機関誌『水の文化』36号
愛知用水50年

〈子どもの森〉は活路となるか

残村再建のために王滝に来て50年。華やかな繁栄と苦悩の両方を見てきました。公職を退いて気がかりなのは、人口減少のこと。〈子どもの森〉は、活路の要となれるのでしょうか。

小林 正美さん

長野県木曽郡王滝村前村長
小林 正美(こばやし まさみ)さん

1937年、長野県木曽郡上松町生まれ。

補償事業を担当

私は上松町の出身。1958年(昭和33)に「牧尾ダムをつくるから手伝え」と王滝の助役だった先輩に言われ、当時は今と同じで就職難だったのでやって来ました。来たときには、もうダムをつくることは決まっていた。多少、土木がわかって測量なんかができましたから、残村再建事業を担当しました。

御嶽山に行く道路は県道なんですが、当時はリヤカーぐらいしか通れない道幅で、それをバスが通れる5m道路に広げるのが主な仕事でした。設計単価を出すときに基本となる土工の日当が、確か1日500円ぐらいの時代の2億1000万円ですからすごい金額です。村有林の造成事業やその他の道路整備もしました。消防車を買ったんだけれど、道が狭くて入れなかった。慌てて道路を広げた。今じゃ笑い話ですけどね。

愛知用水公団(当時)もやる気で取り組んでいましたから、立ち退く墓地や庭の植木1本に至るまで計算しました。

王滝村は村有林をたくさん持っているんです。だいぶ売ってしまいましたが、2700町歩ぐらいあるんですね。その造林や植林も〈村有林造成事業〉として補助が出ました。

冷静に考えて、恵まれた補償だったと思います。けっして粗末に扱われたわけではない。公団は温かかったと思います。

観光で生きる

産業は、基本的には林業。農業は自家用に少しつくるぐらいで小規模なものです。

メインの柱は、御嶽山の信徒の登山。寒参りというのもありましたが、夏中心です。講を組んで先達が何百人も信者を連れて来た。だから、昔は旅籠(はたご)といっていましたが、旅館の親父は旦那、旦那と呼ばれました。

ところがリーダーとなる先達がだんだんと高齢化して、減る傾向が出てきた。スキー場開発は、信徒の減少対策と観光の通年化のためです。

スキー場開発の顛末

王滝村は地形と雪質に恵まれて、昔からスキーはやっていたんですが、リフトはなくスキー板を担いで上がりました。Cコースと呼んでいた斜面を1日に10回も滑れば、くたくたになった。当時、長野県のスキー場でリフトがあるのは、藪原(木曽郡木祖村)だけ。木柱のリフトでしたが、全国でも何番目かに早かった。

それで牧尾ダムの補償料の一部をいただいて、第一高原リフトを1961年(昭和36)に設置しました。私が最初にやらせてもらった仕事です。二百何十mで、確か700万円だった。ただ、リフトをかけた年は惨めなもんで、客が全然来なかった。「カランカラン回っとる王滝村のリフト」と、新聞でもさんざん叩かれました。それで次の年は宣伝をしました。

村の職員が10人ぐらいと、旅館の若い衆で、エージェントを回ってパンフレットを配った。私たちが宣伝したのは「中京、関西から最も近い本格的なスキー場」という謳い文句。東京、名古屋、大阪、京都、姫路まで行ったかな。だから姫路から静岡まで、お客さんは今でも来てくれますよ。

次の年は、お客がわんさと来たんです。1965年(昭和40)ごろまではそれでやったんですが、とても収容しきれないぐらいに増えた。ちょうどスキーブームに乗って、運が良かったんですね。

一番下のゲレンデは雪質があまり良くない。それで混雑解消も兼ねて、雪質の安定している1500mより上、第4リフトから先を開発しました。

標高2200mから1500mで、最長滑走距離で4000mとれる。そうしたらもう、わんさか来て。

今から考えると嘘みたいな話ですが、1000台ぐらい止められる駐車場を整備したけれど、それでも収容しきれなかった。国道19号線の元橋交差点から村の入り口のガソリンスタンドまで、車が連なっておった。だから、駐車するだけで半日ぐらいかかった。それでもお客さんが来てくれたんです。

人口わずか2000人弱の村に、一般会計予算とスキー場の予算とで50億円組んだことがある。スキー場の予算が二十何億円かで、一般会計予算を超えちゃった。それで県に「お前のところは大丈夫なのか」と怒られたこともあります。

それでどかんと借りて、約120億円投資しました。儲かっているときには全然平気で、売り上げの中から3億円か4億円返しておった。

どんどん返して、次の投資をしました。リフトを7本かけたあとで、今度は4人乗り高速リフトというのに取り替えて。さらに欲が出て、ゴンドラリフト。これだって十何億円ですからね。

ゴンドラをかけたのは、確か平成に入ってから。バブルが弾けるちょっと前です。これにはずいぶん反対もあった。良識のある人は、日本の将来の経済状況をみて、やるべきじゃない、と言っていた。それに加えて、温泉施設をつくってしまった。これも5億円だか6億円かけてしまった。反対したのは1、2名でした。

県知事が判子をついてくれなければ、村はお金を借りられませんし、お国も当時は景気浮揚のために「お金は使いなさい」と言ったんですよ。

やっぱりダムが契機でスキー場ができ、観光の2シーズン化が実現された。それと若者の雇用。当時80人ぐらいの人を雇った。べらぼうに利益が出なくてもいいから、雇用対策にしようと。つまり、過疎対策です。

  • おんたけ2240(ニーニーヨンマル)

    おんたけ2240(ニーニーヨンマル)は、標高2240mという高地に位置するため、雪質が良好で遅い時期までの滑走が可能。
    写真提供:おんたけ2240 おんたけマネジメント(株)

  • 上からゲレンデマップ、展望浴場〈ざぶん〉の外観と風呂

    上からゲレンデマップ、展望浴場〈ざぶん〉の外観と風呂。
    写真提供:おんたけ2240 おんたけマネジメント(株)

  • おんたけ2240(ニーニーヨンマル)
  • 上からゲレンデマップ、展望浴場〈ざぶん〉の外観と風呂

人口減少の背景

当時は4000人近くの人口があったんですが、今は約900人。牧尾へ文句は言いたくないですが、やはりあれが契機になって、年々人口が減った。

村外移住と村内移住と、両方ありました。村外では東京もありましたが、豊橋が多かった。愛知用水公団のご配慮だった。松本とか中津川とかに行った者もおります。

家賃や保育料の補助といったアイディアは出るけれど、職がない。職がないので伊那、松本、中津川、木曽福島に出て行ってしまう。

王滝村の人口は合併をしようがしまいが、変わりません。合併して増えるなんてことはあり得ませんから。村長を辞めさせてもらっても、気がかりですね。これ以上減少すると、地域が維持できません。王滝村の中で、一番人口が多い上条区でも、軒並み跡継ぎがいない。息子はいても、みんな外に出てしまっている。

スキー場がピークの時代は、スキーシーズン以外の季節は村の森林組合の仕事として林業をやってもらった。今でも山の職員として少し残っていますがね、企業課を立ち上げ、ここだけで25〜30人雇った。全国規模で公募したんです。外部から人を入れて、人口減少に歯止めをかける。これを狙ったんです。スキー場がダメになったときに辞めて出て行った人もいますが、まだ残っている人もいます。

ここで暮らせば、田んぼ1枚で、母ちゃんと二人で最低1年間食っていく米は確保できる。野菜も少しつくっているし、いざとなれば川に行って魚を釣ればいい。いよいよ食料がなくなっても、死ぬようなことはない。息子にも言っているんです。「お前らは死ぬずらが、わしたちは死なんぞ」って。

もちろん、財政的に非常に苦しかったんですけれど、それは何とかなるんです。一番怖いのは人が減ること。結局は人の心の問題ですね。いかに豊かさを、自分の中に持っているか。行き着くところは、そこでしょう。

愛知郡東郷町の調整池〈愛知池〉で毎年行なわれるレガッタ大会

上:長野県森林づくり県民税を活用した、王滝村の牧尾ダム付近の植林。
下左:愛知郡東郷町の調整池〈愛知池〉で毎年行なわれるレガッタ大会。
下右:昨年から、王滝村役場チームも参加。健闘した。 写真提供:(独)水資源機構愛知用水総合管理所

〈子どもの森〉

私は教育長をやって、助役をやってから村長になったんですが、教育長のときに考えたのが「小学校が維持できる子どもの数」です。それで〈王滝村教育交流センター子どもの森〉(以下、〈子どもの森〉)というのを始めました。

王滝村で欲しいのは、1学年1クラスを維持できる子どもの数。だから、大勢でなくても構わない。1学年が維持できないと、先生が取られちゃうんですよ。

当時の校長が優秀な人で、校長と二人で田舎と都会の交流という意味で「教育交流」ということを考えた。

今でも続いていて、十何人かの子どもたちがおります。転入させないとその地域の学校の義務教育は受けられないので、王滝村民になってもらうんです。教育交流センターのセンター長が親になって転入させます。

子どもだけが来るから、若年の人口比率が20%以上になって、「高齢化してないじゃないか」と言われたこともあった。分析してみたら、〈子どもの森〉が原因でした。人口が少ないから、ちょっとでも増えると割合が跳ね上がっちゃうんですよ。

私は教育長時代に、前の名古屋市長の松原武久さんが名古屋の教育長だったときに「名古屋の子どもを王滝によこしてくれ」と頼みに行ったら、1時間ぐらい説教されました。不登校とか問題児が行くから大変だよ、と言われた。

確かに言われたとおりだったけれど、やってみたら、ここに来ると喜んで学校に行くんです。先生に言わせると全然問題がない、と。周りの人間が、子どもたちの心の中のものを汲み上げられないでいるのが、原因なんじゃないかな。

4月に来て、5月、6月ぐらいまで泣き通すそうですが、それが過ぎると一切のことを自分でやるようになるそうです。小学校の3年生ぐらいから、自分の身の回りのことを全部やります。だから、1年経ってから家に戻ると、親がビックリする。

もともと村がやっていたんですが、維持できなくなって、補助だけになり、それもカットされた。それで当時の職員たちが立ち上がって企業組合にして運営しています。

現在1クラス12〜13人で地元の子と半々ぐらいです。生活費がかかるから、親の負担も大きいですが、日本全国から来てくれます。

久野庄太郎さんのこと

私は東郷町とか半田の市長さんとは何度かお話しさせていただきましたが、水争いで本当に惨めな生活だったそうですね。当時の王滝村民も、知多が水で困っていることは重々承知していて、「絶対反対」という言葉は使ったけれど、反対する気持ちはなかったです。

久野庄太郎さんは私利私欲がなくて、知多半島の農業をなんとかしたいと思い、奔走されました。反対同盟の会長の家にも、しょっちゅう行かれておった。西路といって、私の先輩の親父で村会議長をやっていましたが、おっかない人でした。そういう人とでも、久野さんは親しくしていた。似たようなところがあったんじゃないかな。農家を回ってお茶を飲みながら説得して歩くような人でした。

「この水があってこそ花がつくれる」という感謝を伝えたい、とシンビジュームという花をつくっている豊田市の組合に招かれたこともあります。「本当に御嶽山に足を向けて眠れません」と言われてね。

だから公共事業も、久野さんがなさったような原点に戻るべきです。最近一番感じるのは、本当の豊かさは何なんだっていうこと。これを日本全体でもう一度考え直さないと。

御嶽山のビューポイントながら、雲がかかりやすいので霊峰はなかなか姿を現わしてくれない。

御嶽山のビューポイントながら、雲がかかりやすいので霊峰はなかなか姿を現わしてくれない。夕方は逆光となり(参照:「流域を見据えて」)、カメラマン泣かせの御嶽山だ。



PDF版ダウンロード



この記事のキーワード

    機関誌 『水の文化』 36号,小林 正美,長野県,水と社会,産業,農業,スキー,ダム,観光,人口減少,教育,森林

関連する記事はこちら

ページトップへ