高知工科大学教授
村上 雅博 (むらかみ まさひろ)さん
1948年生。秋田大学大学院鉱山学研究科修了。日本工営(株)海外事業部コンサルティング・エンジニア、国連大学コンサルタント、世界銀行コンサルタントを経て現職。 主な著書に『水の世紀』(日本経済評論社、2003)他。
世界中を見回して、水に困る地域、つまり「一人当たり得られる水量が少ない所」とは、どんな場所だと思いますか?
すぐに思いつくのは、沙漠ですね。しかしもう一つ、飲める水がなかなか手に入らない場所があります。それはどこでしょう。
その答えは「小さな島」です。
面積が狭いですから、降った雨が地下に浸透する前にすぐに海に流れ出てしまう。しかも地下水には、海水が混じります。おまけに地形的に山が少ないので、ダムもつくれません。そういう意味で、小さな島は水に苦労しています。
ただし、例外もあります。ハワイや屋久島には高い山があり、海からの水蒸気が山をかけ上がり雨滴になって山に落ちます。地面は火山岩ですから透水性がよく、雨は地下にすぐしみこんでしまうので、川と呼べるような流れはありませんが、地下水が豊かなのです。
シンガポールは、日本の1.5倍も降水量があるのに、水が無くて困っている。つまり、「島の大変さ」の典型なんですね。
人口約400万人のシンガポールでは、一人当たりが得られる水資源の量(水資源賦存量)が、世界で下から数えて4番目です(2000年度)。最下位が、ジブチで14立方メートル/年/人。次がヨルダン207立方メートル、イエメン287立方メートルと続きます。そしてシンガポールが346立方メートルで4番目です。
シンガポールには高い山はないし、地下水も期待できないため、水は隣接するマレーシアのジョホール州に頼っています。私は20年ほど前に、マレーシアの全国水資源マスタープラン策定の仕事をしていました。3年間の滞在後に、この「島の大変さ」を大いに実感しました。
2002年にマレーシアが、シンガポールへの水の値段を100倍に上げることを要求したことも、この「島の大変さ」の一つの表れです。倍にする程度ならわかるけれど、さすがに100倍には驚きました。
両国間の水供給協定は1961年に結ばれ、50年後の2011年に協定が失効します。それを前にした値上げ要求でした。値段が100倍に上がっても、他にオプションが無いのですから、シンガポールとしては受けざるを得ません。
マレーシアの降水量は年間約2400mm。これは世界の降水量平均である970mmの倍以上で、豊かな水資源を国の発展にどう活かすかを政府は考えており、シンガポールへの水供給はその手段の一つです。マレーシアは石油産出国でもありますが、水資源も大きな財産です。水は資源としてのプライオリティも高いのです。
一方、シンガポールとしては100倍の値上げを通告されたときに意を決したんでしょうね。マレーシアから水を買う以外のオプションに取り組み始めたのです。つまり、100倍の値上げをのんだのと同時に、国内で開始したのが海水淡水化事業です。
一般に、水資源の絶対量が枯渇する国の水資源計画は、非伝統的な(non-conventional)な水資源に頼るしかありません。伝統的水資源とは、表流水と地下水を指します。つまり、ダムか河川か井戸で得られる淡水です。
非伝統的な水資源と定義しているのは、それ以外の淡水のことで、まずは海水淡水化や汽水淡水化が考えられます。汽水は海水に比べるとコストは半分で済みますからね。次は、下水の再利用です。下水を処理して再利用できる程度にします。逆浸透膜を使えば、これを飲む飲まないという感性は別として、技術的には飲料も可能です。
シンガポールは、海水淡水化事業に取り組むともに、下水再利用水も製造しました。これが「ニューウォーター」です。
海水淡水化、下水再利用ともに、技術とお金がないと実現不可能な事業ですから、シンガポールだから可能だったということができます。水の製造コストを見ると、海水淡水化と下水再利用水は1立方メートル当たり約50セントかかりますが、一方、水道が100倍の値段になっても水道水は40セントでしかありません。どちらも値上がり後の水道よりもコストがかかるのです。それでも安全保障の観点から、国としては水を確保しておきたいという判断なのです。
シンガポールがこうした苦境を逃れる道を、他に持っているかといえば、まぁ、これは夢のような話ですが、想像上のお話なら無いこともないと思います。
シンガポールはマラッカ海峡の要衝にあり、日本にやって来るタンカーは必ずここを通ります。それならば日本に来たタンカーが、石油を降ろした後で淡水を積んで、シンガポールや中東に運んでくるというビジネスがあってもいいのかもしれません。輸送代はタダだから、おそらくペイはするでしょう。
ところがここで問題があります。日本の水利権は、すべて国に属しています。日本の川の水はすべて公水ですから、他国に持ち出して商売することは、簡単にはいきません。水の商いには、水の財産権を規定する法律の解釈もも重要なのです。
今の話は想像上のお話ですが、地中海に浮かぶキプロス島では淡水の運搬事業が実際に行なわれています。島の対岸のトルコは、石灰岩質の地盤で降水量も比較的に多く、地下水や湧水が豊富です。その水を大きなプラスチックバッグに詰めて、キプロス島へ船で曳航(えいこう)しています。距離にすると100kmぐらいですが、パイプラインで結んでもタンカーのような船に積み込んでも高くつくから、プラスチックの袋に入れてひっぱっていきます。
これは、安いワインに使われるプラスチックバッグを大きくしたようなものです。しかし始めてみてわかったことは、エーゲ海は雨が少なくて晴天が多い。太陽光線が長時間当たるため、紫外線の影響でプラスチックの表面がすぐに劣化してしまうのだそうです。今は耐紫外線対策を施したプラスチックバッグを使っています。
プラスチックバッグの水は1立方メートル約30〜40セント、浄水しなければ20セントで済み、パイプラインを引くことと比べると三分の一以下のコストしかかかりません。
しかし、こうした水も沙漠に持っていくと、最終販売価格が1立方メートル1ドル程度になるわけですから、事業としてはペイするわけです。
1980年代後半、トルコはジェイハン川とセイハン川の水が余っているというので、その水をパイプラインで引いてアラブ諸国に提供しようとしました。水1立方メートルで1〜2ドルになりますから、とても高いものにつきます。それでもトルコとしては、昔日のオスマントルコの領土に水を配り、政治的な支配を拡げるための戦略的な交渉手段として、水を使おうとしました。言うことを聞かなければ、「水を止めるぞ」と脅すことができます。まるでシンガポールに対するマレーシアのようにね。
そんなことは、トルコから打診を受けたアラブ諸国も承知していました。水が不足している土地では、誰かから一度でも水を買ってしまうと、その国に頼ることになってしまいます。水の値段も、初めはおそらく安いでしょう。しかし、だんだん値段が吊上げられることは目に見えています。
そして政治的に関係が悪化すれば、水を止められてしまう可能性もあります。「水は喉から手が出るほど欲しいし、供給は技術的・経済的にも実現可能だけれど、政治的にみて、水の安全保障という観点からはお断りします」という結果になりました。
こうしてトルコからアラブ諸国への水供給プロジェクトは凍結してしまいました。このプロジェクトにトルコがつけた名前が「ピース(平和)・パイプライン」というから、皮肉な話です。
私のような技術屋は、技術がよければ世界は動くと思っています。ビジネスマンなら、経済的な実現可能性や環境への配慮がうまくいけば大丈夫だと思うはずです。しかし、この2つをクリアしても、政治的な理由で動かないことがたくさんあるということを、このピース・パイプラインの問題は表しています。
トルコ外務省は、こうした経験も踏まえ「中東でこれから紛争が起こるとしたら水が原因で起きる」と国際的な発言をしています。そして「トルコは紛争を未然に防ぎます」といい、紛争を未然に防ぐ戦略的手段として、水を利用しようと考えています。つまり、水は政治的にみてもパワーの源なんです。
ピース・パイプラインといっても、トルコには自国の公水を他の国に持ち出すという発想がありません。水を提供しようとしたアラブ諸国は、トルコにとってはかつてのオスマントルコ領内であって、外国ではなく同胞という意識なのです。
それはキプロス島の水運搬でも同様です。キプロス島はギリシャ系とトルコ系と、南北に分かれていますが、トルコから水が運ばれているのは、トルコ系側だけです。ギリシャ系が支配している地域は、海水淡水化事業を選択しています。ですから、キプロス島のギリシャ系における水のコストは、トルコ系の倍ぐらい高くなっています。
シンガポールは、先進国の中で水に困っている唯一の国、と言ってもいいでしょう。お金があるから、選択肢を増やすことができます。しかし、お金のない国はどうしたらよいのでしょうか。厳しい現実ですが、オプションはないですね。安くて安全な水が得られない、ということです。
降雨量が多い地域では天水に頼れますが、天水にも問題があります。それは、自然現象なだけに、安定して降るとは限らないからです。モンスーン地帯では2000mm近くも雨が降り、世界平均の倍以上の降雨量があっても、雨期と乾期があって乾期には水が足りなくなります。しかも、今後は地球温暖化の影響で降り方が一層不安定になると考えられています。
またアジアの多くの地域では、居住地の近くに水たまりや川があります。ただし、水道を整備するおカネがない。すると住民はどういう心理になるかというと、水汲みの辛さも手伝って、家の近くにある安全でない水を飲んでしまいます。乾期になって川に水が流れてこなくなると、今度は水たまりの水を飲みます。見た目はきれいな水たまりなんですよ。でも、そこにはマラリアもいれば、害虫もいる。マラリアは濁った水には棲みませんからね。
こうした国では、ダムもないし、貯水池も井戸もありません。だから水は「ただ」です。でも、安全ではない。そして、それを飲むことでしか生きていく道がないという現状が、一方にはあるわけです。
今、地球上の12億人が安全な水を飲めないと言われています。その内の9割以上は途上国で、貧しい国の人ほど安全な水が飲めません。サブサハラアフリカ(エチオピアなどアフリカ大陸中央以南の地域)やアジアの貧困国は、世界の降水量の2〜3倍も雨が降るのに、安全な水、つまり、病気にならない水の普及率は極めて低いのです。中東のように高い水を買う財力があれば、雨が降らなくても地下水がなくても安全な水が供給できます。つまり、安全な水を手に入れるということは、降水量とは関係がない場合が多いということです。これを「水貧困問題」と呼んでいます。
また、紛争地帯では安全な水が手に入らない、という問題もあります。紛争地帯の給水率を調べると、紛争後に約十分の一に落ちています。なぜなら戦争状態になると、敵はインフラを破壊、橋を壊し、発電所、そして浄水場を占拠するからです。浄水場はたとえ施設を破壊しなくても、占拠さえすれば人心をコントロールできます。毒を入れられるかもしれない、という示威だけで、占領地域の住民はみんな水道の水を飲まなくなります。そしてそれが、安全でない水に手を出すことにつながるのです。現在、こうした部族紛争、民族紛争地帯が、サブサハラアフリカに固まっていて、新たな貧困を生み出しています。
あるとき紛争地域を地図上にプロットしていったら、見事に水に困っているところと一致したのです。それらの国は主にイスラム教国で、そうでない場合はほぼ例外なくユダヤ教、キリスト教など一神教の国です。よく考えてみればわかることですが、一神教というのは、水が不足した半乾燥地帯で、生きることに厳しい場所で育まれた宗教なのですから、そうした場所に紛争が起きるということはごく自然のことかもしれません。
また、地球規模で温暖化が進んでいる、と問題になっていますが、実は強乾燥地と呼ばれる年間降雨量が100mm以下の地域では、これ以上雨が減ることはありません。影響を受けるのは、250mmから500mm程度の半乾燥地と呼ばれる地域です。これは温暖化の影響で海水温度が上昇し、海から離れた所に降る雨の量が減るからです。世界の平均は900mmで、1800mm降る日本のような地域では、降水量が逆に増えると予測されています。
地球全体としては1割増と試算されていますから、半乾燥地で雨が減り、地域偏差が一層拡大するということになります。
途上国の中には、年間降水量が多く、水が豊富にあるために、かえって安全な水が手に入らないという矛盾を抱えた地域もあるということに注意が必要です。
そういう地域では、やはり水道が必要となりますから、日本などが援助して井戸や水道を整備することがあります。良かれと思って援助したのに、水道をつくってもらえなかった水の足りない所に住む人々は「何であそこだけで、ここは整備されないのだ。日本は冷たい」と反感を持つこともあり得ます。さらに水道を整備するための援助をしても、その後の維持管理、浄水コストは自国持ちです。水道の水はただではなく、コストがかかった水なのです。
私が関わっている国の一つに、セネガルがあります。セネガルは主にイスラム系の人々が住む国で、砂漠地帯にあります。30年程前から、日本政府の支援でボーリング機械を持ち込み井戸を掘りました。降水量が500mm程度あって、安全な地下水を得ることは可能です。
地下水も手で掘れる程度の浅井戸だと、水質が悪く、しかも乾期には涸れてしまいます。そこで機械堀で100〜200m掘ることになりました。これなら涸れないし、寄生虫などが混じる心配もまずありえない。コスト的にも安くすむし、もっとも安全な水が手に入る方法なんですね。
日本政府もメンテナンスまで含んだ維持管理が現地で行なえるようにと考えて、日本から機械と技術者を送り込み、現地の人を5〜10年かけて指導しました。現地の人々自身が井戸を掘れるようにと、プロジェクトが終わったときには機械を全部置いてきました。
そもそも水汲み労働は、女性と子供の仕事です。ですから、井戸ができれば水が確保されるだけでなく、1日平均6時間の重労働が無くなる女性と子供が恩恵を受けることになります。
こうした理由からも井戸掘りに対する住民のニーズは高かったので、技術を身につけた地元の人々は、自分たちで公団をつくり次に商売を始めて、どんどん井戸を掘り始めました。もう日本が井戸を掘ってあげる必要がなくなったのです。
ここまでなら、セネガルに最低限の技術は行き渡り、おまけに現地の人々は自立して、ビジネスにまで発展していて、こんないい話はないわけです。
しかし、物事はそううまくは運ばなかったのです。井戸を掘ってから10年〜20年経過した後、何千本も掘った井戸の半分以上がまともに稼働していませんでした。なぜなら、揚水ポンプが故障しても、それを直すことが彼らにはできなかったからなんです。
井戸を掘ってから5年〜10年もたてば、ヒューズも飛ぶでしょう。故障の原因がヒューズが飛んだことだ、ということも現地の人にはわからないのです。
掘った井戸の維持管理は、援助される側の国が自分で行なうとされていますが、実際にはまともにはできません。「井戸を掘る」という当初の援助目的は果たされたけれど、揚水ポンプのヒューズが飛んだり部品がないだけで、使えなくなって放置されている井戸がたくさんあるのです。
ビジネスで井戸掘りを始めた現地の会社も、メンテナンスをしようとは思いません。ヒューズ1つ替えるのに、たった数十円しかかかりません。メンテナンスをしても、利益にならないからです。
仮にポンプの部品をヨーロッパや日本から取り寄せたとしても、待っているうちに半年かかってしまいます。その間に、主婦や子供は、片道1時間、往復2時間を3往復するもとの水汲みの生活に戻ってしまいます。
この段階に至って初めて、自分たちで人材養成しないとどうしようもないと気がつくわけです。そこに至るのに10年かかりました。そして、日本政府が人材育成こそ海外援助に一番必要なことだ、と気づいて動き始めたのはそれからまた10年かかりました。セネガルには、2000年から新しいスタイルの援助が始められています。
「ただの水を、コストをかけて安全にする」
という矛盾をはらんだ問題を、このセネガルの話は端的に表しています。
井戸を掘って出てくる地下水は、ただなのです。ただし、住民が使うためにはポンプで揚水しなくてはなりません。電力も必要になります。安全な水を得るためには、維持管理費が必要になるのです。維持管理費を政府補填したら、いつまでたっても政府に頼り切りになる。利用する自分たちが負担して、自立しなくてはいけないのです。
そこで得られた時間で、主婦は子供のケアや内職をしたり、畑をつくったりすることができるようになって、村落社会が豊かになります。
社会を豊かにするためには、安全な水を手に入れるための維持管理費を、日頃から水道料金として住民が自ら組織的に徴収しないといけないのです。ここで初めて「水はただではない」という意識が生まれるわけです。
「ただの文化」を、「ただではない文化」に置き換えていく。これは、実は水道技術の話ではなく、文化の話なんです。
そのような点から考えると、井戸を掘った10年後、故障したときに、このことに気がついてくれるかがポイントなんですね。
「また、水汲みの重労働をしなくてはならない。あれをもう一度やるぐらいなら、水道料金を集めましょう」と、ポンプが故障したときに女性が声を挙げればしめたものです。「もし維持管理しないで、料金もとらなかったら、結局もと水汲み労働=貧困に戻ってしまう。少なくても、自分の子供には同じ思いはさせたくない」と、思ってくれればいい。そういう人が何人か出てくれば、水管理組合のようなコミュニティもつくれるようになっていきます。
「誰のための水なんだ?」ということを考えると、水というのはまさにMS(ミズ)、つまりは女性のため。安全な水商売は女性のための商売でもあるのです。