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水の文化 47号 つなぐ橋

川がない橋が秘めた東京の履歴

斉藤 理さん

斉藤 理(さいとう ただし)さん
山口県立大学准教授
中央大学社会科学研究所客員研究員 工学博士

1972年生まれ。東京大学大学院建築学専攻修了。東京大学研究員のほか、上智大学・慶應義塾大学などで講師を務め、2011年より現職。
この間、1999年より2002年までドイツ学術交流会(DAAD)奨学生としてベルリン工科大学建築学部記念物保護研究所にて研究。2004年まち歩き企画 「東京あるきテクト」を開始。2007年より日本初の建物一斉公開イベント「open! architecture」の企画・監修。2010年より東京都観光まちづくりアドバイザー。専門は建築史、建築物の文化観光資源化を中心とした観光まちづくり論など。
主な著書に『東京建築ガイドマップ─明治大正昭和』(共著/エクスナレッジ 2007)、ブルーノ・タウト訳書で『新しい住居〜つくり手としての女性』『ー住宅』(中央公論美術出版 2004)ほか

「まちは、そこで生きる人のパーソナルな考え方が集まって形成されている」と斉藤理さん。東京の水路の多くが埋め立てられて失われたのも、当時の人たちの評価や価値観の反映です。既に川がないのに、橋の名前だけが残っている場所で、残されなかったものの理由を探るのは、土地の履歴を知るだけでなく、未来をどうするかという解を導き出すにも役立ちます。多様な解を出すために、銀座と日本橋をご案内いただきました。

川がないのに地名だけ残った三原橋

東京には、川がないのに橋の名前がつく地名がたくさんあります。多くの河川が埋め立てられて姿を消し、橋も撤去されたのに地名だけが残っているからです。

その一つに、三原橋があります。晴海通りを南東に下って行くと、中央通りと昭和通りの間に三原橋という交差点があって、ここには京橋川と汐留川を結ぶ三十間堀川に架かる橋がありました。

三原橋が架けられていた三十間堀川は埋め立てられましたが、都電が走っていたためか、橋は撤去されないで残り、橋の下は埋め立てられることなく地下街となり、現在まで利用されてきました。

戦後、3000万m3といわれる瓦礫の処理は、頭の痛い問題でした。GHQからは早く撤去しろとせっつかれますが、持っていく場所がないし、仮にあっても運ぶためのガソリンがありません。

当時、東京都の建設局長だった石川栄耀(ひであき)(注)が川を埋めることで瓦礫処理をするというアイディアを提案したとき、当時の安井誠一郎知事(1947年〈昭和22〉公選後、初の東京都知事)は、「なんて良いアイディアだ」と賞賛したそうです。

今の価値観でいえば「なんで、そんな乱暴なことをしたのだ」と批判されるかもしれません。しかし、当時は埋めたほうが合理的だという判断だったのです。

河川の埋め立てが早々と進んだのは、安井都知事が1947年(昭和22)に不用河川埋立事業計画という都市計画決定をしたからです。この事業で東京駅八重洲口にあった外濠、東堀留川、龍閑川、新川、真田堀、浜町川、六間堀川、三十間堀川など、実に多くの河川が姿を消しました。

水路というのは橋で結ばれてはいますが、結界でもあって、障害でもある。橋を架けるより水路を埋めてしまったほうがいい。ゴミも捨てられるから一石二鳥だ、という考えが支持されたのです。瓦礫を埋めてできた土地を売却して財源にあてましたから、実は一石三鳥だったのです。

三原橋地下街に入居した店舗の多くは、水路のあった時分に水辺に連なった屋台が基になっています。水辺は人を惹きつけますが、特に橋のたもとには賑わいが生まれて、商売の場としても最適だったはずです。都市を歩いて不思議に感じたことを探っていくと、まちの成り立ちや隠れた履歴が浮かび上がってきます。橋の痕跡は、そんな謎解きのヒントになるのです。

(注)石川 栄耀(1893〜1995年)
東京帝国大学工科大学土木工学科出身の都市計画家。名古屋都市計画の基礎を築いたほか、歌舞伎町、麻布十番広場などの都市計画を行なう一方、1943年(昭和18)東京都発足により東京都技監を経て、建設局長。戦後は戦災復興都市計画を担当。首都高速道路計画にもかかわり、戦災瓦礫で埋め立てた外濠跡地に建設したビルの屋上に、高架下のテナント賃料でまかなわれ料金は無料の通称K・K線(東京高速道路株式会社)を開通させる。帝国大学と早稲田大学非常勤講師を務めた。

『建築写真類聚 橋梁 巻一』(昭和2年刊)三原橋

『建築写真類聚 橋梁 巻一』(昭和2年刊)三原橋
写真提供:中央区立京橋図書館

三十間堀川―綜合ビル屋上より木挽橋方面を望む。1948年(昭和23)三十間堀川―綜合ビル屋上より木挽橋方面を望む。工事竣工直前。1949年(昭和24)

三十間堀川―綜合ビル屋上より木挽橋方面を望む。1948年(昭和23)
写真提供:中央区立京橋図書館

『建築写真類聚 橋梁 巻一』(昭和2年刊)三原橋

三十間堀川―綜合ビル屋上より木挽橋方面を望む。工事竣工直前。1949年(昭和24)
写真提供:中央区立京橋図書館

銀座エリア1 三原橋 三原橋地下街
 三原橋交差点には、晴海通りを挟んで、両側に同じ形の建物が建っています。
 奥行きの小さい2階建てで、少し不思議な雰囲気を醸し出しています。気づかずに通り過ごしてしまえばそれまでですが、歩道側に回ってみると、実は二つの建物は晴海通りの下につくられた地下街でつながっているのです。
 ここが日本で最初につくられた地下街といわれる〈三原橋地下街〉(東京都中央区銀座4丁目)です。建物は、1952年(昭和27)土浦亀城(つちうら かめき 1897〜1996年)が設計しました。土浦亀城は帝国ホテルを設計したアメリカの建築家 フランク・ロイド・ライトの下で働いた経験を持つ建築家で、のちにバウハウススタイルと呼ばれるモダニズムの作風を得意としました。
 三原橋地下街のテナントは、再開発のために退出を求められ、最後まで営業していた〈三原カレーコーナー〉も4月27日に半世紀の歴史に幕を下ろしました。

かつては映画館も入居していた三原橋地下街ビル

地下街出入口の階段。

上:かつては映画館も入居していた三原橋地下街ビル。

左上:地下街出入口の階段。

左中:三原カレーコーナーの店内の壁(正面)や天井のカーブは、橋のアーチがそのまま生かされたもの。

左下:地下街から地上へ出ると別世界。晴海通りのこの下に、まさに三原橋地下街がある。

三原カレーコーナーの店内の壁(正面)や天井のカーブは、橋のアーチがそのまま生かされたもの。

地下街から地上へ出ると別世界。晴海通りのこの下に、まさに三原橋地下街がある。

〈三原カレーコーナー〉店主 吉田信三さん

〈三原カレーコーナー〉店主 吉田信三さん談
 地下街を埋める話は以前もあって、等価交換案が浮上しましたが、代替地が地下2階で、集客に不安だとして話がまとまらず立ち消えになっています。
 みなさん古くからのお客さんですよ。女優の和泉雅子さんはご近所さんで、三代続いた寿司割烹店のお嬢さん。なぎら健壱さんも来ます。ピンク映画の上映館が入っていたころは、たこ八郎さんとかも来ていました。
 泰明小学校では、生徒たちに「三原橋には行ってはいけない」と言って、遠回りして帰らせていたんです。そのときに「行っちゃいけない」と言われていた生徒たちも、大人になって店に来てくれています。
 今の銀座は外から来た人向けのシャレた店ばかりになって、働く人が行く店がない。築地の場外だって、観光化されて、働く人が行く店がなくなっちゃった。だから、働く人のためにここで長年にわたって店をやってきたんです。
 銀座は本来、働く人のまちだった。新聞や印刷の工場がたくさんあって植字工もたくさんいたし、繊維の織工さんだっていた。僕が店を始めた当時は、建設ラッシュの時代。昼間は肉体労働で働く人のエネルギーの源として、夜は一杯やってもらって癒しの時間。たくさんの人にご贔屓にしてもらいました。

 

(いわ)れが忘れられた常磐橋

川がなくても残った三原橋の逆で、橋は残ったのに経緯が忘れられている例として、日本橋エリアの常磐橋があります(下に写真)。

常磐橋は1877年(明治10)、長崎から召集された石工たちによってつくられました。その際〈皿(盤)〉では縁起が悪いということで〈石(磐)〉に変えました。紛らわしいことに、すぐ下流には〈皿〉の字の常盤橋もあります。

常磐橋がつくられた場所は、江戸時代に常磐橋門があった所で、門の外には高札場が、内には北町奉行所がありました。奥州への街道の入口でもあって、本町筋から浅草に続く道は、真っ先に整備されたことでもわかるように、徳川にとっては重要な場所。そんな場所に、江戸城の石垣という旧幕のシンボルを崩して橋をつくったということに、時代を象徴する明治政府の意思が感じられます。

江戸城外郭にあった橋の多くは、近代国家のシンボルとして石橋に架け替えられましたが、次々になくなって、日銀の前につくられた常磐橋が東京で唯一残る石造洋式橋になってしまいました。しかし、こうしたエピソードもほとんど忘れられて、常磐橋周辺は閑散として人通りもほとんどありません。

東日本大震災以降、フェンスで閉鎖されていたので心配していましたが、2014年(平成26)3月に訪れたときには改修が行なわれていたのでひと安心です。

橋の辻というのは、情報の集約地点でもあって、かつては人の往来の激しい一画でした。そばにある一石橋のたもとには、迷子を探す札と迷子を預かっている旨を書いた札を貼る石碑が今でも残り、往事の賑わいを物語っています。

改修中の常磐橋。現代の匠が、重機を駆使して作業にあたる。

一石橋たもとに立つ〈迷子しらせ石標〉。各面に「満よひ子の志るへ」「たつぬる方」「志らする方」と刻み、迷子の特徴を書いた紙を貼るようになっている。

上:改修中の常磐橋。現代の匠が、重機を駆使して作業にあたる。

左:一石橋たもとに立つ〈迷子しらせ石標〉。各面に「満よひ子の志るへ」「たつぬる方」「志らする方」と刻み、迷子の特徴を書いた紙を貼るようになっている。

時代の評価

水辺のプライオリティを語るとき、今では親水空間の価値が最初に挙げられますが、当時は今のような親水空間の発想がなかったわけですから、川の埋め立てを否定するのはフェアではない。今に生きる私たちは、変わっていったプロセスも含めて受け入れなくてはなりません。また、変わってきたことはその時代に生きていた人たちの合意の結果ですから、その合意の上に今の姿があるはずです。

ところで、まちの風景には、時代、時代の痕跡が年輪のように残っていますから、果たしてどの時代を〈原状〉とするか定めることが必要になります。けれども、ヨーロッパには原状復帰の発想があまりなく、これは歴史的建物を使い続けているので、いつの時代でも時代ごとの〈原状〉がある、という考えがあるからです。

オランダや北欧の国を歩くと、小さい倉庫群に出合います。そこに使い続ける暮らしが健在なのは、どの時代の痕跡を優先するかという価値をきちんと共有しているからです。修繕や活用のための改修をしても、手を入れたことがわかるようにしておくので、歴史的な建造物を損なうことが避けられます。だから、新しい、今日的な視点を加えていくことが可能となって、都市の中に機能し続ける価値がある建造物として残ることができます。都市的なレベルで考えれば扉一枚を残したところでなんの意味もなく、〈使っていくことを守る〉ことに意味があるのです。

今日的な価値を考え、どこを残してどこをどう変えるのか。その判断を下すということは、そのモノに対する我々の評価なのです。それを都市空間にまで広げていくことが、新しい水辺空間の創造につながるのではないでしょうか。

観光プラス文化

カルチュラルツーリズムといわれていますが、観光資源として活用することが文化を残すのに役立てられるという考えが、認められるようになりました。

ドイツの北に、ハンザ同盟で繁栄したリューベックという古い港町があり、町全体が世界遺産に登録されています。

昔は世界遺産ということを、相当アピールしたそうです。ところが、観光客は世界遺産だからということでしかリューベックを見ないようになって、そそくさと写真を撮ると、次の世界遺産の観光地に行ってしまうようになりました。

それで方針変更して、世界遺産ということは敢えて伏せ、その代わりにリビングヘリテージ(生きた文化遺産)ということを強調していったそうです。活用されている文化的遺構を見せて、まちの暮らしや文化に触れてもらうようにしたところ、大変人気が出ました。

私が訪れたときには、ガングという中庭空間に連れて行ってもらいました。ガングにいると15世紀とか16世紀につくられた天井の低い小さな家から、がちゃがちゃとお皿を洗う音とかテレビの音とか、暮らしの音が聞こえてきます。「ああ、ここの人たちは博物館として残すのではなくて、使っているんだな」と納得がいきました。

私たちは、その建物を使っている人の姿を見ることで、その建物がいかに価値のあるものかを理解するのです。これは非常に良い戦略です。

せせらぎの復活

ドイツの南に位置するフライブルク・イム・ブライスガウ(フライブルクという名の都市はドイツ語圏の各地に存在するが、日本でいうときはここを指すことが多い。以下はフライブルクと表記)はドライザム川に沿って広がる人口約23万人の都市で、環境保護で先進的な取り組みをしていて、世界中から注目されています。

中世につくられたベヒレ(水路)はいったん失われましたが復活され、水路のある旧市街には年間300万人以上の観光客が訪れます。

銀座金春(こんぱる)通り会名誉会長だった勝又康雄さんは、丁寧に銀座を歩いて、湧水マップをつくられました。その湧水でせせらぎをつくり、銀座を水のまちとして再生させたい、と夢を描いていました。

勝又さんの構想は、まさにフライブルクのベヒレなんです。しかも取ってつけたような話ではなく、もともと銀座にあったもので、水が銀座の大切な構成要素だと強く感じておられたのでしょう。

銀座エリア2 銀座8丁目 金春芸者の水の色
 江戸時代、能は幕府から優遇されていて、金春(こんぱる)家も現在の博品館から三井アーバンホテル、資生堂ビルが建つ一帯(銀座7〜8丁目)に広大な屋敷地を拝領していました。江戸中期、金春屋敷が麹町に移転したあとに、芸者が住み着くようになり、金春芸者(のちの新橋芸者)と呼ばれるようになりました。
 隅田川の柳橋芸者が旧幕派の贔屓だったのに対し、新橋の金春芸者のもとには、維新派の薩長出など、進歩的な官僚たちが通ってきました。
 鉄道が通って、ここは日本一早く西洋のものが入ってくる場所になりました。シンボルカラーは、ターコイズブルーに似た青で、新橋色といわれています。水の街、新橋の水の色ですね。
 江戸時代の藍を見慣れた彼女たちは、初めて西洋の染料で染めた水色を見たときに、まるで布から浮き上がってくるような発色にびっくりしたようです。それで新し物好きの金春芸者に、新橋色が大流行しました。
 金春通りに店を構える伊勢由さんでは、その謂れを廃れさせないようにと、和装小物のポイントにこの水色を使うようにしているそうです。

左:街灯の柱には、シンボルカラーが使われている。ハイカラな金春芸者が愛した、水色である。


銀座の柳
 オートクチュール・プレタポルテを扱う洋品店ノーブルパールの代表取締役で銀座金春通り会名誉会長だった勝又康雄さん(享年84)は、生前、お神酒徳利と揶揄されるほどの友情を育んだ椎葉一二さん(享年88)とお二人で、銀座の柳復活の活動を進めておられました。

勝又康雄さんの長女 美代子さん和幸さん

勝又康雄さんの長女 美代子さんとご主人和幸さん。和幸さんは、銀座金春通り会の現会長を担っている。古くからの老舗が多い金春通りの伝統と気概を、守り続けているお二人だ。

ノーブルパール 勝又康雄さん長女、美代子さん談
 銀座生まれの柳の子孫が当時の建設省日野苗圃に3本ある、という新聞記事を読んで、父は銀座の柳復活を心に決めました。分けていただいた挿し木用の枝を、椎葉さんの山荘で大切に育て、芽吹いた銀座の柳二世、三世、四世は、全国各地にお嫁入りしています。
 父は横浜で関東大震災に遭って、九死に一生を得ました。お母さんが破裂した水道管からあふれた水で布団を濡らし、火除けにしたお蔭で一家は焼死を免れたそうで、水がいかに大切か肝に銘じたそうです。
「銀座は江戸の前島」の認識に立って物事を見直すと、銀座8丁目界隈は千石船も接岸できたほど広い三十間堀の掘割に恵まれ、舟運の要衝でした。そうした学びがあって、その後は銀座湧水の探索や築地川保存運動につながっています。
 銀座湧水を生かしてせせらぎを、というのが父の夢。景観だけでなく、多様な生態系の復活、歴史的価値の継承に加え、関東大震災で自分の命を救ってくれたように防災上の価値もある、と考えていたようです。

ビルの上の高速道路
 東京で一番初めの高速道路は、1951年(昭和26)に財界人らによって設立された東京高速道路という民間企業によってつくられました。汐留川、外濠、京橋川を埋め立ててビルを建て、その屋上に高速道路を走らせる計画を実行したのです。
 この会社線の下のビルは土橋から蓬莱橋までにわたり、銀座ナインというショッピング街になっています。かつては新橋センターという名称でしたが、1985年(昭和60)の改装時に改名されました。銀座は8丁目までですが、銀座9丁目でありたいとの願いからの改名でしょう。
 汐留川は中央区と港区の区境を流れていました。現在でも行政上の所属が決まっていないため、テナントの入口がどちらの区に向いているかによって、便宜上、地番外地名をつけているそうです。

汐留川を埋め立てた上に建つ〈銀座ナイン〉汐留川を埋め立てた上に建つ〈銀座ナイン〉。その上には、高速道路が通っている。街路樹は勝又さんと椎葉さんが復活させた銀座の柳。

銀座エリア3 土橋 水辺に似合う建築の形
 土橋交差点には、1967年(昭和42)に丹下健三が設計した静岡新聞・静岡放送東京支社のビルが建っています。
 ここには、塔のような形の建物で明治時代には〈東京3塔〉といわれるほど有名だった江木写真館の建物がありました。その跡地に建てられた静岡新聞・静岡放送東京支社ビルにも塔のような筒状の構造物がつくられています。
 丹下健三は、立体都市という概念を提唱した建築家。当時はものすごい交通渋滞が起きていて、立体化を打ち出したのは人と自動車を分けるためです。
 銀座はもともと半島で、高い所からの眺めが良い。江木写真館も静岡新聞・静岡放送東京支社ビルも、汐留川に架かる土橋という水辺空間の高見から、というモニュメンタルな建造物としてデザインされたのです。
 同様に、数寄屋橋マリオンも、水辺に面して曲線を描いた形につくられた日本劇場(日劇)を踏襲した形です。

左:静岡新聞・静岡放送東京支社のビルは、塔の形。水辺空間の高見から見渡す伝統と建築家 丹下健三の立体都市の概念が結実した構造だ。

水辺から生まれたもの

日本橋の景観というと、よく日本橋そのものに耳目が集まり、「伝統がある」とか「装飾が見事だ」とか言われますが、これだけでは日本橋のまちとしての特徴は部分的にしか浮かび上がってこないでしょう。

また、日本橋川に面して建つ三菱倉庫(正式には江戸橋倉庫ビル)は、2007年(平成19)東京都選定歴史的建造物に選定されました(ビルについての詳細は下記を参照)。現在、地上18階地下1階建てのオフィスビルに建て替えるために改築中で、どのように姿を変えていくのかに注目が集まっています。

三菱倉庫も外観のみを保存するのでなく、水運を支えてきたという日本橋らしい側面をも、是非、継承してほしいと思います。

日本橋界隈に集積している老舗に象徴されるように、水辺から運ばれてきたモノが富を生み、そこで取引が始まって金が動く。澁澤栄一に象徴されるように、そこで富を得た人間が、また新たな働きに着手する。こうした人間活動の循環が、すべて水辺から生み出されたのだということにまで思いを拡げると、まちの中でこれから何を遺し、何を新しくしていくのか、という点が見えてくるようになると思います。

日本橋エリア1 江戸橋
 江戸橋一帯は、日本橋川から西堀留川と東堀留川が分岐する地点で、江戸の絵図を見ると、かつての水運の中心地で小舟の一大交差点だったことがわかります。上空に高速道路の江戸橋ジャンクションをつくることができたのも、広い水面があったからというわけです。
 三菱倉庫は、柔らかな曲線、下層階の濃い色と上層階の明るい色の使い分け、最上階の丸窓、ブリッジを摸した屋上の塔屋といった外観デザインで、水辺に浮かぶ大型船のイメージでつくられています。
 外観デザインだけでなく、テルファーという荷揚げ用のクレーンが川側に突き出していたり、梁を使わずに柱と床だけで構成するフラットスラブ構造、舟の監視のためのかまぼこ型の物見台など、水上を運ばれてきた物資のための倉庫として特徴的な要素を併せ持っています。

日本橋エリア2 東堀留川・小網町 物見台のあるビル
 日本橋川から北側に入り込む入堀として開削された西堀留川と東堀留川。三十間堀川から八重洲に至るエリアでは小舟で物を運びましたから、接岸地点を増やすために水路が櫛状に掘られました。西堀留川は1928年(昭和3)には消滅していますが、東堀留川が埋め立てられたのは1949年(昭和24)です。
 その東堀留川に面していた3階建てのビルを改修して、ギャラリーとカフェ、事務所として使っている知人がいます。衣料品メーカーのワコールが和江商事だった時代に、京都から東京に進出して、初めて倉庫を構えた建物ではないか、ということです。
 昔の建物ですからメンテナンスに手がかかるし、断熱がされていないから夏は暑いし、冬は寒い。使いながら残すにも苦労が伴いますが、こうして面白がってくれる人に使われていると、ちゃんと残っていくのです。価値を認める人に出会えたというのは幸運だったと思います。

かつて東堀留川だった痕跡が、路地の傾斜とカーブに見出せる。かつて東堀留川だった痕跡が、路地の傾斜とカーブに見出せる。大通りを渡れば日本橋川に合流。対岸には、水辺に似合う建物として三菱倉庫が建つ。

ArchitectS Officeの外観。天井高のある三階建てのビルだ。
屋上には、こんなにしっかりした造りの物見台が。左:ArchitectS Officeの外観。天井高のある三階建てのビルだ。
上:屋上には、こんなにしっかりした造りの物見台が。周囲に高い建物が無い時代には、ここから日本橋川のほうまで見通せたに違いない。

オーナーの石川雅英さん上:オーナーの石川雅英さん。壁を剥がしたら現われた禁煙のプレートと。
右:築80年超のビルを、上手に改装して使いこなしている。北欧家具との相性も抜群だ。2階はギャラリー、3階はオフィスとして利用。
築80年超のビルを、上手に改装して使いこなしている

ArchitectS Office 石川雅英さん談
 この建物は、別の物件を見に来たときに偶然見つけたものです。建物に加えられていた改修部分を剥がしたときに、オリジナルの部材が出てきてワクワクしました。経年変化の価値に惚れ込んで、不便を承知で使い続けています。中央区の図書館で図面を発見し、1929年(昭4)ごろに建てられたことがわかりました。
 屋上には物見台があり、荷揚げ用のフックも残っています。東堀留川の入口は舟溜まりになっていましたから、込み合う舟が停滞したのでしょう。それを誘導するための物見台だったのではないでしょうか。今は周囲に高いビルが建ちましたから、見晴らしが悪くなりましたけれど、当時は断然高い建物だったはずです。
 通常、外壁は15cmほどですが、川沿いの外壁は30cmもありました。建物の壁を厚くすることで護岸を支えていたのではないかと考えています。

都市計画がなくても

「日本には都市計画の発想が乏しく、野放図な開発が行なわれている」という批判もありますが、都市計画がないからだめなのではなく、一人ひとりの考えや声を聞かないことが問題なのではないでしょうか。

まちというのは、基本的にそこで生きる人のパーソナルな考え方が集まって形成されています。しかし、その一人ひとりの考えというのは、なかなか顕在化されません。単体のモノだけを見るのではなく、一人ひとりの考えの総意でまちがつくられれば、答えは一つではなくなります。そこにまちの個性やオリジナリティが生まれてくるのです。

(かい)が一つで「これじゃなきゃいけない」というのは危険です。むしろ解を出すまでの間に、さまざまな議論をし、時間をかけるということは、「私たちの時代をどうするか」という評価のプロセスなんです。

数年前、東京駅前の中央郵便局を建て替えるか文化財として残すかが話題になりましたが、一般の人の素朴な疑問は、あの一見近代的な建物に一体どんな文化的価値があるのかがわからない、ということではなかったでしょうか。

残す理由に「ドイツの建築家ブルーノ・タウトが絶賛した」ということを挙げた人が多かったと思います。しかし、タウト以降の80年間、私たち日本人はこのモダニズムの中央郵便局にどのように向き合い、これを評価していたのでしょうか。80年間、無関心なままでいた、ということはないでしょうか。あの一件は、一般の人々の何気ない感覚と、まちを創っていくという方向性に、なお溝があることを見せつけたように思います。

イタリアなどを歩いていると、まちで生きる人が、そのまちを愛していることを強く感じます。まちを愛しているからこそ、みんな真剣に意見を出します。

多様な解を出すためには、実際に歩いて見ることが必要です。まち歩きやオープンアーキテクチャーという試みが、時代を評価するための練習というか、足がかりになったら素敵ですね。そうすれば日本橋といったときにも橋だけのイメージにとらわれるのではなくて、地域にはいろいろな側面があることがわかってきます。銀座も同様です。陰も陽もあって、そのどれもが銀座なんです。

そこまでしても方向性について結論が出ないときがある。そういうとき、ヨーロッパのことでいうと「取り敢えずこうしましょう」という案を出します。お金がない場合も、一部分だけつくってみる。これが、少し成熟したまちのつくり方ではないでしょうか。

手法は非常にシンプルで、大切だと思う気持ちを集めていって、「いいね」という想いを大きくしていくことが、何かをつくるときの前提になるのです。

(取材:2014年3月29日)

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目次

土木技術者が読み解く橋の歴史の魅力 松村 博
帝都復興における橋とデザインの思想 中井 祐
ペデストリアンデッキの登場と駅前空間の変化 五十畑弘
モンゴルと日本をつないだ太陽橋 小林 厚
長崎・眼鏡橋復元の物語 片寄俊秀
橋から省みる水都大阪の再生 藤井 薫
橋上の賑わい空間復活の可能性 藤本英子
川がない橋が秘めた東京の履歴 斉藤 理
わたしの里川 川医者の里川診断 島谷幸宏
水の文化書誌 38 石橋・眼鏡橋のある風景 古賀邦雄
Go!Go! 109水系 4 神荒ぶ よみがえりの熊野川 坂本貴啓
文化をつくる つなぐ橋 編集部

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