水と風土が織りなす食文化の今を訪ねる「食の風土記」。今回は、海の幸に恵まれた日本海に面し、イカ漁などが盛んな能登半島で受け継がれる魚醤「いしり」です。
能登の郷土料理として親しまれる「いしりの貝焼き」
石川県・能登地方に伝わる「いしり」(注)はイカや魚などを原料にした魚醤(ぎょしょう)で、秋田県の「しょっつる」や香川県の「いかなご醤油」と並ぶ日本三大魚醤の1つである。
魚醤は穀物が原料のしょうゆよりも歴史が古く、平安時代の『延喜式』に魚の塩辛に漬けたものという発酵技術がすでに記載されており、能登では少なくとも江戸時代にはいしりがつくられていたようだ。
2024年(令和6)3月、地域の農林水産物や食品ブランドを守る農林水産省の「地理的表示(GI)保護制度」に、いしりが7年越しで登録された。いしりの製造に関する原則は三つ。魚介と塩を使っていること、能登地方でつくられていること、1年以上発酵させていること。以上がカバーできていれば、あとはこれといった決まりがない。
「原料の魚介も、基本的に何を使っても構いません。でも、ここ能登町ではイカ、輪島市ではイワシやサバを使うのが伝統です。その地域で獲れるものを原料にしてきた背景があるのでしょうが、いろいろチョイスできるなんて多様性があっておもしろいですよね」と話すのは、能登いしり・いしる生産者協議会の船下智香子会長だ。
夫であるオーストラリア人シェフのベンジャミン・フラットさん(愛称・ベンさん)とともに、船下さんはいしりをつくる。夫婦で経営する能登イタリアンと発酵食の宿「ふらっと」でベンさんが提供するさまざまな料理にも、いしりは欠かせない。
(注)いしり
能登町では「いしり」と呼ぶが、地域により「いしる」や「よしる」など呼び方が異なる。2023年には、いしりの地域に根ざした製法が国の登録無形民俗文化財に登録された。
いしりは寒い冬に仕込み、翌年の冬にできあがる。原材料は「ゴロ」と呼ばれるイカ(主にスルメイカ)の内臓と塩のみ。取り出したゴロと塩をタンクに投入して攪拌(かくはん)し、その後自然発酵させる。
製法はシンプルだが、能登の自然環境がいしりづくりに向いていると船下さんは言う。
「夏と冬の寒暖差が激しく、降水量が多い。梅雨時期は特に湿度が高い。この能登特有の気候が発酵を促し、いしりをおいしくします」
ほんのり魚介が香るいしりは、しょうゆの2倍のうまみ成分を含むという。鍋や煮物の隠し味にはもちろん、浅漬けなどに垂らすのもお勧めだ。この日はベンさんが「いしりの貝焼き」をつくってくれた。ホタテの貝殻を鍋がわりに使い、イカや野菜を昆布だしといしりで煮ながら味わう郷土料理だ。
「いしりは乳製品とも相性がよく、いしりと牛乳だけでゴルゴンゾーラチーズのような深みのある味にもなります。私のつくるイタリア料理にもたくさん使います。和・洋・中、どんなジャンルにも合いますよ」とベンさんは言う。
能登町商工会で経営指導に携わる向口宏さんは、「いしりは家にあってもたまに使う程度でしたが、ベンさん特製のポテトスープを飲んだときにあらためていしりの魅力に気づきました。今は食卓に欠かせません」と話す。
2024年元日の能登半島地震で、いしりも大きなダメージを受けた。船下さんたちのタンクなど設備は無事だったが、倒壊や断水の影響で製造が停止した生産者も相次いだ。しかも、いまだに断水したままの地域もある。
「地震が起きるまでは、水がこれほど人の暮らしに欠かせないものだと感じたことはありませんでした。また、災害時に電気が止まって冷蔵設備が使えなくなることを考えると、いしりをはじめとする保存食の知恵は絶対に必要。受け継がなければいけません」と、船下さんは語る。
いしりの製造工程で水は使わないものの、いしりを生み出す気候風土や海からは水の恵みをしっかりと感じた。また、能登で起きたことからも、あらためて人と水の関係を考えさせられた。いしりの伝統がつながることを願う。
[問い合わせ]
能登いしり・いしる生産者協議会(事務局:能登町商工会)
〒927-0433 石川県鳳珠郡能登町字宇出津ヲ字1番地12
Tel.0768-62-0181
(2024年11月28日取材)