機関誌『水の文化』58号
日々、拭く。

生活史
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日本人はいつから「拭く」ようになったのか?

拭く道具は時代とともに移り変わる。今のように手で拭く雑巾が登場するのは、畳が敷き詰められた書院造が登場した室町末期という。しかも当時は「浄巾(じょうきん)」と呼ばれており、雑巾と呼ぶようになったのは木綿が普及した江戸時代以降とされる。この歴史を『道具が語る生活史』で解き明かしたのは、生活史研究家の小泉和子さんだ。「拭く」にまつわる道具や生活習慣の変遷について語っていただいた。

小泉和子さん

インタビュー
生活史研究家・昭和のくらし博物館 館長・
重要文化財 熊谷家住宅館長・家具道具室内史学会 会長
小泉和子(こいずみ かずこ)さん

1933年東京生まれ。女子美大で洋画を学び、卒業後は家具製作会社に入社。1970年に東京大学工学部建築学科の研究生となり、日本家具・室内意匠史を研究。工学博士。1971年生活史研究所を設立。1999年より東京都大田区の生家を「昭和のくらし博物館」として公開。『船箪笥の研究』『昭和なくらし方』『和家具』『道具が語る生活史』など著書多数。

中世までは棒雑巾が活躍

私の母は、家中いたるところに雑巾を置いていました。家に上がるときにはさっと足裏を拭(ぬぐ)い、あるいは棚や桟などに少しでも汚れを見つけると、その場ですぐに拭いてきれいにしていました。日常生活に「拭く」という行為があたりまえのように組み込まれていたのです。

では、日本人はいつから「拭く」ようになったのでしょうか。縄文時代の貝塚が各地で発見されていることから見ても、ごみをひと所に集め、身の回りをきれいにするという掃除の文化は、古くから日本にあったのだろうと思われます。ただし、縄文時代に拭き掃除をしていたかどうかはわかりません。

記録としてさかのぼれるのは、平安時代になります。『扇面(せんめん)法華経』という12世紀の装飾経には、棒雑巾(ぼうぞうきん)で貴族邸を掃除する舎人の姿が描かれています。棒雑巾が何と呼ばれていたかは不明ですが、長柄の先にT字型の横木がついていて、そこに50〜60cmほどありそうな長い布を挟んだものです。池にせり出した板縁の上で使っています。おそらく桶(当時は曲物)の水に浸して拭き掃除に使用していたのではないでしょうか。

このように古代の雑巾は、意外にも手で直接持って拭くものではなく、現代のモップのような形状でした。それは当時の建築様式と関係していると考えられます。掃除などしたのは宮殿か貴族住宅だけでしたが、いずれも土間か板の間でした。平安時代の貴族邸の建物は「寝殿造」といって壁がほとんどなく、床板を張った広間に柱だけが並ぶ開放的な構造で、屏風や簾などで必要に応じて空間を仕切って利用していたのです。このがらんとした広い板敷きの広間を掃除するには、棒雑巾で走り回るのが合理的だったわけです。

ちなみに『扇面法華経』の同じ絵のなかで、もう一人は鳥の羽を束ねた羽箒(はねぼうき)を使って床を掃いています。箒(ほうき)の語源は「羽掃(はは)き」ですから、これがまさに箒の原形でしょう。時代を少し下った14世紀の『春日権現験記(かすがごんげんげんき)』にも、棒雑巾と雉(きじ)の羽だと思われる羽箒を両手に持つ僧が描かれています。羽箒と棒雑巾が、古代から中世にかけて掃除道具の2点セットだったことが窺えます。

  • 『春日権現験記』第16軸(板橋貫雄[模写])1870年(明治3)(国立国会図書館蔵)

    『春日権現験記』第16軸(板橋貫雄[模写])1870年(明治3)(国立国会図書館蔵)
    『春日権現験記』は春日大社創建の由来と霊験を描いた鎌倉時代の代表的絵巻物。高階隆兼が描き、1309年(延慶2)、春日大社に奉納された。長柄の拭布「棒雑巾」と羽箒(はねぼうき)を持つ寺僧が描かれている

  • 『扇面法華経』や『春日権現験記』をもとに小泉和子さんが考案・監修して復元された「棒雑巾」と「羽箒」。大阪府吹田市の「ダスキンミュージアム」に展示されている 撮影協力:ダスキンミュージアム

  • 棒雑巾の構造を説明する小泉さん

    棒雑巾の構造を説明する小泉さん

  • 『春日権現験記』第16軸(板橋貫雄[模写])1870年(明治3)(国立国会図書館蔵)
  • 棒雑巾の構造を説明する小泉さん

拭き掃除を変えた書院造の登場

鎌倉時代になると、仏教寺院において掃除が重要な意味をもつようになります。もともとはインドで、一心に掃除をすることが悟りにつながるという思想が起こりました。その思想が中国に渡って、中国の寺院に掃除が習慣として根づき、それが天台宗の最澄や曹洞宗の道元によって、日本にもち込まれたのです。

福井県の曹洞宗大本山・永平寺では、「一掃除 二座禅 三看経」というほど、掃除が重視されているそうです。雲水たちが酷寒の早朝、長い廊下を中腰で勢いよく雑巾がけする姿は、今日でもよく知られています。ただし、これも鎌倉時代にはやはり棒雑巾だったのだろうと思います。それが、江戸時代ごろから手持ちの雑巾に代わったのでしょう。

手持ちの雑巾が広く使われはじめたのは、おそらく室町時代から江戸時代にかけてのことです。室町後期、武家屋敷などは「書院造」の建築様式が主流になってきました。書院造は寝殿造と違って、襖や障子で部屋が仕切られ、畳敷きで、床の間や違い棚などの造作も見られるようになります。こうなると棒雑巾で大雑把に掃除するわけにはいきません。細かく拭ける手持ちの雑巾の方が、使い勝手がよいのです。

このころの文献に、掃除する布として「浄巾」という言葉が初めて出てきます。浄巾は禅林用語で手拭(てぬぐ)いを意味します。顔や手を拭く手拭いは「タノゴヒ」と呼ばれ、古くから使われていましたが、拭き掃除の機会が増え、本来の手拭いと分けて掃除用の布を表す新しい名称が必要になって、浄巾という言葉が広まっていったのだと考えられます。ちょうどこの時代、日本は一種の技術革新期で、従来にない新しいものに禅林用語から名前をつけるのが流行でした。炬燵(こたつ)、暖簾(のれん)などの言葉もこの時期に禅林用語から誕生しています。

木綿の普及で「浄巾」が「雑巾」へ

江戸時代になって、一般の住宅にも書院造が普及すると、掃除に対する人々の関心が高まり、掃除の仕方も丁寧になっていきました。柱や廊下までピカピカに磨きあげるのがよしとされ、掃除が行き届かない家はだらしないと非難されました。中世以来の禅宗の掃除文化の影響もあり、掃除が道徳的な生活規範としての意味合いを強くもつようになるのです。

そうしたなか、拭き掃除も日常的になっていきます。雑巾がけが一般化するにあたっては、素材の変化も大きなポイントとなりました。それまでは棒雑巾も含め、布といえばほとんどが麻や楮(こうぞ)など、布にするのに大変手間がかかるものでした。しかし、江戸時代に安価な木綿が出回るようになり、着物やふとんなどで使い古した木綿をほどいて縫い合わせ、掃除に利用するようになったのです。雑多なぼろ布を無駄にせず使うことから、その呼び名も「浄巾」から「雑巾」へと変わっていきました。

江戸市内の排泄物などは、幕府公認の処理業者が収集、運搬するしくみができあがっていました。また、公共の橋や道路、下水路などをこまめに掃除するよう町人に義務づける町触(法令)も出されていました。こうした公的枠組みと人々の掃除に対する意識の高さから、江戸は世界でも類を見ない衛生的な都市として発展したのです。

  • 『日本風俗図絵』第4輯(黒川真道 編/日本風俗図絵刊行会)1915年(大正4)(国立国会図書館蔵)

    『日本風俗図絵』第4輯(黒川真道 編/日本風俗図絵刊行会)
    1915年(大正4)(国立国会図書館蔵)
    『日本風俗図絵』は、近世浮世絵の絵師が描いた代表的な作品を国学者である黒川真道が編集したもの。したがって江戸時代にはこのような雑巾がけがあったことがわかる。「かげうつる、かがみのごとく、板の間に、ちりすへぬこそ、よき掃除なれ」という文章が添えられている

  • ダスキンミュージアムに展示されている「刺子雑巾」

    ダスキンミュージアムに展示されている「刺子雑巾」。木綿の古布(ふるぎれ)を数枚重ねて刺子にするのが雑巾の原型。これも小泉和子さんが監修した 撮影協力:ダスキンミュージアム

  • 『日本風俗図絵』第4輯(黒川真道 編/日本風俗図絵刊行会)1915年(大正4)(国立国会図書館蔵)
  • ダスキンミュージアムに展示されている「刺子雑巾」

国によって異なる学校教育と掃除

江戸時代に浸透した掃除の習慣やその教訓的な意義は、そのまま近代へと受け継がれていきます。近代の掃除のあり方を象徴するのが、学校における掃除教育ではないでしょうか。

明治時代になると、細菌や伝染病などへの知識が深まり、衛生に気をつけるようになります。特に大勢の児童が集まる小学校では、日当たりや換気への気配りとともに、校舎や教室を清潔に保つようにと、早くから国によって指導されていました。1897年(明治30)の文部省訓令「学校清潔法」では、日常の掃除、定期的な掃除、そして浸水後の掃除、それぞれの方法を細かく規定しています。

ただ、この法令は学校当局にあてたもので、児童あてではありません。にもかかわらず実際には多くの学校で、子どもたちが教室の掃除を行なうようになりました。さらに修身科でも、掃除の大切さを教えるようになります。掃除が、学校教育の一環として位置づけられていったのです。

なお、世界105ヵ国を対象にした学校掃除の調査によると、清掃員が行なっているのが61ヵ国、清掃員と児童が行なうのが8ヵ国、日本のように児童が中心となって行なうのが36ヵ国とのこと。国によって掃除の捉え方にも違いがありそうです。

授業後に教室の机を雑巾で拭いている子どもたち

授業後に教室の机を雑巾で拭いている子どもたち(1953年撮影/熊谷元一写真童画館蔵)

拭き掃除を通じて水の二面性を学ぶ

乾拭きと水拭きは目的が異なり、どちらにも意味があります。それでも日本の拭き掃除の基本といえば、やはり水拭きでしょう。そこには、日本ならではの大きな二つの理由があります。

一つは多湿な風土です。乾燥している国と違い、湿度が高いとカビなどが発生しやすくなります。そのため衛生意識が高くなり、掃除も徹底して清潔にすることが求められます。また湿気のせいで、部屋に舞い込んだほこりなどは床や壁に付着しやすく、ベタベタと不快でもあるため、乾拭きでさっと払うだけでなく、水拭きでしっかりと汚れを拭い去ることが好まれるのです。

もう一つの理由は、水に恵まれた環境です。日本は雨がよく降りますね。特に上水道が普及してからは、水をふんだんに使うことができますので、汚れたら水で洗い流すというのがあたりまえの感覚としてあります。そしてもう一つ、日本人は昔から自然を崇拝し、なかでも水を神聖視してきました。水拭きという行為には、水で穢れを落とし浄めるという意識が働いているのだと思います。

作家の幸田文は、『父・こんなこと』(新潮社 1955)という本で、女学校時代に父の幸田露伴から掃除の心得を教わったエピソードを綴っています。箒で掃く、はたきをかける、その一つひとつの所作を露伴から教わるのですが、特に厳しかったのが水の掃除の稽古でした。

「水は恐ろしいものだから、根性のぬるいやつに水は使えない」とまずおどされ、バケツに汲む水の量から雑巾のすすぎ方、絞り方、拭き方まですべてダメ出しされます。文はそれに反発を覚えますが、自分が雑巾を絞った後、バケツの周りに大量の水滴が飛び散っているのを見て、水扱いの難しさに気づきます。大事な本や書類が濡れたら大変なことになりますから。このように露伴は、身近な拭き掃除を通じて、水がもつ恵みと恐ろしさという二面性を娘に教えたのです。

明日を生きる力は日々の生活から

最初にお話しした母の影響もあるのでしょう。私は普段からよく拭き掃除をします。ですから常にタオルでつくった雑巾をたくさん用意しています。といっても、タオルを半分に折って端を縫い、表に返してさらに両サイドを縫っただけの簡単なものです。タオルのままではひらひらして扱いにくいので、暇な時間に少しずつ縫い溜めておくのです。

バケツに水を入れて持ち運び、1枚の雑巾を洗いながら掃除する人が多いと思いますが、その方法では絞るときに水滴が飛んだり、水をこぼしたりする危険があります。ですから雑巾がけをする際は、たくさんの雑巾を固く絞ってバケツに入れておき、汚れたらきれいな雑巾に取り換えて、最後にまとめて洗う。それが私のやり方です。昔の人は、掃除はもちろん、生きていくうえで必要な身の回りのことはみんな自分たちの手でやっていました。日常の家事は、水や火の扱い方、自然とのつきあい方などを、体を使って学ぶ場でもあったのです。

最近は電化製品などが進化し、いろいろなことを機械がやってくれます。便利な時代になりましたが、本当にそれでいいのでしょうか。歩かなければ足腰が弱るように、生活を機械任せにしていたら人として生きる力が弱まり、社会全体が劣化していくのではないかと危惧しています。

雑巾を洗う水は冷たいし、中腰で雑巾がけするのは大変です。でも、拭いた後はすがすがしい気持ちになります。そんなあたりまえの充実感を、もう一度見つめ直す時がきているのではないでしょうか。

小泉和子さんの「雑巾で拭く」作法
  • 1雑巾を固く絞る 2空のバケツに雑巾をたくさん入れて持ち運ぶ

    ①雑巾を固く絞る ②空のバケツに雑巾をたくさん入れて持ち運ぶ

  • 1四つ折りにして拭く 4終わったら洗って干す

    ③四つ折りにして拭く ④終わったら洗って干す

  • 1雑巾を固く絞る 2空のバケツに雑巾をたくさん入れて持ち運ぶ
  • 3四つ折りにして拭く 4終わったら洗って干す


(2017年12月8日取材)

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