機関誌『水の文化』43号
庄内の農力

藩校〈致道館〉に見る庄内人気質

明治維新前後の動乱期には、武士の誇りと藩主を大事にし、会津藩とともに幕府のために、最後まで闘った庄内藩。人智に長けて真面目で堅実、しかし、柔軟性がある — 庄内人のそうした気質は、この地を豊かに育んできた原動力に影響したかもしれません。旧庄内藩主 酒井家18代当主である酒井忠久さんに、庄内人気質のバックボーンを探っていただきました。

酒井 忠久さん

公益財団法人致道博物館代表理事、館長
酒井 忠久(さかい ただひさ)さん

1946年山形県鶴岡市に生れる。1965年山形県立鶴岡南高等学校、1969年成蹊大学政治経済学部卒業。1992年より現職。
2007年日本クリエイション大賞2007「地域文化振興賞」受賞。同年『全国藩校サミットin鶴岡』にて実行委員長。財団法人本間美術館評議員、学校法人羽黒学園羽黒高等学校理事などを歴任。2004年旧庄内藩主 酒井家18代当主。

庄内の由来

最上川と赤川を主とする堆積作用によりつくられた庄内平野には、古代に出羽柵(でわのさく/飛鳥時代末期〜奈良時代に出羽に設置された古代城柵)や出羽国府が置かれました。中世に地頭に任命された武藤氏の所領となって、大泉荘内と呼ばれたことが名前の由来ともいわれています。

最上川を介した交流はあったものの、庄内平野の東に位置する朝日山地、出羽三山が自然障壁となって、山形県内陸部とは別の地域圏を形成して、それぞれがまったく違った文化を持っています。

戦国時代には最上氏と上杉氏(豊臣方)の抗争地となり、関ヶ原の戦い後は徳川方の最上氏の支配になります。最上氏は、今の山形県の大半を領有しましたが、1622年(元和8)内紛により改易となり、藩領が山形に鳥居氏、庄内に酒井氏、最上に戸沢氏が入部するなど、分割されました。

酒井忠勝が信濃国松代藩から庄内に入封して、庄内藩(今でいう山形県鶴岡市、酒田市)が成立しました。酒井氏は臼井(千葉県)、高崎(群馬県)、高田(新潟県)、松代(長野県)と転封が多い譜代大名でしたが、庄内に入封以来、明治維新を迎えるまで転封がありませんでした。

北前船が運んだのは

庄内の豊かさは、北前船が航行するようになって、米が換金作物として価値を持ったこともあると思います。

作家の司馬遼太郎さんは、「いわば上方、江戸、東北という三つの潮目になるという珍しい場所だけに、人智の点だけでいっても、その発達がきわだっている」と書き、庄内には三つの文化があるといっています。一つは出羽三山をはじめ宗教などの東北の地元の文化。もう一つは庄内藩は徳川四天王といわれた譜代なので、江戸の文化が入ってきた。そして、北前船によってもたらされた京文化。庄内から米を載せた船が、戻りは空船でなく文化を伝える物を載せてきた、ということでしょう。

そして稲について民間の育種家が優れた品種改良を行なってきた伝統もあります。ササニシキ、コシヒカリ誕生のルーツとなった亀ノ尾という品種をつくったのも庄内です。

庄内において、農業が盛んなのは、代々農政を重視してきた庄内藩の伝統が影響していると考えられます。米が換金作物として通用することは、民間育種家が頑張るモチベーションを高めたことでしょう。

しかし、明治になって自由に取引できるようになると、庄内米は大阪堂島で〈鳥またぎ米〉(鳥も食べずに、またいで行ってしまうという意味)といわれるほど、品質が落ちてしまいました。

失墜した庄内米への評価を取り戻そうと米商会所(米穀取引所)を立ち上げようとしますがうまくいきません。それで酒井家に要請があり、菅実秀(すげさねひで)(注1)が「米は庄内の大事な基幹産業」と引き受けます。ところが見かねた本間家(北前船交易を行なった酒田の豪商)が「赤字を負担するから廃止しては」と勧めたほど、米商会所の運営はなかなか軌道に乗りませんでした。その後ようやく好転したところで、取引所だけでは片翼飛行なので倉庫事業に挑みます。酒田市内を流れる新井田川の中州(山居島)に山居(さんきょ)倉庫(注2)をつくり、事業をスタートさせました。

菅は「米の取り扱いは神に祈誓する心をもってせよ」と入庫米を厳正に審査、「嫌われて、米入荷の無いときは、ゆるゆると昼寝すればよい。自己の利のみ求めるものは決して永続きしない」と庄内米の声価を上げようと気迫あふれる言葉で励まし、審査の厳しさの反感や苦情といった空気にめげずに米質向上のために鋭意審査を厳正にしました。

山居倉庫をはじめとする庄内の人々の必死な努力によって、失墜した庄内米の評判は回復。今日のブランド力に結びついています。

  (注1)菅実秀(1830〜1903年)
庄内藩士。戊辰戦争では軍事掛に任ぜられ活躍。降伏後は戦後処理に敏腕を奮う。戊辰戦争降伏の際、西郷隆盛の礼に厚く公明正大な措置に感銘したことから、西郷に私淑。1877年(明治10)の西南戦争で賊名を受けた西郷の名誉が、1889年(明治22)に回復されると『南洲翁遺訓』を刊行した。1869年(明治2)庄内藩中老、翌年大泉藩権大参事。酒田県大参事。号は月山の異名である臥牛(がぎゅう)。
(注2)山居倉庫
建設にあたっては、中州の軟弱地盤を強固にするために、各礎石の下に長さ2間の丸太杭を打ち込み、1丈2尺の盛り土を45度傾斜の石垣で固めた。6寸厚さの壁の土蔵造り、屋根は二重で空気の流通を図って伝導熱を防ぎ、換気窓も綿密な計算のもとに配置。厚み2尺の三和土土間の上に塩を1寸厚さに敷き、湿度を吸収させ、西日を防ぐため欅を植えるなど品質管理の工夫が凝らされた。現在は、全農(農業団体)などの所有管理。

三方領地替え

1833年(天保4)、天保の大飢饉のときには、蔵を開放して一人の餓死者も出しませんでした。そういうこともあったためか、庄内藩と領民は結束が固いのです。三方領地替え(注3)の幕命には、庄内藩で領民が転封に反対する動きが起こりました。

単純に庄内藩と領民の結束が固いという話だけではなく、藩主が変わったらどうなるかという危機意識が強かったのだと思います。

当時、江戸町奉行で庄内藩の長岡藩転封阻止に尽力した矢部駿河守定謙は「酒井家でも当初3年間はなかなか治められなかったほど人智に長けている領民の気風だから、果たして川越の松平家で治まるだろうか」と懸念したといわれます。

遊佐町(ゆざまち)の荘照居成(そうしょういなり)神社には、矢部駿河守定謙が顕彰されています。矢部はこの一件などで水野忠邦に恨まれて、伊勢桑名藩預かりの身となり非業の死を遂げてしまいます。幕府にはばかって名前は出しませんが矢部の功績を称えて、荘照居成社つまり荘内を照らす、として祀りました。なお居成は稲荷であり、三方お国替えで移らず「居ること」に「成った」こともかけています。また、大山の酒井神社には三方領地替えのときに活躍した人たちを祀り、今もなお祭が行なわれていて、義を重んじる庄内人気質がうかがえます。

三方領地替えの一件で幕命が覆り、そのしっぺ返しとして、庄内藩は印旛沼掘割工事を命じられました。工事の持ち場の調査をしたいと幕府に申し入れましたが、却下されます。それで工事の安全祈願のため成田の稲荷参詣を申し出て許可が出ると、参詣に時間をかけ、合間をみて持ち場の探索調査をしています。印旛沼掘割工事は難工事でこのときには成就されませんでしたが、ここで培った治水技術は後世にも生かされています。

また、松ヶ岡開墾ではこんなエピソードもあります。10棟の蚕室に、廃城を命じられたお城の瓦を使うことになりました。「瓦の運搬は鬼次(おにつぎ/バケツリレーのような運び方)がいいだろう」という提案があって、即、城跡で実験してタイムを計っているんですね。ゴーサインが出て鶴岡から松ヶ岡まで人が並んで瓦リレーを実行するんですが、実際行なってみるとどうも効率が悪い。それで次は1日3往復運んで休みを取るという方式に切り替えました。これは『黒崎研堂日誌』に書いてあります。

ある大学の先生が「庄内では、この時代から経営学でいうPDCAサイクル(Plan:計画→ Do:実行→Check:評価→Act:改善の4段階を繰り返すことによって、生産・品質管理などの管理業務を円滑に進める手法の一つ)を行なっていた」と感心していました。

(注3)三方領地替え
1840年(天保11)に持ち上がった、松平家を川越から庄内へ、庄内の酒井を越後長岡へ、長岡の牧野忠雅を川越へという幕命。度重なる転封で莫大な借財を抱え財政が逼迫していた川越松平家が、大御所となっていた家斉(第11代将軍)に豊かな庄内転封を所望したことが発端といわれる。これに対し庄内藩領民は江戸へ出向き、本来ならば死罪に価する直訴を行なった。領民による藩主擁護の行動は前代未聞でお咎めなしに、同年に家斉と斉省(川越松平家に養子縁組した家斉の第二十一子)が死去したこともあって幕命は撤回となった。

藩校 致道館

第7代藩主 忠寄(ただより)が老中に抜擢され、江戸での出費がかさんだことから財政が逼迫し始めます。2代あとの酒井家第9代目藩主 忠徳(ただあり)が江戸から国許に戻るのに福島まで来た所で路銀が尽きてしまい、国許から金子(きんす)を送るという事態まで起こりました。

そこでまずは財政建て直しを図るということで、忠徳が財政再建策として農政に着手。その後、婉曲ではあるけれど人材育成が一番大切だ、ということで1805年(文化2)創設したのが藩校〈致道館〉です。

このときも江戸の湯島聖堂はじめ米沢藩主上杉治憲(上杉鷹山)が1776年(安永5)に創設した〈興譲館(こうじょうかん)〉や1669年(寛文9)岡山藩主池田光政によって開設された閑谷学校(しずたにがっこう)などを視察に行っています。

開校資金に充てるため、遊佐町に〈学田(がくでん)〉をつくりました。初代祭主(さいしゅ/現在の校長)の白井矢太夫の発案によるので、白井新田と呼ばれています。

徂徠学を選択

致道館の特色は、ほかの藩とは違って、徂徠学(そらいがく)(注4)を採用したことにあります。

荻生徂徠の考えが一番わかりやすいのは、赤穂浪士の討ち入り事件後の措置です。四十七士の処遇について議論があって、「武士道に則って忠孝を実践行動した」として讃辞した助命論がある中、荻生徂徠は「私論によって公論を害すればこの後天下の法はなりたたない。称賛してこの件をお咎めなしと許したら、こういう風潮が蔓延してしまう」と言って、林大学らの主張を退けました。そして、「忠孝を実践した者を盗賊同様に斬罪にすれば、この後、天下の法は成り立たない」として武士として一番名誉な切腹を申しつけるべき、と言いました。

幕府は1790年(寛政2)に朱子学を正学と定め、朱子学によって幕臣の教育と民衆の教化を行なうようにという〈寛政異学の禁〉を出しています。譜代大名である庄内藩酒井家が、異学である徂徠学を採用したというのは、並々ならぬ決意を持ってのことだったのです。

徂徠学の採用は、名家老といわれた水野元朗(みずのげんろう)と藩士の疋田進修(ひきだしんしゅう)が徂徠の元で学んだことに拠ります。水野・疋田と徂徠の書状によるやりとりは、のちに徂徠学の入門書というべき『徂徠先生答問書』として出版され、江戸で人気を博しました。当館には『徂徠先生答問書』下巻の原本が残されています。徂徠学は、その後、水野門下の加賀山寛猛(かがやまかんもう)、加賀山門下の白井矢太夫らによって学び継がれ、致道館精神の礎となりました。

致道館で行なわれた教育は、長所を伸ばすことが第一とされました。また、先生が教えすぎないようにし、自発学習を重視しました。大学院クラスになると、今でいうゼミナール形式で討論しながら学び合ったそうです。人生50年の時代に、長い人では30歳半ばまで学んだといわれています。

「自発学習」や「天性重視・個性伸長」を重んじたことが、致道館の特徴です。家格とか身分にかかわらず年4回の試験を行ない、実力のある人材が進級していきました。侍でないけれど優秀な子弟は、養子縁組などして学ばせたといいます。そうして育った人たちが、活躍していったのです。

自主的に学ぶ姿勢や長所を伸ばすことを第一とした致道館精神は、庄内人の気質に大いに影響を与えたと考えられます。

(注4)徂徠学
柳沢吉保や第8代将軍徳川吉宗への政治的助言者でもあった荻生徂徠(おぎゅう そらい 1666〜1728年)によって確立された学問体系。朱子学の古典解釈を批判し、古代中国の古典を忠実に読み解く古文辞学(明朝で提唱された復古的な文学運動)に立脚した。塾名から蘐園学派(けんえんがくは)とも称されるが、蘐園とは所在地である茅場町に因む。吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が反映され、政治と宗教道徳の分離を推し進める思想史の流れをつくったとされる。

致道館の蔵書。下級生用と上級生用の2棟の書庫があり、蔵書総数は1万1000部余りだったという。

致道館の蔵書。下級生用と上級生用の2棟の書庫があり、蔵書総数は1万1000部余りだったという。

ウワバミよりも恐ろしい

幕末になると治安維持のために、京都では会津藩が新選組を配下に、江戸では庄内藩が新徴組(しんちょうぐみ)(注5)などを配下に警護を担当しました。

「ウワバミよりもカタバミが恐ろしい」(カタバミは庄内藩酒井家の紋)と言われ、治安維持に貢献したようです。

ただ、新政府になってみたら、京都守護職だった会津藩と江戸府中取締だった庄内藩というのは目の敵。それで朝敵赦免嘆願のためにさまざまなロビー活動を行ないますが、結局は受け入れられませんでした。奥羽諸藩が戊辰戦争中に結成した奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)はそのための組織だったのですが、願いが聞き入れられなかったことから、新たに北部政権の確立を目的とした軍事同盟に変化しました。陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)、越後国(越州)の諸藩が、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡の北白川宮能久親王を盟主として担ぎ、新政府の圧力に対抗したのです。

庄内藩は非常に強く、武士道精神に則って闘いました。絶対に略奪はしない、食料を調達するときも代金を払う、「敵の捕虜や戦死者にたいしても礼儀を守り丁重に扱う事」(『約束之覚』)ということを徹底させていました。秋田県の横手では、激しい戦闘が繰り広げられたのち、庄内藩は僧侶6〜7名を呼んで敵の戦死者の法要を行なったので、引き上げる際には庄内藩に差し入れがあったそうです。こういうことも致道館精神の発露だった、と思います。

(注5)新徴組
1863年(文久3)、羽州清川志士清河八郎の建白で結成された。いったんは上京した浪士組は、幕府によって江戸に呼び戻され、清河暗殺後に、幕府によって新徴組として再結成され市中警備を命じられた。当初、若年寄支配だった新徴組は、翌年から庄内藩酒井家に一任された。大政奉還後、東北戊辰戦争の勃発とともに領地に帰る庄内藩士に従って庄内に入った新徴組は、湯田川の隼人旅館を本部とし、1868年(慶応4)部隊を再編成。庄内藩兵第4大隊に付属して矢島藩占領、椿台の戦いなどに従軍した。戊辰戦争後は正式に庄内藩士となり鶴岡、大宝寺、道形に通称〈新徴屋敷〉が与えられた。1875(明治8年)に松ヶ岡開墾が始められたときには、その一部が住宅として移築されている。

西郷隆盛との縁

戊辰戦争が終わると、庄内藩酒井家はいったん御家断絶になったのち会津若松12万石の新地を下賜、忠篤(ただずみ)は東京で謹慎させ、弟の忠宝(ただみち)に新たに家督を継がせよという命令が下りました。しかし、与えられた新地は荒廃し、庄内も戊辰戦争で疲弊していてとても移る状態でないと、若松転封容免の儀を政府に陳情。いったんは磐城平に変更の旨が伝えられますが、再度、容免の儀を政府に陳情しました。ようやく庄内復帰の命が下り、藩名は大泉藩に改称させられましたが、70万両の献金(実際は30万両の献金で、残りは免除などの処置であったといわれる)と引き替えに、転封を撤回してもらえることになりました。

1870年(明治3)9月23日、大泉藩主酒井忠宝は、新政府に兄の忠篤と藩士七十余名の西国見学を申請。しかし実際の目的は西郷隆盛の薫陶を受けることでした。一行は西国をめぐった後、11月に鹿児島に到着。まだ20歳だった忠篤は西郷に師事したいと強く願い、一兵卒として軍事調練に励み、大泉藩士たちも従いました。

西郷さんのところにはいろいろな情報が集まってきていたようで、のちに松ヶ岡開墾のときに群馬県伊勢崎市境島村の田島弥平のところへ〈清涼育〉(通風を重視した蚕の飼育法)を実習に行かせたのも、西郷さんの導きだといわれています。

松ヶ岡開墾場の意義

松ヶ岡開墾場は1872年(明治5)につくられました。鹿児島市の郊外を開墾している西郷さんも、それを勧められたようです。

よく士族授産と言われますが、そうではないのです。金禄公債(きんろくこうさい)(注6)がありましたし、開墾事業はボランティアでした。

庄内藩は戊辰戦争に敗れ、「勝てば官軍、負ければ賊軍」といわれるように国辱を受けました。当時、国辱賊名というのは武士にとって最大の恥ずべきことであったと思います。

松ヶ岡開墾で桑園開墾に着手したのは、当時花形産業になろうとしていた蚕糸業を興すことが、地域活性化を図って模範となり、国辱を濯(そそ)ぐことにつながると考えていたからです。菅実秀は、「国辱を濯ぐとは、人々志を立て道を学び、皇国のため命を抛(なげう)ち、あっぱれ武士の手本、天下の模範とならば、これこそ辱をそそげりというものなれ」と述べています。松ヶ岡農業協同組合長、松ヶ岡開墾場理事長を歴任して、松ヶ岡の歴史を集大成した『凌霜史』を著した故・武山省三さんも「松ヶ岡開墾はボランティア。士族授産では断じてない」と言っていました。

幕末に庄内藩は、江戸市中取締の命がくだされる以前に、北海道浜増毛(現・石狩市)に北方警備のため守備隊を派兵しています。

また明治維新後には、松ヶ岡開墾の実績を評価した開拓使長官黒田清隆から、庄内出身の松本十郎(注7)を通じて札幌の桑園地区、函館の大野地区の桑園開墾に派遣要請があり、松ヶ岡開墾場はそれに応じました。

最終的に札幌の桑園は160haといわれていますが、その内の70haが、旧・庄内藩士158名によって、また大野地区では67名によって8万1000坪が開墾されました。松ヶ岡で311haに及ぶ桑園を完成させた志は、北海道でも発揮されたのです。

松ヶ岡開墾場に入植した29組は担当する持ち場を決めるのに、くじ引きで順に土地を選んでいきました。当たった人は楽な所を選ぶのではなく、条件が厳しい所から選んでいったそうです。

菅実秀は漢詩に「国辱を濯がんと欲して荒城を出ず」と感慨を詠いました。志を第一とする気風は、庄内の拠り所として受け継がれてきたと思います。

(注6)金禄公債
明治政府が発行下付した、国債証券のこと。成立当初から財政的に困窮していた明治政府は、米高によって支給していたそれまでの禄制を廃して、5年据え置きののち30年以内に償還すると定めた金禄公債を、廃藩置県で還禄した華士族以下に、その代償として交付し、額面100円未満は7分、1000円以上は5分の利子とした。1875年(明治8)9月に発行され、1890年(明治23)にすべての公債の償還を完了。金禄は、各地方3年の平均相場に換算した額。
(注7)松本十郎(1840〜1916年)
北海道の開拓使大判官。鶴岡で近習頭取の家に生まれた。戊辰戦争での敗北を受け、藩主と庄内藩に対する恩赦を黒田清隆に嘆願するため、京都に赴く。また北海道での勤務ではアイヌ民族を擁護、アイヌの民俗衣装であるアツシを着ていたことから「アツシ判官」と称されて敬意を払われ、北海道根室市にはその名を冠した松本町がある。

  • 松ヶ岡開墾場の瓦葺き三階建ての大蚕室。

    松ヶ岡開墾場の瓦葺き三階建ての大蚕室。10棟の内、5棟が現存する。屋根には1875年(明治8)に取り壊された鶴岡城の瓦が使われた。

  • 1階床の埋薪(まいしん)。

    1階床の埋薪(まいしん)。床下の炉に生木を敷き詰めて上から灰汁をかけ、その上に炭火を置いて生木が徐々に燃えることによって長時間の暖房効果を得る仕組み。これにより、蚕期1サイクル中、燃料を補充しないで床暖房ができた。松ヶ岡では、稚蚕(1齢から3齢まで)期に埋薪を利用し、その後は自然の温度で蚕を飼育する清涼育を組み合わせることで、飼育期間を短縮した。

  • 蚕糸業は新時代の花形産業として、大いに期待された。

    蚕糸業は新時代の花形産業として、大いに期待された。

  • 松ヶ岡開墾場の瓦葺き三階建ての大蚕室。
  • 1階床の埋薪(まいしん)。
  • 蚕糸業は新時代の花形産業として、大いに期待された。


(取材:2012年9月12日)

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