愛知用水の通水で、観光地としても賑わいを見せる日間賀島。 そこには、行政だけに頼らない先進的な「新しい公共」意識の伝統がありました。
元・南知多町職員
鈴木 昇 (すずき のぼる)さん
1934年、愛知県知多郡南知多町日間賀島生まれ。
愛知用水の通水以前の記憶も、徐々に知る人が少なくなりました。 風土に育まれた水使いの作法が、愛知用水の利用にも生かされていることを、再認識したい。苦労が醸成した知恵や掟を、オーラルヒストリーとしてうかがいました。
私たちは、子供のときから水不足ということは嫌って言うほど、体験してきました。毎年、長野・王滝村のほうから、中学生が体験学習として来てくれますが、そのときには頼まれて水の話をしています。
愛知用水が日間賀島(ひまかじま)に通水したのは、1962年(昭和37)のことになります。
その当時、旧・師崎(もろざき)町で赤痢が流行ってね。150人ぐらいの感染者が出て日間賀島に飛び火したんですよ。役場の衛生係のお姉さんも赤痢で亡くなってしまった。
1961年(昭和36)に日間賀島で町村合併があって日間賀島支所になったときに私は西の職員だった。残りの職員3人は東の人だった。日間賀島の赤痢は西で出たので、合併したとはいえ、東の人に衛生係を頼むわけにいかないということで、西の職員だった私が衛生係を引き受けました。
そのあとじゃかじゃか感染者が増えて、人口2800人ぐらいの時代に最終的には157人までになった。そのとき師崎でも500人ぐらい、感染者が出ていたと思います。全島検便を実施して、保菌者が2名出た。その人を半田の市民病院に隔離して、やっと下火になった。
愛知用水がきたのは、その年の9月。そうしたら赤痢がぴたっと止まった。赤痢だけじゃなく、トラホームもあった。私も、通信簿に毎回「軽トラホーム」と書かれた。水がきたお蔭で、そういう伝染病がまったくなくなったね。
それまで、農作業はほとんど天水頼みだった。共同井戸の水も使った。いよいよ足りなくなって、隣の大井から魚を飼っておく船で水を取りにいって、みんなに配ったこともある。
共同井戸は、西のほうに七つ、東のほうに四つありました。今は飲用には使いませんが、防火用水として使えるようにはしてあります。
冬になると雨が降らなくて水不足になるから、正月の餅米も堤防の所で海水で研いだ。井戸水は、家に置いた瓶で濾して使った。海水で研いだ餅米も、その濾した水で最後にゆすいで。そんなことをしていた時代が、ずっと続いておった。
共同井戸には、みんながイナイ(水桶。天秤棒で前と後ろに提げて担うことをイナグと呼んだ)を並べておってね。私も缶にヒモをつけて井戸に吊るしておき、夜の間に少しでも溜まった水を缶で汲み上げてはイナイに溜めたものです。
本当の日照りになると、谷に溜まった水を汲みました。でも、そこは1971年(昭和46)に始まったパイロット事業で埋め立ててしまった。小学校をつくるのに、資材運搬の大きな車を入れるための道路をつくったからです。
1962年(昭和37)の通水のときにはね、当時、愛知県知事だった桑原幹根さん(注1)が島に来た。尾張の殿様が来るといって、大騒ぎになった。八幡社の横のバルブを開けて水が出たときには、みんなが万歳と叫んで、餅投げをして。
(注1)桑原幹根 (くわはら みきね 1895〜1991年)
第2代の愛知県知事。山梨県出身。東京帝国大学(現・東京大学)法学部を経て、内務省に入省。東北興業会社(現・三菱マテリアル)総裁などを歴任し、戦後は公職追放になったが、1951年に公選の愛知県知事に当選し、連続6期24年にわたって知事を務めた。中央との人脈を生かし、工業用地造成や愛知用水などの公共事業を推進し、愛知県を工業都市に変化させた。
この島のまとまりがよくなったのは、水がきて、台所改善がなされてから。水がくる前は、銭湯が4軒あった。1日交代で営業していた。みんな、垢だらけの湯に入っていたが、水がきてから各家に風呂ができ、銭湯は自然消滅してなくなった。
最初は飲み水さえもらえればいい、と始まったんだが、観光業者も増えて水が足らなくなった。そうしたら、今度は断水ばかりになった。
民宿ができ始めたのは1968年(昭和43)ごろ。そのうち海苔養殖が始まった。海苔養殖は、ものすごく水を使うもんだから、断水ばっかり。
1969年(昭和44)は、とにかくひどかった。普通の職員は暮れの28日の御用納めが終われば休みだけれど、私ら水道係はずーっと仕事。元旦だけは休んだけど、それ以外は2時間ぐらいしか寝られないほど。それが4カ月ほど続いた。さすがにうちの親父が「いい加減にしないと身体を壊す」と言ったけれど、「悪いことをしているわけじゃあないから、やれるところまでやる」と言ったら、「それじゃあ、お前の気が済むまでやれ」と言ってくれた。
栄養ドリンクね、役場の全員が注文する量よりも、私一人が注文するほうが多いよ、と笑われたことがある。それでも、結局、倒れてしまった。本当に若かったからやれたけれどね。
水道は、八幡様から新居浜地区を通って山の上にある180m3のタンクまで、単線で引かれていたんだけれど、途中で27カ所も取られるもんだから、上にいくまでに水がなくなってしまう。
だから夜になると水を止めて、タンクに水を溜めて、朝の4時とか5時にまた水を通す、ということを毎日やっていた。
水が止まると、みんな殺気立っちゃってね。本当に公平に、島全体のことを考えてやったから、殺されんで済んだけど普通だったら殺されている。そのぐらい殺気立ってたよ。
最初は65mm、篠島は75mmの鉛管パイプを敷いた。最初は飲み水だけという話だったから。断水を解決するのに、それを150mmの塩ビ管に変えた。それも2本入れた。海底のパイプが船とかに引っ掛けられて破れてもサブがあるようにした。
台風のときには波の力はものすごい。私は潜りが得意だったから、パイプが煽られている現場を見つけたこともある。
一応、埋めてあるんだけれども、かぶせたコンクリートが波の力で割られちゃって、ひっくり返ってしまう。師崎水道は海が深いし、海流が早い。砂地ばかりじゃなくて岩の所もあるし。パイプが破れて浮き上がり、何度も事故があって修理をしている。
タンクも180m3タンクじゃ埒があかないからといって500m3タンクをつくった。
最初に篠島に500m3タンクができ、「日間賀島に500m3タンクができるには、まだ5年はかかる」と言われたが、それじゃあいけないということで、母方の叔父さんが地所を譲ってそこにできた。そういう気概がある。
佐久島へは、人口が少ないから最初は一色町から船で運んでいた。その後、日間賀島から佐久島にいくようにパイプをつないだ。もしも事故があった場合は、南知多町だけでなく佐久島と一色町が折半するという取り決めをしている。
久野さんと浜島さんは、ここには来なかったけれど、知多の隅々まで回られて説明会をされたことは、みんな知っていた。
愛知用水の計画が決まって、1960年(昭和35)ごろには、南端の島にもくることが決まった。それで、みんなで積立貯金を始めて、水道がきたときに権利金ぐらいをすぐに払えるように準備してね。
昔からこの土地では、大きな事業をやるときには、貯金をして備えをする伝統があった。
私のおふくろの同級生が、ちょうど区長さんをやっていた。その人がしっかりした人だったんで、全島で貯金をするように勧めた。
下水道の工事では私らの代に当たったが、30億円かかるから3億円は負担しなくちゃならない、という話が町からきた。それで1軒につきメーターを一つつける人は月に5000円、という風に積立貯金を7〜8年した。
漁村集落排水事業ということで、町から利用組合が受けてきたが、利用組合だけじゃ島を網羅することはできんもんで、東西区で音頭をとった。島中で貯金をすることになれば、本気だな、ということで計画実現の後押しをするからね。
海苔養殖の組合が西と東にあるんだけれど、東の組合長は私の2級先輩で宮地彌さんという。宮地さんとは父親どうしが同級で、親子二代で気心がわかって仲が良かった。
下水道事業のときもね、最初は1m3あたり100円から120円もあればできるという話だった。ところが時間が経ってくると160円とか、超過料金が260円なんていう数字を町が出してきたから、二人で立ち上がったの。本来、町で負担しなければならない分を島から回収しようとしたから、宮地さんと私で「こんな数字を認めたら、日間賀島の人間が未来永劫困ったことになる。断固として受け入れられない」と。
貯金はするけれど、実際に始まるのは下手したら10年も先の話だから、上に立つ人間はその間に、いろんなところに働きかけて補助金をもらう。そうすれば3億円が2億円になることもあるじゃない。その裁量は上に立つ人間の仕事だから、と言って、みんなを説得した。私がそれをやりました。でも、反対もものすごく多かったよ。
反対する人がおっても、全部、説得した。それが一番大変。
でも説得ができたから、今がある。今じゃあ、全国の離島でもトップクラスになれた。水がきたお蔭で観光業者が営業できるようになった。民宿が増えて、旅館が増えて。
下水道のお蔭で、環境も整った。海がきれいだから観光客もたくさん来てくれる。全国有数ですよ。今でも、70〜80%客が入っている。いろんな所に視察に行ったけれどね、そんな島はなかなかないね。
島の人間は、こうやって団結してきた。何でも行政にお任せにはしてこなかった。馬力の大きいポンプを入れたときにも、町に寄付したんだよ。中の配管工事なんかも、住民がボランティアで参加して、一日でも早く完成できるように協力した。
1軒あたり10m3の割当があったけれど、それほど使わない家では海苔養殖業者が負担した。だから正月には、そういう協力してくれる家庭に業者が海苔を配ってね。そうやって、水をやり繰りしてきた。
1983年(昭和58)1月には〈日間賀島の将来を考える会〉というのができた。観光業者、日間賀漁業協同組合と東西区ね、みんなで相談していこうと。初代会長は北川時蔵さんという人で、89歳でまだご存命です。私は北川さんから「お前は、東西のバランスを取るのに一番適している」と言われて事務局に任命された。
この会ができてから、どんどんと発展した。下水道の問題にしてもね。全部の団体の正副の長を集めると50人ぐらいになるからね、その人たちで年に1、2回集まった。そこで発表することになったら、みんな勉強するから本人のためにもなる。
この島が良くなったのも、離島振興法(注2)のお蔭。昔は中選挙区だったから、愛知用水地域は全部一緒の選挙区だった。そこから出たのが早稲田柳右衛門さん(注3)。早稲田さんは、離島振興法の立役者でもある。
(注2)離島振興法
産業基盤や生活環境の整備などが困難な離島において、地理や自然的特性を生かした振興を図るための特別な措置を講ずることを目的とした法律。1953年に10年間の時限立法として制定。その後、5次の改正と延長が行なわれた。
(注3)早稲田柳右衛門 (わせだ りゅうえもん 1900〜1984年 )
衆議院議員を12期務める。第2代民主党愛知県連代表。
私のうちはね、親子二代、上の学校に行けなかったの。貧乏で。
私は、親父の同級生だった人に学校で習字を習ったけれど「私はあんたのお父さんにだけは、どんなにしても勝てなかった」と授業中に言われた。それぐらい良くできた親父だったけれど、貧乏だったから上の学校に行かれなかった。「貧乏人のくせにうちの子より勉強ができるとは生意気だ」と言われて、お婆さんがよく「貧乏すると何やっても人に馬鹿にされる」と言っていた。
私のときも漁師は闇で莫大に儲けていたけれど、親父はサラリーマンだったから、とても上の学校へは行かれなかった。だから、親子二代で悔しい思いをしたもんで。
それでも子供のときに親父から「大きくなって、自分のできることを人から頼まれたら、何でも快くやってあげなさい」と言われたの。将来、島で必要とされる人間にならないといかんなあ、と心から思った。こういうことは、子供のときから心に決めておった。
ここは都会と違って、まだまだ鎮守の森のような地域社会が生きている。私ら世代は戦中、戦後の教育を受けてきて、今が「良い時代になったなあ」と実感しているものね。でもまあ、今の30歳代ぐらいになるとわからんかもしれんな。戦時中は河和(愛知県知多郡美浜町)に航空隊があって、そこがまず爆撃された。師崎では70〜100tの木造船がつくられていたから、次にそこが攻撃された。日間賀島もグラマン戦闘機に爆撃された。こういう話も、王滝村から来る生徒たちにしている。戦争はいかん、とね。
愛知用水のお蔭、ということは、みんなわかっている。久野庄太郎さんというのは、たいした人だ。自分も、どこかで諦めていたら、今みたいに満足できていない。地域が良くなればいい、という思いでやってきた。大変だったけれど、諦めずにやってよかったという実感がある。
そして良いリーダーが引っ張っていくこと。自分の欲ではなく、上手に引っ張っていく。そういう人が話を持っていけば、あの当時はちゃんとわかる人もいたんだ。
久野庄太郎さんだって、工事で何人も亡くなって心を痛められた。そういうことは、やった人でないとわからんで。群雄割拠で足の引っ張り合いばかりしとったら、何もできん。地域で協力していかんと。