郡)出身の牡蠣船業者が守ったことから、大坂町奉行より独占販売権が与えられたという逸話もあります。
明治に入って鉄道網の発達により、牡蠣の運送をする必要がなくなった結果、船は次第に橋のたもとに係留されたままとなり、陸に店を構える者も現われました。実は、大阪の高級料亭には牡蠣船をルーツに持つ店が数多くあります。牡蠣船が育んだ味覚の伝統は、21世紀の大阪にも脈々と息づいているというわけです。
大阪が「食い倒れのまち」と呼ばれるようになったのは、実はこの牡蠣のお陰という説があります。
生ものの保存が困難であった江戸時代、牡蠣は多くの日本人にとって容易には口にできない食材でしたが、大坂では近くの橋の牡蠣船に行けば、庶民でも簡単に食べることができました。現在のファストフードのようなものです。牡蠣にはさまざまなミネラル、中でも味覚にとって大切な亜鉛が含まれています。このため大坂の庶民は繊細な味覚を養うことができ「食文化のまち」の底上げにつながったというわけです。実際、牡蠣にその効用があったのかどうかはわかりませんが、水の道を通じ、全国から新鮮な食材が集まる大阪ならではの物語といえましょう。
現在、牡蠣船は、河川管理上の制約もあって淀屋橋の〈かき広〉だけになってしまいました。水都の歴史を今に伝える大阪の橋の文化〈牡蠣船〉を後世まで残していければと思います。
2002年(平成14)9月、町屋を改修した北区・中崎町のカフェに、水辺に関連した活動をしている若手や関心の深い市民が集まりました。夜遅くまで熱心な議論が続き、30人近くの人が誰も帰ろうとしません。翌月も意見交換会を行ないましたが、また同様の結果となりました。「こんなに社会的ニーズがあるのなら」と呼びかけたのが「水都の会(水都大阪を考える会)」の始まりです。
水都の再生を目指すことは、とりもなおさず、大阪の歴史を学ぶこと。特に橋にドラマが豊富なことは、まちじゅうに水路が張り巡らされていた大阪ならではです。
淀川の水運や船着場が賑わっていた、いにしえの大阪のまちの姿を思い起こしながら橋を眺めると、一つひとつの橋ごとに物語が宿っていることがわかってきました。
会が発足して約1年後の2003年(平成15)、北区中津(大阪駅の北側)で、「水の文化創造のまちづくり」をテーマにフィールドワークを行ないました。その縁で始まったイベント〈中津まつり〉の目玉は、市民参加による〈葦船〉の組み立てです。
葦はか細い植物ですが、1本で年間2tの水を浄化できるといわれています。淀川に生えているアシ(音が悪しに通じるのでヨシとも呼ばれる)を刈ることで葦原を保全するとともに、まちづくりの仕掛けにも使える葦船は、水都再生を志す当会にぴったりな活動だと感じました。
葦船は万葉集に登場する中津の古名 小竹葉野(ささばの)(葦原の意味)にちなみ、小竹葉野号と命名。当会の活動の象徴的存在となりました。
JR大阪駅の北側に位置する中津は、淀川に架かる十三大橋で対岸の淀川区十三とつながり、神戸や宝塚へ至る大阪の北の玄関口です。明治中期までは、中国街道の要衝として栄えました。
当時、町内を流れていた中津川には橋はなく、上流から13番目にあたることから〈十三の渡し〉と呼ばれる渡し船が通っていました。
中津の富島神社がこの川で船渡御(ふなとぎょ)を行なうなど往来も盛んでしたが、明治の淀川大改修事業により、幅850mにも及ぶ広大な新淀川が開削されたことで、両岸の交流は途絶えていきました。
小竹葉野号に乗って中津から十三へと漕ぎ渡った〈十三の渡しプロジェクト〉は、こうした史実を踏まえ両岸交流の復活を目指したものです。現代の大阪における大動脈、十三大橋の横を小さな葦船が渡る姿は、マスコミでも大きな反響を呼びました。
葦船はその後も、とんぼりリバーウォーク(道頓堀川の川辺につくられた遊歩道)活性化のため、提言書を地元の道頓堀商店会まで届けるデモンストレーションや、順天湾国際庭園博覧会(韓国全羅南道順天市において開催された大阪の花博に続く東洋で2番目の庭園博覧会)の招待により実現した、日韓合同葦船制作イベントなど、各地で活躍しています。
1885年(明治18)に起こった大阪史上最大の水害を教訓に、1896年(明治29)河川法が制定され、近代初の国家プロジェクトとして旧・淀川(現在の大川)の付け替えを含む淀川大改修事業が実施されました。
旧・中津町の十三地区は、このとき開削された淀川大放水路(現・淀川。新淀川ともいう)の底に沈みました。現在、十三大橋の北詰にある賑やかな繁華街 十三は、新淀川の北岸に移住した住民が新たにつくった町なのです。
折しも2006年(平成16)は、新淀川が通水して100年目。しかし、その史実は、地元でもほとんど知られていませんでした。
「このままでは、大阪のまちを水害から守るため、図らずも先祖代々の田畑や家屋敷を奪われた地元住民の苦難や改修にあたった先人の労苦が忘れ去られてしまう」と考えた水都の会では、淀川の中津と十三の両岸から葦船に乗って漕ぎ出してもらい、淀川の中央で合流。「100年ぶりの再会」を演出しました。
また、忘れられた存在となっていた淀川改修の功労者「治水翁 大橋房太郎(注)」の功績を顕彰するさまざまな活動を実施しました。
講演会の開催などに加え、中でもユニークな活動といわれるのが、上方講談協会会長の旭堂南陵さん(当会会員)に資料を提供し制作を依頼した、新作講談「大橋房太郎一代記」。各地の講談会では、文字通り、講談仕掛けで水害の悲惨さと先人の努力を熱演いただきました。
(注)大橋房太郎(1860〜1935年)
元大阪府・市議。鳩山和夫代議士の書生であったが、1885年(明治18)の大水害の後、淀川治水のため、私財を投げうち奔走した。
淀川改修事業は京都・大阪にわたる広域治水事業であると同時に、淀川の水運整備をも含めた総合的な大事業でした。
当会が実施した葦船〈槇島(まきしま)号〉による宇治川・淀川の川下りでは、この点をアピール。京都伏見の銘酒と宇治茶を携え、かつての三十石船の追体験となるよう企画しました。
宇治市の槇島浜から大阪の北浜まで10時間以上にも及んだ川下りでは、伏見の観月橋をはじめ、淀川水系の名橋を巡り、橋の上から声援を送ってくれる市民とのエールの交歓が続きました。くぐった橋の数もなんと32橋。淀川改修事業のスケールの大きさと総合的な事業の意味を十二分に体感し、全体像をマスコミに紹介いただくチャンスともなりました。
難波八百八橋と呼ばれた大阪ですが、天保年間(1830〜1844年)の橋番付に見られる205橋の内、公費で架橋や修復をする公儀橋はわずかに12橋。大半は、町人が負担する町橋だったといいます。現在では市民が橋を架けるということは極めて稀ですが、役所に頼ることなく、市民自らが道を切り開いてきた大阪人の気概は、この町橋の歴史に表われています。
2009年(平成21)に「川と生きる都市・大阪」をテーマに開催された〈水都大阪2009〉は、民間の力を取り入れた画期的なイベントでした。淀川改修事業の完成式からちょうど100周年を記念するこの事業は、市民参加により経費をかけず、アイデアに満ちた企画に溢れ、町橋の伝統を彷彿させるものとなりました。
ともすれば保守的に傾きがちな役所の姿勢を、昔から培われてきた自由・平等そしてお笑いの精神に満ちた大阪の市民文化が変えていけるのではないかと思います。
大阪が水都としての輝きを取り戻すことにより、江戸や明治の先人の勇気と知恵を再生し、大阪、そして日本全体の再生への懸け橋としたいと思います。
(取材:2014年3月21日)