機関誌『水の文化』40号
大禹の治水

大禹謨発見のドラマ
高松・栗林公園と西嶋八兵衛

渇水で取りざたされることの多い香川県・高松ですが、市内を流れる香東川は、扇状地の暴れ川で伊勢・津藩から派遣された西嶋八兵衛によって治められました。そのときに記念として建立された〈大禹謨〉が、流転の運命の末、栗林公園内に鎮座しています。 香東川の旧・河川を生かした庭園であり、高松藩12万石の傑作といわれる栗林公園が、〈大禹謨〉安住の地になるまでの軌跡を追います。

古川 京司さん

香川県栗林公園観光事務所所長
古川 京司(ふるかわ たかし)さん

1958年生、香川県高松市出身。1984年、大阪大学法学部卒業後、香川県入庁。瀬戸内国際芸術祭推進室等を経て、2011年4月より現職。

不思議な石〈大禹謨〉

香川県・高松の栗林公園の商工奨励館という建物の中庭に、「大禹謨(だいうぼ)(注1)」と彫られたこぢんまりとした石があります。大それた石碑というのではなく、穏やかな丸みを帯びた自然石です。この〈大禹謨〉が、今、注目を集めつつあります。

大禹謨っていわれても、一般の人にはわからないですよね。大はわかるけど、禹も謨もわからない。

それを教えてくださったのが禹王碑探求家の大脇良夫先生です。それまでは、全国各地にそんなにたくさん禹を祀ったものがあるなんて、ちっとも知りませんでした。大脇先生にいろいろ教えていただくことによって、一つの石が、他の地域とのつながりがあるものだということがわかって、うちの〈大禹謨〉には、すごい力があるんだと気づきました。

(注1)大禹謨
『書経』中の「大禹謨」という問答集の題名。一般に「偉大な禹のはかりごと(政策)」と解されるが、謨には「はかりごと(政策)」という意味と合わせて、「君主に対する臣下の言」という意味がある。『書経』中の「大禹謨」は後者の意味の内容になっている。

西嶋八兵衛、讃岐に派遣される

〈大禹謨〉をつくったのは、西嶋八兵衛之友(ゆきとも)(注2)という治水家です。

讃岐(現在の香川県)は藩政が奮わない上に、地震や干ばつなどの災害が相次いだため、伊勢の津藩主である藤堂高虎は、家臣の西嶋八兵衛を讃岐建て直しに遣わしました。

物語の舞台となった高松は、いわゆる難波津や奈良、京都にも近く、瀬戸内海を使って西から攻めてくるのを監視する西日本の要所です。1587年(天正15)生駒氏が入封、香東郡野原郷に城を構え、高松と命名。生駒氏は秀吉の朝鮮出兵にも参陣し戦功を上げた大名で、守りの重要性を意識しての拝領でした。そのころの高松は野原と呼ばれており、港町として栄えていたようです。

生駒家3代目の正俊は、津藩主藤堂高虎の娘を正室にしました。高虎が出家して高野山で隠棲したのを、秀吉の使いとして初代の生駒親正が説得し、下山させたという因縁もあります。正俊が亡くなったときに嫡男の高俊が幼少だったために、高虎は外戚の祖父として後見人となるなど、津藩藤堂家と高松藩生駒家は関係が深かったのです。

(注2)西嶋八兵衛之友(1596〜1680年)
遠州(現・静岡県)浜松で生まれる。名は之友。八兵衛は通称。17歳で伊勢の津藩主藤堂高虎に仕えた。水利、土木、経済、書道に優れた八兵衛は、高虎の命で1625年(寛永2)〜1639年(寛永16)の14年間讃岐に住んで、讃岐高松藩生駒家の領国経営に参画した。讃岐の実状を高虎に報告し、長期的視野に立った溜め池の改修や築造、香東川(こうとうがわ)の東流を締め切って、西流1本にする大規模な治水事業に取り組み、新田開発を実現した。讃岐を離れてからは、城和奉行や伊賀奉行を務めた。

西嶋八兵衛による香東川の締め切り

香川県は降水量が少なく、47都道府県中、最も面積が狭い県であるにもかかわらず、全国の溜め池の1割があるといわれるほど、溜め池に頼ってきました。

西嶋八兵衛は、溜め池の基盤整備に取り組み、1184年(元暦元)以来、決壊したままになっていた満濃池(まんのう町)を4年がかりで復旧。龍満池(高松市香川町)、小田池(高松市川部町)、山大寺池(三木町)、三郎池(高松市三谷町)、瀬丸池(三豊市高瀬町)、亀越池(まんのう町)、仁池(丸亀市綾歌町)など、わずか数年で九十余りの溜め池の築造・改修を行ないました。

生駒家が高松城(玉藻城)を築城した当時、香東川(こうとうがわ)は大野郷(高松市一宮団地付近)から二股に分かれ、東の流れが城下町付近を通っていましたが、堆積した土砂で川底が浅くなったため、雨が降る度に洪水を起こしていました。

香東川というのは、香川県中部を流れ、延長3万2989m、流域面積113・2km2の二級河川です。奥山にある樺川(かばがわ)という里に香り高い樺の古木があったために馥郁(ふくいく)とした香りの水が流れた、という伝説からこの名がついたといわれ、県名の由来にもなっています。

八兵衛は香東川の東流を締め切って、西流に1本化。東の旧流路付近に新田開発を行ないましたが、この工事は想像以上に大変で、締め切った下流地域では長期にわたって伏流水が湧き出たそうです。ちなみに、この地方では湧水のことを出水(ですい)と呼んでいます。

さて、香東川の締め切りを成功させた八兵衛は、安全を祈願して〈大禹謨〉と刻んだ石を鎮斎しました。時期は特定されていませんが、八兵衛が滞在した14年間の半ばではなかったかといわれ、場所は香川町善海辺りと考えられています。

しかし、1640年(寛永17)重臣の争いに端を発した生駒騒動が起こり、讃岐生駒家は出羽国由利郡矢島(現・秋田県)に改易になりました。

西嶋八兵衛は、水不足に悩む讃岐に、満濃池をはじめ、たくさんの溜め池の築堤や改修を行なった恩人です。多大な貢献があったにもかかわらず、やはり生駒家の時代の人なので、その後そんなに評価されてこなかった。それもあって、〈大禹謨〉のことは、長らく忘れられた存在になっていたのです。

私も小中高と香川県出身なのですけれども、小学校で西嶋八兵衛のことを教わった記憶がありません。正直言うと、栗林公園の仕事を始めてから初めて知ったくらいです。ただ、今は自分たちが住んでいる所をちゃんと勉強しましょうという風潮が強くなってきていますので、小学校の教科書にも載っていて、何をしたかということがちゃんと書かれています。

香東川の流域図

香東川の流域図
国土地理院基盤地図情報(縮尺レベル25000)「徳島、香川」及び国土交通省国土数値情報「河川データ(平成18年)」より編集部で作図
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、 同院発行の基盤地図情報を使用した。(承認番号 平23情使、第630号)

大禹謨発見のドラマ

西嶋八兵衛も〈大禹謨〉も、すっかり忘れられていきました。時代は下って1912年(大正元)、香東川で大洪水が起こり、上中津(かみなかつ)の堤防が決壊してしまいます。その冬に県が施工した川普請の際に、なんと埋没していた〈大禹謨〉を大野中津の住民が偶然、掘り起こしたのです。ただ、そのときには字が彫ってあることに気づく者はいませんでした。

あとになって川原栄吉さんと宮武彌八さんという二人の若者が文字に気づき、知人の平木幸助さんとも相談して、右岸の旧・安原街道の薬師如来の隣に安置することにしました。

この〈大禹謨〉発見から間もなく、香川県内で西嶋八兵衛顕彰の機運が盛り上がり、なんと死後235年も経った1915年(大正4)、香川県からの申請により、正五位に追贈されました。三重県庁で、子孫の方に授与されています。

〈大禹謨〉発見のドラマはまだ続きます。元・四番丁小学校校長だった平田三郎という人が、大野折口に疎開して『一宮村史』を調査しておられたのですが、1945年(昭和20)終戦になってから、川部(かわなべ)橋北300m右岸にある河畔の草むらで、ふと目を留めました。そこに埋もれていた石に〈大禹謨〉と刻まれていたのを発見したのです。川普請で見つかった〈大禹謨〉は、いつの間にか再び顧みられなくなっていたんですね。

平田先生は漢学の素養が深く、郷土史家として香東川の歴史にも興味を持っておられたので、この三文字が示す意義に気づき、写真に撮って西嶋八兵衛終焉の地である伊賀上野の市長に筆跡鑑定を依頼。三重県郷土史の権威である村治円次郎さんから、「西嶋八兵衛の筆跡に似ている」との回答を得ました。

平田先生が勤務した四番丁小学校は、奇しくも讃岐生駒家の菩提寺である龍松山法泉寺の真向かい。平田先生が1956年(昭和31)に亡くなってこの事実は忘れ去られそうになりましたが、やす夫人が平田先生の友人で西嶋八兵衛研究家の福家惣衛さんに遺稿を渡したことで、「治水の神を祭る民族」(『新香川』1958年〈昭和33〉2月号)として発表されました。

県立香川中央高校の西側を北に進むと、野球のバックネットの裏辺りの道端に、南に向いて〈中津の薬師堂〉〈大禹謨〉〈牛の墓〉が三つ、今でも仲良く並んでいます。でも、この〈大禹謨〉はレプリカで、本物は栗林公園にあります。

面白いものですよね、お話だけではなく、一つの石が〈モノ〉としてあり、こんなちっちゃな石がこんなにいろいろな価値を持っているなんて。

あれだけ石がゴロゴロしている中で掘り起こされて、「石に何か字が彫ってある」って見つけられるのも奇跡的ですし、それをまた平田先生が「おお、これは!」って再発見する…なんていう奇跡が何回も繰り返されて、運命的にここに安置されているのです。

  • 県立香川中央高校そばにある〈中津の薬師堂〉。一時、〈大禹謨〉はこの横に安置されていた。今置かれているのは、〈大禹謨〉のレプリカだ。

〈大禹謨〉栗林公園に遷座

では、薬師如来の隣にあった〈大禹謨〉が、なぜ今、栗林公園にあるのでしょうか。

それは元・栗林公園所長の藤田勝重さんの尽力によります。1961年(昭和36)〈大禹謨〉の存在を知った藤田さんは、伊賀上野に在住する稲住佳生さんに再度、筆跡鑑定を進めるように依頼しました。西嶋八兵衛の子孫を訪ね、伊賀上野に赴いて西嶋八兵衛の真筆を自分の目で確かめるなど、精力的に活動しました。村治円次郎さんによって真筆との鑑定を得た藤田さんは、帰途、伊勢神宮に立ち寄り、神宮文庫で〈大禹謨〉の出典を『書経』(尚書)に見出します。

藤田さんは、こうして〈大禹謨〉がいかに貴重なものであるか確認していきました。そして、香川町教育委員長の二川一美さんに、もう二度と〈大禹謨〉が見失われないように、適切な保全をお願いしたんです。

安住の地の条件として、香東川に因む場所であること、老若男女たくさんの人の目に触れること、などもありました。こうして1962年(昭和37)7月7日、〈大禹謨〉は栗林公園内の商工奨励館の中庭に遷座しました。2012年(平成24)は、〈大禹謨〉が発見されて100年、遷座して50年の記念の年にあたります。

  • 栗林公園内の商工奨励館中庭に安置された〈大禹謨〉。

    栗林公園内の商工奨励館中庭に安置された〈大禹謨〉。

  • 西嶋八兵衛の筆跡であるといわれている。

  • 商工奨励館は、1899年(明治32)につくられた唐破風の建物。

  • 商工奨励館は、1899年(明治32)につくられた唐破風の建物。漆器をはじめとする県内産品を展示即売している。

  • 特別名勝 栗林公園 案内図

    特別名勝 栗林公園 案内図

  • 栗林公園内の商工奨励館中庭に安置された〈大禹謨〉。
  • 商工奨励館は、1899年(明治32)につくられた唐破風の建物。
  • 特別名勝 栗林公園 案内図

高松藩12万石の最高傑作

栗林公園を誰がつくったのかというのは謎ですが、西嶋八兵衛の讃岐時代のことがわかってくれば、そういった謎にも迫っていけるのではないかと期待が高まります。

もともとは元亀、天正のころ、当地の豪族佐藤氏によって西南地区(小普陀付近)に築庭されたことに始まるといわれます。その後、寛永年間(1625年ごろ)讃岐高松藩主生駒高俊公によって南湖一帯が造園され、1642年(寛永19)生駒家に代わって高松に入封した松平頼重公(水戸の徳川光圀公の兄)に引き継がれました。

栗林公園は、5代藩主頼恭公に至る百余年の間、歴代藩主が修築を重ねて完成されたもので、いわば高松藩12万石が残した最高傑作。明治維新まで228年間にわたり松平家11代の下屋敷として使用されました。

紫雲山を背景に、六つの池と13の築山が〈一歩一景〉といわれる変化に富んだ情景を生み出しますが、豊かな出水(ですい)は、西嶋八兵衛が締め切った香東川の東流跡であることを物語っています。

西嶋八兵衛はもちろん、讃岐だけで活躍された人ではありません。もともとの拠点は伊賀上野ですし、小堀遠州(こぼりえんしゅう)(注3)とも姻戚関係があるということで、江戸の庭園づくりでも一緒に仕事をされています。

私たちは小堀遠州を声高に言いたいところなのですけれども、確定する史料がない。大きな政権交代がありましたので、生駒家の時代の史料はほとんど残っていないのです。

100年間もかかってできたにもかかわらず、ものすごく統一感があるお庭になっている。継ぎ足し継ぎ足しで作られた感じは、ぜんぜん見受けられない。ですからどう考えても、よほどしっかりしたグランドデザインがあったのだろうと想像できます。それだけのデザインができるという人物は、その当時そんなにはいないのではないか、というのがベースにありますから、どうしても我々の想いとしては、小堀遠州にいくんですね。

小堀遠州というのは象徴的な言い方ですけれど、西嶋八兵衛をキーマンとして、栗林公園と当時の最先端の文化人たちとのかかわりは、きっとあったに違いないと思っています。

(注3)小堀遠州(1579〜1647年)
本名は政一(まさかず)。遠州は、武家官位の遠江守に由来する。安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家。備中松山藩2代藩主、のち近江小室藩初代藩主。
父 正次は、浅井長政の家臣であり縁戚でもあったが、浅井滅亡後は羽柴秀吉に取り立てられ、秀吉の弟 秀長に仕えた。大和国郡山移封に伴ない、秀長は山上宗二や千利休に師事。政一も小姓として影響を受けた。秀長と嫡子 秀保の没後は秀吉直参となって伏見に移り、古田織部に茶道を学ぶ。

  • 紫雲山と一帯となった栗林公園

    紫雲山と一帯となった栗林公園は、水を巧みに生かした庭園だ。

  • 紫雲山と一帯となった栗林公園

デザイン知事と呼ばれた金子正則

香川県に讃岐時代からの文化的素養があったためか、デザイン知事と呼ばれた金子さんという知事が就任した時期があります。日本を代表する建築家の丹下健三に設計を依頼して、旧県庁をつくったのも金子正則(まさのり)(注4)さんです。

そういう知事がいたので、栗林公園の所長に西嶋八兵衛研究をされた藤田勝重さんを任命されたり、彫刻家のイサム・ノグチがアトリエを構えるなど、高名な文化人が香川に多く集まったのです。

当時、讃岐民具連という運動があって、県で蒐集した民具を展示する讃岐民芸館が栗林公園内につくられました。東京で新聞の挿絵を描いていた和田邦坊(くにぼう)(注5)が郷里に戻り、初代館長になっています。こういう県立の民芸館というのは全国でも珍しいのです。ジョージ・ナカシマの家具をライセンス製作している桜製作所が県内にあることに因み、その作品を集めた家具館もあります。また中庭は、「昭和の小堀遠州」と呼ばれた中根金作によって作庭されたものです。

金子知事は栗林公園が大好きで、ここが文化の中心、文化サロン的になっていたわけです。

金子知事が〈朝の栗林公園を散歩する会〉というのを主宰したのですが、時の香川県の財界人や裁判所長官とかが一斉に集まりました。メンバーがすごいのです。大禹謨というお酒も、その時代にできています。散歩会は、いまだに続いています。

(注4)金子 正則(1907〜1996年)
1950年(昭和25)から6期24年の間、香川県知事を務めた。香川県丸亀市出身。東京帝国大学法学部法律学科を卒業、司法官試補となる。敗戦翌年に東京控訴院部長となったが翌日付で退職し、丸亀市で弁護士を開業。1947年(昭和22)に香川県副知事に就任。在任中、吉野川から香川用水を引いたり、香川医科大学の開設を推進するなどした。香川県庁舎(現・東館)建設にあたっては、中学の先輩である猪熊弦一郎画伯の助言で丹下健三に設計を任せた。イサム・ノグチやジョージ・ナカシマら芸術家とも親交があり、「政治とはデザインなり」という言葉を残したとされる。

(注5)和田邦坊(1899〜1992年)
香川県出身、本名は邦夫。1926年(大正15)東京日日新聞社に入社、時事漫画を描く。ユーモア小説「うちの女房にゃヒゲがある」を執筆して話題を呼んだ。1938年(昭和13)退社後は帰郷し、画家として活躍。1965年(昭和40)讃岐民芸館長。商業デザイナーとしての顔を持つ邦坊は、讃岐民芸館のために凝った内・外装デザインを施し、ロゴマークや買い物袋の図案も手掛けた。


  • 禹が注目されるようになって、その名を冠した日本酒や和菓子もつくられるようになった。

    禹が注目されるようになって、その名を冠した日本酒や和菓子もつくられるようになった。

  • 大禹謨は酒も和菓子も香川、禹王は片品。

    大禹謨は酒も和菓子も香川、禹王は片品。

  • 禹が注目されるようになって、その名を冠した日本酒や和菓子もつくられるようになった。
  • 大禹謨は酒も和菓子も香川、禹王は片品。

禹で広がるネットワーク

観光というと、表面的な感じがしますけれど、そんなことはありません。〈大禹謨〉を通して、西嶋八兵衛をきっかけにした郷土史からの奥行きと、日本全国から中国ともつながるような広がりの両方ができたら、と思っています。

栗林公園には、県外からの観光客はずいぶん来られているのですが、県民の来場者は、その内の一割くらい。平成になってすぐ動物園が閉鎖になり、栗林公園のみで集客しようという方針になって動物園とか美術館とかいった集客しやすい施設が閉鎖されたり園外に出ました。そういう状況で、苦戦を強いられているのが現状です。

しかし、栗林公園は、特に重要な文化財庭園ということで、「特別名勝」に指定されていますし、世界的に有名な旅行ガイドの「ミシュラン」からは最高評価の三つ星をいただいています。また、アメリカの日本庭園専門誌では2011年(平成23)日本庭園ランキング3位にランクされました。国内はもとより海外でも高く評価されている庭園なんです。ぜひ地元の皆さんにもその価値をもっと知ってもらいたいと思っています。

観光地は一回行ったらもう行かないというところも多い。でも、栗林公園は、庭園そのものの美しさに加え、歴史に裏打ちされた面白い謂われやエピソードなどがたくさんあります。

私も4月にこちらに赴任して、ボランティアガイドさんにレクチャーをお願いしたら、本当に興味深い話ばかりで、栗林公園を見直してしまいました。大禹謨や西嶋八兵衛のことなども、聞いてみないとわかりませんよね。そういった話を聞いて、初めて栗林公園の面白さがわかると言っても過言ではない。これは若い人にも通じると思いますよ。この魅力を多くの人に知っていただくきっかけとして、西嶋八兵衛顕彰と大禹謨の物語を広めていきたいと思い、2013年(平成25)第3回禹王サミットの会場として立候補しました。全国各地の禹王碑を研究中の郷土史家をはじめ、韓国、中国にもその輪が広がってほしいと思います。

松平頼重公が来たときに1万3000人ほどだった高松の人口は、25年後には2万人になっていたといわれています。港町として繁栄し、そこで蓄えられた富が消費も促していたようです。

日本初の上水道は、早川を水源とする小田原城下のものですが、高松の上水道は、頼重公によって1644年(正保元)につくられています。多くの住民の暮らしを支えるインフラ整備を大切にした証しとも言えますね。

高松の上水道が、1653年(承応2)玉川兄弟によってつくられた江戸の上水道よりも早くできたことは案外知られていませんが、郷土のことを知ってもらうことで香川に住む誇りのようなものが醸成されたらな、と思います。

結局、大切なのはストーリーです。ただ見るだけじゃなくて、ストーリーがあることが重要。〈大禹謨〉発見のストーリーは、香川と栗林公園を牽引してくれる力を持っているんじゃないでしょうか。

(取材:2011年12月5日)

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