機関誌『水の文化』59号
釣りの美学

歴史
歴史

江戸で花開いた釣りの文化
──徳川治世下の釣客群像

静寂と興奮という二面性をもたらす「魚を釣る」という行為は、江戸時代から本格化したといわれている。なぜ江戸時代に釣りが栄えたのか?『江戸の釣り―水辺に開いた趣味文化』や『釣魚をめぐる博物誌』などを著した長辻象平さんに、当時の時代背景などを含めて、日本の釣りの歴史について語っていただいた。

長辻象平さん

インタビュー
産経新聞 論説委員/釣魚史研究家/小説家
長辻 象平(ながつじ しょうへい)さん

1948年鹿児島県生まれ。京都大学農学部卒業(魚類生態専攻)。同大理学部研修員を経て産経新聞社入社。シンクタンク主任研究員、平凡社『アニマ』編集部員を経たのち産経新聞社に復社。著書に『江戸釣魚大全』『江戸の釣り―水辺に開いた趣味文化』『釣魚をめぐる博物誌』などがある。また、2003年には小説『忠臣蔵釣客伝』を著すなど作家としても活動中。

なぜ江戸の武士は釣りに興じたのか

『古事記』や『日本書紀』に見られる古墳時代の釣りは戦運を占う神事でした。平安時代前期には淳和(じゅんな)天皇、仁明(にんみょう)天皇が遊びで釣りをした記録もありますが、鎌倉・室町時代を通じて釣りの記録は乏しいです。

遊びの釣りが発達したのは江戸時代になってから。それにはさまざまな要因がありますが、ひと言でいえば徳川幕府の成立によります。幕府のしくみの下に寺院勢力が抑え込まれ、仏教思想の影響力が衰えて殺生への抵抗感が薄れました。目の前に広がる内湾の江戸湾は利根川水系の大河が運ぶ土砂で大小の洲が発達し、多くの魚介類を育み、沿岸部には水運用の掘割(ほりわり)や人工の水路網が発達して、釣りには申し分のない環境でした。

さらに、江戸には暇な侍が多くいました。幕府も各藩も、戦国時代の軍事体制をそのまま平和な時代に移行させたので、余剰人員が出たのです。江戸中期には旗本、御家人の約4割が、城の改修工事くらいしか仕事のない小普請組(こぶしんぐみ)や寄合組(よりあいぐみ)に属していました。時間に余裕があって目の前が絶好の環境となれば、武士の間で釣りが盛んになったのも不思議ではありません。

江戸時代に釣りが発達したもう一つの重要な理由は、魚に警戒心を抱かせない半透明な釣り糸「テグス」の普及です。テグスの原料は中国に生息するテグスサンという蛾の幼虫。体内の絹糸腺(けんしせん)を抜き出し、酢に浸して引き伸ばし陰干しにしてつくります。川の水が濁っている中国では釣り糸としては利用されず、日本へ輸出する薬の梱包に使われていました。これに大阪の漁師が目を付け、江戸にも伝わったのです。

江戸幕府に関係した釣りの発達の要因をさらに付け加えれば、石船の難破。江戸城築城のため静岡方面からの石を山積みした船が江戸湾で幾度も沈没し、格好の人工漁礁ができました。タイやアイナメなど岩礁性の魚が集まってきて、おあつらえ向きの釣り場になったのです。

『絵本隅田川両岸一覧』(首尾松の鉤舟 椎木の夕蝉)葛飾北斎 画

『絵本隅田川両岸一覧』(首尾松の鉤舟 椎木の夕蝉)葛飾北斎 画(すみだ北斎美術館蔵)
江戸時代、浅草蔵前の隅田川のほとりにあった首尾の松で、釣りに興じる男女が描かれている

「生類憐みの令」で中断もその後は庶民へ拡大

遊びとしての江戸の釣りは、武士の間に興った第1期、「生類憐みの令」で禁制となった暗黒時代に始まる第2期、庶民層にも広まった第3期に大きく分けられます。

第1期を代表する人物が徳川家康の曽孫の松平大和守直矩(まつだいらやまとのかみなおのり)。その克明な日記によると、家臣を連れてよく江戸湾で釣りをしています。1659年(万治2)9月23日の大和守一行のハゼ釣りが、日本最古の本格的な遊びの釣りの記録です。

その23年前に没した戦国大名の伊達政宗もまた、釣りを好みました。彼は能の「鵜飼」の一節を釣りにたとえ「罪も報いも後の世も忘れ果てておもしろや」と仏教思想の呪縛からの解放を謳歌しています。完成を見ませんでしたが、フナ釣りのための池を設計させました。

安永年間(1772-1781)までの第2期を画する人物は、享保年間(1716-1736)初期の江戸湾での釣りの実相を記録した『何羨録(かせんろく)』の著者、津軽采女(つがるうぬめ)です。

弘前の大名、津軽家の分家に生まれた三代目当主で、四千石の旗本。将軍綱吉の秘書官である側小姓(そばこしょう)に抜擢されました。吉良上野介の娘婿でしたが結婚1年で若妻に先立たれます。その後、赤穂浪士の討ち入りがあり、親戚づきあいが続いていたので吉良側の人間として冷たい目で見られていたようです。

彼は城中で足を怪我し、出仕から1年半足らずで側小姓を辞退し閑職の小普請組へ。怪我の理由はわかりませんが、辞めた時期に重なる1693年(元禄6)、綱吉による「釣魚釣船禁止令」のお触れが出ているので、なにやら意味深です。

同禁止令では漁師の漁労は認められましたが生魚の流通は厳しく制限されました。死んだ魚ならよいが、その場で活(い)け締(じ)めして売ってはいけない。殺生と血の穢(けが)れを嫌う仏教思想の復活です。夏にはすぐに腐敗が始まって漁師、魚屋は大弱りでした。

余談ですが、「生類憐みの令」で保護した十万匹にも及ぶ犬を綱吉が大久保と中野で飼育できたのは、マイワシの百年に一度の豊漁期に重なっていたからです。イワシの干物は犬のエサの蛋白源でした。

綱吉が没すると「自分の死後も続けよ」との遺言にもかかわらず「生類憐みの令」は即日廃止されます。15年間に及ぶ釣りの暗黒期は終結し、再び盛んになりました。

やがて釣りの愛好者が庶民層にまで拡大すると、一般向けの釣りの入門書も普及します。1770年(明和7)に出版された木版刷の最初の釣りの書物『漁人道しるべ』は『何羨録』の抜粋、要約でした。1788年(天明8)の『闇のあかり』は、陸釣りで人気だったボラの幼魚、スバシリを主体とし、釣り道具屋と釣り場も紹介されています。この年には江戸で初めての船宿も開業されました。そして浮世絵にもしばしば描かれているように、釣りのおもしろさに女性たちも目覚めたのが、この第3期です。

  • 家臣を連れてよく江戸湾で釣りをしていた松平大和守直矩(孝顕寺蔵)

    家臣を連れてよく江戸湾で釣りをしていた松平大和守直矩
    (孝顕寺蔵)

  • 『闇のあかり』里旭(りきょく)著

    『闇のあかり』 里旭(りきょく)著(国立国会図書館蔵)
    庶民向けの岡釣り(舟を使わない釣り)入門書。釣り場として「四ツ木」「板橋」「亀有」「青砥」など都内の地名が並ぶ

  • 家臣を連れてよく江戸湾で釣りをしていた松平大和守直矩(孝顕寺蔵)
  • 『闇のあかり』里旭(りきょく)著

世界的オペラ歌手を魅了した日本の釣り竿

江戸時代の釣り道具は世界最高水準でした。なぜなら、平和な時代に軍民転用が起きたからです。釣り竿には弓と矢の加工技術が使われました。さまざまな竹材をまっすぐに伸ばして竿にする技術は、弓矢のそれとまったく同じだったのです。

釣り竿を丈夫で美しいものにするのは漆ですが、これも日本刀の鞘を漆で固める技術からきています。錘(おもり)も鉛の鉄砲玉からの転用。『何羨録』の図版を見ると多様な形の錘があったことがわかります。

ヨーロッパでは竹がないので木製の釣り竿でした。英国の修道女のジュリアナ・バーナーズによる『釣魚論』(1496年)が世界最古の釣りの本とされていますが、そこにある釣り竿のつくり方を見ると、大変苦労しています。手元の部分を軽くするため、焼いた鉄棒を木の枝の内部に貫通させて抜いている。これでも腕の延長に過ぎず、日本の竹竿のような感度、振動の増幅作用は望めなかったはずです。

和竿は明治時代にも輸出産品の一つとして外貨を稼いでいました。ロシア生まれの世界的オペラ歌手、シャリアピンは昭和11年(1936)に来日した折、銀座の和竿の老舗「東作(とうさく)」を訪ね、四代目店主を「竿師のストラディバリ」と呼びました。日本の釣り竿を「美術品」と評し「一番細い先のあの繊細なところなぞ、ことごとく高度に発達した趣味から出た作品である。日本では魚釣りそのものが一つの芸術であるのかもしれない」と絶賛しています。日本へ旅行して上等の釣り竿を買い歩くのがシャリアピンの長年の夢でした。ちなみに、歯の悪い彼のために帝国ホテルの料理長が考案した特別メニューが「シャリアピンステーキ」です。

  • 四千石の旗本である津軽采女が著した『何羨録』の表紙。

    四千石の旗本である津軽采女が著した『何羨録』の表紙。現存する最古の釣りの本で、1723(享保8)年までに成立。上中下3巻からなる 提供:国立研究開発法人 水産研究・教育機構

  • 『何羨録』の「竿之部」に掲載された2種類の釣り竿。右が3本つなぎの「継竿」。

    『何羨録』の「竿之部」に掲載された2種類の釣り竿。右が3本つなぎの「継竿」。左端が長さ1尺余りから2尺ほどの「招(まねき)」で、深場でも使えるよう柄に糸巻きが付いている

  • 『何羨録』の「鉤之部」には33種類の釣り鉤が紹介されている。

    『何羨録』の「鉤之部」には33種類の釣り鉤が紹介されている。形状が微妙に異なるうえ、多くの鉤には考案した人物の名前が「〜流」と記されている。武士の名が多い

  • 『何羨録』の「錘之部」で記された多様な錘。

    『何羨録』の「錘之部」で記された多様な錘。錘の底面が丸い竿釣り用と、底面が平らな舟での手釣り用がある

  • 四千石の旗本である津軽采女が著した『何羨録』の表紙。
  • 『何羨録』の「竿之部」に掲載された2種類の釣り竿。右が3本つなぎの「継竿」。
  • 『何羨録』の「鉤之部」には33種類の釣り鉤が紹介されている。
  • 『何羨録』の「錘之部」で記された多様な錘。

なぜタナゴ釣りが江戸で流行したか

江戸時代の釣りが今の釣りともっとも違うところは、リールがなかったこと。深場では糸巻きが付いた竿を使って釣ることもありましたが、大部分は手釣りでした。

おもしろいのは釣(つ)り鉤(ばり)の硬さ。今の釣り鉤は焼きがしっかり入って折れませんが、当時の釣り鉤は軟らかなものでした。根がかり(注)すると伸びるようにつくってあった。鉤が硬すぎて仕掛け全体を失うのを嫌ったのです。曲がった釣り鉤を元に戻す道具「鉤曲げ」を持っていました。鉤が曲がると大物は釣れません。それはもうあきらめていたのです。

エサについては、『何羨録』の時代の武士たちはミミズやゴカイではなく、ハマグリやエビなどを使いました。きれいでこざっぱりしたエサです。釣果より釣趣を重んじる優雅な遊びだったことがわかります。

江戸では、繁殖期に美しい体色になるタナゴ釣りも好まれました。火事が多かったので建築資材用の材木を木場などの運河に浮かべており、その丸太の下によくタナゴがついたのです。小さな竿と鉤で釣り上げる、江戸っ子の粋好みの象徴ともいえるでしょう。

ただし「大名や豪商が川べりに金屏風を張り巡らし花魁(おいらん)をはべらせてタナゴを釣った」という明治維新後に流布した、まことしやかな伝説は嘘です。徳川時代の侍や商人は庶民の貧窮をよそにぜいたくや道楽にかまけていた、とする「江戸否定」のためのデマにすぎません。実際には寒さをこらえて鼻でもすすりながら釣っていたはずです。

(注)根がかり
釣りの仕掛けが水底の岩や石、水草、海藻といった障害物に引っかかること。

『東都花暦十景 木場ノ魚釣』渓斎英泉画(国立国会図書館蔵) 木場付近で釣りをする子ども。江戸時代、釣りは次第に庶民へと広がっていった

『東都花暦十景 木場ノ魚釣』
渓斎英泉画(国立国会図書館蔵)
木場付近で釣りをする子ども。江戸時代、釣りは次第に庶民へと広がっていった

家元も流派もない唯一の伝統文化

江戸以外の地方の釣りで有名なのは庄内藩。「名竿(めいかん)は名刀より得難し」と言い、武道の鍛錬になると藩を挙げて釣りをしていたようです。たしかに、苦竹(にがたけ/真竹)の長い釣り竿を使う磯釣りで、なおかつ城下から20kmの山道を歩いて磯場に出たから、足腰が鍛えられたのでしょう。幕末の戊辰戦争の奥羽越列藩同盟のうち、会津藩が投降した最後まで負けなかったのは庄内藩だけでした。

庄内藩の北隣、秋田の久保田藩でも釣りが盛んで、代表する人物は狂歌師としても知られた手柄岡持(てがらのおかもち/本名、平沢常富)。江戸藩邸で幕閣との交渉などにあたる要職、留守居役を務めていましたが、文才にも恵まれ、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)の名で小説類も執筆しています。

ちなみに秋田では、葉を剥がしながら成長させ固く締まったヨシに漆を塗って川釣り用の釣り竿にしました。竹の分布の北限なのでヨシで代用したのです。

こうして江戸時代の釣り文化を振り返ってみると、とりわけ興味深いのは、流派というものを形成しなかったこと。剣術はもちろん、茶道、華道すべて家元と流派が存在しましたが、釣りだけありませんでした。それは今に至るまで続いています。『何羨録』には鉤の形に「〜流」と記されていますが、これはつくった人物の名前で流派とは違う。釣りは、きわめて個人的な趣味であり、「家」や「型」にとらわれなかった唯一の日本の伝統文化といえるのではないでしょうか。

(2018年4月25日取材)

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