石川県能登地方に最大震度7の地震が起きたのが2024年(令和6)1月1日。追い打ちをかけるかのように同年9月下旬には豪雨による災害が発生(令和6年奥能登豪雨)。そのたびに道路が寸断され、断水となり、集落は孤立しました。しかし、珠洲市(すずし)馬緤町(まつなぎまち)には、みんなで水を引いて生活していた自主避難所があります。復旧と復興に取り組む馬緤町を訪ね、水を確保した経緯やその経験から得たことなどをお聞きしました。
珠洲市自然休養村センターの玄関前に設置した水場。当初は手前の農業用パイプだけだったが、その後に水道蛇口も自前で設置。
人物は奥が坂秀幸さんで、手前が狩野英明さん。
狩野さんは馬緤町出身で神奈川県に住んでいたが帰省中に被災。今は屋根修繕を行ないながらほぼ馬緤で暮らす
一見すると、どこにでもある簡易な水道。その脇にある大きなたらいは満々と水をたたえ、上部に固定された農業用パイプからはとめどなく水が流れ出ている。
これは2024年元日の能登半島地震発生後、珠洲市(すずし)馬緤町(まつなぎまち)の自主避難所「珠洲市自然休養村(きゅうようそん)センター(以下、センター)」の玄関前に設置されたもの。孤立し、断水状態だった人びとの生活を支えた水だ。
水の出ているパイプをたどると、市道から畑のなかを通り、とある民家の敷地の池へと続き、地中から突き出た管につながっていた。
「水源はもっと山のなかです。そこに地すべり対策として水抜きのためのライナープレート(注1)があり、溜まった水をこの池に排水しています。震災で役立つとは想像もしていませんでした。水のありがたさをしみじみ感じた」と話すのは、家主の南博之さんだ。
馬緤町は急峻な山々に囲まれた地域で昔から地すべりが多く、役所がライナープレートを設置したのが45年ほど前。排出された地下水は主に農業用水になるが、南さんが子どもの頃は、生活用水にも使われていた。
(注1)ライナープレート
深さのある縦井戸形状の集水井で、地すべりの原因となる地下水を抜き、地盤の安定を図るために設置。井戸内に集められた地下水は排水ボーリングを通じて地すべり地の外に排出される。
地震の後、馬緤町は10日間孤立し、断水が約5カ月間続いた。防災士の資格をもち、自主避難所の開設と運営にあたった一人、國永英代さんは振り返る。
「震災直後からライフラインが寸断され、いちばんの問題は水の確保でした。みんなでセンターで話し合っていたとき、南さんが『うちの水を使おう』と提案してくれました。それから男性陣で水汲み当番を決め、汲んだ水を軽トラに積んでセンターまで運び、煮沸して飲み水や生活用水にしたのです。一日に何往復もしました」
その後、水汲みの手間と労力を減らすため、農業用パイプを用いて水を引き入れる案が出た。南さん宅の水源からセンターまでの最短距離は270m。土嚢(どのう)袋に砂浜の砂を詰めてパイプを固定させ、部分的には角材で補強し、男性陣が一日がかりで作業して通水させた。農業用パイプや角材は、ボランティアと住民が協力して持ち寄った。中心となって作業したのが避難所リーダーの小(こ) 秀一さんだ。
水を農業用パイプで引き入れて、大きく変わったのがお風呂の水汲み。実は「お風呂作戦」と題して小さんたちが入浴方法を模索しているのを知った長野県からのボランティア、酒井洋さんが、パイプで通水する2日前に薪ボイラー風呂を設置してくれた。温かい湯に浸かれるのはうれしいが、男性が3人がかりで湯船まで水を運ぶのは重労働だった。「人力で水を運ばなくてよくなったので楽になりました」と國永さんは言う。
この薪ボイラー風呂は、今も現役だ。「お湯の温度を熱くしておけば利用者が水(地下水)をどんどん入れるので、お湯があふれて結果的にきれいなお湯になるんですよ」と珠洲市の技術系職員だった坂 秀幸さんが教えてくれた。
國永さんに、センターのなかを案内してもらった。すでに避難所としての役割は終えているが、今はボランティアや地元住民の復興活動の拠点になっている。
食堂のテーブルの上にはとれたてのサザエやワカメが用意され、なんと私たちに振る舞ってくれた。この翌日も撮影のために再訪したところ、サザエの炊き込みごはんを用意して待っていてくれた。
震災当日は元日だったため、大津波警報が解除されると、家庭で準備していたお節料理や餅など、たくさんの食べものを各自が持ち込みセンターに避難した。畑の野菜や山のしいたけ、地震で隆起した目の前の岩場でサザエやナマコ、アワビなどを獲ってきて調理した。
「全国から多くのボランティアの方が来てくれました。私たちはとにかく馬緤のおいしいものを食べてもらおうと、海や山の恵みをお礼にしていたんです」と國永さんは言う。
また、生活に必要な電気は祭り用の電球や農家が所有する発電機を使用し、坂さんたちが設置。調理や掃除などは毎日のミーティングで当番を決め、分担した。それぞれが得意なことを活かし、日常をなんとか取り戻そうとしていった。
地震の前年に、担い手不足で惜しまれつつ幕を下ろした馬緤町の伝統行事「砂取節(すなとりぶし)まつり」も、地元の人びとが再び集まるきっかけになればと一度限りで復活した。
地下水はその間も人びとの生活を支えつづけた。自宅に避難していた人たちも車にポリタンクを積み、センターまで水汲みに来ていたという。
ところが、元日の地震に続き9月に発生した奥能登豪雨で、馬緤町は二度目の孤立を強いられる。震災直後からの断水は6月以降解除されていたが、再び断水に。
一方、地下水を引いた農業用パイプはというと、土砂災害で繋ぎ目が外れて一時的に断水したものの、すぐに繋ぎ直して元通りになった。結果的に、この二度目の災害時においても馬緤町の人びとは水に不自由することがなかった。
馬緤町に上水道を給水する浄水場からの水は、今後も大雨や土砂災害の度に断水することが懸念される。しかし、地下水は震災以降安定して供給できている。
坂さんが地下水の量を計測したところ1分間に29L、1日で41トンもの湧水量を誇ることがわかった。国土交通省の白書によると、1日1人当たりの水の平均使用量は約300L。馬緤町の人口は50人(2024年10月時点)であることから、1日の使用量の合計は1万5000L。つまり、1日15トンあれば馬緤町で使用する水は十分で、26トンも捨てていることになるのは、もったいない。そこで國永さんたちは、この馬緤の水源を活かし、災害に強いまちづくりができないかと考えた。
「安全確認のため水質検査にも出したところ、飲料水としての基準値もクリアしていました。捨てている地下水を近隣区域に安定供給できれば、いざというときに既存の浄水施設だけに頼らない、強い水道網を構築できるはず」と坂さんは語る。
馬緤町では、この分散型水道システム(注2)の導入例を「馬緤 水プロジェクト」として上申書にまとめ、国に提案を行なっている。
(注2)分散型水道システム
大規模な浄水場から各家庭に水を供給する従来の水道システムとは異なり、小規模な水源を各拠点に分散配置するシステムのこと。
「災害時、水さえあれば最低限の生活は保障されます。馬緤町の経験から少しでもそのことをお伝えできればと思い、取材を受けることにしました」と話すのは、震災時に自主避難所の渉外役を務め、2024年4月から馬緤町の区長になった吉國國彦さんだ。吉國さんは珠洲市中心部にあるデイサービス施設「すまいる珠洲」の運営や、地元密着の弁当店「さきちゃん弁当」の経営なども行なう。
震災後、ライフラインのストップで「すまいる珠洲」も営業できない状態が続いた。利用者の大半が要介護者の入浴サービスを利用していたことから、吉國さんは一刻も早く再開しようと鑿井(さくせい)会社に依頼し、敷地内に井戸を掘った。しかしいざ使おうとすると、その水からはレジオネラ菌が検出され、使うことはできなかった。
また、市役所の要請で避難所に弁当を配るため「さきちゃん弁当」を再開しようと、1トンのタンクに給水車で水を入れてもらった。これを水道管につなごうとしたところ、既設の水道に臨時とはいえ別の水(給水車の水)が混ざることは法律違反であると指摘された。
このようなことから、いざというときの飲料水や衛生面確保のためにも、簡易的な水源を拠点ごとに備えておくことの重要性を吉國さんは訴える。
「南海トラフ巨大地震など大規模災害の際には、全国からキッチンカーを呼んで炊き出しをする計画があるそうですが、水はどうするのでしょうか。そして、今後また甚大な災害が起きたときに都市部からの人びとを受け入れるのは、私たちが住むような地方都市です。そこに万が一の備えとしてきれいな水が出る水源を確保しつつ、その水を活かした分散型の水道システムへ投資することは、日本という国にとって決してマイナスにはならないはずです」
今回馬緤町を訪れて、災害時の水の大切さがあらためて身に染みた。備え以上のことはできないからこそ、こうした情報を共有し、活かさなければと強く感じた。
(2025年5月25~26日取材)