「まちは、そこで生きる人のパーソナルな考え方が集まって形成されている」と斉藤理さん。東京の水路の多くが埋め立てられて失われたのも、当時の人たちの評価や価値観の反映です。既に川がないのに、橋の名前だけが残っている場所で、残されなかったものの理由を探るのは、土地の履歴を知るだけでなく、未来をどうするかという解を導き出すにも役立ちます。多様な解を出すために、銀座と日本橋をご案内いただきました。
山口県立大学准教授
中央大学社会科学研究所客員研究員 工学博士
斉藤 理(さいとう ただし)さん
1972年生まれ。東京大学大学院建築学専攻修了。東京大学研究員のほか、上智大学・慶應義塾大学などで講師を務め、2011年より現職。
この間、1999年より2002年までドイツ学術交流会(DAAD)奨学生としてベルリン工科大学建築学部記念物保護研究所にて研究。2004年まち歩き企画 「東京あるきテクト」を開始。2007年より日本初の建物一斉公開イベント「open! architecture」の企画・監修。2010年より東京都観光まちづくりアドバイザー。専門は建築史、建築物の文化観光資源化を中心とした観光まちづくり論など。
主な著書に『東京建築ガイドマップ─明治大正昭和』(共著/エクスナレッジ 2007)、ブルーノ・タウト訳書で『新しい住居〜つくり手としての女性』『ー住宅』(中央公論美術出版 2004)ほか
東京には、川がないのに橋の名前がつく地名がたくさんあります。多くの河川が埋め立てられて姿を消し、橋も撤去されたのに地名だけが残っているからです。
その一つに、三原橋があります。晴海通りを南東に下って行くと、中央通りと昭和通りの間に三原橋という交差点があって、ここには京橋川と汐留川を結ぶ三十間堀川に架かる橋がありました。
三原橋が架けられていた三十間堀川は埋め立てられましたが、都電が走っていたためか、橋は撤去されないで残り、橋の下は埋め立てられることなく地下街となり、現在まで利用されてきました。
戦後、3000万m3といわれる瓦礫の処理は、頭の痛い問題でした。GHQからは早く撤去しろとせっつかれますが、持っていく場所がないし、仮にあっても運ぶためのガソリンがありません。
当時、東京都の建設局長だった石川栄耀(ひであき)(注)が川を埋めることで瓦礫処理をするというアイディアを提案したとき、当時の安井誠一郎知事(1947年〈昭和22〉公選後、初の東京都知事)は、「なんて良いアイディアだ」と賞賛したそうです。
今の価値観でいえば「なんで、そんな乱暴なことをしたのだ」と批判されるかもしれません。しかし、当時は埋めたほうが合理的だという判断だったのです。
河川の埋め立てが早々と進んだのは、安井都知事が1947年(昭和22)に不用河川埋立事業計画という都市計画決定をしたからです。この事業で東京駅八重洲口にあった外濠、東堀留川、龍閑川、新川、真田堀、浜町川、六間堀川、三十間堀川など、実に多くの河川が姿を消しました。
水路というのは橋で結ばれてはいますが、結界でもあって、障害でもある。橋を架けるより水路を埋めてしまったほうがいい。ゴミも捨てられるから一石二鳥だ、という考えが支持されたのです。瓦礫を埋めてできた土地を売却して財源にあてましたから、実は一石三鳥だったのです。
三原橋地下街に入居した店舗の多くは、水路のあった時分に水辺に連なった屋台が基になっています。水辺は人を惹きつけますが、特に橋のたもとには賑わいが生まれて、商売の場としても最適だったはずです。都市を歩いて不思議に感じたことを探っていくと、まちの成り立ちや隠れた履歴が浮かび上がってきます。橋の痕跡は、そんな謎解きのヒントになるのです。
(注)石川 栄耀(1893〜1995年)
東京帝国大学工科大学土木工学科出身の都市計画家。名古屋都市計画の基礎を築いたほか、歌舞伎町、麻布十番広場などの都市計画を行なう一方、1943年(昭和18)東京都発足により東京都技監を経て、建設局長。戦後は戦災復興都市計画を担当。首都高速道路計画にもかかわり、戦災瓦礫で埋め立てた外濠跡地に建設したビルの屋上に、高架下のテナント賃料でまかなわれ料金は無料の通称K・K線(東京高速道路株式会社)を開通させる。帝国大学と早稲田大学非常勤講師を務めた。
三原橋交差点には、晴海通りを挟んで、両側に同じ形の建物が建っています。
奥行きの小さい2階建てで、少し不思議な雰囲気を醸し出しています。気づかずに通り過ごしてしまえばそれまでですが、歩道側に回ってみると、実は二つの建物は晴海通りの下につくられた地下街でつながっているのです。
ここが日本で最初につくられた地下街といわれる〈三原橋地下街〉(東京都中央区銀座4丁目)です。建物は、1952年(昭和27)土浦亀城(つちうら かめき 1897〜1996年)が設計しました。土浦亀城は帝国ホテルを設計したアメリカの建築家 フランク・ロイド・ライトの下で働いた経験を持つ建築家で、のちにバウハウススタイルと呼ばれるモダニズムの作風を得意としました。
三原橋地下街のテナントは、再開発のために退出を求められ、最後まで営業していた〈三原カレーコーナー〉も4月27日に半世紀の歴史に幕を下ろしました。
地下街を埋める話は以前もあって、等価交換案が浮上しましたが、代替地が地下2階で、集客に不安だとして話がまとまらず立ち消えになっています。
みなさん古くからのお客さんですよ。女優の和泉雅子さんはご近所さんで、三代続いた寿司割烹店のお嬢さん。なぎら健壱さんも来ます。ピンク映画の上映館が入っていたころは、たこ八郎さんとかも来ていました。
泰明小学校では、生徒たちに「三原橋には行ってはいけない」と言って、遠回りして帰らせていたんです。そのときに「行っちゃいけない」と言われていた生徒たちも、大人になって店に来てくれています。
今の銀座は外から来た人向けのシャレた店ばかりになって、働く人が行く店がない。築地の場外だって、観光化されて、働く人が行く店がなくなっちゃった。だから、働く人のためにここで長年にわたって店をやってきたんです。
銀座は本来、働く人のまちだった。新聞や印刷の工場がたくさんあって植字工もたくさんいたし、繊維の織工さんだっていた。僕が店を始めた当時は、建設ラッシュの時代。昼間は肉体労働で働く人のエネルギーの源として、夜は一杯やってもらって癒しの時間。たくさんの人にご贔屓にしてもらいました。
川がなくても残った三原橋の逆で、橋は残ったのに経緯が忘れられている例として、日本橋エリアの常磐橋があります(下に写真)。
常磐橋は1877年(明治10)、長崎から召集された石工たちによってつくられました。その際〈皿(盤)〉では縁起が悪いということで〈石(磐)〉に変えました。紛らわしいことに、すぐ下流には〈皿〉の字の常盤橋もあります。
常磐橋がつくられた場所は、江戸時代に常磐橋門があった所で、門の外には高札場が、内には北町奉行所がありました。奥州への街道の入口でもあって、本町筋から浅草に続く道は、真っ先に整備されたことでもわかるように、徳川にとっては重要な場所。そんな場所に、江戸城の石垣という旧幕のシンボルを崩して橋をつくったということに、時代を象徴する明治政府の意思が感じられます。
江戸城外郭にあった橋の多くは、近代国家のシンボルとして石橋に架け替えられましたが、次々になくなって、日銀の前につくられた常磐橋が東京で唯一残る石造洋式橋になってしまいました。しかし、こうしたエピソードもほとんど忘れられて、常磐橋周辺は閑散として人通りもほとんどありません。
東日本大震災以降、フェンスで閉鎖されていたので心配していましたが、2014年(平成26)3月に訪れたときには改修が行なわれていたのでひと安心です。
橋の辻というのは、情報の集約地点でもあって、かつては人の往来の激しい一画でした。そばにある一石橋のたもとには、迷子を探す札と迷子を預かっている旨を書いた札を貼る石碑が今でも残り、往事の賑わいを物語っています。
水辺のプライオリティを語るとき、今では親水空間の価値が最初に挙げられますが、当時は今のような親水空間の発想がなかったわけですから、川の埋め立てを否定するのはフェアではない。今に生きる私たちは、変わっていったプロセスも含めて受け入れなくてはなりません。また、変わってきたことはその時代に生きていた人たちの合意の結果ですから、その合意の上に今の姿があるはずです。
ところで、まちの風景には、時代、時代の痕跡が年輪のように残っていますから、果たしてどの時代を〈原状〉とするか定めることが必要になります。けれども、ヨーロッパには原状復帰の発想があまりなく、これは歴史的建物を使い続けているので、いつの時代でも時代ごとの〈原状〉がある、という考えがあるからです。
オランダや北欧の国を歩くと、小さい倉庫群に出合います。そこに使い続ける暮らしが健在なのは、どの時代の痕跡を優先するかという価値をきちんと共有しているからです。修繕や活用のための改修をしても、手を入れたことがわかるようにしておくので、歴史的な建造物を損なうことが避けられます。だから、新しい、今日的な視点を加えていくことが可能となって、都市の中に機能し続ける価値がある建造物として残ることができます。都市的なレベルで考えれば扉一枚を残したところでなんの意味もなく、〈使っていくことを守る〉ことに意味があるのです。
今日的な価値を考え、どこを残してどこをどう変えるのか。その判断を下すということは、そのモノに対する我々の評価なのです。それを都市空間にまで広げていくことが、新しい水辺空間の創造につながるのではないでしょうか。
カルチュラルツーリズムといわれていますが、観光資源として活用することが文化を残すのに役立てられるという考えが、認められるようになりました。
ドイツの北に、ハンザ同盟で繁栄したリューベックという古い港町があり、町全体が世界遺産に登録されています。
昔は世界遺産ということを、相当アピールしたそうです。ところが、観光客は世界遺産だからということでしかリューベックを見ないようになって、そそくさと写真を撮ると、次の世界遺産の観光地に行ってしまうようになりました。
それで方針変更して、世界遺産ということは敢えて伏せ、その代わりにリビングヘリテージ(生きた文化遺産)ということを強調していったそうです。活用されている文化的遺構を見せて、まちの暮らしや文化に触れてもらうようにしたところ、大変人気が出ました。
私が訪れたときには、ガングという中庭空間に連れて行ってもらいました。ガングにいると15世紀とか16世紀につくられた天井の低い小さな家から、がちゃがちゃとお皿を洗う音とかテレビの音とか、暮らしの音が聞こえてきます。「ああ、ここの人たちは博物館として残すのではなくて、使っているんだな」と納得がいきました。
私たちは、その建物を使っている人の姿を見ることで、その建物がいかに価値のあるものかを理解するのです。これは非常に良い戦略です。
ドイツの南に位置するフライブルク・イム・ブライスガウ(フライブルクという名の都市はドイツ語圏の各地に存在するが、日本でいうときはここを指すことが多い。以下はフライブルクと表記)はドライザム川に沿って広がる人口約23万人の都市で、環境保護で先進的な取り組みをしていて、世界中から注目されています。
中世につくられたベヒレ(水路)はいったん失われましたが復活され、水路のある旧市街には年間300万人以上の観光客が訪れます。
銀座金春(こんぱる)通り会名誉会長だった勝又康雄さんは、丁寧に銀座を歩いて、湧水マップをつくられました。その湧水でせせらぎをつくり、銀座を水のまちとして再生させたい、と夢を描いていました。
勝又さんの構想は、まさにフライブルクのベヒレなんです。しかも取ってつけたような話ではなく、もともと銀座にあったもので、水が銀座の大切な構成要素だと強く感じておられたのでしょう。
江戸時代、能は幕府から優遇されていて、金春(こんぱる)家も現在の博品館から三井アーバンホテル、資生堂ビルが建つ一帯(銀座7~8丁目)に広大な屋敷地を拝領していました。江戸中期、金春屋敷が麹町に移転したあとに、芸者が住み着くようになり、金春芸者(のちの新橋芸者)と呼ばれるようになりました。 隅田川の柳橋芸者が旧幕派の贔屓だったのに対し、新橋の金春芸者のもとには、維新派の薩長出など、進歩的な官僚たちが通ってきました。 鉄道が通って、ここは日本一早く西洋のものが入ってくる場所になりました。シンボルカラーは、ターコイズブルーに似た青で、新橋色といわれています。水の街、新橋の水の色ですね。
江戸時代の藍を見慣れた彼女たちは、初めて西洋の染料で染めた水色を見たときに、まるで布から浮き上がってくるような発色にびっくりしたようです。それで新し物好きの金春芸者に、新橋色が大流行しました。 金春通りに店を構える伊勢由さんでは、その謂れを廃れさせないようにと、和装小物のポイントにこの水色を使うようにしているそうです。
土橋交差点には、1967年(昭和42)に丹下健三が設計した静岡新聞・静岡放送東京支社のビルが建っています。
ここには、塔のような形の建物で明治時代には〈東京3塔〉といわれるほど有名だった江木写真館の建物がありました。その跡地に建てられた静岡新聞・静岡放送東京支社ビルにも塔のような筒状の構造物がつくられています。
丹下健三は、立体都市という概念を提唱した建築家。当時はものすごい交通渋滞が起きていて、立体化を打ち出したのは人と自動車を分けるためです。
銀座はもともと半島で、高い所からの眺めが良い。江木写真館も静岡新聞・静岡放送東京支社ビルも、汐留川に架かる土橋という水辺空間の高見から、というモニュメンタルな建造物としてデザインされたのです。
同様に、数寄屋橋マリオンも、水辺に面して曲線を描いた形につくられた日本劇場(日劇)を踏襲した形です。
日本橋の景観というと、よく日本橋そのものに耳目が集まり、「伝統がある」とか「装飾が見事だ」とか言われますが、これだけでは日本橋のまちとしての特徴は部分的にしか浮かび上がってこないでしょう。
また、日本橋川に面して建つ三菱倉庫(正式には江戸橋倉庫ビル)は、2007年(平成19)東京都選定歴史的建造物に選定されました(ビルについての詳細は下記を参照)。現在、地上18階地下1階建てのオフィスビルに建て替えるために改築中で、どのように姿を変えていくのかに注目が集まっています。
三菱倉庫も外観のみを保存するのでなく、水運を支えてきたという日本橋らしい側面をも、是非、継承してほしいと思います。
日本橋界隈に集積している老舗に象徴されるように、水辺から運ばれてきたモノが富を生み、そこで取引が始まって金が動く。澁澤栄一に象徴されるように、そこで富を得た人間が、また新たな働きに着手する。こうした人間活動の循環が、すべて水辺から生み出されたのだということにまで思いを拡げると、まちの中でこれから何を遺し、何を新しくしていくのか、という点が見えてくるようになると思います。
「日本には都市計画の発想が乏しく、野放図な開発が行なわれている」という批判もありますが、都市計画がないからだめなのではなく、一人ひとりの考えや声を聞かないことが問題なのではないでしょうか。
まちというのは、基本的にそこで生きる人のパーソナルな考え方が集まって形成されています。しかし、その一人ひとりの考えというのは、なかなか顕在化されません。単体のモノだけを見るのではなく、一人ひとりの考えの総意でまちがつくられれば、答えは一つではなくなります。そこにまちの個性やオリジナリティが生まれてくるのです。
解(かい)が一つで「これじゃなきゃいけない」というのは危険です。むしろ解を出すまでの間に、さまざまな議論をし、時間をかけるということは、「私たちの時代をどうするか」という評価のプロセスなんです。
数年前、東京駅前の中央郵便局を建て替えるか文化財として残すかが話題になりましたが、一般の人の素朴な疑問は、あの一見近代的な建物に一体どんな文化的価値があるのかがわからない、ということではなかったでしょうか。
残す理由に「ドイツの建築家ブルーノ・タウトが絶賛した」ということを挙げた人が多かったと思います。しかし、タウト以降の80年間、私たち日本人はこのモダニズムの中央郵便局にどのように向き合い、これを評価していたのでしょうか。80年間、無関心なままでいた、ということはないでしょうか。あの一件は、一般の人々の何気ない感覚と、まちを創っていくという方向性に、なお溝があることを見せつけたように思います。
イタリアなどを歩いていると、まちで生きる人が、そのまちを愛していることを強く感じます。まちを愛しているからこそ、みんな真剣に意見を出します。
多様な解を出すためには、実際に歩いて見ることが必要です。まち歩きやオープンアーキテクチャーという試みが、時代を評価するための練習というか、足がかりになったら素敵ですね。そうすれば日本橋といったときにも橋だけのイメージにとらわれるのではなくて、地域にはいろいろな側面があることがわかってきます。銀座も同様です。陰も陽もあって、そのどれもが銀座なんです。
そこまでしても方向性について結論が出ないときがある。そういうとき、ヨーロッパのことでいうと「取り敢えずこうしましょう」という案を出します。お金がない場合も、一部分だけつくってみる。これが、少し成熟したまちのつくり方ではないでしょうか。
手法は非常にシンプルで、大切だと思う気持ちを集めていって、「いいね」という想いを大きくしていくことが、何かをつくるときの前提になるのです。
(取材:2014年3月29日)