機関誌『水の文化』33号
だしの真髄

だしの起源と変遷

だしが調理の中で意識されるようになったのは、仏教の禅宗が始まり、と奥村彪生さんは言います。 禅は料理をつくり、食べることも修行。 お茶を立てて飲むことも修行。 しかも位の高い人が、修行僧のためにご奉仕するのだそうです。 生臭ものでなくても、生きものの命をいただいて、自分の命をつないでいることには変わりありません。そんな「いただきます」の気持ちが、だしの文化を育んできたように思います。

奥村 彪生さん

伝承料理研究家
奥村 彪生 (おくむら あやお)さん

1937年和歌山県生まれ。自ら料理人としての経験をふまえ、日本をはじめ世界の伝承料理を研究する。2009年3月、論文「日本のめん類の歴史と文化」で学術博士取得。飛鳥・奈良時代から明治・大正時代の料理の復元や、伝承料理の記録のために多くの著書を著す。料理スタジオ「道楽亭」主宰。
主な著書に『聞き書・ふるさとの家庭料理〈5〉もち・雑煮』(農山漁村文化協会2002)、『おくむらあやおふるさとの伝承料理前期(全7巻)』『おくむらあやおふるさとの伝承料理後期(全6巻)』(ともに農山漁村文化協会2006)、『日本めん食文化の一三〇〇年』(農山漁村文化協会2009)。

だしは禅宗から

だしという言葉が出てくるのは、室町時代。本来は精進料理からです。

だしの始まりは、昆布とか椎茸、かんぴょう、搗栗(かちぐり)、干し大根、干しかぶらといった植物性のものからとった。かんぴょうや搗栗、干し大根、干しかぶらは、うま味というより甘味。煎り米も大豆もありますね。大豆の茹で汁も、アミノ酸が溶け出していますから煮詰めて利用された。

だしは中国の文化です。日本で最初にだしの話が出てくるのは、道元さん(注1)の著書です。

『典座教訓』の中に、だしのことが書かれています。修行を行なう寺の食事係の長のことを典座(てんぞ)というのですが、食事をつくる心がけを書いた素晴らしい修行書です。料理人は絶対に読まなければなりません。栄養士さんも。

道元は、中国の寧波(ニンポー)の港で、上陸が許されずに足止めを食いました。今から考えると、パスポートの不備かなんかです。そこへ、確か四川省出身の典座が来て、「この船に椎茸は積んでいないか」と問うたのです。

日本の干し椎茸は、非常に良い味が出ることを、この老典座は知っていたのです。

今も日本の干し椎茸は、高い評価を受けています。その価格は香港の相場で決まります。香りが良いのと、うま味が強い。これは風土の問題であろうと思います。

道元が「あなたは何をしている人ですか」と尋ねたところ、その老師は阿育王山(広利寺)の典座で、明日は5月5日の節句なので若い修行僧のためにおいしい麺をつくって食べさせてあげたい。おいしい汁をつくるために椎茸が欲しいのだ、と言った。

「何で偉い坊さんがそんなことをするのか」という問答があるのですが、禅宗では偉い人が、修行僧のために料理をつくる。

その思想が、鎌倉末期から室町時代にかけて、禅宗の留学僧たちによって日本に伝えられた。

「食即禅」といって、禅宗は料理をつくり食べることも修行ですからね。お茶を立てて飲むことも修行の一つ。ですから、非常に食べごとを大切にする。

日本のだしの文化は、禅寺の精進料理から発展した、と明言して間違いはないと思います(注2)。

(注1)道元 (どうげん 1200〈正治2〉〜1253年〈建長5〉)
鎌倉時代中期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。道元の出生には不明の点が多いが、源通親あるいは久我通親の嫡流に生まれたとするのが定説。13歳で比叡山にのぼるが、当時の比叡山は時の権力者と結んで堕落しているとして山を下り、24歳のとき中国へ渡る。如浄(にょじょう)禅師と出会い、坐禅を中心とした修行を行ない帰国。九十余巻にも及ぶ著作『正法眼蔵』を残したほか、修行道場として大本山永平寺を開く。
(注2)
仏教発祥地のインドでは、食事に関する戒律はあまり厳しくなく、僧侶自ら料理をすることもない。したがって精進料理は発展しなかった。インドの達磨大師が中国に伝えた禅宗は、教典中心の「論理的修行」ではなく、坐禅修行を中心にした自らの「実践修行」に重点を置いたため、従来、雑用と考えられていた掃除や洗濯、炊事なども、読経や坐禅と同じように重要な修行の一つと考えられるようになった。
また、禅寺で僧が畑や田を耕すのは、多くの修行者が集まったために托鉢だけでは修行僧の食事が賄えなくなったからといわれている。

最初は精進だし

椎茸は干して保存する。天日乾燥ですから、椎茸の成分が活性化して、うま味がたくさん出ます。グアニル酸がうま味の成分です。鰹節や昆布とはまた違ったうま味で、奥深い。

なぜこれを必要としたかというと、理由は簡単です。精進ですから野菜・乾物が中心です。タンパク質源は大豆や小麦。すべて植物性で、肉や魚といった動物性のうま味とずいぶん異なる。動物性のタンパク質には油脂も含まれています。野菜・乾物をおいしく食べようと思ったら、だしの力を借りなくてはなりません。そして、油。だから、煮るか、和えるか、炒めるか、揚げる調理法をとります。

精進料理において、初めて油のうま味とだしのうま味が出合った。「炒め煮」です。アミノ酸系のうま味と、油の、なんというか滑らかで良い香りがするうま味の重層です。

炒めたり揚げたりするのは、精進料理からの流れなんです。奈良時代から続いてきた、日本料理の伝統的なものの中にも、一部、油で炒めていた可能性がある。揚げ物は、室町時代には天ぷらとしてではなく「挙げ物」としてありました。法隆寺の記録では「油(ゆーじー)」。油には滋養がありますから、書いて字のごとくです。

奈良時代には索餅(さくべえ)といって、今のそうめんの祖のような麺を食べるときに、ゴマ油をたらしているんですよ。索餅料の中にゴマ油が出てきますから、利用していたことは事実。しかし、利用していたのはごく一部の人で回数も少ない。

私は、だしという言葉は、どうもお祭りの山車(だし)からきたんではないか、と思っています。山車を引っ張ることによって、人が集まってくる。人寄せのための山車なんです。うまく祭に人を寄せている。

野菜・乾物の煮物を、うまくするための液体がだしなんです。そのだしの基が昆布や椎茸。大胆な説かなあ。両方とも、人を喜ばせている。

味噌・醤油に似たものは、既に奈良時代からあります。これもアミノ酸です。わかめを水で煮て、そこに味噌を入れるだけで充分うま味があった。

しかし寺院で法要のときや、偉い人へのおもてなしのために、特別にだしを取った。ハレの食事です。お祭りもハレです。おいしさと感動を与えるため、だし(山車も)が必要になったのです。

室町時代の記録では、昆布はね、そのまま使わず炙(あぶ)って水に浸けています。そのほうが香りが良いし、磯臭みが消える。

調味の確立

だしが定着して発達を遂げるのが、室町時代。花鰹という言葉も出てきます。そのころに、日本の調理文化が変わるのです。

奈良以前からだと思いますけれど、日本のご馳走は「料理」なのです。美しく切って、美しく盛ること。それはいわゆる「割レ鮮(あらたしきをさく)」ということ。鮮度の良いものを切る、という意味です。本によっては「なますつくる」とルビを振っています。確か、日本書紀はそうだったと思います。

前も言ったけど(29号:「日本人の生食嗜好」参照)、現代人の一番の好物が握り寿司で二番目が刺身。どちらも生食。魚の生食ができるのは、水が良いから。安全でおいしい水で洗えるから。

私はそれを「浄め」の文化といっています。

「浄め」の文化は縄文の文化。神社に行くと手水舎(ちょうずや)があって、手をゆすぎ、口をすすぐ。これは仏教にも茶道にも取り入れられました。

仏教でも特に、禅宗には「浄め」が強くある。枯山水の庭などもそうですね。水が流れていなくても、砂や砂利で水の流れをつくって浄められている。

私は「枯淡の思想」と言うのですが、禅宗では「食べる」ということも日本に入ると美しく食べることが意識されました。

麺の食べ方も中国と日本とでは違います。熱くしようが冷たくしようが、そうめんでも冷や麦でもうどんでも、日本はつけ麺型です。うどんは、熱くしてつけ汁につけて食べるから饂飩(うどん)なんです。

室町時代に入って初めて、和え物や煮焚きものに味噌を使う「調味」の技術が現われた。それまでは、食べるときに食べる人が自分で味つけをしたのです。

基本は、塩と酢。だから、これを「塩梅(えんばい)」という。「あんばい」というようになったのは、後からのこと。正しくは、「えんばい」です。

塩と酢のほかに、醤油の祖である「ひしお」も添えた。場合によっては、小刀を添えて鰹節が付いた。

それと、鰹の茹で汁を煮詰めた「煎汁(いろり)」。これは平安のころの文献には既に並んでいます。これらを使って、自分で味つけした。塩梅しろ、というわけです。

平安末期になって、すり鉢が登場するんですが、鉢に筋目があまり入っていないので、それほど機能していなかったと思います。乳鉢みたいなものです。

鎌倉末期から室町時代になると、すり鉢が普及してきました。それで味噌がすられて、それまで舐めものだった味噌が調味料になった。味噌をベースにしたソースが多様化しました。酢味噌やワサビ味噌、サンショ味噌、ゴマ味噌などです。

このころに、味噌をベースにして味つけをする技術が生まれた。味噌汁や味噌煮、田楽。また、味噌を水で溶いて、煮詰め、麻袋に入れて垂らして澄まし、うま味だけ取り出した。垂れ味噌です。火を入れない場合には、生垂れといいます。

精進でないときは、これに削った鰹節(花鰹)を入れる。これを「煮貫(にぬき)」といいます。

多分、日常は生垂れでしょう。もてなすときに垂れ味噌を使ったのでしょう。室町時代の雑煮は、これで味つけしている。だから、雑煮は実はお澄ましなんです。

余談ですけど、酢をどれだけ使うかは食文化のバロメーターです。だから酢をあんまり使わない所は、調理・調味文化が発達していません。

味噌もそうですが、室町から江戸末期にかけて、日本には酢をベースにしたソースが実に豊かに見られます。両方合わせると40種類以上もあります。

気候風土も影響します。蒸し暑くない地域は、酢のものが欲しくならないんです。京都なんかはすり鉢状の地形で、非常に蒸し暑い。フライパンの上で暮らしているようなもの。それであっさりしたものが欲しくなって、酢のものが発達しました。

精進の味噌汁は豆腐やワカメの野菜が中心ですから、だしは必要不可欠ですが、最初のころは普段は用いず、味噌そのものがだしの素だったと思います。ただし、味噌をちゃんとすっているんですよ。当時は粒味噌だったということもありますが、すって使うとうま味がよく出るし、無駄がない。

無駄がないということは、精進が一番大切にした教えです。一物(いちぶつ)全体を余すところなくいただく。だから、若い坊さんは修業では必ず味噌すりをするんです。

すりこぎが1mもあった。両足ですり鉢を両側から挟んで、すっています。

野菜や海藻を煮た中にすり味噌を入れて溶くだけで、充分味が出る。だから味噌は、醤油もそうですが、だしと味つけを兼ねていたのです。

昆布は権力者の贈答品

昆布という文字は、奈良時代に既にあります。陸奥国、細昆布、廣毘布がそれで、平安時代は「えびすめ」とか「ひろめ」と呼ばれ、津軽地方の蝦夷(えみし)の人たちが届けました。奈良・平安時代は舐めものでした。おそらく酒肴にしたのでしょう。酒をうまくした。昆布をだしにしているのです。

昆布は高価なものだったから、政治的な贈答に用いられました。盛んに使われるようになったのは、室町時代以降です。お坊さんや公家さんの日記に贈答の記録が頻繁に登場し、その数量は多くなっていきます。この時代、京の寺院や公家では、届け物に昆布を多く用いました。

昆布をしゃぶりますと、唾液がたくさん出ます。その味は塩気とグルタミン酸ですから。満腹感を覚えるんですよ。

グルタミン酸を多く摂ると満腹感を覚えるから、肥満防止になる。こう説明すると、だしの文化の復興に役立つかもしれませんね。

鎌倉時代になると、出陣のときと勝って帰陣したときに、酒肴に搗栗と鰹節と昆布がついたのです。「勝(か)って喜(よろこぶ)勝男武士(かつおぶし)=搗ってよろ昆布鰹節」。

搗栗もしゃぶっていると甘味が出てきておいしい。鰹節のイノシン酸、昆布のグルタミン酸、栗の甘味。ここで既に複合調味料の味を知ったわけです。うまいものは甘いともいえます。甘いは旨い、です。

東京・日本橋の山本山本店。暮れも押し迫ると鏡餅が飾られるが、そこには縁起物として欠かせない昆布が。簡略化が進む中、紙製やプラスチック製のイミテーションが多いが、惚れ惚れするほど見事な昆布に老舗ならではの心意気が表われていた。

精進と武家料理が一体化

だし汁を取るのに昆布と鰹節の両方を使うのは、江戸に入ってからですね。これは精進のだしと武家のだしが一体になったことの表われ。『料理塩梅集』(1668年〈寛文8〉)に「澄の吸物、水一升に鰹節ひとつ昆布二枚程入れてせんじだしにして」とあります。

武家の料理は、室町時代になると調菜(=精進料理)と合体します。これが日本料理の起源です。調菜は、黒染めの法衣を着たお坊さんが携わりました。包丁を持って刺身をつくる人を庖丁人もしくは料理人と呼びました。これが武家料理。包丁の技術と調菜の技術が合体して、日本料理ができたのです。

これらは武家を中心とした料理文化として発達した本膳形式の会席です。江戸時代になると一般大衆にまで広まります。飯と汁、刺身、焼き物、煮物、和え物などです。

喫茶の文化も禅宗の影響ですね。武家がこぞって茶をたしなんだというのも、料理文化と関係しています。

茶事懐石も、禅宗の精進料理の影響を受けています。安土桃山のころ、お茶を飲み回すための前奏曲的な料理として、千利休によってつくられました。

つまり濃い茶を飲み回すとカフェインが多くて胃が痛くなる。胃壁を守るために少しの料理を食べる。ブランデーやウイスキーを飲むときにレーズンバターやチーズクラッカーとかを食べるでしょ、それと共通した食べごとです。

茶事懐石は一汁三菜が基本で、ご飯が主役です。ご飯の菜(さい・おかず)でもっとも重要視されるのが椀盛(わんもり)と呼ばれる澄まし汁仕立の煮物です。普通の野菜乾物、魚介の煮物と異なり、魚介のくずし(すり身)や豆腐(これもくずしにする)を丸めて下茹で、または蒸し物にして椀に盛り、澄まし汁を張ります。豆腐の場合は、揚げ物にすることもあります。この澄まし汁のだしは、昆布と削りたての鰹節を使い、入念に取ります。江戸で発達した江戸料理は、鰹節が主でした。

このように、茶事懐石は濃茶をおいしく飲むための食事なんです。だから、今の料理屋で「懐石」といって出している料理は酒肴であって、懐石とはいえません。茶事懐石の酒肴は、食事が終わったあとに出される八寸です。

結局、水が大切

お茶もだしになりますよ。におい消しの意味もあるけれど、うま味を加え、脂抜きをするために、私はニシンや棒タラをお茶だしで煮ます。この場合、鰹節と昆布と葉茶を小袋に入れて一緒に煮ます。もったいないから番茶ですけど、別に煎茶でもいい。天ぷら茶漬け用のだしは、一番だしに玉露を加えます。玉露はグルタミン酸を多く含み、うま味があります。

お茶も水や湯で出すわけです。結局重要なのは水なんです。

「水の特徴は何ですか」と大学院の講義で院生に聞くと、化学的な特徴は言いますけど、一番大切なことを知りません。

疲れたときに、1杯の冷たい水、1杯のコーヒー、1杯のお茶。それが人の心を溶かす。心を癒すんですよ。金属や岩をも溶かす。何でも溶かすというのが水の特徴なんです。

だから水の中に昆布を入れようが鰹節を入れようがお茶を入れようが、うま味が出てくるんですよ。引き出し(だし)役をしている。水こそ、だしを取る素なんです。

水は軟水のほうが、昆布や椎茸、鰹節、煮干しのうま味が出やすい。硬水だと植物性のうま味は出にくい。良い水がなければ良いだしは出ない。

庶民とだし

もともと鰹節は、鰹の卸し身を茹でて乾燥させただけの荒節でした。奈良時代からあり、鰹(あらかつを)と呼ばれていました。元禄時代に紀州の印南(いなみ)の甚太郎という人が、堅木を焚いて燻(いぶ)す乾燥法を考案する。それまでは、天気の悪い日や雨の日には藁(わら)を燃やしていたそうです。堅木を焚くことで、非常に良い香りが立ったのです。

このことが、アイヌの人たちの食文化圏以外の日本(列島型)に、唯一の燻製品をもたらした。これは香りづけとともににおい消しですね。堅木である樫の木の香り。オークですから、ウイスキーやブランデーとも共通しますね。

カビ付けというのも、鰹節の発展に役立ちました。カビが生きるために、菌糸が中心部まで入っていって水分を吸い取ることでカラカラになった。だから、どこへでも運べる、保存性も高まる。文化年間の記録に、長野県と新潟県の境にある秋山郷で鰹節を使っている、とあります。鰹節を削って、稗(ひえ)の雑炊をつくって食べています。

煮干しを使い始めるのは明治以降です。それまでは鰯は全部干鰯(ほしか)といって、田んぼや畑の肥料です。

京都にある総合地球環境研究所で行なわれた「塩と食文化」というシンポジウムの中で、「ひょうたんが、なんで縄文の遺跡から出土するのか」について触れたことがあります。

縄文遺跡に貝塚がありますが、アサリや蛤を食べているうちに、大きな貝塚ができたわけじゃないんです。干し貝をつくるために、たくさんの貝の身を取って、貝殻を捨てた跡。加工場跡なんです。

この干し貝を山の人の所に持っていって、山菜とか猪や鹿の肉と交換した。その茹で汁にはうま味の成分であるコハク酸がいっぱい。煮詰めてひょうたんに入れ、運んでいるはずです。もちろん、塩分も含まれていて、この塩分も山の人たちが必要としたのです。オイスターソース様の調味料です。

昆布も鰹節も、これほど使われるようになったのは、流通が発達したからです。ただし、昆布は圧倒的に京阪中心で、全国的に使われるようになったのは戦後になってからです。というのも、配給であまり上等でない昆布が配られた。その昆布でだしを取るようになった。

だから漬物に昆布を入れてうま味を補うなんていうことも、最近になってからのこと。糠床や白菜漬け、沢庵に昆布を入れるなんていうのは、戦後になってからの文化です。

ふんどし一つで筋肉隆々

先の例のように、鰹節はずっと前から使われています。昆布のほうが高価だったんです。

エリザ・シドモア(注3)というアメリカ人の女性ジャーナリストで、日本中を人力車に乗って旅した人がいました。富士山の山小屋で鰹節でだしを取っている風景を書いてますよ。明治初めのことです。

講談社から翻訳が出ていますけど、それを読みますと当時の庶民というのは、暮らしは貧乏でしたが、精神的に豊かです。確かに、外国の人から見ると衣食住は貧しい。でも、「人力車を引く車夫は、ふんどし一つで筋肉隆々」と書いてある。

食べているものは米の飯と小さな魚の干物(目刺しか)と沢庵程度。でも、笑顔を絶やさない、と書いてある。貧しくても、美しく生きる精神の現れです。

けっして粗食ではなくて、ご飯をたくさん食べていました。米の飯が食べられない地帯もありましたけど、雑穀でもちゃんと体力をつけていました。

山間地を歩いた人の記録を読みますと、山間地のほうが長寿者が多いと書いています。文化年間の記録では、29軒の集落に80歳以上の老人は4人。それを語った人は79歳だったのです。現在もそうです。現在、100歳以上の高齢者は3万人を超えていますけどね(2008年9月現在3万6276人 厚生労働省)、農林業の従事者が圧倒的に多い。7割方がそう。

一見貧しい食でも豊かさを彷彿させるのは、イメージではなくて、私はグルタミン酸やイノシン酸のうま味のお陰だと思います。

日本に漂着したザビエルが、本国に書き送った文章の中に「この民族は賢い。私の次に来る人は、しっかり勉強してから来なさい」と書いている。

ザビエルは安土・桃山時代ですが、江戸時代で識字率が70%以上で、世界一。

今の人は、脂のおいしさを覚えてしまったから、だしのうま味を、ないがしろにしていて危ない。脂のおいしさに洗脳されるんじゃ、京都大学の伏木亨さんが研究しているネズミと一緒です。

(注3)エリザ・シドモア (1856〜1928年 Eliza Ruhamah Scidmore)
アメリカのジャーナリスト、紀行作家。ワシントンで新聞記事を執筆していたが、横浜領事館に兄が勤務していた関係で1884年(明治17)来日。アラスカ、当時のジャワ、中国、インドに関する著書を出版し、東洋研究の第一人者となる。日本についても1891年"Jinrikisha days in Japan(訳題 日本 人力車旅情)" New York : Harper, 1891などを出版する。新渡戸稲造とも親交があり、日米親善に貢献。ホワイトハウス前庭のポトマック河畔に日本の桜を植えることを提案した。

「しらげのよね」の国

封建時代は暗黒の時代のように言われてきましたけど、農民は農民で楽しみながら仕事をやっていたはずだと思います。いろいろな禁止令が出るのは、飢饉や災害があったときだけ。

蕎麦やうどんを食べることまで禁止された、というけれど、調べてみると、飢饉のときなんです。2年経ったら解除されています。お触れが出て文書に残るのは、特別なことなんです。

あと間違ったらいけないのは、日本では玄米は食べていませんよ。江戸時代の料理書や随筆集の多くを読んだけど、玄米は出てきません。弥生時代から日本は竪杵(たてぎね)で籾米を搗いて籾取りをしています。摩擦力で米の形成質層、糠(ぬか)は少し取れます。確かに精白度は低いけれど、完全なる玄米ではありません。奈良・平安時代は、これを黒米といいました。

玄米食を提唱し始めたのは、石塚左玄(注4)です。

玄米食には絶対条件があるんです。糠になる所や胚芽には、農薬が一番溜まってしまいます。ですから、まず無農薬。それから、よく噛むこと。消化、吸収が悪くて栄(営)養化しないから。一口で最低50回は噛まないと。よく噛むと唾液がいっぱい出て、甘くなり、満腹感も出ます。唾液もだしの素です。三番目は、おかずは野菜や乾物。絶対、植物性のもの。酸性度が高いですから、動物性のものを一緒に摂ったらいけません。

奈良時代から平安時代にかけて上位の人が食べたのは「ましらげのよね」。中位は「しらげのよね」。庶民は「黒米」。

この黒米を、平安時代には馬の餌にもしています。百姓はもちろん粟(あわ)(ひえ)(きび)もつくっていますから、これらも食べたでしょうが、完全な玄米は食べていません。

それに当時は、籾擦り機がないから完全な玄米がつくれなかった。江戸中期になると、籾擦り機が中国から入ってきて、完全な玄米ができるようになる。でも、百姓は精白しましたよ。臼と杵があったからです。それに、当時は煮炊きは薪ですから、玄米なんか炊こうとしたらたくさんの薪が必要になるのです。その薪代が馬鹿にならん。山だって入会権がありますから、勝手に薪を取ってくるわけにはいかんのですよ。

江戸中期に江戸患いといわれた脚気(かっけ)が起こったのは、天候不順で野菜が高騰したからなのです。仕方なく、江戸の人々は白米を多く食べなければならなくなったことが原因です。

うまさからいっても、「ましらげ」にしたほうがいい。日本の飯の炊き方はおネバも捨てない炊き干し法ですから、米のうま味が100%残る。

ご飯が炊きあがってしゃもじで切るのは、空気に触れさせておネバのうま味をご飯に固着するためです。日本の米、温帯ジャポニカは世界で一番うまい米。そのことがうま味文化の根底にあるのです。実は、米の炊き汁もだしなのです。

もっと言うとね、麦飯もあんまり食べてないんですよ。室町時代に、ちょっと麦飯の話が出てきますけれどね。奈良時代には麦をあまりつくってない。つくった大麦を、青刈りをして馬の餌として売ったのです。そのことを何度も禁止している。

戦国時代になって、米が兵糧に取られるようになったから、仕方なく大麦を食べるようになった。

精進料理が武家料理と融合するようになって、魚貝を使ったり、野鳥を使ったりするようになった。中世になると、鶏も加わっていますが18種類ほどの野鳥を食べています。塩漬けした鴨や雁の肉を切って水から煮てだしを取り、その肉も食べています。これが船場煮です。大阪の船場汁は戦後生まれです。

織田信長が徳川家康をもてなしたときには、鶴が出て、次に白鳥が出て、とりはウズラとありますから、日本人が肉食をしなかったというのは間違いです。

江戸時代にも、土用のときなんかは暑気払いといって、農家の人がニンニクを入れて鹿肉を煮て食べています。冬はイノシシの味噌煮。これだと野獣のだしで煮ることになります。

(注4)石塚 左玄 (いしづか さげん 1851〜1909年)
福井県出身の軍医、医師であり薬剤師。「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり」と、心身の病気の原因は食にあるとした食本主義を謳った。「身土不二」「陰陽調和」「一物全体」を基本とした食養学を提唱、食養会をつくり普及活動を行なった。マクロビオテックなど、多くの食養生に応用されている。

汁と麺

澄まし汁と味噌汁を分けて考えるのは間違いです。安土・桃山時代の公家さんの日記を読んでいたらね、汁と吸いものを書き分けているんです。

汁、と書いたらご飯に添えるおつゆもの。味噌で味つけしようが塩だろうが関係ない。そして、お椀に蓋はないんです。その上、おかず兼用だから実もたっぷり、汁もたっぷり。よく一汁一菜というけれど、そのときの一汁はおかず兼用。だから具がたっぷり。今のように若布が3枚浮いているという、具の少ない汁ではない。実が少ないから、味(実)噌汁ではなく、粗汁です。

伝統的な日本食にすると、米が塩分を欲しがりますから、塩分を取りすぎるきらいがある。だから汁ものには海藻や野菜をたっぷり入れてほしい。海藻に含まれているアルギン酸が、体内の余分な塩分を出してくれるのです。

吸いもの、というときにはお澄ましではなく、酒の肴。椀には必ず蓋がしてある。実も汁も少ないんです。つまり、上品。

つゆにだしを多く使う麺のことでいえば、室町から江戸中期ぐらいまでは、そうめんも冷麦もうどんも、酒の肴。江戸時代に入ってから、食事代わりに使われるようになりました。どっちみち、麺類の文化は寺方の文化です。寺院から発達して、公家に移っていく。だから上層社会の食べものだった。

なぜ、酒の肴になったかというと、つゆの塩気とだしのうま味が酒をうまくした。酒のうま味を生かすには、肴はまずは塩気、そしてうま味。他のうま味を重層させて、よりうまく感じる。次が酢のものです。これは絶対米からつくった米酢でなければなりません。

江戸っ子が蕎麦通を気取って、つけ汁を少しつけて食べたというのは、みりんや砂糖があまり使われていなかったから、汁が塩っ辛かったこともあるのです。

つけ汁にみりんが使われ出すのは、元禄以降からです。砂糖が使われるようになったのは江戸時代後期。砂糖はフィリピンのルソン島や台湾から入っていました。

この当時の砂糖は、氷砂糖です。それをおろし金でおろして使った。これを氷おろしといいます。

江戸で料理屋の八百善なんかが流行ったのは、味つけが甘かったから。「うまかった」からじゃなく、「甘かった」からです。要するに江戸の味は、甘辛。上方は素材の味を生かす、品の良いだしの味。京は酒と塩を使い、淡口醤油を補いました。大阪は淡口醤油にみりんを少し加えました。京は「はんなり」、大阪は「まったり」した味でした。

家庭料理の復興を!

私はこの30年、「家庭料理の復興を!」と叫んでいます。なかなか難しい。若いお母さん方に聞くと、だしを取るのが難しく、邪魔くさいと言います。お年寄りもそう言います。

その理由は、板前さんや料理研究家が難しく教えるからです。「心を込めて」と、精神論を言い過ぎです。

先日、自立型の老人ホームに講演に行ったんです。

一人、二人の料理ならだしを取らなくていいんですよ、と言った。

朝の味噌汁なら、寝しなに冷蔵庫の中に残っている野菜を刻んで、小さい鍋に入れ、ひたひたに水を加えて、煮干しも入れる。煮干しの頭も内臓も取りません。

朝起きたら、良いだしが出ている。日本独特の浸けだし。目が覚めてから鍋を火にかける。歯を磨いて、顔を洗って身支度を整えている内に煮えている。そこに味噌を加えて溶いて、煮干しも全部食べてしまう。鰹節を使う場合は、ティーバック用の小袋に詰めて、加える。味つけする前に取り出して絞る。昆布はハサミで切って加え、これも食べてしまう。

それから煮もの。私は季節の野菜しか食べません。

私は利尻昆布を使いますが、昆布を下に敷いて材料を入れ、ひたひたに水を加え、鰹節はティーバックに入れて放り込む。杓子定規なやり方で、だしは取りません。煮立ってきたら、醤油やみりんで味を調えて、味を見る。これをベロ(舌)メーターといいます。人間しか持っていない、味のメーターです。

甘い辛いはあっても、自分の味。

昆布は刻んで一緒に盛りつける。鰹節はふりかけにする。煮物だって多めにつくって小分けして冷凍。

ご飯も同じ。多めに炊いて、炊きたてを一食分に分けて、ラップフィルムに包んで冷凍しておく。食べるときに電子レンジで解凍したらいい。

「だから、うちはチンチンクッキングクラブです」と、そんな話をすると「そうや、そんなんでいいんや」と言って安心してくれた。奥村彪生は、さぞかし毎日手の込んだものをつくってるんだろう、と思っていたかもしれませんね。

こうやって肩の力を抜いて生活をすると、和食はすごく楽。

板前さんたちがテレビでやったり記事に書いたりするのは、金儲けのためにきれいにつくらなくちゃならない「商売の料理」で、家でつくるものは、自分と家族の身体と心を「養う食」なんです。

心身をともに育てていく。その味が癒しになる。我が家の味を、自分がつくっていく。そうすれば、いざというときに子供が「おかあさーん」と叫んでくれる。

日本は四方を海に囲まれた、逆くの字型の国ですから海産物が豊富。それと内陸部でできる穀物や野菜やキノコを組み合わせたのが、日本料理。その野菜や乾物、キノコ、豆類の煮ものや汁ものをうまく昇華させたのは、基本的には鰹節と昆布。海はまた、うま味の生みの親でもあるのです。

私たちの国が置かれている環境の恵みです。亜寒帯から亜熱帯まで、変化に富んだ風土から、いろいろな作物や獲物が捕れる。それをうまく生かしておいしくいただく知恵が、生きるための基本です。

景気の悪いときは、家でご飯を食べるようになる。そうすると必要なのは、ご飯のおかず。これも手づくりしたほうが安くつく。

今、政治、経済、情報はすべて東京から発信されますから、東京一律になってしまって、地場の文化は失われています。

家庭料理とともに地場の食文化を育てていかないと、日本は良くなりません。

私は岡本太郎が好き。彼が言う「伝統は守るんじゃない。破るんだ。そこから新しいものをつくっていくんだ」という日本文化論に感動しました。

米を食べ続けている以上、日本からうま味の文化は消えないでしょう。だしは、単なる液体ではない。この文化を、これから外国に発信する時代に入っています。

今、日本は不健康者が増加しています。野菜や乾物をしっかり食べて、健康にならなくては。そのためにも、だしは不可欠。「だしよ、バンザイ」です。



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    機関誌 『水の文化』 33号,奥村 彪生,水と生活,食,歴史,だし,家庭料理,仏教,禅,きのこ,醗酵物,味噌,昆布,お茶

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