機関誌『水の文化』61号
水が語る佐渡

佐渡
北前船

廻船の歴史伝える濃密な空間

佐渡のほぼ南端に位置する宿根木。小さな入り江に面した小規模な集落だが、江戸時代から明治時代にかけて北前船で栄えた

佐渡のほぼ南端に位置する宿根木。小さな入り江に面した小規模な集落だが、江戸時代から明治時代にかけて北前船で栄えた

佐渡の南端に位置する宿根木(しゅくねぎ)は、近世初期から明治時代にかけて北前船の交易で栄えた集落だ。わずか1haほどの小さな土地に路地が迷路のように巡り、今でも100棟を超える板壁の民家が密集している。船大工の技が随所に活かされたまちなみが国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されている。宿根木に残る歴史と栄華の跡をたどった。

宿根木まち歩きMap

佐渡宿根木プロジェクトの探訪マップをもとに編集部作成。右下の地図は国土地理院基盤地図情報「新潟」より編集部で作図

歴史を物語る大量の陶磁器

「なぜ、こんなに?」。そう思った。

伊万里焼(佐賀)のかさね重と陶枕(とうちん)、信楽焼(滋賀)の茶壷、備前焼(岡山)の船徳利、小石原焼(福岡)の壺、唐津(佐賀)のすり鉢、尾道(広島)の酢徳利のほか、九谷焼(石川)など各地の陶磁器が所狭しと並ぶ。これらはすべて北前船(注1)で佐渡にもたらされたものだ。

旧・宿根木小学校の木造校舎を利用した佐渡国小木民俗博物館には、かつて民俗学者の宮本常一が住民に呼びかけて集めたという、海運の歴史を物語る貴重な品々が収められている。1858年(安政5)に宿根木で建造された北前船を当時の設計図をもとに復元した「白山丸」も展示されている1(地図参照)

「宿根木の人たちは、鎌倉時代から小さな船で海運業を営んでいました。今の直江津、能登、鶴岡あたりと取引していたのです」

そう語るのは、佐渡博物館の前館長で、今は宿根木地区歴史的景観審議会の修復部会長を務めている郷土史家の高藤一郎平(たかふじいちろうへい)さん。宿根木小学校は母校であり、宮本常一の薫陶を受けた一人でもある。

佐渡島南端の小さな港で細々と暮らしていた宿根木が発展しはじめたのは相川金銀山と関係がある。

「金銀山が発見されると、それまで佐渡に住んでいた人以外に4万人が来たと言われています。その人たちの食べる米だけで6万石が必要でしたが、当時の佐渡の年貢米はたったの2万石。まったく足りません。そこで越後(新潟)から大量の米を運んでいたのです」

さらに1614年(慶長19)、宿根木から4kmほど離れた小木(おぎ)が幕府の公式な港「公津(こうしん)」に指定されると、宿根木の人たちはその整備に力を尽くす。その証拠が小木の築港に用いられた大きな石。これは小木半島の先端にある沢崎(さわさき)でしか採れないものだが、同じ石が宿根木の集落でも使われている。

「沢崎の石は一軒の家の下から70個以上出てきたこともあり、宿根木の地盤を整えるために使われています。宿根木周辺では硬い石が採れなかったため、佐渡奉行の小木湊整備工事で沢崎から小木へ運ぶ一方、自分たちの集落にも石を持ち込み、川筋の固定などに用いたようです」と高藤さんは言う。

(注1)北前船
江戸中期から明治の初めにかけて北海道と大坂を結んで西廻り航路を往来した廻船。千石(せんごく)船、弁才(べんざい・べざい)船、どんぐり船とも呼ばれた。

  • [1]1858年に宿根木で建造された「幸栄丸」を設計図通りに実寸大で復元した「白山丸」。全長23.75m 、最大幅7.24m、艫(とも)高6.61m、積石数512石積(約77トン積)

    11858年に宿根木で建造された「幸栄丸」を設計図通りに実寸大で復元した「白山丸」。全長23.75m 、最大幅7.24m、艫(とも)高6.61m、積石数512石積(約77トン積)

  • [2]佐賀県有田地方でつくられた伊万里焼の壺。伊万里港から積み出されたものが北前船による交易で佐渡に渡った

    2佐賀県有田地方でつくられた伊万里焼の壺。伊万里港から積み出されたものが北前船による交易で佐渡に渡った

  • [3]広島県尾道から運ばれた酢徳利(すどっくり)

    3広島県尾道から運ばれた酢徳利(すどっくり)

  • 宿根木を案内してくれた高藤一郎平さん。佐渡の歴史と文化に精通している

    宿根木を案内してくれた高藤一郎平さん。佐渡の歴史と文化に精通している

情報を共有した船主たちの結束

小木が金銀を運ぶ「奉行船」の港となったことで宿根木は活気づく。小木は新興の地でまちの機能に乏しく、宿根木の舟宿に多くの人が泊まった。また、河村瑞賢によって西廻り航路が整備され、1672年(寛文12)に小木港が寄港地になったのも追い風だった。

「その少し前(1657年)に江戸で『明暦の大火』がありましたね。一面の焼け野原から幕府が復興を目指したので大変な数の人が集まり、そのまま留まったので江戸はどんどん大きくなった。そこで幕府は米どころ東北の天領から米を集めるために酒田(山形)を起点にしますが、酒田から南へ向かう最初の寄港地が小木でした」

小木が商業の地として栄え、隣地である宿根木もまた栄える。お互いが支え合う関係にあった。

宿根木の人たちは、次第に船で各地に乗り出していく。それを支える船大工など船にかかわる技術者が住むようになり、宿根木そのものが北前船の産業基地のようになっていった。ただし、江戸初期は宿根木では船をつくっていなかったと高藤さんは指摘する。

「よそから中古の船を買ってきて、それを少し小さくつくり替えて使っていたようです」

宿根木初の新造船は1776年(安永3)。宿根木の船主の一人、高津勘四郎の白山丸だった。7年後の1783年(天明3)、宿根木の廻船が松前からニシンやカズノコ、昆布などを買い求め、酒田や秋田、三国、敦賀、新潟、下関でそれらを売った記録が残っている。

「北前船の多くは船賃で稼ぐのではなく買い積み方式といい、ある地域で仕入れたものを別の地域で売って、その価格差で稼いでいました。仮に100円で仕入れた塩を150円で売るか180円で売るかの判断は難しい。そこで宿根木の船主たちは行く先々の宿をあらかじめ決めておき、そこに自分が得た情報を置いていきます。次にその宿に来た船主は相場を知り、儲けられる売値を決めることができました。暗号のようなものも使われたかもしれません」

高藤さんによると、他にも多少仲間はいたようだが基本的には宿根木の船主12~13人だけで情報をやりとりしていたという。集落の仲間同士、結束は深かった。

現在の小木港。停泊中の風よけとなる小高い山(城山[しろやま])があり、港に適した地形

現在の小木港。停泊中の風よけとなる小高い山(城山[しろやま])があり、港に適した地形

飛ぶように売れた佐渡の藁製品

実は、食料をはじめ材木や漁獲物などすべての産品は江戸中期まで島外へ持ち出すことを禁じられていた。解禁されたのは宝暦年間(1751−1764)に入ってからだ。

「金銀の産出が不調になり、しかも米の不作が続いたことから島内で一揆が頻発しました。農民の救済措置として『島内のものを売ってもよい』となったのです」

ここから佐渡の産品が他の地域、特に開拓期の北海道へ運ばれる。

「北海道ではとにかくなんでも売れたそうです。ニシン漁の網は藁で編むものですが北海道では米はつくれない。佐渡の縄や莚(むしろ)、草履(ぞうり)などの藁製品が飛ぶように売れました。あとは米や竹などもです」

宿根木がもっとも栄えたのは、持ち出し解禁となった江戸中期以降。宿根木に人が集まり、入り江に面した集落に入りきれず、裏の高台に家を建てる者が続出した。

集落に今なお残る船大工と廻船の痕跡

実際に高藤さんと宿根木を歩いてみる。アニメ映画に出てくるような笹藪のトンネルを抜けると集落が一望できる高台だった。石置木羽葺(いしおきこばぶき)屋根、石州瓦を用いた茶色い屋根、能登瓦(のち三州瓦)の黒い屋根の家々が入り混じるノスタルジックな風景が広がる。小さな入り江に面した集落の真ん中には称光寺川(しょうこうじがわ)が流れている。高藤さんいわく、この川筋は人為的なもの。

「海と山が混ざり合ったような荒れた土地でね。それを自分たちで川筋を決め、道割をし、その間にできた土地に家を建てた。だから正方形の宅地は少ないのです」

その代表格が「三角家(さんかくや)6。敷地に合わせて三角形に切り詰めて建てられている。「ここはかつて川の中州だったのでしょう。尖った部分が中州の先端かな」と高藤さん。上流側から見ると、なんとなく船の舳先を思わせる。それもそのはず。この家は船大工の技術が応用されているところが多く見られるのだ。

「三角家は羽茂大橋付近の家を解体・移築した建物です。狭い土地なので敷地いっぱいに建てたいのが人情。そこで船大工が土地の形に合わせて膨らませたりへこませたりして建てたといわれています。そもそも船に直角の部分はなく、曲線や三角ばかりですから」

船大工の技の凄さがわかるとっておきの場所があると高藤さんが案内してくれたのは、川の名の由来ともなっている古刹「称光寺」。

「この山門の扉は左右でつくり手が異なります。三枚の板のつなぎ目をよく見てください」と高藤さん。向かって右の扉は板のつなぎ目がはっきりしているが、左はつなぎ目がほとんど見えない7

「そうです。右は家(や)大工が、左は船大工がつくった扉です。船大工は水漏れを避けるために繊維を『つぶす』つくり方をします。だから隙間が目立たないんですね」

山門のそばに三角家と似たようなつくりの家がある。この家の壁もカーブを描いている。崖に沿って少しでも広くするためだろう。

「宿根木には船大工の棟梁が3人いました。彼らはそれぞれ造船所を構えており、奉行所の船を何艘も建造したそうです。棟梁は船大工を10人くらい使い、小間使いも数人いましたから、45~50人の技術者がいたという計算になります」

ほかにも、船を建造するときの余材や廃船の板を腰板(壁の下部)に用いた家や、「石」の字を軒下の扇形飾りにあしらった家もある。船大工が住んでいた痕跡だ。

一方、集落内には北前船で運ばれた石が鳥居や橋として残る。

「白山神社の石鳥居は、瀬戸内海から運んだ御影石でできています。1773年(安永2)の建立で、御影石とともに宿根木に招いた石工がつくったといわれています」と高藤さん8。称光寺川に架かる2本の石橋のうち、上流の念佛橋(ねんぶつばし)の側面には1776年(安永5)の年号が刻まれている。石質は花崗岩。鳥居も石橋も白山丸の船主・高津勘四郎が西廻り航路の帰路に尾道から積み、寄進したもの9

「石橋は称光寺から海へ向かう正式な道に架けられています。船主は金持ちですが、儲けを地域に還元する意識も強かった。村の衆も、贅沢している船主の船には決して乗らなかったそうです」

  • [4]葬儀の際に必ず通ったとされる「世捨小路(よすてこうじ)」。不思議な名前だが由来は定かではない

    4葬儀の際に必ず通ったとされる「世捨小路(よすてこうじ)」。不思議な名前だが由来は定かではない

  • [5]集落のなかを流れる称光寺川。左岸と右岸で地面の高さが違うのは宅地造成の年代の差。左岸が古く、右岸はやや新しい

    5集落のなかを流れる称光寺川。左岸と右岸で地面の高さが違うのは宅地造成の年代の差。左岸が古く、右岸はやや新しい

  • [6]大きな水害のあった1846年(弘化3)年以降に移築されたといわれる「三角家」

    6大きな水害のあった1846年(弘化3)年以降に移築されたといわれる「三角家」

  • [7]称光寺の山門の扉。右が家大工、左が船大工によるもの。つなぎ目に工法の違いが表れている。1717年(享保2)の棟札が残る

    7称光寺の山門の扉。右が家大工、左が船大工によるもの。つなぎ目に工法の違いが表れている。1717年(享保2)の棟札が残る

  • [8]北前船で運ばれた瀬戸内海の御影石でつくられた白山神社の石鳥居

    8北前船で運ばれた瀬戸内海の御影石でつくられた白山神社の石鳥居

  • [9]1776年(安永5)に尾道から運ばれ、寄進された念佛橋

    91776年(安永5)に尾道から運ばれ、寄進された念佛橋

新田開発を救った手掘りの「横井戸」

こうした栄華も明治新政府が500石積以上の和船の建造を中止した1885年(明治18)以降、陰りが見える。鉄道や蒸気船に押され、廻船業が衰えるからだ。

「それでも生活はさほど厳しくなかったと思います。船にまつわる技術をもつ人たちは、主に北海道へ出稼ぎに行きましたから」と高藤さん。とはいえ、暮らしぶりは一変する。1913年(大正2)に養蚕組合が発足。1916年(大正5)には開墾組合が結成され、段丘上で新田開発を始める。

「最初は山の奥の、水がしたたり落ちているような窪地から水を引いて田んぼをつくりました。ところが晴れの日が続くとすぐに水が枯れてしまう。ただし窪地そのものは湿っていたので、試しに掘ってみた。すると幸運にも地下水の水脈にぶちあたったのです」

それが「宿根木の横井戸」だA。この一帯は水中火砕岩(すいちゅうかさいがん)という隙間の多い岩石なので、雨がしみ込みやすい。宿根木の人たちは勘を頼りに、山の斜面を横方向へ井戸を掘り、断層の割れ目から湧き出る水脈を見事に探りあてたB

「水路をつくるためにトンネルを二つ掘り、谷間はサイフォン(注2)式で水を通しました」と高藤さん。宿根木には7本の横井戸があり、今もこの地の水田約28haを潤している。

仲間と情報を共有して得た利益を集落に還元する船主たち、己の技を身の回りにも応用する船大工たち、そして廻船業の衰えで新田開発に向かった先人の記憶をたどった。宿根木は、歩いて一周するだけなら大した時間はかからない。しかし、水と深くかかわった人々の暮らしの痕跡を数多く留める、きわめて濃密な空間だった。

(注2)サイフォン
液体を一度高所に上げてから低所に移すために用いる曲管。管内を液体で完全に満たしていれば、液体は高い方から低い方に流れることを応用したもの。

  • [10]称光寺川に残る洗い場。上流、中流、下流で用途を使い分けていた

    10称光寺川に残る洗い場。上流、中流、下流で用途を使い分けていた

  • [11] 石づくりの沈殿槽「セシナゲ」。海を汚さないように、生活排水をいったん溜めてから流した

    11石づくりの沈殿槽「セシナゲ」。海を汚さないように、生活排水をいったん溜めてから流した

  • [12]「方崖坂(ほうがんざか)」とその下にある「共同井戸」。宿根木が栄えると高台に住む人が現れた。その人たちが桶を担いで下り、共同井戸で水を汲んでは上ったので石の階段がすり減っている

    12「方崖坂(ほうがんざか)」とその下にある「共同井戸」。宿根木が栄えると高台に住む人が現れた。その人たちが桶を担いで下り、共同井戸で水を汲んでは上ったので石の階段がすり減っている

  • [13]「方崖坂(ほうがんざか)」とその下にある「共同井戸」。宿根木が栄えると高台に住む人が現れた。その人たちが桶を担いで下り、共同井戸で水を汲んでは上ったので石の階段がすり減っている

    13方崖坂(ほうがんざか)」とその下にある「共同井戸」。宿根木が栄えると高台に住む人が現れた。その人たちが桶を担いで下り、共同井戸で水を汲んでは上ったので石の階段がすり減っている

  • [A]手掘りで探りあてた「宿根木の横井戸」。新田開発に乗り出した宿根木の人たちの重要な水源

    A手掘りで探りあてた「宿根木の横井戸」。新田開発に乗り出した宿根木の人たちの重要な水源

  • [B]横井戸の構造図。雨がしみ込み、断層から湧き出る水を田に引いた

    B横井戸の構造図。雨がしみ込み、断層から湧き出る水を田に引いた
    佐渡国小木民俗博物館の展示パネルと現地の解説板をもとに編集部作成

(2018年11月17日取材)

宿根木の海に浮かぶ昔ながらの「たらい舟」

3年前から宿根木で「たらい舟体験」を始めた金子啓次さん。杉と竹でたらい舟を自作する希少な職人でもある金子さんに、開業の経緯をお聞きした。

佐渡、特に宿根木を含む小木半島一帯では、桶(おけ)を半分に切ったような形のたらい舟に乗ってアワビやタコ、ワカメなどの漁がなされています。私たちは「はんぎり」と呼んでいて、起源は明治時代初期のようです。小木港のそばで生まれた60代半ばの私が中学生のころまで多く使われていましたし、乗せてもらったこともあります。桶の職人さんは各々の集落へ出向き、たらい舟を修理していたようです。

アメリカ人のダグラス・ブルックスさんによるたらい舟の展示と講習会を見て興味を抱き、2009年(平成21)に島内で行なわれた「たらい舟職人養成講座」を受講しました。ものづくりの経験は皆無。鉋の扱い方も知らないのに大工さんたちに交じって参加したので、みんなにびっくりされました。週に2回、7カ月間通ってたらい舟をなんとか1艘仕上げました。

その当時、観光会社に勤めていた私は、退職後に講師の本間勘次郎さんにたらい舟のつくり方を教わろうと思っていましたが、定年前に本間さんが亡くなります。「自分だけでできるのか」と悩みましたが、どこかに再就職するくらいなら、佐渡ならではの手づくりのたらい舟を知ってもらおうと、2016年(平成28)に「たらい舟体験」を立ち上げました。

今、たらい舟は6艘あります。すべて自作です。1艘は漁に用いたものと同じ大きさ。あとの5艘は乗り降りするときの安定感を増すため、少し大きめにつくりました。

私たちは看板を出しているわけでもない、おっさんの集団です。時代に逆行していると思いますが、たらい舟に乗ってくれた大学生たちが「自作のたらい舟なんて、逆に時代の最先端ですよ」と言ってくれました。たらい舟から見る宿根木の海の美しさに感動した人たちがSNSで発信してくれるので、3年目にもかかわらずたくさんの人たちとつながっています。

経営ははっきり言って厳しいですが、宿根木の人々が昔ながらのまちなみを残そうとがんばっているように、手づくりのたらい舟という佐渡の文化を伝えることには意義があると思っています。

  • 3年前から宿根木で「たらい舟体験」を始めた金子啓次さん

    3年前から宿根木で「たらい舟体験」を始めた金子啓次さん

  • 4本の竹で編んだタガを、木づちで打って締めていく

    4本の竹で編んだタガを、木づちで打って締めていく

  • 宿根木の海に浮かぶ昔ながらの「たらい舟」

(2018年11月14日取材)

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