機関誌『水の文化』12号
水道(みずみち)の当然(あたりまえ)

住民が自分たちの水道を造り、治めていた時代があった。近世城下町に見る水道の知恵

私たちは水道水に大きな恩恵を受けています。ライフラインを確保する立場から「水道は公営事業」というのが、現代の水道法で定められた原則となっています。しかし近代以前の日本には「自分の使う水は自分で治める」という感覚が生きていたのです。近代以前の水道を見直すことで、これからの水道を考えるヒントが得られ、人と水とのつきあいかたを考える新しい視点が発見できるかもしれません。都市水利という斬新な見方から、水道史を読み直す仕事を続けてきた神吉和夫さんのお話をうかがってみました。

神吉 和夫さん

神戸大学工学部助手
神吉 和夫 (かんき かずお)さん

1947年生まれ。神戸大学大学院工学研究科土木工学専攻修士課程修了。一貫して土木史の再検討を行い、湊川トンネル保存検討委員会委員、滋賀県近代化遺産(建造物等)総合調査委員会委員など多くの委員を務める。 主な著書・共著書に『江戸上水の技術と経理』(クオリ 2000)、『川を制した近代技術』(平凡社 1995)、『玉川上水の江戸市中における構造と機能に関する研究』等がある。

なぜ「すいどう」と呼ぶか

近代水道以前の水道の基本文献は、戦前にまとめられた『明治以前日本土木史』の第七篇です。公共給水を目的とする施設を(1)灌漑兼用、(2)官公用専用、(3)一般飲用の施設に三分類して、江戸、地方の順にそれら施設の概要を示しています。その記述が水道協会の『日本水道史』等に引用されています。

私は1979年(昭和54年)ころ、兵庫県赤穂市に存続していた旧赤穂水道(1616年創設)の調査に参加しました。江戸時代に水道があることなどまったく知らず、現地にパッと行き、暗渠となっている配水網が生きていることを大規模な通水試験で確認しました。『明治以前日本土木史』は調査の途中から読んだのです。

先入観なしに調査をしたおかげで、そもそも、なぜ「水道」と呼ぶのかと疑問に思いました。

『明治以前日本土木史』第七篇で扱っているのは、公共給水の目的で造られた施設であり、歴史用語としての「水道」の説明はありません。旧赤穂水道の場合は、施設名称が水道であることを示す史料・絵図があます。なぜ水道か、なぜ暗渠かと疑問に思い、そこから調べ始めたのです。最終的に行き当たったのが、中国の明の時代に書かれた『菽園雑記』(陸容撰、十五巻、1494年)という本の中に、「西安の城中には水道は無く、井戸も少なく城中の人が困っていたが、為政者の余子竣が河川から導水し暗渠の給水施設を造った」という記述を見つけました。この水道はみずみちという意味です。中国では水道という言葉は古代からありますが、上水道の意味では使われていないのです。

明代の西安は、繁栄を誇った唐代の長安の宮城の部分が残ったもので、都市の広さも六分の一ほどまで縮小していました。唐代には大規模な都市給水施設があったのですが、余子竣が為政者となったころには水が流れなくなっていたようです。

明代、西安の水道がみずみちの意味で使われていたといいましたが、日本での歴史用語としての水道が何を指し示すかを調べてみると、灌漑用水路の名称として使われる例はほとんどありません。都市域における給水、排水、あるいはその兼用施設としての意として近世になってから現れるのです。

近代水道というフィルター

1887年(明治20年)、外国人居留地を核に発展しつつあった横浜に、日本最初の近代水道が造られます。近代水道は現在私たちが使っている水道とほとんど同じで、鉄管で配水される飲料可能な水が共同水栓の蛇口をひねるだけで得られ、火災が発生すると近くの消火栓から放水できます。

1890年には水道条例が公布されます。この法律でいう水道は近代水道であり、また市町村による公営のみを認めることとしました。水道に対しての飲料水供給施設、あるいは衛生的な水を供給する施設という一般なイメージは、このころから現代までずっと続いていると思います。

近代水道以前の都市給水施設を語るときに、私たちの頭の中にある「衛生施設としての近代水道」というフィルターを通して見てしまうと、実像が見えてきません。各施設の構造がどうなっているか、水はどこから来てどこへ行くのかといったことの調査を、可能な限りすることが必要だと考えました。

調べてみると、為政者により城下町に建設された河川を水源とする施設では、ほとんどが灌漑を兼用していますし、生活用水や防火用水だけでなく、堀とか泉水にも流していることがわかりました。この多様な用途の施設を、灌漑は農学分野、水道は工学分野というように専門分化した近代の視点で分析してはいけないのです。

水道の公営原則についても、同じことが言えます。徳川家康が江戸に入府した折り「水道を造れ」と命じ、神田上水の前身となる施設を建設して、水に困っていた江戸の人々に対して飲料水を供給した話が、水道史によく出てきます。私もこの話は、明代の西安の故事と似ているところが面白いと思います。お上が、上から下々の者に向かって、西洋の衛生思想に基づく水道というありがたい施設を造ったのと同じような話が、江戸時代にもすでにあったということです。また、従来の水道史では公共給水を目的とする水道について記述していますから、近世城下町に為政者が建設した都市給水施設が多く登場するのです。ーーしかし公営原則ではない水道も、江戸時代にはかなりあったわけですね。

そうですね。私は1982年(昭和57年)ころから、滋賀県の近江八幡水道の研究を始めたのですが、この地を選んだ理由は、近江八幡の水道が最初から暗渠で造られ、しかも日本における近代以前の水道の中では比較的古かったためです。1607年に建設されたとされています。

近江八幡水道は『明治以前日本土木史』にはなく、『日本水道史』に初めて登場するのですが、簡単な説明だけで『滋賀縣八幡町史』(1940年)参照となっていました。早速この本を読んでみると、「八幡町の古式水道」と題して図表、写真入りで実に詳細な記述がされていました。驚いたのは町人により建設されて、規約により維持管理をしていたことです。

1981年に、郷土資料館に古式水道について問い合わせをしましたら、江南洋館長が「いやあ、まだ使っていますよ」とおっしゃる。驚きましたね。関ケ原の戦いのころに造られたものが、現在も使われているという。「これは大変だ」ということで、すぐにうかがいました。

近江八幡水道の分布 1933年(昭和8)当時『滋賀縣八幡町史』より

近江八幡水道の分布 1933年(昭和8)当時『滋賀縣八幡町史』より

住民が水道を造り、管理した

水道史で近江八幡水道と呼ばれているものは、複数系統の給水施設の総称です。『滋賀縣八幡町史』には宝暦年間の施設を描いた総図が残っています。それには、1933年(昭和8年)の時点で町内に25系統の給水施設があっことが書いてあります。各施設は水源地に埋設された元池あるいは元井戸と呼ぶ集水装置から、竹樋を延ばし取井戸と呼ぶ溜桝に導いて、水を汲み出して利用します。

管理は使用者で構成される井戸組が世話役等の役員を決めて行うわけですが、役員、維持管理の方法、給水範囲、取井戸の総数、等を書いた規約があります。

近江八幡という町は、近世城下町として1587年に造られます。そこに、安土の住民や周辺村落の人々が集められるわけです。町割りは当時の為政者である豊臣秀次が行いましたが、為政者の意図する都市計画の中に、飲料水の供給施設はありませんでした。秀次が失脚した後、八幡町は城下町でなくなり、都市的性格をもつ在郷町になっていきます。そこで、1607年、給水施設が住民自身の力で造られました。それまでは、町と村の境界付近に良い水の出る井戸があり、そこに汲みに行っていたようです。町ができて約20年後に給水施設を造ったわけですが、朝鮮通信使が休息するために造ったという説があります。

元井戸のある土地を所有する村に対しては、井戸組は水源料を払っています。日本の場合、河川水ですと公水原則があり、お金を払わなくてもよい。しかし、井戸の場合は私有が原則でお金を払う。この風習は各地に残っているようです。近江八幡では、この水源料を「涼料(すずみりょう)」と呼んでいました。

渇水のときには、村のほうで、元井戸からの給水を止めてしまうこともあったようです。ですから、渇水時に雨乞いをすることになると井戸組も加勢するのですが、雨乞いの手順、お供えなども規約に定められています。周辺村落は、自分たちの領域の中にある水源という理由で、井戸組に対しては強く出ていたのでしょうね。取井戸の総数の制限も村との関係から決まったようです。

為政者は介入しなかったようです。「陣屋井戸組」というのがあるのですが、陣屋が管理するのではなく、陣屋も利用者として井戸組に加入しています。

調べてみると類似の施設が滋賀県内では大津、彦根、長浜などにありましたし、全国各地に分布していました。住民が自分たちで建設し、維持管理もする都市給水施設が日本に多数あったということです。ただし規模は小さく、用途も生活用水と防火用水に限られています。

近江八幡丸水組規約
第一条 当組合は丸水組と称し末尾連署の人名を以て組織す
第二条 当組合の株数は六十個を限度とす但元井戸の水量に依り役員会の決議を以て増減することあるべし
第三条 組合役員は総会に於て幹事十名を選挙し役員中互選を以て常任幹事二名を選出するものとす
第四条 常任幹事の任期は一ヶ年にして幹事の任期は五ヶ年とす
第五条 常任幹事の職務は樋管の修繕及び組合費に係る出納等一切の事務を総埋し幹事は之を補佐するものとす
第六条 常任幹事及幹事は無報酬なるも役員会の決議により賄料を支給することあるべし
第七条 常任幹事は毎年一月定期会を開き前年度に於ける収支を精算し組合に関する諸般の事を商議するものとす
第八条 役員任期満了の年度に於ては総会を開き事業及会計の報告をなすものとす
第九条 組合費は使用水量を考量し役員会に於て其負担額を決定し毎月徴収すべきものとす
但し是れが徴収に応ぜざるときは断水処分することあるべし
第十条 前条月掛金は毎月八幡銀行へ預け入れ確実に保管なし組合費に充当すべきものとす
第十一条 月掛積立金にて支弁し能はざる工事をなすべき時は臨時総会を開き決議の上着手するものとす
但之れが工事費は第九条に依り臨時徴収なすべし
第十二条 内井戸及其樋管に損所を認めたるときは速に常任幹事に申出て自費を以て修繕をなすべし万一修繕を怠りたるときは役員会の決議を経て断水することあるべし
第十三条 前条断水の処分を受けたる者と雖も株金は返戻せず井戸株の存在する限り負担金は徴収するものとす
第十四条 井戸株は役員会の承認を経ず他に譲与することを得ず
第十五条 内井戸を他に移轉せんとするときは其事由を常任幹事に申出て許可を受くべし
第十六条 総井戸及内井戸に於てポンプを据付け汲水の便宜は認むるも他に孫井戸と同等の効力ある分水設備は許さざるものとす
第十七条
各戸井戸端は清潔なる施設をなし毎年夏期一回の井戸掃除をなすべきこととす
第十八条
本組合に係る樋管延長工事は絶対に爲さざるものとす
第十九条 規約以外の臨時事項は役員会を開き決定処理するものとす
第二十条 此規約は株主総会を開き出席過半数の同意を得ざれば改廢なすことを得ず
右規約堅く相守り可申依て各自捺印するものなり
昭和五年三月
丸水組規約

丸水組規約

水道は自分たちで守るもの

私はここに来てみて初めて、根本的に水道への考えを変えなくてはならないなと思いましたね。それまで私は渇水のとき、利根川の上流のダムをどう操作するかというような研究をしていました。しかし、下流のみなさんは「上流のダムの貯水率は何パーセント」という情報ばかり聞かされる。だから、蛇口をひねって水が出ないと水道局に電話するわけです。つまり、「お上が施設を造り、水を供給するのが当たり前」と思っているんです。しかし、決してそうではない。水道というのは自分たちで造るもの、自分たちで維持管理するものなんですよ。本当に水が大切だと言うのならば、それがどこから来てどこへ流れていくのか、そして、自分たちに何ができるのかということを考えてみるのが当たり前なのではないでしょうか。

ーー確かに、私たちにとって公営原則の水道が当たり前の存在になっていますね。

法律で規定されていますから、それは当然ですね。ですから、水道局もみなさんに良い水を供給するにはどうすればよいのか、日夜考えているわけです。公営原則の上に立って、住民の健康を守る給水施設を維持しているわけですから。

ただ、本当に自分たちがどんな水を飲みたいのかを考えれば、水源まで自分たちで考えてみてもよいと思いますね。

近代水道との違い

ーー当時世界一の大都市である江戸でも、基本的には近江八幡と同じような給水システムだったと考えていいのでしょうか。

近江八幡の場合は、元井戸と取井戸を竹樋で繋いでいる構造ですから、取井戸から水を汲むと元井戸の水位も下がって、元井戸の外部の地下水が元井戸に集まることになります。すなわち、取井戸から水を汲み出さず、途中の竹樋で漏水がなければ、給水システムに水が貯まっている構造になっています。また、取井戸から水を汲み出して利用する開放給水システムで、竹樋には近代水道のような高圧がかからない低圧給水システムです。

江戸の玉川上水の場合は、暗渠の取入口と水利用をする末端の溜桝(上水井戸)には、最大32メートルの標高差がありました。取入口の四谷大木戸で標高が34メートル、暗渠末端の海岸低地では地盤高が2メートルです。この間を、木製の暗渠で繋いでいるのです、このままだと末端の溜桝からすごい勢いで水が噴き出すはずです。近江八幡と違って、溜桝での水利用がなくても給水システムは常時水が流れている構造です。実際には、溜桝から水が噴き出ないように途中で水が放流されるのです。玉川上水の水は江戸城堀、下水、吹上御庭とか大名屋敷の泉水に流れるのです。もっとも海岸低地に至る幹線水路の一つは赤坂溜池の脇を通りますが、そこで標高が6メートル程度まで下がりますので、その先は標高差が少なくなって近江八幡と同じような貯水構造になっていると思います。したがって、近世の水道を分類すると、貯水構造主体と流れ構造主体、それからその中間的な構造になると考えられ、すべて低圧・開放給水システムです。

近代水道は、高圧・閉鎖給水システムで、蛇口を開けなければ貯水構造ですが、圧力がかかっていますので蛇口を開くと流れ構造になるのです。近代水道では蛇口を開けっ放しにする浪費が問題になって、蛇口をきちんと閉めなさいと叱られるわけですが、玉川上水の場合は蛇口が無いけれどもそれを堀、下水、泉水などの用水として利用するシステムになっているという点が、今の水道とは違うということです。

『上水記』を基礎にした玉川上水及び神田上水の江戸市中の幹線配水路左下:玉川上水の江戸市中における水理構造の模式図 図版すべて神吉和夫『玉川上水の江戸市中における構造と機能に関する研究』1994より

『上水記』を基礎にした玉川上水及び神田上水の江戸市中の幹線配水路 左下:玉川上水の江戸市中における水理構造の模式図
図版すべて神吉和夫『玉川上水の江戸市中における構造と機能に関する研究』1994より



近世水道の概要
神吉和夫「近世都市と水道」(大熊孝編『川を制した近代技術』平凡社、1994 所収)より
都市名 都市分類 施設名称
竣工年
水源 配水域の構造 目的・用途
小田原 城下町 小田原早川上水 1545年 天文14 早川
2
生活、灌漑
江戸 城下町 神田上水 1590年 天正18 神田川
2
生活、灌漑、泉水、水車
甲府 城下町 甲府用水 1594年 文禄3 相川
2
生活、濠、灌漑
富山 城下町 富山水道 1605年 慶長10 用水の流末、湧水
 
排水、防火
福井 城下町 福井芝原水道 1607年 慶長12 九頭竜川
1
生活、灌漑、泉水
近江八幡 城下町→在郷町 近江八幡水道 1607年 慶長12 井戸
3
生活
駿府 城下町 駿府用水 1609年 慶長14 安倍川
1
雑用、灌漑
米沢 城下町 米沢御入水 1614年 慶長19 松川
1
雑用、排水
播州赤穂 城下町 赤穂水道 1616年 元和2 千種川
2or4
生活、灌漑、泉水
鳥取 城下町 鳥取水道 1617年 元和3 湧水
4
生活
中津 城下町 中津水道 1620年 元和6 山国川
2
生活、泉水
仙台 城下町 仙台四ツ谷堰用水 1620年 元和6 広瀬川
1
雑用、灌漑、排水
福山 城下町 福山水道 1622年 元和8 芦田川
2
生活、灌漑、濠
佐賀 城下町 佐賀水道 1623年 元和9 多布施川
1
生活、濠、排水
桑名 城下町 桑名御用水 1626年 寛永3 町屋川
2or4
生活、防火
金沢 城下町 金沢辰巳用水 1632年 寛永9 犀川
2or4
濠、灌漑、泉水、生活?
高松 城下町 高松水道 1644年 正保1 井戸
3
生活
(安房) 漁村 屋久島水道 1646年 正保3 湧水
1
生活、灌漑
江戸 城下町 玉川上水 1654年 承応3 玉川
4
生活、灌漑、泉水、濠、水車
江戸 城下町 本所(亀有)上水 1659年 万治2 瓦曽根溜井
4
生活、灌漑、泉水?
水戸 城下町 水戸笠原水道 1663年 寛文3 湧水
4
生活
名古屋 城下町 名古屋巾下水道 1664年 寛文4 庄内川
4
濠、泉水、生活
長崎 港町 倉田水樋 1673年 延宝1 銭屋川伏流水?
4
生活、防火
長崎 港町 出島水樋 1707年 宝永4 湧水
3
生活
長崎 港町 狭田水樋 1796年 寛政8 井戸
3
生活
宇土 城下町 宇土轟水道 1690年 元禄3 湧水泉池
4
生活、灌漑
郡山 宿場町 郡山皿沼水道 1722年 享保7 溜池
4
生活(武士の宿所)
鹿児島 城下町 鹿児島水道 1723年 享保8 湧水
4
生活
曽屋 宿場町 曽屋水道 1723年 享保8 湧水泉
1
生活
(花岡) 農村 花岡水道 1780年 安永9 高隅川
1
生活、灌漑
長崎 港町 西山水樋 1813年 文化10 井戸
3
生活
(玉里邸) 鹿児島藩主私邸 玉里邸水道 1835年 天保6 湧水
4
生活、泉水?、灌漑
大津 港町、宿場町 大津寺内水道 1841年 天保12 湧水
4
生活
久留里 城下町 久留里水道 1851年 嘉永4 横井戸
3
生活
(指宿) 鹿児島藩主別邸 指宿水道 1852年 嘉永5 指宿川
4
生活、灌漑
(磯集成館) 工場 磯集成館水道 1852年 嘉永5 木川
1
工場、水車、生活
(越ヶ浜) 漁村 越ヶ浜水道 1852年 嘉永5 湧水、井戸?
3
生活
箱館 城下町(奉行所) 箱館願乗寺川 1858年 安政5 亀田川
1
生活、排水、舟運
箱館   五稜郭上水 1861年 文久1 亀田川
4
生活、濠
神奈川 宿場町 神奈川宿御膳水 1867年 慶応3 湧水
4
生活

注:『明治以前土木史』、『日本水道史』、堀越正雄『井戸と水道の話』、および各地の水道史誌他の記述を参考に作成。
配水域の構造の欄の1 は開渠、2 は開渠の暗渠化、3 は当初から暗渠(井戸を水源)、4 は当初から暗渠(井戸以外を水源)を示す。

防火用水としての水道

ーー防災という視点から見ると、井戸ができるだけ均等に分散していることは初期消火に役立つということになりますね。

江戸の場合は、実際そのようになっています。確かに初期消火には役に立ちます。しかし、いったん燃え広がってしまうと消火は難しい。そのため、火消し組合による延焼防止を目的とした打ち壊し消火が行われるわけです。最初は水を持ってくれば大丈夫だろうと思っていたけれど、実際水道を造ってみると初期消火に役立っても燃え広がると消火できなかったということではないでしょうか。

ーーしたがって、高圧・閉鎖給水システムの近代水道が、必要不可欠となってきたということですか。

日本が近代水道を導入するときに、連続給水方式と間欠給水方式の二つの選択肢がありました。イギリスの場合は、間欠給水方式が多かった。つまり、ある時間帯だけ水が流れ、それ以外では流れてこない。不便ではあるけれど、節約という意味ではそれもよかったかもしれません。結局、日本では連続給水方式が選択されました。それは利便性という大義の他に、もう一つ大きな理由がありました。それは、防火用水の供給に支障をきたさないためというものです。

今でも新しく水道が引かれますと、記念式典で消防ホースから放水しますね。近代水道であれば、高い所まで水が上がる。今まで人の手ではなかなか消えなかった火災が、これで一挙に消すことができる。それが非常に大きな意味を持っていました。だから、衛生施設として水道が造られたと言われるけれども、非常に大きな要因として、防火用水としての機能が期待されたのではないかという気がしています。実際、各地で近代水道を造ろうという議論があったとき、「そんなにお金を使ってどうするのだ」という反論が多く出てくるのですが、大火災を契機として一気に水道建設が行われる都市がいくつか見られます。近代以前についても同様の事例を見ることができます。

自己責任で管理できるか

現代の法律体系の中で、水道を自分たちで管理することはできません。ただ、住民が頑張って、自分たちの水は自分たちで確保するという方向で動けば、気運は出てくるのではないでしょうか。

近江八幡のある井戸組合では水質検査を時々実施していて、飲用に適する水質であることを自慢しておられました。その井戸組合では樋管が塩化ビニールパイプに換わっているのですが、私はそれを聞いて、江戸時代の竹樋の場合でも飲用可能という結果になっただろうと思いました。

ただ、近江八幡である年、年1回の取井戸の巡回掃除を役員がしているのを見学したのですが、作業を見ていると取井戸の掃除はしているけれど、井戸の中に入って損傷部分がないかを確認することまではしていませんでした。損傷部分があれば昔ならきちんと補修するのですが、今はしない。既に庭の打ち水といった雑用水としてしか利用されていないからそれでもいいのですが、現代都市には環境ホルモンとか発ガン性物質とかの極微量単位で問題となる汚染物質が溢れていますので、その水を安心して飲用するための維持管理は難しくなっています。ごく少量でも廃液を流せば、給水施設の損傷部分とか親井戸から滲入してしまうからです。何年か先に、自分たちの孫が危険にさらされたときに、誰が責任を持つかということまで考えを巡らせると、実際に自己責任で水を考える体制を整えるのは、大変難しいことだと思います。

玉川上水をはじめ近世の水道では、水源の水、たとえば川の水を、浄化せずにそのまま飲んでいました。今までは「川の水をそのまま飲むとは、江戸時代にはなんと汚いことをしていたのか。そのために、赤痢とか疫痢とかの伝染病が流行ったのだ」と思われていました。そのため近代水道の建設をしなくてはならないと言われたわけです。しかし、古い近代水道の教科書を読むと、水源水質が良ければ浄化施設は省略できると書いてあるのです。

江戸時代のころは、水源となった川の水質も非常に良いものだったのではないでしょうか。江戸時代はおろか昭和30年代くらいまでは、晴天が何日か続くと川底が見え、それが当たり前だったんです。そう考えると、それより以前、江戸時代はもっときれいだったでしょう。私は、近世の水道が悪いと言われる中で「幕末とか明治になってからではなく、施設管理がしっかりしていた時期に水質検査をしたら合格だったと思いますよ」と主張しています。

近江八幡水道の構造模式図

近江八幡水道の構造模式図
親井戸から孫井戸に至る導・配水部に限らず、「内入れ」と呼ばれる給水管を含めた近江八幡水道の樋管は、主に竹管が多い。『滋賀県八幡町史』(1933年)によれば、総樋管6357間のうち竹管4016間、土管2188間、ヒューム管153間、鉄管2尺と6割近くも竹管で構成されている。聞き取り調査によれば、古くはほとんど竹管であったようで、土管などへの変更は、大正から昭和初期に始まったそうだ。
竹管は孟宗竹もしくは青竹、径3寸内外・・・長12~3尺が用いられている。
竹管の接続には「枕」「駒」などと呼ばれる太鼓状(2側面を平らにしたもの)にした松丸太などが使われ、辻や給水管の分岐点および屈曲部には樽が使用されている。各接続部には槙肌(まいはだ ヒノキの内皮を叩き柔らかくした繊維)を詰め、浸水や漏水を防止している。
竹管が樋管として使用された理由は、入手が容易の上安く施工が簡単、なによりも水道の規模が小さく、樋管を流れる水量が少ないことだろう。樋管としての竹の寿命は意外と長く、町史によれば「竹の生命は大体50~60年間で時には100年も」もつようである。しかし、アンケート調査に「改修時に竹管が薄い皮だけの状態であった」との回答がみられ、竹管の正味の寿命はわからない。
神吉和夫「近江八幡水道の研究」1983『建設工学研究所報告25号』より

水循環の中で考える

ーー井戸、雨水など水源を自分で選んで分散利用すれば、水道水の消費量が減り、合理的とも思うのですが。

理想的にはそうあるべきですが、現実には困難です。現在の水道は衛生施設というより都市の利便施設となっています。オフィスビルのトイレ洗浄水のために大量の飲用可能な水が流されているのです。横浜創みずみちのあたりまえ 近世城下町に見る水道の知恵設水道の場合は一人一日約80リットルとして計画されましたが、現在では250から300リットルでしょうか。その大部分は、トイレ洗浄水のように飲用可能な水質を必要としません。そうは言っても、トイレ洗浄水のような雑用水だけを供給する新たな給水系統を建設するには莫大な費用と時間がかかりますし、誤配管の恐れもあります。

江戸では水洗トイレではなく汲み取り式で、屎尿は近郊農村の肥料となる商品でした。玉川上水の水は武蔵野台地での開発用水にその大半が使われ、江戸では堀と泉水に使われた量の方が生活用水より多かったという試算結果がでています。近世の水道と近代の水道は異なった思想のもとに造られたと言ってよいでしょう。

近代以前の水道の研究をしていて、近代水道のフィルターを捨てなければいけないと気づきましたが、さてどう考えたらよいかと苦しんでいたときに、『古代城市水利』という中国の本のコピーをある先生からいただきました。城市は都市の意味です。水利は含蓄のある言葉で、水に関わる治水、利水、環境等のすべてを含むようです。

この本を読むことで、都市における水利構造が歴史的に異なっていることに気づきました。日本の近世には、江戸の玉川上水のように為政者により建設された多目的・多用途施設があり、また一方には近江八幡水道のように町人により建設された生活用水と消防だけに使われる小規模施設がありました。私は前者を官の系譜、後者を民の系譜と呼んでいますが、それらが近代化のなかで西欧の近代水道の出現により消滅していったと捉えればよいと気づいたのです。都市の治水、利水、親水の問題を総括的に捉えることが、近世には当たり前ではなかったということです。現代の水に関わる行政体系は、河川、水道、工業用水、農業用水等がばらばらに分かれていますが、それは近代になってできたもので、ほんの百数十年程度の歴史を持つにすぎないのです。

都市の水を総括的に捉える場合、水循環に則した形で水の法律や河川、水道、工業用水、農業用水等と環境を全部一緒に考えればよいのではないでしょうか。そのような観点から一つ前の時代を見ると、水循環に則した水利用と水社会システムが機能したことが浮かび上がってきます。

近世の城下町をみると、水との関係が重視されていたことは間違いありません。残念なことに日本の近代都市計画では、近世都市を西欧型の都市に改造することが目的になってしまって、水に関わる総合的な計画はありませんでした。

近年、都市の水辺、ウォターフロント再評価の流れのなかで城堀の役割が見直されてきていますが、安直に下水処理水を使ったり地下水揚水で間に合わせてほしくありません。欧米でも流域委員会とか水委員会とかいう名称で、流域全体で水を考えるという組織ができています。近世に存在した、都市の自然条件を考慮し、水循環に則した水の計画を、現在に生かす知恵としたいものです。



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