機関誌『水の文化』55号
その先の藍へ

藍
総論

日本に溢れる自然が多彩な藍色を育んだ

さまざまな藍色が溢れる美しい海岸(長崎・五島列島「小値賀島」)

さまざまな藍色が溢れる美しい海岸(長崎・五島列島「小値賀島」)

明治時代に来日した外国人が「ジャパン・ブルー」と絶賛した「藍色」は「甕覗(かめのぞ)き」と呼ばれる淡い藍色から、黒く見えるほどの濃紺まで、実にさまざまなバリエーションがある。そこには日本人のどんな感性が働いていたのか。全国の藍染めにまつわる地を歩いて『藍―風土が生んだ色』『藍Ⅱ―暮らしが育てた色』を上梓した民俗学者の竹内淳子さんに、藍染めの起源を含めて「藍と日本人」についてお聞きした。

『藍―風土が生んだ色』『藍Ⅱ―暮らしが育てた色』

民俗学者
竹内 淳子(たけうち じゅんこ)さん

東京生まれ。大妻女子大学卒業後、同大学に勤務。現在、大学講師(専門は民俗学)。「ものと人間の文化を研究する会」主宰。各地への講演のほか、執筆活動を続ける。『藍―風土が生んだ色』(法政大学出版局 1991)、『藍Ⅱ―暮らしが育てた色』(法政大学出版局 1999)など著書多数。また、『日本民俗大辞典 上巻・下巻』(吉川弘文館 1999,2000)に分担執筆。

古代エジプトまで遡る藍染めの歴史

藍系統の主な色と名称藍系統の主な色と名称

水色、浅葱(あさぎ)色、空色、露草色、縹(はなだ)色、紺色など、藍にはさまざまな色があります。これら美しい藍の色を生み出すのは、藍色の色素を含む含藍(がんらん)植物です。藍色の色素をもつ植物は、枯れても葉が藍色をしているので識別できます。

藍染めに用いられる含藍植物は世界に広く自生し、また栽培されていますが、日本では主にタデ科の一年草の蓼藍(たであい)が用いられています。蓼藍はかなり昔に中国から日本へ渡来した染料植物です。また、沖縄や台湾、東南アジアではキツネノマゴ科の琉球藍が、インドを中心とした熱帯・亜熱帯地域ではマメ科のインド藍が、ヨーロッパではかつてアブラナ科のウォード(大青[たいせい])が用いられていました。

藍染めの歴史は、紀元前2000年のエジプトに遡るといわれています。エジプトの古代都市テーベの古墳から出土したミイラに巻かれていた麻布が藍染めとされているのです。含藍植物は葉をちぎって布にこすり付けても染まりますので、私は生葉(なまば)染めだったのではないかと考えます。

また、紀元前2〜3世紀にペルー中部の太平洋岸で栄えたパラカス文明の遺跡から、藍染めの木綿の布が出土しています。

その次は紀元前1世紀の中国です。儒教の経書の一つである『礼記(らいき)』に「民ニ令シテ藍ヲ刈リ 以テ 染ムルコト (なから)シム」とあります。民に令してとあるので、「藍を刈らせるが、染めに使ってはならない」と藍染めを禁止したようです。藍は染料だけでなく薬用としても利用されていたので、そのための禁止ではないかと思います。

もう一つ付け加えるならば、紀元後40年から70年ごろに成立したとされる、古代のインド洋近辺における海洋貿易について記した航海案内書『エリュトゥラー海案内記』には、含藍量の高いインドの藍がカリカット(コージコードの旧称)から地中海方面に輸出されていたと記されています。

少し遡りますが、紀元前3世紀の中国では、思想家・儒学者の荀子(じゅんし)が「青ハコレヲ藍ニ取リテ 藍ヨリモ青シ」と書き残しています。これはよく知られているように「出藍(らん)の誉れ」ですね。藍草で染めた布は藍草よりも鮮やかな青色となることを弟子と師匠の関係にあてはめ、弟子が師匠の学識や技術を越えるという意味です。

このような痕跡を辿ることで、私たちは古代の藍のことをほんの少し知ることができます。

『万葉集』に見る日本の藍染め

では、日本の藍染めはいつ始まったのでしょうか。「日本の植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎は「藍は非常に古く日本に入ってきた植物だ」と述べていますが、正確な年代はわかっていません。

奈良県天理市成願寺町にある古墳時代前期の下池山古墳から、鏡と一緒に絳青縑(こうせいけん)という赤と青の絹織物が出土しました。この青は藍で染めたものとされていますが、こうした証拠はなかなか出てきません。そこで重要になるのが『万葉集』です。

実は『万葉集』には藍に関する句がいくつかあるのです。例えば「麻衣(あさごろも)に青衿(あおくび)(つ)け……」(九巻 一八〇七)。この青衿とは、麻の着物の衿だけを絹にして、藍を生葉染めしたものだと私は考えます。衿元が麻だと痛いですから、絹にしたのではないでしょうか。絹は高貴なものだから庶民は着ないと思われていますが、そんなことはありません。絹は木綿よりもずっと昔からあるのです。

「青によし 奈良の山の……」(巻一 一七)や「青によし 奈良山越えて」(巻一 二九)などは有名ですが、これは山の緑、つまり「青々とした緑」の意味で、藍とは関係ありません。「あたかも似るか青きぬがさ」(一九巻 四二〇四)という句は、藍を指すかどうかで文学者と意見が割れています。当時、傘は貴人が使うものでしたし、絹もまだ貴重品でした。ですから「青きぬがさ」とは「緑の木の下にいる状態」を指しているのかもしれないし、「青い絹の傘の下」という意味なのかもしれない。わからないんですね。ですから「青衿」の句は貴重なのです。

『万葉集』の成立時期には諸説ありますが、仁徳天皇の皇后磐姫(いわのひめ)の作といわれる歌から759年(天平宝字3)の大伴家持の歌まで約400年にわたる全国各地、各階層の人の歌が収められています。私たちは学校で習う『万葉集』を身近なものと感じますが、実は『古事記』や『日本書紀』よりも古い文献なのです。

漢字ではない「蒅(すくも)」は日本独自のもの

日本で藍染めがいちばん盛んに行なわれたのは、室町時代末期だったかもしれません。明(みん)から木綿の種が入ってきたからです。麻よりも温かく、そして肌触りのよい木綿はどんどん広がり、庶民も木綿の衣服が着られるようになりました。

1552年(天文21)に青屋四郎兵衛(あおやしろべえ)という藍染め職人が上方から阿波国(徳島県)へやってきて、木綿と藍を一緒に栽培して人気を博します。これは、四郎兵衛が「蒅(すくも)」と呼ばれる染料を用いたからだと伝わっています。

蒅とは、蓼藍の葉を採って乾燥させて細かく切り、寝床(ねどこ)という土間に広げて寝かせて、水をかけながら発酵させる作業をおよそ90日続けてつくるものです。発酵させすぎると藍色の色素が傷むので、ひっくり返してまた水を打つ。春に種を蒔いて、まるで土のように見える蒅が完成するのは12月から1月です。

蒅は各地でつくられていましたが、特に阿波国の吉野川流域でつくられたものが質・量ともに秀でていたため「阿波藍」と呼ばれ、全国に出荷されていきました。

ここで注目したいのは蒅という文字です。「草冠に染める」と書きますが、この文字は漢字ではなく国字です。つまり蒅は大陸渡来のものではなく、日本人がつくったものなのです。ただし、いつ蒅がつくられるようになったのかは詳らかではありません。

「紺屋の白袴」の意味

蒅は藍染めを専門とする「紺屋(こうや)」が仕入れ、土のなかに埋め込んだ藍甕(あいがめ)に発酵の栄養源となるふすまや木灰(きばい/アルカリ)を入れ、1週間ほど発酵させます。この発酵は熟練を要する作業で、蒅のインジゴ(注)を水溶性にして繊維にいったん吸着させて、再びインジゴに戻すことで染めるのです。

藍染めが盛んになったのは、江戸時代に繰り返し出された幕府の奢侈(しゃし)禁止令の影響もありました。庶民は麻か木綿を着ることを強いられ、また光沢を帯びるような加工、そして紫色や紅梅色を用いることも禁じられました。天保の大飢饉のあとは白の木綿も禁止されるので、紺屋はますます増えていきます。険しい山のなかの村にも、かつて立派な藍甕をたくさん備えた紺屋がありました。

藍甕の染液は28℃が限度、できれば25℃がいいとされていますが、そうすると夏だけしか染めることができません。しかし、染液を28℃に保つために藍甕を四つ置き、その中心に籾殻などに火をつけて保温する方法を編み出したことで、冬期でも染めることができるようになりました。

「紺屋の白袴」という言葉がありますね。紺屋が自分の袴は染めないで、いつも白袴をはいている―つまり「他人のことに忙しくて自分自身のことには手が回らないこと」のたとえとされていますが、実は紺屋が白い袴で仕事をしても染(し)みはできません。藍染めは布や糸を藍甕へそっと下ろし、静かに引き上げるもの。飛び散るようにパシャパシャしたら、藍甕のなかのインジゴが弱って繊維に食いつけなくなるのです。つまり、染液を扱うけれど自分の白袴には染み一つつけないという「職人の意気」を表した言葉なのです。

(注)インジゴ
本来はインドで栽培される含藍植物からとれる天然藍(インド藍)を指すが、そのなかに含まれる色素の物質名にもなっている。

  • 栃木県芳賀郡益子町にある「日下田(ひげた)藍染工房」の染め場。180L入る常滑焼の藍甕が72個並ぶ。藍甕に湯を張り、蓼藍からつくった、栄養分となるふすまや木灰などを入れると発酵が始まり、藍染めが可能になる。4個の藍甕の中央には「火床」と称する穴があり、籾殻などを燃やして温度を保つ。

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「ジャパン・ブルー」と称された深く濃い藍色

1874年(明治7)に来日したお雇い外国人のロバート・ウィリアム・アトキンソンが藍染めの衣服を着ている日本人が多いことに驚いて、藍を「ジャパン・ブルー」と表現したことはよく知られています。

たしかに藍染めは多かったと思いますが、アトキンソンが驚いた理由には「当時のヨーロッパではすでに天然の藍染めが失われていたこと」もあったはずだと私は思います。

しかも、日本の藍染めは濃い藍が中心です。本来、藍の中間色は「縹(はなだ)」で、それよりも濃ければ紺色、薄ければ水色ですが、特に江戸時代の日本人は濃い藍、つまり紺色を好んで着ました。なぜでしょうか?農作業でもっとも大事なのは豊作ですね。豊饒な世界を望むわけです。その世界は「藍を深く深く染めることで可能になるのではないか」と考えた。ですから藍色をどんどん濃くしていったのではないでしょうか。

農作業をするときに土が付くので、汚れを目立たせないように、という工夫もあったでしょう。今でこそ水色や空色はきれいな色とされていますが、そういった色だと汚れが目立つので田畑には入れません。だから濃い藍色を好んだのです。今の日本人が見ても、濃い藍色は安定したものに見えます。

あるいは瞳の色も関係しているのかもしれません。例えば日本人から見るとヨーロッパの染織はきれいで華やかです。日本人の衣服は黒っぽくて渋い。渋いは地味とは違う深みがあります。濃い藍色を見ると「やっぱりこの色が落ち着くわね」と感じるのが、日本人特有の感性なのだと思います。

藍色を育てた列島の多彩な自然

蓼藍から効率よく色素を取り出して藍色に染めるために蒅を生み出し、また藍甕を温める工夫で季節を問わず染められるようにした藍染めは、日本人の知恵の結晶です。また、江戸時代には藍染めの布を煮出して藍を回収し、煮詰めて棒状にした絵具「藍蝋(あいろう)」を書画や浮世絵などの彩色にも使うなど再利用もしてきました。ところが今は蒅から染めようとする人は少なくなっています。こうした文化をどう残すかは、私たち全員の問題だと思います。

蒅を製造する藍師や藍染めの作家を人間国宝にすることも大事ですが、そうすると個人の問題に終始してしまう。カギとなるのは、技をもつ人たちを地域で総合的に指定することです。例えば1974年(昭和49)に国の重要無形文化財に指定された沖縄県大宜味村喜如嘉の芭蕉布(ばしょうふ)のような事例も必要でしょう。綿織物で藍染めが主体の久留米絣(がすり)も総合指定されています。

私は藍色が好きで日本の各地を巡り歩き、本を書きました。「どの地域がよかったですか」とよく尋ねられますが、一つになんて絞れません。日本はどこに行っても美しいですね。雪深い北海道で雪のなかに手を入れたら、雪は水色に見えました。渚も薄い水色ですが、沖に行くにしたがって濃い色になっていきます。沖縄で見た黒潮は、それはそれは深い藍色でした。今日は東京にいますが、空を見上げるときれいな空色ですね。

南北に長く、海に囲まれた日本列島はさまざまな色で溢れています。今、藍という色をあらためて考えると、この日本の自然が淡い青色から紺色に近いほどの濃い藍色に至る多彩な表現を育ててきたのだと感じます。

(2016年12月2日取材)

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