機関誌『水の文化』60号
水の守人


人々をつなぐ川と水

小名木川のほとりで幼少期を過ごした川田さん。生家のすぐそばだった「高橋」を背景に

小名木川のほとりで幼少期を過ごした川田さん。生家のすぐそばだった「高橋」を背景に

ミツカン水の文化センター主催のフォーラムやイベントに参加していただいたことがある人類学者・文化人類学者の川田順造さん。アフリカの無文字社会の歴史・文化の研究で知られる川田さんは海外での生活が長かったが、自身が幼少期を過ごした小名木川(おなぎがわ)の高橋(たかばし/江東区)周辺での聞き取り調査にも長く取り組み、「江戸=東京」を視座とする著書を上梓している。アフリカ、フランス、江戸=東京という歴史も文化も異なる三つの地点から見つめた川や水辺についてお聞きした。

インタビュー
人類学者 文化人類学者
川田 順造(Junzo Kawada)さん

1934年東京生まれ。8歳まで深川高橋で育つ。東京大学教養学部卒、パリ第五大学民族学博士。埼玉大学助教授、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授、広島市立大学教授、神奈川大学教授などを歴任。西アフリカの各地で実地調査、無文字社会の歴史と文化を研究。1992年『口頭伝承論』で毎日出版文化賞。1991年アカデミー・フランセーズよりフランス語圏大勲章、1994年フランス政府より文化功労章、2001年紫綬褒章、2017年ブルキナファソ政府より文化功労章を受ける。『曠野から』『無文字社会の歴史』『聲』『日本を問い直す』『江戸=東京の下町から』『母の声、川の匂い』など著書多数。クロード・レヴィ=ストロース著『悲しき熱帯』の翻訳でも知られる。

小名木川と高橋の匂いと音の記憶

―8歳まで小名木川のほとりで暮らしたそうですね。

 私の生家は高橋(たかばし)のそばにあった上州屋仙之助、通称「上仙(じょうせん)」という米問屋です。婿養子として母と結婚した父が八代目にあたります。米問屋として当時日本一といわれた大店「駒金」(駒形屋金兵衛商店)で一番番頭を務めていた父が「上仙」に来てからは、米の商いに加えて藁工品も手がけ、縄の染め場をつくり使用人を増やすなど、商売は順調だったそうです。しかし、太平洋戦争が近づき米も藁工品も統制となり、父は店を畳んで組合の勤め人になります。1942年(昭和17)私が8歳のとき、千葉県の市川市へ引っ越したのです。

 転居するまで暮らした家の前を流れる小名木川は、私の幼少期の記憶の大きな部分を占めています。私は家の前のコンクリート護岸に寄りかかり、行き来する大型のだるま船や日に光る川面を飽きもせず眺めていました。当時、肥料用の腸樽(わただる)や下肥(しもごえ)を積み、隅田川から中川へ向かうだるま船がひどく臭かったことも記憶しています。

 高橋については、欄干の鉄格子の間に頭を突っ込んで下を通る船を眺めていたら、頭がはさまって抜けなくなり、通りがかった近所の人が知らせてくれて、祖母が金盥(かなだらい)に入れたせっけん水で救出してくれたこともありました。高橋は勾配がとてもきつかったので、市電のモーター音が変わったという音の記憶もあります。高橋のたもとの蒸気場(船着場)の売店に、父が私をおぶって行って、三角の豆餅を買ってくれたことはよく覚えています。

―「江戸=東京」、特に小名木川の高橋周辺に目を向けられたのは、原体験からでしょうか。

 そうです。しかし、強く興味を抱くようになったのはフランスやアフリカで20年近く暮らした後なのです。西アフリカ内陸のサバンナの村で暮らしていたとき、唐突に幼少時の小名木川の匂いがよみがえったのです。匂いの記憶というものはちょっとしたきっかけで、しかも他の記憶も巻き込んで浮上するものなのですね。もう亡くなっていた母が、姉に長唄のおさらいをしていた声を思い出したこともあります。

 匂いや音といった幼時の記憶に吸い寄せられ、自分を生んだ地域と改めて向かい合いたくなった私は、同志と語らって小名木川の高橋周辺の人々にお会いして話を聞き、タウン紙『髙ばし』を創刊し、「髙橋に生きる女性」というインタビュー記事も連載しました。

 かつての「夜店通り」、今は「高橋のらくろード」と呼ぶ高橋商店街の変遷を地図にまとめたこともあります。高橋周辺を歩きはじめた当初は、私のことを「順ちゃん」「上仙のせがれ」と呼んでくれる人や関東大震災前の話をしてくれる人にも出会いました。

 高橋商店街には昔から商売を続けているお店もたくさん残っています。一番古いのは「髪切屋やまぐち」でしょう。ご先祖の命日は300年以上前の延宝年間(1673-1681)です。

 深川女は、意気=心のおしゃれを大切にします。先立ちになってさっさとやってしまう、それも涙ぐましくなんかでなく、出しゃばりでもなく、さりげなく、颯爽(さっそう)と。子育て、洗濯もやり、身綺麗(みぎれい)にして旨(うま)いものも食べ、元気の二文字を二の腕に彫ったよう。タウン紙『髙ばし』で、私が担当したインタビュー記事でお話を伺った深川女は七人。それぞれ個性豊かな方々から選ぶのが難しかったが、紙面の制約でお一人だけ、それも残念ながら抜粋で、登場していただく。『ゲルニカ』を大きな板に描いて店の屋根に掲げた、今は残念ながら健康を害してお店を閉め、高橋を離れて静養しながら、仏像彫刻で展覧会にも出品しておられる旧ブティック・ヒバナの、日花和子さんの母親、明治41年生まれの日花トクさん。私が付けた見出しは「下町ウーマンリブことはじめ」。

(以下、抄録。聞き手は川田さん)

―お生れは? 「大宮から来たんです」―高橋にいらっしゃって何年? 「五十五、六年いるんじゃないかしら。閑静だったよね、この辺は。高橋のたもとにね、浦安からポンポン蒸気が来て魚が沢山揚がるの。毎朝そこへ買いに行くのが楽しみでね」 ―連れ合いの与四郎さんは、メリヤスの卸? 「兄弟の上二人が埼玉の児玉から出て、東京でメリヤスの製造と仲買やった。盛大にやったんだけどね、震災っからだめんなっちゃった。金解禁で、手形や小切手が不渡りになっちゃって、スッカラカンになったところへ、あたしが来たわけよ(笑)。あたしは家が薬屋で産婆だったから、赤十字の看護婦に憧れて、免状も取った。旦那持つなんて気持全然なかったの。与四郎さんには嫁さんが決まっていたのが、どっか嫁に行っちゃったもんだから、あたしが身代わりになった。あたしの身元保証人が与四郎さんの姉だったので、断れなかった」

―お子さんは何人? 「女の子六人いるの。この人が一番仕舞いなんです(と、傍らの和子さんを指す)。戦争中は女の子ばっかりで恥ずかしいと思ったけど、今んなってみればいいですよ。何だかんだって、陰になり日向になりでね、細かいとこに気がついてくれるからね、ありがたいと思ってます。いま幸せよ、何の不足もないから」

―お店を出すまでの話を。 「嫁に来た時に借金取りが来てねェ。まだお店なかったでしょ、鍵閉めて押し入れにはいって息殺してたことありますよ(笑)。けどね、あたし着道楽で食道楽なのよ、生まれつきね。あたしも勤めてたから看護婦もやったし、結構お金持ってたのよ、嫁に来てもね。いつまでこうやってたんじゃしょうがない、いっそのこと出ちゃおうかと思ってね。あすぶの大好きな人だったから。そのうちに一番上がおなか入ったから、親のない子こしらえたんじゃ大変だから、お店を持とうと思ってね、持ってた物全部質に入れて、行李一杯の品物こしらえて、この前で夜店したの。四時間しか寝なかった。早く起きるとね、ハンカチの一枚も余計売れるのよね。夜は人より遅くまで。夜中に洗濯。昼間は連れ合いの卸の手伝いもしてね」

―その後与四郎さんは? 「亡くなったの。もう二〇年経ちますわ。一年入院して。人が好くって、踏み倒されちゃって、ひどい目に遭ったの。貧乏しいしい人の面倒みるのが好きでね。誰にでも奢ってやるの。そいでお金ないとウチへ取りに行けって言うの。お前は親がなくって可哀想だから俺が人にしてやるって吉原へ連れてったり(笑)。十七回忌やったときも、芸者揚げて供養しようって、坊さん呼んで芸者揚げたの(笑)。大宮でね。坊さん喜んじゃって、好い供養しちゃった(笑)」

 タウン紙に載せる前、和子さんにお母さまの前で草稿を読んでもらいました。「細かいとこに気がついてくれるからね、ありがたいと思ってます。いま幸せよ」と和子さんに感謝したくだりで、和子さんが涙で声が詰まって読めなくなったことを、感銘深く思い出す。

 行徳の塩を江戸に運ぶために徳川家康が開削させた小名木川。その周辺には、関東大震災、戦災と二度の苦難を経ても暮らしつづける人々がいることを知りました。

  • 今は「高橋のらくろード」と呼ぶ高橋の商店街。この名称は江東区にゆかりのある田河水泡の漫画『のらくろ』にちなんだもの

  • 高橋のらくろードの一角に掲げられている『ゲルニカ』は高級婦人既製服専門店「ブティック・ヒバナ」を営んでいた日花和子さんが描いたもの

  • 撮影中に立ち寄った「髪切屋やまぐち」。山口喜久江さん、お孫さんと並んで

  • 生家跡の目の前にある護岸を見つめる

  • モノクロ写真6は幼少期の川田さん(左)と従弟(右)。このように護岸に寄りかかっては小名木川を眺めていたという

  • 小名木川を横目に高橋を渡る

「縫い合わせ船」が結ぶニジェール川の交易

―西アフリカのご研究から、川と船に関してお聞かせください。

 アフリカの河川については、マリ共和国の研究者たちとの共同プロジェクトとして「ニジェール川大湾曲部の総合的研究」を行ないました。10年に及ぶ研究でした。

 ニジェール川はギニア山地に源を発し、マリ、ニジェールを流れ、ナイジェリアでギニア湾へ注ぐ全長約4200kmもの大河です。アフリカ西部を流れるニジェール川の川筋は、さまざまな文化が交流した、実に興味深い地域なのです。

 もともとニジェール川は一筋の川ではなく、途切れ途切れだった流れがつながってできたもので、まさに「恵みの川」です。特に北のサハラ砂漠に大きく張り出したニジェール川の大湾曲部にあたる中流デルタは、食料の獲得、そして人と物の輸送に大変適した場所でした。

 大湾曲部では、7世紀ごろからニジェール川を中心に発達したサハラ砂漠の南と、北アフリカを結ぶ交易が盛んになりました。北からは衣類や岩塩が、南からは金や象牙、香辛料が行き交い、多くの民族が交わるようになります。

 中流域のトンブクトゥ、さらに230kmさかのぼった場所にあるジェンネという二つの都市が中継地として栄えましたが、行き来は舟運です。水とともに人の生存には不可欠な塩は岩塩として、トンブクトゥからジェンネには船で、ジェンネからはロバで運ばれます。ジェンネの先には砂金の採掘場があったからです。

 ニジェール川では、木の板の縁にいくつもの穴を開け、細い綱でしばり合わせた「縫い合わせ舟」が用いられてきました。ただし構造的に浸水が避けられないため、ひょうたんを半球型に切った鉢で水をかき出しつつ、川底が浅いので主に竿(さお)を突き立てて航行します。

 サバンナから森林地帯まで水路で結ばれているため、ニジェール川は産物の異なる地方と舟で行き来できる交流の場でした。車両を用いた輸送手段がなかった当時、ニジェール川と縫い合わせ舟による航行技術は、西アフリカ内陸の人とものの交流を進めるうえで決定的ともいえる役割を果たしたのです。

トンブクトゥとともにニジェール川の交易拠点として栄えたジェンネ(2007年撮影)。今もこうした船が使われている(提供:Alamy/PPS通信社)

フランスと日本の舟運における差異

―かつてのパリと江戸=東京における舟運の発達の違いについて指摘なさっていますね。

 川や運河とのかかわりにおいて、パリと江戸=東京の共通点は川船による輸送です。パリは、初期こそ人間が岸から船を引っ張りましたが、次第に人力以外のエネルギーを用いる方向に変わっていきます。牛や馬に引かせ、そのあとは川に沿ってレールを敷いて動力車に引かせました。

 そして最後には、よくそんな面倒なことを……と感心しますが、川の底に設置した鎖を曳航(えいこう)船が巻き取りながら進んでいく方法を用います。

 牛馬に引かせていた時代、船には牛馬を乗せるスペースとエサが必要でした。日本人ならやらないはずですが、そうまでしたのは船の規模が大きいうえ、フランスからドイツやベルギーまで航行できる運河網が張り巡らされていたからです。人力以外のエネルギーを利用して効率を高めるために装置を工夫するという、西洋の技術文化の基本をなす考え方が現れていると思います。

 それに対して江戸=東京の川船を進ませる方法は、帆のほかは艪(ろ)がもっとも多く、水深の浅いところでは檜(ひのき)の竿がよく用いられました。私は、だるま船の船頭が両手を放したまま竿を胸で押し、舳先(へさき)から艫(とも)に向かって縁を歩いて船を進める光景を小名木川で見ています。ずいぶん呑気(のんき)なことをしていると思って見ていましたが、後に、木場の古老に竿扱いの難しさを聞かされました。「竿は三年、艪は三月」といわれるように、竿は艪よりも高い技法を必要とします。

 単純な道具をさりげなく使うなかに、実は高い技巧が秘められているという点に、日本の技術文化の思想があると感じます。

1940年代のヨーロッパの運河の風景。馬は船を引っ張り、他の船とすれ違うときや夜間は船に乗せたという(提供:アフロ)

人類にとって重要な水と水辺への取り組み

―現代は自然の恵みである水への感謝の念が薄れているように思いますが、どうお考えですか。

 フランスにおける私の師、クロード・レヴィ=ストロース先生の著書『悲しき熱帯』のなかに「世界は人間なしに始まったし、人間なしで終わるだろう」という言葉があります。人間は地球に一時的な、仮の資格で住んでいるのだから、地球に決定的な破壊をもたらす資格はないという意味ですが、現に地球上から生物種が急速に減っていますし、気候変動でさまざまな問題が出てきています。人間中心的な考えはやめた方がよいのですが、私たちはどうしても人間中心で考えてしまいますね。

―各地で水・水辺を次世代に残そうと活動している「水の守人」に対して期待されることは?

 水に関心をもつことはとても大事だと思います。私が船に興味をもつようになったのも水との関連からです。小名木川に対する幼時の記憶に始まり、ニジェール川が生み出すさまざまな文化の研究に至るまで、私は川と水の問題を一貫して考えてきました。今は消滅寸前となっている日本の船、いわゆる「和船」の調査にも取り組んでいます。

 江戸=東京を見ても、水に浮かんで川を走る船は、米や塩、干鰯(ほしか)を運ぶだけの存在ではありませんでした。人と人をつなぐコミュニケーションの道筋でもあったのです。私自身、利根川水系と荒川水系とが江戸=東京に運んできた遺伝子が合わさって生まれた人間です。

 そう考えると、水と水辺に関する取り組みは人類にとってもっとも大切なことですし、これからも重視していかなければならないことだと思います。

(2018年8月27日取材、9月13日撮影)

PDF版ダウンロード



この記事のキーワード

    機関誌 『水の文化』 60号,川田順造,東京都,江東区,高橋,交通,舟運,小名木川,アフリカ,江戸,商店街,深川,行徳,塩,ニジェール川,パリ,川船,和船,干鰯,利根川,荒川

関連する記事はこちら

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ページトップへ