大阪平野の南、大阪湾に一部を面する堺市に、7月から8月にかけて開校する泳ぎの学校「浜寺水練(はまでらすいれん)学校」があります。その歴史は110年超。日本泳法・能島(のじま)流(注1)の教えを土台とし、多くの人々に水泳の楽しさを伝えてきたこの学校の歩みをたどると、日本の大衆に水泳が定着していく過程の一部が見えてくるようです。
浜辺いっぱいに広がって体操する浜寺水練学校の生徒たち(昭和30年頃)
出典:『毎日新聞社 浜寺水練学校100年史』(毎日新聞大阪本社 2006)
多くの生徒と保護者が参加して行なわれた浜寺水練学校の開校式(2022年7月20日)
提供:毎日新聞社
浜寺水練学校(以下、ハマスイ)の誕生は1906年(明治39)(注2)。日露戦争の講和の翌年で、夏目漱石の『坊ちゃん』が発表された年でもある。欧米と肩を並べたという実感のもと、国民がさらなる発展を期待する明るい時代だった。
「日本人はもっと体を鍛えるべきだ。海に囲まれた国なのだから、泳ごう。当時はそんな国策があったんですね。『みんな泳げなあかんのや』と。それで毎日新聞社が、陸軍が管理していた浜寺の海岸を借り受け、水練場と海水浴場をつくった。そこで泳ぎの指導が始まったのです」
そう語るのは能島流の第二十三代宗家であり、同校の師範を務める吉村道和さんだ。
毎日新聞社はこの水練場の開設を伝える社告で「平民的海泳練習所」という表現を用いている。当時、水泳は限られた人たちのもので、誰もが使えて泳ぎの練習ができる海はあまりなかった。初年度から1172人(注3)が参加したという活況からも、人々が泳ぎを通じた鍛錬の場を強く求めていたことがわかる。
この頃の日本にはクロールなど近代泳法は伝来していない。指導は日本泳法に則ったものだった。吉村さんはこう語る。
「明治以前の日本泳法は武芸のようなもの。あまり門外には出さず、限られた人が受け継いでいく技術だったと思われます。水練場で子どもを中心とした多くの人びとに泳ぎを教えることになった先生たちは、どんな指導をすべきか、改めて考えを巡らせたようです」
指導を担った人びとのなかには、日本を代表するような泳ぎ手もいた。彼らは大衆に泳ぎを教えることに誇りを持ち、強い情熱があった。
当時の指導では速く泳ぐことは重視されておらず、目指していたのは泳げない子を泳げるようにすることだったという。ハマスイが〈水泳訓〉(注4)として掲げ、今も大切にしているものの一つ〈水を怖るることなかれ〉の精神を根づかせることに注力していた。
「砂浜を使ってカエル足の練習をしたり、浜寺の遠浅の海で身体の浮かし方を教えたりと、自然環境をうまく利用していたそうです。そして、怖さを取り除き、水に浸かる喜びを伝える。すると、すぐに楽しくなって自分からいろいろな泳法を覚える。海水なので、プールよりはるかに動きやすかったというのもあったと思います」
日本泳法が指導の基礎のハマスイだが、近代泳法もどこよりも早く指導に採り入れていたのもおもしろい。新聞社が母体であったため、情報を手に入れやすい環境があったからだとみられる。
また、ハマスイの先進性を表すものの一つに、1925年(大正14)より始まった「楽水群像(らくすいぐんぞう)」(注5)がある。これはシンクロナイズドスイミング、今のアーティステックスイミングの先駆けで、衣装を着た女性の泳ぎ手が合図に合わせ美しく泳ぐ団体演技である。立ち泳ぎのような日本泳法の技術と、アメリカ映画の演出などから得た着想がミックスされたユニークな演目は、1932年(昭和7)には宝塚のプールで2000人の観衆を集めて披露され、喝采を浴びた。神宮大会(現在の国スポ)でも演じられ、その名は全国に轟いたという。
(注1)
海賊泳法ともいわれる。能島村上水軍がルーツで、後に紀州藩に召し抱えられた歴史をもつ。
(注2)
正式に学校組織となったのは1922年(大正11)。
(注3)
期間中の延べ人数。
(注4)
同校の初代師範・井上富造氏が示した三訓
一、水を怖るることなかれ
二、水を侮ることなかれ
三、水に逆らうことなかれ
(注5)
昭和に入ると音楽に合わせて演技するスタイルとなり、海外に存在したシンクロナイズドスイミング(当時)に近づいていった。
時は流れ、戦中戦後の混乱期も生き残ったハマスイは、生徒を惹きつけつづけていた。そして迎えた転機が、1963年(昭和38)の海からプールへの移行だ。
「一番多かった頃は、6000人もの人たちが参加していました。私が通ったのもその頃ですが、ものすごい数の子どもが校歌を歌い、準備運動をする様子は壮観でした。一方、工業化で沿岸の開発が進み、海での指導が難しくなりました。それで、大阪府が新たに建設した浜寺公園プールに移ることになった。海が前提だった指導も、大きく変わることとなりました」
遠泳の機会などが減り、砂浜であれば行ないやすかった足の動きの練習などもやり方が変わった。水泳が鍛錬からスポーツへと位置づけを変えるなかで、指導における近代泳法の割合も徐々に高まった。ふんどしで泳いでいた男児たちも水泳パンツを履くようになり、夏休みのほぼすべてを使っていた日程も短くなった。
吉村さんは、楽しくも厳しく、厳しくも楽しい、そんなハマスイでの日々を振り返る。
「頭に手を乗せ、手を使わずに立ち泳ぎをずっとやるんですよ。余裕がありそうだと、先生が肩に手を乗せて負荷をかけてきてね。あれと比べると、普通に泳ぐのはどんなに長距離でも屁でもない。でも、厳しい先生たちも、合間にはみんなで楽しめる遊びをたくさん用意してくれました。最近は時間の制限もあって、そういう遊びが減っているのは少しかわいそうですよね。もう少しみんなで馬鹿になれる時間があればね」
楽しかったのは海やプールだけではなく、帰り道に売店で買って食べたコロッケもよく覚えている。
「おいしかったですよ。あのお店はコロッケで家を建てたんとちゃうかな。子どもは全員食べていたからね」
前述のハマスイの〈水泳訓〉は、〈水を怖るることなかれ〉の後に〈水を侮ることなかれ〉〈水に逆らうことなかれ〉と続く。泳ぐ楽しさを説いてから、もう一度水の怖さと水の性質を説いている。
ハマスイには独自のシステムがあり、段階ごとの試験に合格し卒業すると、年齢に関係なく先生になれる。泳ぎが得意な吉村さんは、小学生ながら指導側に回っていたが、こんな出来事に遭った。
「先生だけが参加する慰労会で遠泳をしたんです。最後尾を自信たっぷりに泳いでいたら、突然現れた渦に巻き込まれた。もがくと、渦が逆転しはじめてそこから飛び出すことができた。必死に岩にしがみついたものの、引き波で身体がもっていかれそうになり傷だらけになった。あのときの自分は、水を侮っていたし、逆らってしまったのだと思う。命を守ることこそが水泳とするなら、大事なのは〈水泳訓〉。これに尽きる」
怖れず、侮らず、逆らわない。水泳を誰もが楽しめるものにしたいと思った人々の情熱で育ち、引き継がれてきたハマスイ。そこで貫かれる哲学は、人と水とが築くべき関係の真髄のようにも感じた。それゆえに、時代が変わり、水泳を取り巻く風景が様変わりしても、色あせることがないのだろう。
(2024年4月19日取材)