機関誌『水の文化』76号
そばと水

そばと水
【江戸そば文化】
江戸から各地に広まったそば文化

各地のそばを取材していると、東京を中心とする「江戸そば」の影響や違いを感じた。日本のそばを語るには「江戸」がカギとなる。「江戸ソバリエ」としてそば文化の普及に努めるほしひかるさんに、江戸のそばが与えた影響や明治期以降の変遷をお聞きした。

岩手県葛巻町「森のそば屋」で粉2kgのそばを延す女性の手。母親の打ち方を見て育ったという

岩手県葛巻町「森のそば屋」で粉2kgのそばを延す女性の手。母親の打ち方を見て育ったという

ほし ひかるさん

インタビュー
特定非営利活動法人 江戸ソバリエ協会 理事長 
エッセイスト
ほし ひかるさん

1944年佐賀県生まれ。2003年、仲間とともに江戸ソバリエ認定事業実行委員会を立ち上げる。出版活動や講演などを通じてそばの歴史や素材の知識などを伝える。令和5年度「食生活文化賞」(食生活文化啓発部門)受賞。『新・みんなの蕎麦文化入門』など著書多数

お金を払って食す「江戸そば」

江戸のそばを語る前に、大まかな流れを押さえておきましょう。

そばは、そもそも麵ではなく、粒のまま煮炊きしてかゆや雑炊などで食す「粒食(りゅうしょく)」でした。それが「粉食(ふんしょく)」となったのは鎌倉時代。円爾(えんに)という臨済宗聖一派の祖となる僧が、水車で動く石臼を用いて茶葉などを製粉する「水磨様(すいまよう)」の設計図を宋(中国)から持ち帰っていますので、おそらくこの頃からソバの実を粉にして、そばがきなどを食べるようになったのでしょう。

今のようにそばを細く切って食す「そば切り」は1500年代までには寺社の振る舞い料理として始まっていたようです。この時代のそばを「寺方(てらかた)そば」と呼んでいます。1603年(慶長8)に江戸幕府が開かれると世の中は次第に落ち着き、貨幣でものやサービスを購入する商品経済が本格化します。そばもそれに組みこまれ江戸市中に多くのそば店ができます。人口100万人の江戸にそば店が約3000軒あったそうです。

そばがお金を払って食べるものになったことで、店同士が競い合います。おいしいそばには職人の腕が大事ですが、文字が読めない人が多いので数字で伝えました。「一鉢、二延し、三包丁」はそば打ちで重要な作業の順序を、「蕎麦の三返り」は湯のなかでそばが3回踊ったら引き上げることを、「一斗一升一貫、四百匁目」(注)は濃口しょうゆ、みりん、砂糖、かつおぶしの目安となる量を示しています。江戸のそば職人はこれを守りながらそばを打ち、つゆをつくりました。

お金を払って食べる江戸のそばを「江戸そば」、それ以外の地域で食されるそばを「郷土そば」とすると、郷土そばは家庭を中心に食べるものでした。それが参勤交代、あるいは地方に買い付けで出向いた江戸の商人を通じて江戸そばが知られるようになり、郷土そばも変わっていったのです。

例えば「ざるそば」。これが生まれたのは江戸です。そばの香りを楽しむにはかけそばのようにつゆに浸すよりも、手繰ったそばの3分の1くらいをつゆに付け、しかもすすることで鼻腔から匂いが感じられる。ざるそばは郷土そばにはない食べ方でした。江戸そばが徐々に広まり、また商品経済が地方にも浸透していくうちに各地にそば店が出て、お金を払ってそばを食べるように変化します。

(注)一斗一升一貫、四百匁目
濃口しょうゆ18L、みりん1.8L、砂糖3.75㎏、かつおぶし1.5㎏という目安を示す。あとは店の味で微調整する。

静岡市出身で「静岡茶の祖」と呼ばれる円爾(聖一国師)が宋の国から持ち帰った巻物「大宋諸山図」の巻末に描かれていた二階建ての水車の図を元につくられた「水磨様」の木製模型 提供:静岡市

静岡市出身で「静岡茶の祖」と呼ばれる円爾(聖一国師)が宋の国から持ち帰った巻物「大宋諸山図」の巻末に描かれていた二階建ての水車の図を元につくられた「水磨様」の木製模型 
提供:静岡市

機械打ちで大衆化

江戸中期の食通、日新舎友蕎子(にっしんしゃ ゆうきょうし)が書いた『蕎麦全書』によると、そばの高級店は日本橋周辺にたくさんあったそうです。霊岸島はざるそば発祥の地ですし、「鴨南(かもなん)(鴨南蛮)も茅場町付近で生まれたもの。真っ白な「更科(さらしな)そば」も江戸独自のそば文化です。さらに更科そばができたことで色鮮やかな「変わりそば(色物)」が生まれます。

当初、江戸そばはつなぎを用いない十割そば(生蕎麦(きそば))でしたが、小麦粉をつなぎとする「二八(にはち)そば」が登場します。十割そばに比べて麺が切れにくく、すすりやすいため人気を博します。ところが、二八ぐらいまでならよかったものの、割合が逆転していくとそばの風味が損なわれ、「駄そば」などと呼ばれるものも出てきたのが江戸末期から明治初期です。

明治時代になると不衛生という理由で屋台が禁止されます。同時期に登場したのが機械打ちのそば。真崎照郷(てるさと)が製麺機を発明し、そば店は一斉に手打ちから機械打ちに切り替えました。身近で手軽になっていたそばは、機械打ちによって大衆化していきます。そしてそばのみならず、カレーライスや丼もの、とんかつなども提供するようになり、そば店は勤め人たちの食堂的な役割を果たすようになりました。

ところが、この状況を「蕎麦はなぜ昔に還らぬか」と憂える人がいました。『蕎麦通』を著した藪忠(やぶちゅう)の村瀬忠太郎です。幕末に生まれた村瀬は手打ちそばにこだわり、昭和初期に「名人やぶ忠」と称されます。村瀬のもとで一時期修業したのが一茶庵の創業者で1972年(昭和47)に「日本そば大学」を開き、そば打ち指導に貢献した片倉康雄。片倉の指導を受けた一人に達磨(だるま)そばの高橋邦弘がいます。その高橋、さらに「竹やぶ」の阿部孝雄らが「ニューウェーブの旗手」と呼ばれ、江戸そばの老舗も手打ちに切り替えました。今はニューウェーブの子ども世代が「第四世代」と言われ活躍しています。イタリア発のスローフード運動に影響を受け、畑でソバを栽培し、そば以外の料理にもこだわる層です。

江戸そばは、生蕎麦から二八そばへ、そして機械打ちそばを経て、手挽き・手打ちの道へ回帰したと言ってよいでしょう。

  • 「生蕎麦(きそば)」ののれん。右の生は「純粋」の意味。真ん中は中国史の「楚」を崩した変体がな。左は「は」を表す「者」に濁点を振ったもの。つなぎを用いない十割そばを供する高級店がのれんや看板に記すものだった 提供:ほしひかるさん

    「生蕎麦(きそば)」ののれん。右の生は「純粋」の意味。真ん中は中国史の「楚」を崩した変体がな。左は「は」を表す「者」に濁点を振ったもの。つなぎを用いない十割そばを供する高級店がのれんや看板に記すものだった 提供:ほしひかるさん

  • 製麺機の発明で知られる真崎照郷の記念碑。1883年(明治16)頃に製麺機と製麺法を完成させ、機械製麺という新分野を開拓した 提供:ほしひかるさん

    製麺機の発明で知られる真崎照郷の記念碑。1883年(明治16)頃に製麺機と製麺法を完成させ、機械製麺という新分野を開拓した 提供:ほしひかるさん

水と粉と人が戯れて生まれるそば

江戸から広まったそばの歴史を駆け足でお話ししましたが、難しいことを抜きにしてそばは楽しいものです。実際にそばを打つ「手学」、各地のそばを食べ歩く「舌学」、知識やうんちくを学んで自分なりに考える「脳学」という三方向から、楽しみながらそばにアプローチすることをお勧めします。

江戸そばと郷土そばを比較する楽しさもあります。郷土そばは「歴史遺産型」と「地産地消型」に大別できます。例えば、青森県津軽地方の「津軽そば」はつなぎに大豆を用いますが、これは津軽藩が参勤交代で江戸から持ち帰った名残とされています。かつて江戸では大豆をすりつぶした呉(ご)をつなぎに用いていた時期があり、それが津軽地方で今も生きている。これが歴史遺産型です。

地産地消型の例を一つ挙げると、オヤマボクチという山菜をつなぎに用いた長野県北信地方の「ぼくちそば」。オヤマボクチには風味がないので、そば本来の味を邪魔せず、そばも切れにくい。地域特有の食材が活かされたすばらしいそば文化が各地にあるのです。

そして忘れてはならないのは、そばは水がなければ成立しないということです。取材でそば打ちを体験されたそうですが、そばは水と粉と人が戯れて生まれるものです。「水回し」はもちろん、ゆでるときは鍋をコンロの中央から少しずらして湯を対流させ、そばを回らせます。すくい上げたそばを洗うときも、手で水を受けてやさしくかける「つら水」、ざるのなかで泳がせるようにする「洗い水」、最後は化粧水のように水をさらす「さらし水」とそれぞれ名がついているところに、そばと水の深い関係が表れていると思います。

日本には資源がないとよく聞きますが、きれいな水がたくさんあるからこそ、そばという食文化が脈々と続いている。そのことを忘れないようにしたいものです。

(2024年1月5日取材)

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